これは広島の原爆死没者慰霊碑のことである。
そこに書かれている文言が問題である。
「過ちは繰り返しませぬ」なのだが、主語が不明確なのである。
彼のパール判事もこれを見て激怒したという。
悪いのはアメリカなのに、なぜ日本人が謝るのかと。
・・・・・
知っての通り欧米は人間中心の文化であり、
人と人が常に向き合い、それを対立的に捉える傾向がある。
その中では常に自己主張が求められ、それがなければ生きづらいのだ。
これが個人主義の所以なのだろう。
だから文章には主語が欠かせない。
しかも、それは人称代名詞である。
勿論「それ」や「あの」という関係代名詞もあるのだが。
だから訳しにくいのだ、あの碑の文言は。
日本は違う、自然中心なのである。
人は自然と向き合い、その中で生きている。
そういう感覚である。
もちろん自然の中には人がいる。
人を強調すれば、それは世間という。
ゆえに集団主義だとも言われる。
それはそうだが、私の思いはちょっと違う。
日本人も向き合うのだが、それは先ず自分なのだ。
自分に向き合い、その上ですべてに向き合う。
これこそ個人主義、本当の個人主義である。
超個人主義と言ってもいいだろう。
集団主義とはその裏返しである。
・・・・・
自然とは言葉を代えれば場である。
自分が生きている場である。
つまり、
場に生き、場に生かされている、
ということだ。
自分一人で生きている訳ではない。
場に在るすべてのお陰様で生きているのだ。
だから自分と場とは対立しない。
場と共に在る自分が自分なのだ。
だから日本語にはあからさまな主語は要らない。
場という主題があればいい。
これで何んとなく分かる。
主語がないと言われることが。
それはあくまで主題について述べているからだ。
主題は「は」が示している。
それは「過ち」であり、つまり「戦争」である。
あえて人称としての主語をいうなら、戦争に関わったすべての人々なのだ。
なら、あの文言に特に異論はない。
異論はないが、これは訳しにくい。
まあ、ほっとこう。
・・・・・
ついでに言えば「自由・平等・博愛」もである。
じつは博愛ではなく友愛だという。
だから誤訳だと言われる。
個人主義(という自分中心)の欧米ではもちろん友愛である。
もともと限定的なものだから。
でも超個人主義の日本では博愛になる。
限定的な愛という発想がないのである。
強調するために区別することはあるが。
だからまあ、
博愛も誤訳だとは言えない。
そこに書かれている文言が問題である。
「過ちは繰り返しませぬ」なのだが、主語が不明確なのである。
彼のパール判事もこれを見て激怒したという。
悪いのはアメリカなのに、なぜ日本人が謝るのかと。
・・・・・
知っての通り欧米は人間中心の文化であり、
人と人が常に向き合い、それを対立的に捉える傾向がある。
その中では常に自己主張が求められ、それがなければ生きづらいのだ。
これが個人主義の所以なのだろう。
だから文章には主語が欠かせない。
しかも、それは人称代名詞である。
勿論「それ」や「あの」という関係代名詞もあるのだが。
だから訳しにくいのだ、あの碑の文言は。
日本は違う、自然中心なのである。
人は自然と向き合い、その中で生きている。
そういう感覚である。
もちろん自然の中には人がいる。
人を強調すれば、それは世間という。
ゆえに集団主義だとも言われる。
それはそうだが、私の思いはちょっと違う。
日本人も向き合うのだが、それは先ず自分なのだ。
自分に向き合い、その上ですべてに向き合う。
これこそ個人主義、本当の個人主義である。
超個人主義と言ってもいいだろう。
集団主義とはその裏返しである。
・・・・・
自然とは言葉を代えれば場である。
自分が生きている場である。
つまり、
場に生き、場に生かされている、
ということだ。
自分一人で生きている訳ではない。
場に在るすべてのお陰様で生きているのだ。
だから自分と場とは対立しない。
場と共に在る自分が自分なのだ。
だから日本語にはあからさまな主語は要らない。
場という主題があればいい。
これで何んとなく分かる。
主語がないと言われることが。
それはあくまで主題について述べているからだ。
主題は「は」が示している。
それは「過ち」であり、つまり「戦争」である。
あえて人称としての主語をいうなら、戦争に関わったすべての人々なのだ。
なら、あの文言に特に異論はない。
異論はないが、これは訳しにくい。
まあ、ほっとこう。
・・・・・
ついでに言えば「自由・平等・博愛」もである。
じつは博愛ではなく友愛だという。
だから誤訳だと言われる。
個人主義(という自分中心)の欧米ではもちろん友愛である。
もともと限定的なものだから。
でも超個人主義の日本では博愛になる。
限定的な愛という発想がないのである。
強調するために区別することはあるが。
だからまあ、
博愛も誤訳だとは言えない。