宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

いつ知らず 愛とやさしさに満たされる

2023-01-31 08:33:42 | 祈り
己れをむなしくするということを
いいかえますと、光ばかりになる─
ということであります。

余分なもの、とらわれやこだわりや、
背のびや、無理強いといったものから
とき放たれた真実の自分があらわれて
くるということであります。

人は誰しも、真実の自分というものを
求めて旅をしております。

芭蕉は、月日は百代の過客にして
ゆきかう歳もまた旅人なりと申しました。
この芭蕉の言葉は、実に私の心に
沁み渡るものがありますが、全く、
我々人間は、百代をとしても、真実の
自分を見極めたいと思うもので
ありましょう。

人生は、我々のこうしたおもい、願い、
祈りをこめた旅路であり、我々は
旅人であります。
そうして、真実を申しますなら、
我々は、百代、二百代をかけて、光
そのものの真実の自分に出会う旅を、
一人のこらずしているのであります。

これは、事実であり、また真実
なのであります。

光ばかりになる、そういう自分に
なるには、先ず、神様の、我々に
対する愛をおもってみること
であります。

神様の、私どもに対する愛は、
何の計らいもありはしない。
ちっぽけなおもわくなどという
ものをはなれた無限の愛であります。

愛して愛して愛し抜いている、
そういう愛であります。
この愛のなかには、やさしさと、
真(まこと)がみちているのであります。
やさしさというものは、あくまでも、
自分を、人を活かしてゆくもの
であります。
丁度塩が、ものの味をひきしめて、
しかもやわらぎを与えるように、
やさしさというものは、我々すべてを
活かすのであります。
そして、このすべてを目守り、
すべてを活かすというのが、神の
やさしさであり、愛であって、この愛と
やさしさは、私どものなかにも
流れこんでいるのであります。

気持ちがやさしくなっている時、
私どもは、ただ、そのやさしさのなかに
溶け込んで、余分なことを考えたりは
致しません。
この瞬間、私どもは光になって
いるのであります。
一分釈迦、一分キリストと、かって
申しましたように、そういう瞬間が
つづけばつづく程、私どもは、光である
自分自身に出会うのであります。

そうして、この光をいっぱいに
あびるのが、世界人類が平和で
ありますようにという世界平和の
祈り言なのです。

この祈りを唱える時、すべての
とらわれ、こだわりが消えて、私どもは
光そのものとなるのであります。

なぜならば、この祈りは、神の愛
そのものをあらわした神の祈り言
だからであります。

これまで地上に降りて下さった
聖者方と、聖者方を守護なさった
守護の神霊たち、その聖者方を送られた
大神の、宇宙神の、人類に対する
絶えざる愛の祈りであり、また、この
宇宙神、神から分けられた私どもの
本心本体─光身の祈りであります。

ですから、
世界人類が平和でありますように
と唱えます時、宇宙神(大生命)と、
私ども(分生命)とは一体になる
のであります。

かたちとしては、この地球世界に適応
するために、肉体となっておりますが、
いつも申しますように、この世の
あらわれは、すべておもいが源になって
おりますのでこのおもいを澄ませ、大元
である愛へと回帰到します時、私どもは、
光そのものの自分に出会うのであります。
世界平和の祈りは、その自分、真実の
自分に出会うための道しるべであり、
神の杖なのであります。

この祈りをつづけて参ります時、
私どもはいつ知らず、愛とやさしさに
満たされて参るのであります。

すべてを神にささげ、神にまかせて、
愛とやさしさにこの身をとかして
ゆくために、光そのものの自分と
なるために、ほがらかなやさしい生命を
生きるために、日々、世界平和の祈りを
唱えて参りましょう。

世界人類が平和でありますように
         合 掌
            昌 久


愛するということは 盲目ではない

2023-01-30 09:55:54 | 祈り
何よりも大事なことは愛するという
ことであります。
自分を愛し人を愛するということ
であります。

この愛のなかに神のすがたがあり、
神の本質があるのであります。
私どもは、神から分けられてきた
いのちでありまして、神の光、
ながれ(いのちのながれ)を受けて
生きているのでありますが、その
ながれの大元は、この愛であり、
愛するという行為であります。

ところで、愛と申しますと、先ず、
うかびますのは、父母の子どもに
対する愛でありましょう。

私なども、母の深い愛念のなか、
こうして生きて参ることができたので
あります。
全く父母の子に対する愛というものは
理くつではありません。
それは、見守り、育て、抱く無償の愛
であります。

ところが、近頃の世の中をみておりますと、
しばしば、この父母の愛というものが
伝わりにくくなっている。
それだけ、せち辛くなっているという
こともありましょう。
けれども、実は、父親なり母親である
人たちが、子どもにそそぐ愛の、その
そそぎ方といったものを勘ちがい
していることが多いのであります。
しばしば、盲目の愛になって
しまっている。

