ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

おことば

2016-08-29 11:32:30 | 日記・エッセイ・コラム
過日「おことば」が発せられた。
NHKがテレビで伝え、その後新聞で報道された。
いわゆる生前退位のことである。
そもそも生前退位という言葉が不適切だとも…。
それにしても天皇のおことばは凄い。
・・・・・
そこには所謂訴えというものがない。
説明しようとか、説得しようとかの類ではないのだ。
だから理屈などもない。
溢れる思いがあるのみである。
それも自分へのことではなく、人(民草)を慮ってのことだ。
過去のおことばを見てもそれは明らかだ。
今回は一見自分のことのようではあるが、
もちろんそうではない。
よく読めば分かる。
おことば以外にも人(民草)に伝えられる言葉がある。
それは和歌(うた)である。
宮中の歌会初めや折々に詠まれる。
それを御製という。
公開されてるのはごく一部だが。
それはさておき、
そもそも和歌は理屈ではない、
何も説明しない。
それは魂の発露であり、思いの表出である。
しかして御製は、いつも人(民草)を慮ってのことだ。
それはつまり祈りということだ。
おことばも御製も祈りなのである。
そこにこそ天皇は在る。
天皇はまことに祈り主、祭り主なのである。
その存在の初めより。
そういう天皇が在る、ということが日本の芯である。
おおいなる基台なのである。
天皇の言葉はすなわち祈りであるが、
人(民草)に見えるのはごく一部である。
その多くを我々は知らない。
知らなくても良いのである。
そういう天皇が在る、
ということさえ知っていれば。
・・・・・
戦前は天皇を現人神と言っていた。
それは今も変わらない。
天皇は人であって神でもあるのだ。
この世界は神が創ったとする日本人にとって、
存在するものはすべて神的なのだ。
人の子が人であるように、神の子は神なのだから。
この世に神ならぬ存在はないのである。
さりながら、すべてを神とするのでは生きるのに厄介である。
だから聖別する、聖と俗に分けるのだ。
場所に結界を張れば、そこは神域ととなる。
人に結界を張れば、それは神人となり現人神(天皇)となる。
とはいっても、天皇はまんま神ではない。
まんまの神ならそもそも祈る必要がない。
むしろ祈られる存在である。
だがあくまでも祈るのである。
だから神ではなく、現人神なのだ。












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