宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

人間界への呼びかけ

2022-12-31 09:06:47 | 祈り
拝復
人間界に呼びかけるのに、人間の
心のこもった言葉以外で何が出来る
というのかという点について、私は
今一度かいてみたいのだ。

ただいたずらに自分を高みに
おく者を僕は信じない。
人間というものの真性を、等しくみんなが
理解するためにも、言葉というものの
やさしさ、深さを極めることは大事だ
と思っている。
やさしさというものは極めてゆけば
強さにつながる。
しかも、その強さは、人間の心の内奥を
つつむものであると僕は思っている。
この強さを獲得するために、人は
さまざまな道のりを経てゆかなければ
ならない。
どこをどう点検しても、強さにつながら
ない道を歩かせられる場合もあるのだ。
しかし、その道を歩く時間も、永遠
という神の眼からみれば瞬間にすぎない。
君の道筋も、永遠につながってゆくものだ。

人間界は、神界に到るまで現われの
世界だ。
そのあらわれは、人の心がつくってゆく
ものだということを理解できれば、この世の
争いもなくなってゆくのだがと思う。
おもいだけではこの世はよくならない。
おもいを祈りに高め、祈りを光にかえて、
僕等の本心のなかに光体をかがやかすことこそ、
今、つとめるべきではないか。
今この時期だからこそ、一人一人の光を
つよめてゆこうではないか。
祈りのなかに僕はいる。
世界人類が平和でありますようにという
祈(の)り言のなかに、僕はいるのだ。
五井先生は遠くにいるのではない。
ここにいるんだよ。
一人一人のなかに、君たちのなかに
いるんだよ。

自在身のよろこびと、それゆえの切なさ
とを、今、僕はしみじみと味わっている。
しかし、真理の光─神の愛はこんなことで
いささかもゆらぐことはないのだよ。
僕は白光を愛している。
白光につながっている同志の一人一人を
愛している。
しかし、僕の念願は、その君たちの
祈りを結集して、真の人間の進化に
むけてのそなえを一日も早く成し遂げたい
ということだ。

神界の光を、今地上に放射して、肉体を
持ったまま霊人になってゆくという、今は
そのはじまりの時なのだよ。
人間というものの奥深さ、光の朗らかさを、
祈りのなかで覚えて欲しい。
それは元々、我々人間のなかにあるものだ。
君のなかにもあるのだよ。(疑ってはいけない)
人のおもいを澄ませていれば、その時、
人は自然に光になってゆく。
光というものは、闇を照らして心と心を
結ぶものだ。
そしてその心は、僕にも通じているのだよ。

この頃僕は、人生の真実ということを
考えている。
真実に人生(天命)を走り抜くということは、
人の力だけではできることではない。
その背後に、守護霊、守護神があり、
神の愛があり、ゆるしとみちびきがあって、
はじめて走りとおせるのだ。
けれど、ここで僕は、へんに宗教の話を
したくはない。
人生の真実を完うしようとおもえば、やはり
やさしさなのだよ。
どれだけのやさしさを人から受け、より
以上に人に返してゆくかということなのだ。
宗教などという面倒な言葉より、ただ、
あたたかい、やさしい雰囲気を持った人
として生きてくれる方が、僕ははるかに
うれしい。
宗教にもとらわれずにいてくれ給え。
世界平和の祈りは、そして僕は、そうした
君の助けをしてゆくわけだけれども。

やさしさというものは、人の痛みを
覚えているとやさしくできるものだよ。
相手に身をおくということだ。
僕はそれをずっとやってきた。
地上での六十余年はその連続だった。
そして、今もそうしている。
やさしさの極みは神の愛だ。
しかし、神の愛を仰ぐ僕らのやさしさを
目ざす旅は、これでいいということがない。
お互いに、自己の本心をかがやかそうでは
ないか。

僕が今、寂しさの中にいることを、君は
承知してくれていることとおもう。
この寂しさも、真理の前に一瞬にすぎる
ものだとはおもう。
しかし、寂しい。
それは僕が認められないからではなく、
人が神の愛のなかに素直に溶け入るため
には、どれほどの時をついやさなければ
ならないのかということを観じ切った
上での寂しさだ。
こんなことを書くと、君は困るだろうか?

