読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

ぱらのま

2017年02月24日 | コミック

ぱらのま

作:kashmir
白泉社


 中毒性のあるマンガだ。

 僕は10代を宮脇俊三氏の著作で育ったようなところがあって、要するに今でいう鉄オタだった。とはいえ宮脇俊三氏の鉄道紀行記は文学といってよいほどで、教養と抑制が効いたものであり、僕の鉄道好きは、この宮脇観から逸脱するものではなかった。ゆえに車両についての知識はまったくなく、収集癖があるわけでもなく、撮影欲もなかった。時刻表や地図を開いて旅情を催し、ふらふらと鉄道に乗ってどこか日常とかけ離れたところにいく、というスタイルをとにかく好んだ。必ずしも遠方でなく、また、必ずしも観光地でなくてよい。

 今でもこの嗜好は残っていて、たとえ東京近郊でも、各駅停車しか止まらないような駅で降りて商店街をひやかせば十分におもしろい。銭湯などあったら最高だ。(だからブラタモリとか孤独のグルメも好きである)

 そんなところにこの「ぱらのま」である。

 このテンションの低さといい成り行き任せ感といい最高。鉄道に乗るけど、船もバスも徒歩もけっこう出てくるし、駅前散歩っぽいものや、コンビナート工場の光景に魅せられるところや、江戸時代の関東平野の水運ゆかりの地を訪ねるなどという渋すぎるものまで出てきて、インサイトえぐられまくりである。ついでにやたらビール缶をあけるところもいい。

 それにしてもこの主人公の女性(残念系と紹介されている)、ありあまる資金と時間だ。いったいどうなっているのだろう。


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21世紀の戦争テクノロジー 科学が変える未来の戦争

2017年02月21日 | テクノロジー

21世紀の戦争テクノロジー 科学が変える未来の戦争

著:エヴァレット・カール・ドルマン
訳:桃井緑美子
河出書房新社


 日本人が書いたSFとしてセンセーションを巻き起こした伊藤計劃「虐殺器官」では、テクノロジーの発達した兵器が次々と現れる。それはいかにも科学知識や化学知識を備えた、いかにももっともらしいものだらけで、その冷酷な最新兵器には思わず戦慄が走ったものだった。

 本書を読んだら、「虐殺器官」に出てくるような、そんな兵器の数々が、実は空想の産物ではなく、実はもう実現化されていたり、すでにプロトタイプはできていたりすることが書かれてあって呆然とした。光学や音響を駆使して敵の神経発作を誘導させる兵器だったり、高周波のミリ波で敵の皮膚を瞬間的に焼いて進攻を止めさせたり、どんな金属でも腐食させる薬剤だったり、無人で動き回るライフル付の遠隔操作型偵察カメラだったり。また、味方に対しても神経系に作用させて筋力を倍増させる方法だったり、3Dバイオプリンターで兵站なしに戦地で食糧や武器を生産したり。

 科学技術の発達と戦争は切っても切れない関係だ。インターネットーーワールドワイドウェブは、アメリカ軍のARPAネットがその母体であることは有名な話である。

 

 また、戦争技術は、平時中よりも戦争中においてより発達することは、先の二つの大戦でわかっている。第一次世界大戦がはじまったときは騎兵だったのが、戦争が終わるときは、毒ガスと戦車と飛行機と潜水艦になっていた。

 第2次世界大戦では、驚異的な航空機の生産力増強やレーダーや暗号読技術や、そして大陸間弾道ミサイルや原発が誕生した。

 これは、戦争中は、科学技術による兵器開発に莫大な資源が投入されるからである。アメリカが開発にこぎつけた原爆ーマンハッタン計画は、アメリカの戦時予算の4分の1と12万5000人以上の科学者と技術者が動員されたことも、最近判明している。

 ということは、少なくともいまの国際社会は局所的な戦闘や内戦はおいといて、大局的には無戦争状態であるが、ここで中・大規模な戦争となれば、今では想像がつかないくらいな兵器や戦争技術が急成長する可能性もあるということだ。「虐殺器官」をしのぐ世界も、無いとは言えない。

 

 というわけで、本書は恐ろしい未来を示唆しているようだが、実は本書のテーマは「科学は戦争を止められるか」である。これは人類の戦争の歴史が、科学技術発達の歴史であったことに対する反省からきたアジェンダだ。