盲目の愛と、自然、無償の愛という
ものをとりちがえているのであります。
勿論、親の愛というものは、りくつ
ではありません。
りくつといったものを超えた愛である。
流露されてくる愛であります。

けれども、申しましたように、親の愛
というものは、そういう自然に流露
されてくる愛ばかりでは親の愛になって
参りません。

子どもを、見守り、育て、抱くという
この三つの相(すがた)が、自然な
愛情のなかにあってこそ、親の愛
なのであります。

子どもの何をみるのか、育てるのか、
抱くのか、それは、その子が、どんな
性質の子であるのか、ようくみて、
叱るべき時には叱り、ほめるべき時には
ほめてやる、そうして、助走してやる
ということなのであります。
そうして、私はお前のことを愛している、
だから心配するなという心でもって、
いつも子どもをみてやるということ
なのであります。
これが抱くということなのであります。
抱き放しの親がいたり、育てること
ばかりに夢中になっている親が
いたりして、私のところになんかにも、
守護霊守護神が、五井先生お手上げですと、
相談にきたりしますけれども、ここの
バランスが、とれていないことが
多いんです。

愛するということは、盲目では
ありません。
盲目ではつとまってまいりません。

見守り、育て、抱く、この三つの
相が、溶け合った愛こそ、神様の愛
なのであります。
私どもは、この神様の愛によって
はぐくまれてきた子どもなので
あります。

私は神様じゃない。
だからそんな上等な愛を、子どもにも
まわりにも抱けない、なんていう人が
あったら、それは、つねに私の申します
卑下高慢なのであります。

なぜなら、私どもは、神から分かれて
きたいのちなのですから、この神の愛は、
ずっとずっと、天命を果たしおえるまで、
私どものなかにふりそそがれているもの
なのでありますから。
私どもが愛するのではない。
先ず、神が、私どもを愛して下さって
いるのであります。
この身の何もかもを、一度、神に
お返しして、任せて、そうして祈りつつ、
わが子への、また、まわりの人々への
愛とやさしさを、たくわえてゆくべき
なのであります。

もう一度申します。
私どもは無一物なのです。
凡夫なのです。
その凡夫(肉体我)である私たちは、
大元の神の愛へと回帰してゆく時、
いのちあらたに生きてゆくことができる
のであります。

世界人類が平和でありますように
        合 掌
         昌 久

本心の光を あらわし切るための祈り

2023-01-29 07:55:01 | 祈り
この世は、光にみちているのであります。
神の光、神の愛に満たされているのが、
この世であるのであります。

我々は、この本来の姿におもいを到して、
想念を愛とやさしさで満たし、自ずからなる
光明をもって、天地をつらぬく光の柱と
なることができるように、日々、世界平和の
祈りをなしつづけているのであります。

人間の心のなかに眠っている本心の光を、
一刻もはやく、完全にあらわし切るために、
我々が、神からわかれてきた朗らかな神の
いのちであることをよろこび、おそれ、
つつしみつつ祈りの光をみたすために、
私どもは、世界平和の祈りをなしつづけて
いるのであります。
なしつづけてゆくのであります。

世界人類が平和でありますように
           合 掌
            昌 久

自らのなかに やさしさを盛る

2023-01-28 08:09:43 | 祈り
神様の器になる、器をみがくということ
について申し上げますと、人間という
ものの生かされている本来の目的が、
神様の光を、この肉の身のままに素直に
受けてかがやかせるということなので
あります。

それは、その人が意識するしないに
かかわらず、またすべての境遇によらず、
この世の年齢によらず、すでに一人一人は、
神様の愛を、光を、地上に結ぶ役割を
果たしているのであります。
また、果たしつつ あるのであります。
私たちの肉体はそれを知らなくても、
私たちの霊身は、それを知っている
のであります。

そこで、神様の器になるということは、
どういうことかということを、もう少し
くわしく申しますと、それは、神様に
素直になるということであります。
人間にはさまざまなおもいがある、この
おもいを、想念を、やさしさでいっぱいに
する、光でいっぱいにするということ
であります。

何も、特別に、神様神様とおもわなくて
いい、ひたすらに求めるというのと、
自然に求めるというのとはちがっている。
神様からきている生命、預けっ放しの、
お任せのいのちなのですから、ずーっと
神様のところへ放っておいても心は
むかってゆくものなのであります。
イヤダといっても、守護霊さん守護神
さんが連れてゆくものなのであります。

さて、神様というのは、何かと申しますと、
それは、無限絶対の愛であります。
ですから、神様から分かれてきた
分生命(わけいのち)、分霊(わけみたま)
である人間は、愛を植えられてつくられて
いる。
愛とやさしさ、そして、この二つのものを
育ててゆくつよさ、これこそが、人間の
いのちを生かしている大元なのであります。