僕が神界に帰って、より人間らしく、
生き生きと、人のこころを持って生きて
いることを、僕は伝えたくて
たまらないのだよ。
僕だけではない。
人はみな、こんなふうに生きているものだ
ということを伝えてゆきたいのだ。
そうすることで、みんな本当の意味での安心を
得られるのではないか。
五井先生だからできているのではないのだよ。
君も僕とおなじなのだよ。
すなおであって欲しい。
よろこびにも悲しみにもすなおであって
欲しい。
僕に遠慮する必要はない。
背のびをする必要もない。
神様にかっこうをつける必要は
ないのだからね。

言葉は言霊だ。
光がとびかっているのだ。
言葉に光をやどすのではなく、元々光が
言葉になっているのだよ。
また追伸をかくかも知れないが、とりあえず、
この短信をおくることにする。
ほがらかに生きてくれ給え。
        昌 久

本当の弱さが極まれば 強さになる

2022-12-30 10:02:01 | 祈り
拝復
今あらわれている子孫の人々は
先祖の陰徳を受け、守られて生活
しているのであります。
つまり、我々の生命というものは、
先祖という時間も空間もはなれた
人々を別個に持っているのでは
ありません。

わかります?
みんなが先祖、みんなが子孫なんです。
先祖の中にはだから自分が大いに
入っているわけで、よくみんな先祖供養
しないと罪が深くなるばちがあたる
といいましょう。

けれども、先祖は自分なんですよ。
人間のいのちというものは、
生きとおしの生命なんだから、
先祖の中に自分がいたって、
ちっともおかしくないわけです。

で、こういう人間にとって何が
大事かといえば素直ということです。

素直というのは、弱い、何だか
わからないというんじゃありませんよ。
弱さじゃない。
本当の弱さというものが極まれば
強さになるんだ。

真理の他には、何物にも動かされない
という強さになってゆくのであります。
素直な純な魂は光そのものなので
あります。

今を大事にして、そして明日を
のぞみながら生きていって下さい。

私はいつもあなたを見守っています。
          昌 久

本当の平和が来ると 宗教は御役御免なのだ

2022-12-29 11:33:30 | 祈り
僕は君の日々の祈りを受けながら、切なく、
すまなく思うと同時に、君の素直さをめで、
また、感謝していたのだよ。

神にむかう心で一番大事なものは、
子どものような無邪気さであり、子が母を
慕うようにそのふところに飛び込む純な
心なのだ。

君は感じすぎて、かえって想いを言葉に
出来ないところがある。

そういう君の僕に対する甘えであり叫び
であっただけに僕の心は痛んだのだ、よく
生きてきてくれた。

君の人生の中で幾つかのやり切れない想いや、
辛さを自分の中に大事にしまって、明日
というものを見つめて生きてくれたことを
僕は何よりも嬉しく思い誇りに思っている。
人の気持ちがわかるということは、その
人間を深くするが同時に大変辛いこと
でもある。

僕は君の子どもの頃から、人の心に
感じすぎて、返って無表情に立ちつくして
いる君に、何とか早く僕の所へ来る方法は
ないものかと考えていた。

過去世で君は僕の弟子だったのだから、
つながらない筈はないが、子どもの頃
からの君を見ていると、僕の一人の人間
としての感情は、何とか早くと思ったのだ。

君が、人を恋しがる人間だということは、
僕が誰よりもわかっているつもりだ。
その恋しがるという感情が、単なる甘えに
なってはいないことも、合わせて僕は
知っているつもりだ。
であればこそ、君には、君自身が大事に
育み、そだててきたものを土台にして、
その上にさまざまな可能性を試して
欲しいのだ。

僕は決して一人の人間を甘やかすつもりは
ないが、君の御家族よりも僕が一番君の
本当のすがたをしらされ、また、知っている
人間だと自負を持っているからこんなことも
書くのだよ。