 もっとも、本書で示されるその答えは、限定的だし、楽観的なものでもない。むしろ、科学は戦争の遂行に抗しえないことを認めている。いたずらに非戦闘員を負傷させたり、戦闘委員を殺めないために、「非致死性兵器」という方針の兵器が次々と試みられているが、非致死性兵器が横行するほど、戦争そのものはむしろ始めやすく、そして長引きやすくなる、というジレンマも本書では指摘している。

 本書がそれでもこの先の未来に科学が戦争を止められるとすれば、それは「宇宙」ではないかと指摘する。

 それは、宇宙空間上に地球を見下ろすように配列させる兵器が抑止力になるということでもあるが、それとはべつに、宇宙の資源エネルギー(太陽光など)は無尽蔵であり、これの採掘採取技術を地球上の国家がシェアすれば、そもそもの戦争の原因がなくなるのである。

 また宇宙開発こそは人類共通の夢として人間性の信望を取り戻すもの、とする。

 

 つまり、21世紀の戦争テクノロジーは極限までクールになっていきそうだが、そもそもの戦争の迂回策は宇宙が握っているということだ。

 でも、宇宙への船出が人類の夢であり、国際協調であることは、かなり古典的なSFのテーマでもあった。「虐殺器官」には酔わされたが、宇宙こそが人類の平和の道という希求のテーマも信じたいところである。

 






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あなたのための物語

2017年02月19日 | SF小説

あなたのための物語

長谷敏司

早川書房

 

 SFをいくつか読んだためか、Amazonからしきりに薦めてくるので読んでみることにした。

 そうしたら、けっこう圧倒されてしまった。

 

 この作品は2080年代のシアトルが舞台だ。AIにまつわるニューロネットワークの企業に勤める有能な女性科学技術者サマンサ・ウォーカーが主人公である。この企業「ニューロロジック」は、学生時代にサマンサがパートナーと開発した技術をもとにおこしたもので、いまや世界的大成功を収めている。そんな金銭的にも栄誉的にも絶頂にある35才の彼女に、ある日突然、あなたは余命いくばくもない病気にあるということを宣告される。

 彼女は、持ち前の知識と技術と資産と執念で、なんとかこの忍び寄る死に抵抗する。

 

 この作品、主人公の死から始まる。

 孤独の中で、苦しみにのたうちまわって死ぬここの箇所の描写に、美しいところはまったくない。死とは本来醜悪なものであり、忌み嫌われたものだということをいきなり突きつけてくる。

 

 そこから、時間がさかのぼって、死の宣告から本章として本格的にスタートする。

 つまり、読者からすれば、けっきょく死ぬことがわかっているのだ。サマンサの様々な試みはすべてムダになることがわかっているという、この倒錯的カタルシスがこの作品の特徴である。

 舞台や道具立てからすれば、ハリウッド映画にでもなりそうだが、この、どんなに悪あがきしてもそれでも死んじゃうんだよ、という突き放した感じが無常観というか、やはり日本人の作品のようにも思える。

 とにかくこの作品は徹底的に「死」とむかいあう。

 

 死に対して悪あがきするサマンサは孤独である。そんなサマンサに連れ添っているのが、AIである「Wanna Be」だ。

 このAIは、「人工的なニューロモデルに物語をつくることができるか」ということを検証するためのプロジェクトとして、サマンサ自身のチームによって開発されたものである。しかしプロジェクトは中止され、メンバーは解散し、{Wanna Be」はひとり研究室に取り残された。サマンサと一緒に。

 

 大事なのは彼が「物語」をつくるAIということだ。

 「Wanna Be」はなかなかサマンサを納得させる「物語」をつくれない。いかに世界中の文学をデータベースにしても、食い足りない小説ばかりを生産してしまう。

 つまり、「物語」は人間としての「原体験」がなければつくることができない。

 では、人間としての原体験とは何か。

 

 それが「死」なのであった。

 人間は死ぬ。必ず死ぬ。そのことを人間は知ってしまう。そこから生きているという概念が生まれる。制約された時間という概念が生まれる。大事な人との永遠の別れという見立てが生まれる。なぜ生きているのかという意味を探したくなる。なぜ死なねばならないのかの意味を探りたくなる。死んだあとはどうなるのかを探りたくなる。

