宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

宝について(3)

2021-12-31 07:33:35 | 祈り
      (前日からの続き)
自分が無くなるということは、自分らしさが
なくなってしまうということではないんですね。
つまり、自分自身が本当に神様というものに
生命を返してしまう、朗(ほが)らかに生命を
返してしまうと、そこから新しい自分が現われて、
そのことによって自分が生き生きと生きていく
ことが出来る。
そういう事が私の身の上に起こったわけですね。
これは何も私だけの特別な事ではなくて、
私の場合は、何がそうなったのか、そのスイッチは
何だったのかというと、私は神様に対して素直
であった。
その事だけなんです。
それと、世界人類のために私の生命を使って
下さい─そういうお祈りをずーっとしてきたわけ
です。
主の祈りの後にそういうことをずーっとつけ加えて
祈っていたんです。
どういうわけか、自分の存在を投げ出して、永遠者
というものに対して、そうやって祈ってた訳です。
そうすると、私が計(はか)らって何かが
起こった訳ではなくて、神様の方で計らって、
そうして、お前の生命はもらった、覚悟はいいか!
と聞こえた時に、私はハイと言えたんですね。
ハイと言った時に、一人の平凡な青年だった者が、
運命がコロッと変わってね、今こういうふうに
なって、今もこうやって説き続けているわけ
です。
             (つづく)

宝について(2)

2021-12-30 13:32:13 | 祈り
    (前日からの続き)
人間というのは、何だかんだと思う
もんですね。
今晩のご飯は何かしらとか、人と
しゃべっても何かいろいろと浮かんで
来るもんでしょ。
ところが、全く何も考えちゃいけない
ということ。
例えば、雨の降る日に傘もささずにね、
車道の真中を歩いて、さあどうなる?
というような事をさせられたわけですよ。
だけど私はもともとが常識的な人間で、
常識から一歩も出たことがない人間でね、
カチンカチンの人間ではなかったけれど、
そういう常識的なところを持たされた人間が、
そういう一見すると非常識なところを
通ってね、そうして超常識にさせられた
というのは、個人としてはとても辛い
ことだった。
けれども、それを通して、結局は人間の智恵
ではなくて、肉体をもって生きている
ということは、神様の智恵が神様の方から
流れてくるんだということが実感として判った。
自分が直霊に合体した時に、自分の身体でもって
判ったわけですね。
心でもって判ったわけですね。

それで、人間というのは、誰一人として
例外なくそういうふうになっていけるという
ことです。
つまり、人間は、我が有って苦しむけれども、
我というものが無くなって空っぽになった時、
神の智恵、神智に満たされて、自分自身を
大事にして、相手も大事にして、自分を赦し
相手も赦し愛してゆく時に、本当に朗らかに
なってゆく。
              (つづく)

宝について(1)

2021-12-29 11:04:48 | 祈り
話すときには何にも考えていないんです。
空っぽなんです。
思い浮かべるということもない、流れて
くるままにしゃべります。
どこかの本にも書きましたけれど、うしろに
釈迦がいたり、キリストがいたり阿弥陀さんが
いたり、まあいろいろ忙しいわけですね。
私はその司会役をやっている。
かといって、私の自分の中の人間性が壊れる
ということは全くなくって、五井昌久という
人間性でもってしゃべっている。
みんなそう思っているけれども、私には私
というものは全く無いんですね。
私心とか、あいつが憎いとか、そういう想いが
全くなくって、ただ相手の心が映って来る。
例えば、私に何を聞きたいのか、この人にとって
何を答えてあげれば一番本心を開発してゆけるか、
そういうところだけを見て、私という個人が何かを
判断するのではなくて、そこで私を支えている
守護霊や守護神、神様の方で必要な言葉や知恵を
与えられて私がしゃべっている訳ですね。
そういうふうになるまでに三ヶ月間くらい、想念停止
というものをやらされたんですね。
それは本の中にも書きましたけれど、本当に
思っちゃいけない、何にも考えちゃいけないとね。
               (つづく)