少しは人間に慣れたかい、他人に慣れたかな、
まあ、しかしゆっくりやり給え。

君は時々、僕の所に遊びに来てるんだが、
覚えていないかな。

一年一年、年をかさねると、誰かしらを
傷つけ、追いつめて、考えれば僕らは
その犠牲の上に生きているといっても
いいすぎではない。
しかし僕がいつもいうように、生命の流れ
というものは本来、ほがらかで明るいものだ。
傷つき、傷を負ってあるいは傷を負わせる
ことは、人間にとって深い痛みにちがいない。
しかし、それを必要以上に自分のせいだとか
自分の責任だと思いすぎると、せっかく
守護神や守護霊や僕が用意した運命を
せまく暗くしてしまうことになるんだ。
本当は僕は、こういうお説教じみたことを、
こうして君に書きのこしたくはない。
君という人は、一生懸命考えすぎて、
背負ってしまうところがあるから、
なるたけなら言葉にせずに、小さな運命の
つみかさなりを君の前には贈りたいのだ。

しかし、あまりいろいろ考えて、自分の運命を
自分勝手な箱の中にとじ込めておくのは、
どう考えても、面白くないじゃないか。

だから、忠告めいたことをここに
つけ加えるのだ。

このことは、君のこれまでの時間をずっと
みてきての僕の大きな希望でもある。

僕が考えに考えて君のそばに置いた友人は、
そういう君と僕との希望を無理なくかなえて
くれると思っている。

悟る前の僕は、寂しいところのある
ロマンチストだった。
いつも真理を求めて、悟ったと思う直前で
その喜びが破られたことがしばしばあった。
僕の孤独、それは大勢の人の中にいて、
自分がひとりだと思う瞬間を消し切れぬ
種類のものだった。

人は誰でも好んで孤独を求める者はいない。
けれども、親しい(家族を含めて)人たちの
中にいて、忽然とひとりのおもいが
湧き上がってくるあの瞬間の孤独の深さを
僕は覚えている。
それが詩になり、音楽になったのだ。

君をみていて、僕は僕が若い時に
感じ切った孤独を想ったのだ。
そして、同時に、その孤独を生かし切る
だけの魂と愛とを、神が備えて下さった
ことに僕は感謝したのだ。

こういう手紙だからいうが、実際、
嬉し涙を流したよ、僕は。

生きるということは大変だ。

出会うことも別れることも、これは、
これを上手くやろうとすれば、人生に
とっての一大事業だ。

しかし、かっこうだけはつけずに、
君らしく、どんな出会いにも別れにも心を
対じして欲しいのだ。

僕のいつもいう素直というのは、
こういうことだ。

自分を愛し、人生を愛する。
その愛し方はさまざまでも、かっこうをつけて
本音を出さないというのでは何もならない。

神の世界は理想の世界ではない本質の
世界なのだ。

自分の本当の姿をみきわめる勇気が、
この世において大切なのと同じように、
神の世界ではすなおな本音を出して
生きることが最も大切なのだ。

僕は今、光の中にいて、一人一人の
おもいを光にしてかえしている。
けれど悟る以前の僕の気持ちや性格
というものは、一人一人と調和するために
僕の中にのこっている。
それは決して脱けがらではないんだ。

僕は愛ほど大事なものはないといつも
説いているけれど、愛程、深くて
すばらしく、反面で、重く、やり切れない
ものはない。
僕はずっと個人相談をしてきて実際そう思うよ。

けれど、それは、愛がやり切れないのでは
なく、家族や恋人や友人や、あらゆる
人間関係の中でおこる重苦しさや、
やり切れなさがたえられないのであって、
愛そのものは、輝やいているものだけれども、
しかし、会うべき人には早く会って、
愛し合いたいと思うのが、人間の
いつわらざる心情だろう。
僕は宗教家ではあるが、こういう人間の
自然な心の移りぐあいを決して馬鹿には
していない。
人の心というもののすぎゆきや、
移り具合いを、知らなければ、どうして
宗教家などといえるだろう。

