宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

生命の流れについて

2013-04-30 10:32:43 | 祈り
 今日は生命の流れということについて
お話ししたいと思います。
 よく私達は、何か悩んだりすると、一体
自分は何だろう、どっから来て、どこへ
行くんだろうと考える時があるんです。
 よくいうじゃあありませんか、行方定めぬ
旅がらすって。

 つまり、自分という者は何者なんだろう
ということです。それは、自分が誰と誰を両親に
持って、どこの家に生まれてきたかということは
わかっている。けれど、私達が考え込む時は、
もっと根本的なことでしょ。自分という、
この一つの存在の確かな在り場所、行き場所を
求めているわけです。

 で、そういうことを考えている時の人間
というのは、実は、「肉の私」を離れて
いるんです。我知らず魂の私、霊の私に
呼びかけている。はなれるったって、完全に、
たましいの中、霊の中に入り込んでるんじゃ
ありません。丁度、そういう自分にあこがれて、
呼びかけてる状態なのね。

 でも、人間がそういう問いかけをする
というのは、ただ落ち込んだばかりではなくて、
実は、そういう生命の流れの在り所、行き所を
つねに確認し、明るい方へ明るい方へと
すすんでゆくのが、元々の性質だからです。

 そこで、この生命の流れというのは、単に
この世での70年80年というみじかい時間の
過ぎゆきばかりを指すのではありません。
 本当をいってしまえば、私のなかに
流れている生命も、ず─っと、生き通しの
生命なんだから。

 そういうことをいうと、先生、人間は死ぬ
じゃありませんかと、きっときいてくる人が
ある。

 勿論死にますよ、みんな死ぬ、けれども、
それは、私にいわせれば、肉体を離れる
だけなんだ。肉体世活をおえるだけなんです。

 生命というのは、そんな何十年のちゃちなもの
じゃなくて、宇宙が創造された時から、ず─っと
流れつづけている、生きつづけている
ものなんです。

 生命には死というものがない、キリスト教で
永遠の生命というけれど、本当にそうなんです。

 宇宙のはじめからあるこの生命は、神様、
宇宙神からわかれてきて、段々段々分かれて
私達人間一人一人に分かれてきた。だから私は、
人間というものは、神の分御霊(わけみたま)、
分生命(わけいのち)だというんです。

 さあそこで、はい、じゃあ、そうして、
神様から私達に分かれてきた生命があるん
だったら、あなたは、その生命をみたことが
ありますかときかれたら、さあ、どうします? 

 みんな、困ってるけど、それは、私が、生命
というものの本体、本質を説いて、宇宙の
はじめまでさかのぼったものだから、みなさんの
生命に対する考え方が、今、えらく遠大に
なってるのね、肉体の想念迄もどるのに、時間が
かかっているわけです。

 よくコメディーやなんかで、おやあなた
生きてるんですか、といわれて、みれば
わかるでしょうといい返してるのがあるけど、
生命があるから、こうして生きていて、自分が
いるんだということね。

 けれど、自分がここにいる、きいている、
それは生きてるからだということはわかっても、
じゃあ、その一人一人の肉体と心に働いて、
私達を突き動かしているいのちをみたことが
あるか、と、こうきかれるとみんな
考えちゃうのね。

 そこで、いいですか、生命というのは、
みなさん一人一人のなかに在って、宿っていて、
みなさんを動かしてるわけです、生かしてる
わけですね、ここまでわかりましょう。

 で、その生命の本体というのは、もう素直な
素直な神様の光なんです。いいですか、生命
というのは、本来、けがれもしなけりゃ、傷も
つかない、まっ白な、純白な、かがやきつづけて
いる神様の光なんです。それが、みなさんの
からだの中、肉体も、幽体も、神体も
ずっとつらぬいて、宇宙神のみ心にまでずっと
つながってるわけなんです。

 人間は、みんな、そういうすごい生命を
一人一人持ってるんです。

 私からみると、そういう何物にも痛まない、
傷つかない、神様の生命を持っているという
ことに気付いた人間は、かがやいています。
 業というものが、人間の出すおもい
というものが、辺りをおおっちゃって、それが
自分だと思いまちがいをしている間、私達は
とっても苦しいんだけれど、実は、人間を
突き動かしている生命というものは
かがやいていて、まっすぐに、すなおに神様に
つながってるものなんだということなんです、
私は、それをいうために、生まれてきた
人間です。

 そして、もっと突きつめていくと、肉体を
はなれても、この生命は光を放し、光を失う
ことはない。

 なぜなら、肉体は器、入れ物なんです。
 みなさんは、今、この世での役目を
果たすために、肉体をまとっていますけれど、
みなさんを生かしている生命の光は、永遠の
ものなんです。

 いいかえると、生命の流れというものは、
尽きることなく、神の世界にむかって
流れている、悠々と流れている。

 このことを知って、どうか、素直に、私は
明るい、私の生命はかがやいていると思って、
祈りの生活をつづけて下さい。
  
 それでは、ありがとうございました。
                   五井 昌久                  

     昭和61年7月21日夕方 自宅にて 

世界平和の祈りについて

2013-04-29 10:02:52 | 祈り
 私どもが唱えております世界平和の祈り、特に
最初の世界人類が平和でありますようにという
祈り言について、述べてみたいと思います。