ささやかなことを大事に

2021-12-28 06:43:30 | 祈り
(質問) 心構えとしては、何も来ないという
信念みたいな、善念を起こすということですか…。



(答) 念じゃだめ。
念ではなくて、やっぱり信仰を持つこと。
信念ではなく信仰を持つ。
自分が祈る時に、自分を強くして下さいと。
強くやさしくして下さいと祈る。
何があっても強くたくましく岩のようにと
祈ると、ただ強い自分だけが出て来て片寄って
しまうけれど、強くやさしくという祈りだと、
そこにやわらぎの心が出てくるでしょう。
やわらぎは平和ということですからね。

やわらぎを忘れて、ただ平らかになるという
ことだけが平和ではありません。
ブルドーザーでいくらでも道は平らに出来る。
だけど、それで草木をなぎ倒して、生命を
根こそぎにすることが神様のみ心ではない。
人間だけが生きればいいというものじゃない
でしょうね。
すべてが神様の息づきの中にある生命
なのだから、人間だけが救われればいい
というのでは本当に平和にならない。
動物も植物も海も山も空気も、すべて
神様のものであって、我々人間もそこに共に
生きる生命であるから、共存して行かないと
いけませんでしょ。
神様と共なる生命なんだけれど、神様と共なる
生命は、神様対人間だけじゃあない。
全部がそう。
全部が生きている。
そういう地点に立ってやってゆくと、平和に
ならざるを得ないですね。
やわらぎを持たざるを得ないですね。
人間がって思うから、私がって思うから
大変になり変なことが起こってくる。

斎藤秀雄さんがここで書いたでしょ、「俺が
俺がの我を捨てて、おかげおかげの下(げ)で
暮らせ」とね。
みんなが生かされている。
みんなというのは人間だけではなくて、
天地のすべて万物が宇宙そのものが生命であり、
それがみんな鳴り響いていて、その宇宙全体の
中に、世界平和の祈りが鳴り響いていて、
我々はその響きの中の一つの粒子として、
個性を持って生きている、生き通しの生命
だということを忘れてはいけない。
そういうふうに思える時に、そういうふうに
信じれる時に、人間というものは本当に解放
されて、本当に朗らかになってゆける。
人間の本当の真性(神性)、朗らかな真性(神性)
というものがそこに現れて来る筈です。

何度も言いますけれど、人間というのは、
チャチなものではない。
天地、万物、宇宙、極天、極地、全部を貫くー
それくらいの存在なのです。
だけれど今は、この地球という所にいて地上に
いて、肉体というものをまとい、飲んだり
食べたりしゃべったりしている。
この小さなことも愛するようにならないと、
生活というものも大事にしてゆくようにしないと、
同時に天地を貫いてゆく宇宙を貫いてゆく、
タテにも ヨコにも縦横無尽に朗らかに
現れてゆく自分が、その生命だということが
なかなか思えなくなる。
だから、小さなことを大事にしないといけません。
ささやかなことを大事にしないといけません。
謙虚であって欲しいし、感謝を忘れないで欲しい。
そういう想いで世界平和の祈りをしてゆくと、
スーッとエレベーターに昇ってゆく。
感じなくても、天界の霊人と一緒に祈りを
することになりますね。

人間というのは 本来強いもの

2021-12-27 22:41:05 | 祈り
(質問) いつも霊光写真を痛いところへ
当てて、世界人類がーとやっていますが…。



(答) 世界人類がーでいいんですよ。




(質問) 投げ出したつもりでも、やっぱり
半分は恐かったり、治してもらおうという
気持ちが強くてー



(答) それでもいいから、世界平和の祈りを
したり、霊光写真も持っていれば、いい加減な
ところは消してくれますからね。
人間というのは、いっぺんに強くなれない
けれども、本当は強いんですね。
その強さを自覚して欲しいのです。
強くなって来たなというのではなくて、すでに
強いんですよ。
すでにたくましいんですよ。
元々人間は神様の器ですから、肉体なんていう
チャチなものではなくて、その奥に大変なもの
霊妙なものが存在している訳でしょう。
そういう存在なんですよ、だからりきまなくて
いいんですよ。
フワーッとしていればいいんです。
それが私の教えですよね。
ですから何でも出来る。
不幸も来ないということでね。
でも、やっぱり自分が迷ったり悩んだりするのね。