君はいつか、僕が「白光であることを
忘れなさい。」といったことを覚えている
だろう。
あの時僕は、宗教というものにとらわれて、
自分自身も、ごくあたり前の気持ちを持つ
人間の一人だということを忘れ果てて、ただ、
しゃにむに、神や仏をとく人たちが、この
世間にはどんなに大勢いて、また、それが、
どんなに大きく深いあやまちを与えているか
という事実と真実に無関心な人々が多いことに
歎きといきどおりとを覚えていたのだ。

白光の会員のみんなは勿論、ずっと君という
人間をみてきている僕としては、是非とも、
まわりのみえない誤った情熱を心にうえて
欲しくはなかったのだ。

君はかって、
宗教というものが、なくならなければ
(言葉が)駄目じゃないかとかなしんだ
ことが、あったけれども、人間の心がみんな
本当に平和になったら、その時、宗教
というものは御役御免になるのだ。

神の世界は完全平和だ。
僕はこのことを知らせるために修行をし、
生まれてきた人間だ。
しかし、僕は同時に一人の豊かな人間
であり霊止(ひと)でありたいと思うのだよ。

どうか、心を豊かに、君が将来に備えられ
与えられた時間をすごしていって欲しいもの
だと、師というよりは、一人の人間五井昌久
として心から願うものだ。

この頃僕は、祈りは静かな魂、本体の
よろこびだということをしみじみ思う。
それは年をかさねるに従いこちら(神界)へ
きてから益々深くなった思いだ。
神にいのちを返した僕にとって、祈りが
自分の本体のよろこびであることは
真理そのものだった。
けれども、今僕がここに書いた静かな
よろこびは、霊体や霊覚では味わえないものだ。
神様という愛の根元に出会って、一年また
一年とすぎ人間の心に湧いてくるそれは、
しずかなよろこびなのだ。
ここで僕がよろこびといったわけは、
人が祈るその動機にはおそれやかなしみが
あることが多い、じゃあそういった生な
人間の声をとどけた祈りというものは、
よろこびなのかということになるんだが、
実はこれはちがうんだ。
祈りは神(光)へのエレベーターなんだよ、
祈りそのものは浄めだから決して想いに
染まるということはないんだ。
この真理が、一日一日、一年一年と、
僕の心の中でより確かな重さと位置を
占めはじめたと了解した時から祈りは
しずかな心(本心、本体の)よろこびだと
本当に深く心におもいがふき上がり
僕はこうして、いのちをいただいて
いることを、真実神に感謝したんだよ。

一年一年本当のよろこびや涙というものは
静かで、また深くなってくる。
しかし、君のように若い人には、精一杯、
今を生きてもらいたい。

つまらぬことをくどくどとかいた。

どうか元気に、朗らかに。

僕はいつも君を守っている。
それでは。


世界平和の祈りの大光明の働き

2022-12-28 08:21:35 | 祈り
祈りというものは方便ではありません。
空念仏でもないのです。
その人が真剣になっていようといまいと、
世界平和の祈りを唱える時、守護霊は、
あなたを神様の光のなかにみちびき入れて
下さるのでありますし、空念仏だ方便だと
おもってする祈りが、いつの間にか
心の底から神様を呼んでいる─というのが
世界平和の祈りの大光明の働きだといって
さしつかえないのです。

ですから、雑念が出ても、ああ消えてく姿
消えてく姿とおもって祈りをつづけて
いって下さい。
           昌 久

子どもは 母親を呼んでいる

2022-12-27 08:29:26 | 祈り
子どもというものは、どんなにお母さんを
困らせるというようにみえても、実は、
それだけ深くお母さんを呼んでいるのです。

丁度、世界平和の祈りのなかにあなたが
神様をよび私をよんで下さっているように。

人間にとって神様は永遠の母親なのです。

このことをおもって、お子さんの心の
なかに入り、そってあげる努力をなさって
下さい。
            昌 久