ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

よく問題になる碑

2016-08-22 16:51:43 | 日記・エッセイ・コラム
これは広島の原爆死没者慰霊碑のことである。
そこに書かれている文言が問題である。
「過ちは繰り返しませぬ」なのだが、主語が不明確なのである。
彼のパール判事もこれを見て激怒したという。
悪いのはアメリカなのに、なぜ日本人が謝るのかと。
・・・・・
知っての通り欧米は人間中心の文化であり、
人と人が常に向き合い、それを対立的に捉える傾向がある。
その中では常に自己主張が求められ、それがなければ生きづらいのだ。
これが個人主義の所以なのだろう。
だから文章には主語が欠かせない。
しかも、それは人称代名詞である。
勿論「それ」や「あの」という関係代名詞もあるのだが。
だから訳しにくいのだ、あの碑の文言は。
日本は違う、自然中心なのである。
人は自然と向き合い、その中で生きている。
そういう感覚である。
もちろん自然の中には人がいる。
人を強調すれば、それは世間という。
ゆえに集団主義だとも言われる。
それはそうだが、私の思いはちょっと違う。
日本人も向き合うのだが、それは先ず自分なのだ。
自分に向き合い、その上ですべてに向き合う。
これこそ個人主義、本当の個人主義である。
超個人主義と言ってもいいだろう。
集団主義とはその裏返しである。
・・・・・
自然とは言葉を代えれば場である。
自分が生きている場である。
つまり、
場に生き、場に生かされている、
ということだ。
自分一人で生きている訳ではない。
場に在るすべてのお陰様で生きているのだ。
だから自分と場とは対立しない。
場と共に在る自分が自分なのだ。
だから日本語にはあからさまな主語は要らない。
場という主題があればいい。
これで何んとなく分かる。
主語がないと言われることが。
それはあくまで主題について述べているからだ。
主題は「は」が示している。
それは「過ち」であり、つまり「戦争」である。
あえて人称としての主語をいうなら、戦争に関わったすべての人々なのだ。
なら、あの文言に特に異論はない。
異論はないが、これは訳しにくい。
まあ、ほっとこう。
・・・・・
ついでに言えば「自由・平等・博愛」もである。
じつは博愛ではなく友愛だという。
だから誤訳だと言われる。
個人主義(という自分中心)の欧米ではもちろん友愛である。
もともと限定的なものだから。
でも超個人主義の日本では博愛になる。
限定的な愛という発想がないのである。
強調するために区別することはあるが。
だからまあ、
博愛も誤訳だとは言えない。


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