神様は、人間をやさしくつくった。
ですから、何もその人が、思い悩まなくても、
やさしさを持って人に接する時、そこに、
神の愛が、光が、ともにあって、放射されて
ゆくのであります。
神様の器になるということは、ですから、
本人が意識するしないにかかわらず、
自らのなかにやさしさを盛るということが
第一歩なのであります。

ところで、人間は、神様の愛によって
つくられた存在でありますから、心を
しずめ、心をすませて参りますと、
生きているということの不思議、生命の
不思議について想いをめぐらさずには
いられなくなるのである。

どんな人も、生命の親である神に眼を
そそぎ、神様というふるさとへの旅を
はじめて参るのであります。
それが人間の本来のすがたなのであります。

私たちの世界平和の祈りは

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます

という、誰にでもわかるやさしい
祈り言葉によって、神の大愛のなかに、
すべての人を抱きとろうという大神様の
みこころが結集した祈りなのであります。
これまで、地球界に降り立ったすべての
聖者方の祈りがあつめられた、結集した
祈りなのであります。

特に
世界人類が平和でありますように
という第一句は、現在宗教信仰によって
いる人もそうでない人も、すべての人の
心のなかにある人類共通の祈り心を
呼び覚ます祈り言なのであります。
この祈り言を思い唱えることによって、
一個の人間としてはそのまま、世界人類
という大河のなかにある自分を経験する
のであります。
世界人類のなかにある自分を観じてゆく
のであります。
それは、何かといえば、愛にほかなりません。
愛と祈りに他ならないのであります。

こうして、我々は、我々のなかにある
何物にもしばられぬ自由な祈り心を、
静かな祈り心を見出し、神という絶対無限の
大愛へと連なって参るのであります。

信仰を持っている人は信仰を持った
ままで、この祈りを唱えて参りますとき、
その人の持っている光は、よりつよく
やさしくかがやいてゆくのであります。

すべての信仰、すべての祈りは、神への
みちしるべでなければなりませんが、
生命の不思議に想いを到し、世界平和の
祈りに触れた人は、一人のこらず、神の
愛にとらえられるのであります。
守護霊が、守護神が、ぐんぐんと
神様の方に、一人一人を引っぱってゆく。
ですから、神というものを抜きにしては、
その人は、この生命を考えられなくなる
のであります。
そうして、段々に祈りを深くし、唱えて
参りますと、何よりも、神に素直になる
ことが大事なのだということがわかって
参ります。

いわゆる運命というものにも、宿命
というものにも、動かされない自分に
なって参ります。

我々がしたがうのは、運命ではなく、
神なのだということ、神は、善でも悪でも
なく、限りない愛なのだということが理解
されてくるのであります。
どんなことがありましょうと、神は、
我々のいのちのすこやかさを奪う方では
ないのであります。
しかも、このいのちは、永遠永生であって、
神とともに、宇宙のけいりんをなしてゆく
何百生にもわたる我々への神のいつくしみ
であり、ゆるしであることをおもいますとき、
我々にのこされたものは、ただ神への感謝
であり、愛であり、この神に素直ないのちと
なって生き徹すということなのであります。

しかも、我々のいのちは、神によって、
守護の神霊によって、また、この世に
ともに生きる愛する人々のこころによって
支えられ、守られているのであります。
いのちはじねんほうに。
ただ、神に預け、神に任せ、肉の身の生死を
朗らかにこえていきるいのちとしらされますとき、
我々は、神の器となってゆくのであります。
           合 掌
            昌 久

人間は 神の光の一筋であることを信じて下さい

2023-01-27 08:59:24 | 祈り
不安やあせりをよくないというのでは
ないのであります。
ただ、それは、本来の姿ではない
のであります。
とらわれるということを、戒めたわけ
なのであります。
それも、否定を致しますと、今の肉体界
ではやってゆけなくなりますから、私は
消えてゆく姿という言葉を用いたわけ
なのであります。

私は決して人間の心の動きや、気持ちの
動きを否定は致しません。
それは、私自身が 肉体をまとった経験から、
どんなにそれが辛いものかということが
わかるからであります。

そこで、この消えてゆく姿という教えが、
私どもを真理へと導いてゆくのであります。
何があろうと、どんなことが起こって
こようと、それは消えてゆく姿。
ただ、神の愛のみが消えずに、厳然と
かがやくのであります。

私たちは、この神の愛をまとって
生きている一つ一つの生命、神からの
分生命(わけいのち)であります。

私たちのなかに神は在って、光を流し
続けているのであります。
私たちは神とともにあり、神とともに
生きている。
そして、神の大愛は、私たちのすべての
苦しみを御存知で、それを癒やそうと
して下さるのであります。
否、すでに私たちは、大愛のなかに
抱きとられて、癒しを受けているので
あります。

神を信じ、神の大愛を信じ、人間が
神の光の一筋であることを信じて、
どのような 時にも世界平和の祈りを
となえて参りましょう。
           合 掌
            昌 久