  「死」に意味をつくり、「生」に意味をつくる。人生に意味をつくる。

 ここから物語が生まれる。

 「物語」をつくる力、「物語」を信じる力、「物語」にゆだねる力こそが、「人はいつか死ぬ」という、発達した知性のためにそのことを知ってしまった人間が、その恐怖からの適応能力として身につけた方法論だった。動物は「自分はいつか死ぬ」という概念はおそらく持っていない。

 この作品は、どこまでも技術進化しようと、生物である以上いつかは「死」にむきあうことを宿命づけられた人間にとって、物語こそが、人間が生きていくためのOSであったというところに行き着く。

 ハードウェアとしての人間は、動物と同じであり、その「死」は、この作品冒頭にあったように、のたうちまわって絶命するものでしかない。

 

  肉体的には死ぬことが冒頭から明らかになっていたサマンサが、思想的に死を受けられるのか、物語に身をゆだねられるのかは、最後の最後まで読んでみないとわからない。

 キューブラー・ロスの「死の受容プロセス」のように、とにかく現実を否定し、現実に怒り、この現実を覆すべくありとあらゆる取引を試みるも絶望し、本書の9割を読み進めてもまだ受容に至らないが、どこにどう着地するかは、この作品のクライマックスでもあるので、がんばって最後まで読み進められたし。

 また、生に執着するサマンサを目の当たりにする物語生成AI「Wanna Be」が、そこから何を学ぶかも要注目である。


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神童

2017年02月17日 | クラシック音楽

神童

作:さそうあきら
双葉社


 久しぶりに読み直して感動しまくった。

 「蜜蜂と遠雷」も「四月は君の嘘」も「のだめカンタービレ」もいいけれど、やはり真の傑作はこれじゃないかと思った次第である。

 

 「蜜蜂と遠雷」「四月は君の嘘」「のだめカンタービレ」に共通するものとして「好きな曲を好きなように弾いて何が悪い」という問題提起があったように思う。なぜクラシック音楽はそれが許されないのか、あるいは許されるときというのはどういうときか、というせめぎあいがこの3作にはあった。

 

 「神童」は、意図的にそれを避けたのか、あるいはそこに価値を見出さなかったのか、この観点をめぐることはない。

 「神童」は、天才アーティストの栄光と挫折と復活をメインテーマにしている。
 これが実にドラマチックなのである。

 そう。クラシック音楽において、「天才」は、はなから「好きなように弾いて、しかもそれがクラシック音楽としての美学を逸脱していない」のである。実存した巨匠である、ルービンシュタインもリヒテルもグールドもポリーニもミケランジェリもアシュケナージもアルゲリッチもそうだった。唯一の例外はホロヴィッツくらいかもしれない。(そのホロヴィッツをモデルにした人物が「神童」には出てくるのも面白いところだが。)

 しかし、それだけに「天才」にとって最大のリスクはおのれの身体である。

 指回りの身体能力や耳の感受性と音楽全体を見通す論理構築力と、聴衆とのコミュニケーション力みたいなものがぎりぎりのところで高度にあわさって天才の音楽は体現するから、ちょっとした不調が全体の破滅につながる。

 まして、深刻な不調となると、これはアーティスト生命全体を終わらすものとなる。

 

 「神童」に出てくる天才少女の成瀬うたは、この破滅を経験する。

 そして、主人公である和音は、そんなうたの栄光と挫折、そして復活に並走することで、決して天才ではない自分の音楽の生きる道を見出す。

 

 そうなのだ。クラシック音楽の世界は、一部の天才以外に、「天才」になれなかったごまんのアーティストがいるのだ。「神童」のすごいところは、タイトルのように神童である成瀬うたの起伏を描きながら、主人公である決して天才でなかった和音が、それでも音楽を着地させるところを描いた傑作なのである。

 そこには「好きなように弾いて何が悪い」という、クラシック音楽をあつかう話においてある意味語り尽くされたような問題提起はもはや捨象されており、むしろそんな葛藤はとっくに克服したアーティストたちの、それでも天才と凡才の絶望的なまでの格差、それぞれの苦悩、挫折、そして希望が描かれている。

