アイの物語
山本宏
角川書店
やべえ。すげえ感動してしまった。
最近、AIやシンギラリティへの関心が急に出てきて、その手のノンフィクションや小説をいくつか読んでいて、その流れで本書の存在も知って手にしたのだが、なんと気づくのが遅かったことか。
刊行されたのが2006年というから、もう10年前の作品で、いろんな賞の候補になったりもしていたらしいのだが、浅学にして今の今まで本作品を知らなかったのである。
シンギラリティでいうと、高度に発達して自分で思考するようになったAIが、やがて人間という論理と倫理が安定しない存在とは相容れなくなり、遂には人間の駆逐に乗り出す、という古典的なテーマがある。
これは、お話という意味では非常にドラマチックでサスペンスであり、この手の話は良作が多いのだが、しかし21世紀も20年目が近づく今日この頃の情勢をみると、どうやら油断できない時代になりつつある。囲碁AIのアルファ碁が、人智を超えた指し手を展開して、人間の名人を完膚なきまで圧勝するようになってくると、SFとして面白がっているわけにもいかなくなってくるわけだ。
高度化していくAIを我々は怖さ半分で見守るようになりつつある。
しかし、なぜ人間は、高度に自律化したAIを怖がるのか。この恐怖の正体はなにか。
一方、怖がられる対象となっているAIは、そのとき自律した回路の中で何を思考しているのか。敵愾心をもつ人間というものを、AIはどう認識していくのか。
このあたりを面白い想像力とストーリーテーリングで読ませるのが本小説である。
最初は、ライトノベルのような、カリカチュアされたちょっといい話みたいなのがいくつか出てきて、なんだろうなと思った。SFにしては手ぬるいというか、ステレオタイプというかで、ちょっと拍子抜けした。
だが、ぜんぶ伏線で、そのプロセスがなければ、この物語全体の味わいはできないようになっている。後半の2つの物語の世界観や描写は圧倒される。
ネタバレはしないようにするが、ぼくがこの小説から感じ取ったのは「幸福論」であった。
まさか人間とAIの相克から「幸福論」が浮上するとは。
幸福論の極意は「あるがままを受け入れるときに初めて幸福になれる」ということである。
つまり、異質なものを排除せず、矯正もせず、異質は異質として受け入れることが幸福への道だ。無いものを欠乏や欠落としてうけとらず、「無い」なら「無い」でそれを「良し」とする態度である。不完全なら不完全でそれもまたよしとする受容の態度だ。理屈にあわない、理解できない、納得できない。でもそれはそれとしてまあいいよ、という姿勢だ。これができる人が「幸福」になれる。
これを日本語で「赦す」という。
「許す」ではなくて、「赦す」である。この2つの「ゆるす」はかなり意味あいが違う。
人によって解説が異なるのだが、ぼくに言わせれば「許す」というのは、「本来は許容できないものを、許容できるとみなす。」ということである。だからこの場合、許容する自分はぐっと「我慢」する必要がある。
それに対し、「赦す」は「許容できないものを許容できないものとしたうえで、しかし受け入れる」という態度である。ここでは自分は「我慢」していない。受け入れることを是として疑わない。
だから、相手の行為を自分は許すことはできないが、しかし相手を拒否はしない。赦す。ということがありうる。「許さないけれど、赦す」という言い方ができる。
相手のことであれ、自分にふりかかる運命であれ、この「赦す」ことこそが、幸福になる必要条件というのが多くの幸福論が唱える共通項だ。
というわけで、この物語は、人間とAIの「赦し」をめぐる物語である。なお、本小説では、この「赦し」に関わる重要素として「フィクション」の価値というものが通底されているが、ここでは取り上げないでおく。
人間とAIという、本質的に異なるものをどう赦すのか。人間はAIを赦せるのか。AIは人間をどう赦すのか。
人間は、AIは、この世界にどういう幸福を願っていたのか。AIの語るセリフは胸を打つ。
AIが語る「この事実はたぶん、これからずっと私たちの原罪となってのしかかってくる。」
そして
AIが語る「あなたは、断じて『たかが』じゃなかった。」