 やはり次元がひとつ違うと思うのである。


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アイの物語

2017年02月07日 | SF小説

アイの物語

 

山本宏

角川書店

 

 

やべえ。すげえ感動してしまった。

最近、AIやシンギラリティへの関心が急に出てきて、その手のノンフィクションや小説をいくつか読んでいて、その流れで本書の存在も知って手にしたのだが、なんと気づくのが遅かったことか。

刊行されたのが2006年というから、もう10年前の作品で、いろんな賞の候補になったりもしていたらしいのだが、浅学にして今の今まで本作品を知らなかったのである。

 

シンギラリティでいうと、高度に発達して自分で思考するようになったAIが、やがて人間という論理と倫理が安定しない存在とは相容れなくなり、遂には人間の駆逐に乗り出す、という古典的なテーマがある。

これは、お話という意味では非常にドラマチックでサスペンスであり、この手の話は良作が多いのだが、しかし21世紀も20年目が近づく今日この頃の情勢をみると、どうやら油断できない時代になりつつある。囲碁AIのアルファ碁が、人智を超えた指し手を展開して、人間の名人を完膚なきまで圧勝するようになってくると、SFとして面白がっているわけにもいかなくなってくるわけだ。

高度化していくAIを我々は怖さ半分で見守るようになりつつある。

 

しかし、なぜ人間は、高度に自律化したAIを怖がるのか。この恐怖の正体はなにか。

一方、怖がられる対象となっているAIは、そのとき自律した回路の中で何を思考しているのか。敵愾心をもつ人間というものを、AIはどう認識していくのか。

 

このあたりを面白い想像力とストーリーテーリングで読ませるのが本小説である。

最初は、ライトノベルのような、カリカチュアされたちょっといい話みたいなのがいくつか出てきて、なんだろうなと思った。SFにしては手ぬるいというか、ステレオタイプというかで、ちょっと拍子抜けした。

だが、ぜんぶ伏線で、そのプロセスがなければ、この物語全体の味わいはできないようになっている。後半の2つの物語の世界観や描写は圧倒される。

 

ネタバレはしないようにするが、ぼくがこの小説から感じ取ったのは「幸福論」であった。

まさか人間とAIの相克から「幸福論」が浮上するとは。

 

 

幸福論の極意は「あるがままを受け入れるときに初めて幸福になれる」ということである。

つまり、異質なものを排除せず、矯正もせず、異質は異質として受け入れることが幸福への道だ。無いものを欠乏や欠落としてうけとらず、「無い」なら「無い」でそれを「良し」とする態度である。不完全なら不完全でそれもまたよしとする受容の態度だ。理屈にあわない、理解できない、納得できない。でもそれはそれとしてまあいいよ、という姿勢だ。これができる人が「幸福」になれる。

これを日本語で「赦す」という。

 

「許す」ではなくて、「赦す」である。この2つの「ゆるす」はかなり意味あいが違う。

 

人によって解説が異なるのだが、ぼくに言わせれば「許す」というのは、「本来は許容できないものを、許容できるとみなす。」ということである。だからこの場合、許容する自分はぐっと「我慢」する必要がある。

 

それに対し、「赦す」は「許容できないものを許容できないものとしたうえで、しかし受け入れる」という態度である。ここでは自分は「我慢」していない。受け入れることを是として疑わない。

だから、相手の行為を自分は許すことはできないが、しかし相手を拒否はしない。赦す。ということがありうる。「許さないけれど、赦す」という言い方ができる。

相手のことであれ、自分にふりかかる運命であれ、この「赦す」ことこそが、幸福になる必要条件というのが多くの幸福論が唱える共通項だ。

 

 

というわけで、この物語は、人間とAIの「赦し」をめぐる物語である。なお、本小説では、この「赦し」に関わる重要素として「フィクション」の価値というものが通底されているが、ここでは取り上げないでおく。

人間とAIという、本質的に異なるものをどう赦すのか。人間はAIを赦せるのか。AIは人間をどう赦すのか。

人間は、AIは、この世界にどういう幸福を願っていたのか。AIの語るセリフは胸を打つ。

 

AIが語る「この事実はたぶん、これからずっと私たちの原罪となってのしかかってくる。」

そして

AIが語る「あなたは、断じて『たかが』じゃなかった。」

 

 

 


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