 私はつねづね、世界人類が平和でありますように
という祈り言を、心に想いうかべた時、その人は、
神様のチャンネルをひねったのとおなじであると
申し上げて来ました。人類すべての悲願が結集し、
祈り言となったこの言葉には、どんな人間の
個我をも消してしまう大きな光がこめられ、放射
されているのでありまして、この祈り言を、
思いうかべるだけで、私どもは大光明霊団の中に
参加しているのであります。

 ところで、この祈りの世界人類とは、どの程度の
世界であるのでありましょうか。勿論直接的には、
私どもが住んでおりますこの地球を指している
のであります。我々人間のいのちをこまかくみて
参りますと、それは光子という宇宙子から
成っており、いのちの源は、すべて波動から複雑に
構成されていることは、これまで申し上げたとおり
でございます。

 宇宙にうかんだ小さな星、この地球人類たちは、
こうしたいのちの成り立ち、いのちの仕組という
ものにまだ気がついておりませんで、そのために、
宇宙人たちから「おさない兄妹たち」とよばれて
いるのであります。

 私は今、宇宙人と申しましたが、実際、この
地球以上に、こころも、科学も数百倍もすすんだ
星々と、人類が存在することは、事実
でありますし、それのみならず、我々は、こうした
宇宙のすぐれた兄妹たちから、さまざまな援助を
得て、一日一日を無事にすごしている
のであります。

 世界平和の祈りは、ここに至って、地球人類
のみならず、宇宙に生きるすべての我々の仲間、
兄妹、宇宙人類が平和であるようにという、宇宙の
大調和をも目ざした、祈りであることが理解される
のであります。

 この地球上に多くの国々があり、そのそれぞれの
国と国交を結んでおります。これからの政治家は、
世界平和を根底に据えてかからなければ、一日
たりとも、政治がとれなくなってくるで
ありましょう。

 しかし、もっと真理を見きわめる眼を
持ちますなら、単に地球という星の地上の国々
との交わりというばかりではなく、星と星との
交わり、星交というところまですすまなければ、
本当の宇宙全体の調和というものは完成
されないのであります。
 そして現在、我々にコンタクトを求めてきて
おります宇宙の兄妹たちは、この宇宙の大調和の
なかに、我々地球人類が、一日も早く
とけ込むよう、最大の助力を日々おこなって
くれているのであります。

 世界人類が平和でありますようにという
祈り言は、宇宙神のみこころ─愛の中にとけ入り、
宇宙人類の一人として、全宇宙と、宇宙人類全員の
平和を祈り、又その愛念を、彼らに送って、我々が
日々彼らから受けております援助にも、こたえる
かたちとなっているものであります。

 宇宙は玄妙であります。そしてその玄妙な宇宙の
運行を支えているものは、一点のわたくしなき、
宇宙神の愛であります。

 さて世界人類が平和でありますようにという
祈り言には、さらにもう一つの奥義があります。

 それは、人間というものの全体にむかって、
祈り言を発しているということであります。人間
というものは、いつも私が申しておりますように、
この肉体だけではありません。幽・霊・神、
大きくわけて、肉体以外に、さらに三つの世界に
生きているものであります。この人間の本質、
本体と申しましょうか、それぞれの世界に
よびかけ、光の放射を、霊界神界から放射
しやすくする働きを、自然と持っているのが、
世界人類が平和でありますようにという祈り言
なのであります。個人と人類の同時救済という
性質を、この祈りが持っておりますことは、
何度も申し上げましたが、さらにこの祈りは、
人間の本体である光にむかって愛と調和を
放っている祈りなのであります。ですから、
心の中に「世界」とおもいうかべただけで、
ただちにそれは、宇宙と人間の本体である光に
つながり、大光明を発揮することとなる
のであります。

 ちなみに宇宙人たちは、こうした光体が
自己の本質であることを熟知して、日々我々を
助けてくれているのであります。
 こうした世界平和の祈りを我々はたゆみなく
祈って、宇宙人類と光と愛の世界建設のために
まい進致しましょう。
          昭和61年7月9日,10日
                昌 久

祈りとゆるし

2013-04-28 11:53:33 | 祈り
 暑いですね。こう暑いと、人の話を聴いても、
よっぽどのことがないと耳に入ってこないから、
真理のことを喋るんでも、一寸面白おかしく
言わないとはっきり入っていかないかも
知れないけれども。

 人間には色々な単位がありますね。単位
というのか、一番小さな単位は家族で、
それから、学校とか社会とか、段々に大きく
なってゆくわけだけれども、この中で、色々
面白くないことが起こったりする。喧嘩ね、
啀み合い、俺のものだ、とかね、家族であれば、
血がつながってるから、まあ流せることも
多いわけだけれども、集団になると、各々の
癖が直接ぶつかり合って、別に何の義理もない
というような場合には、喧嘩も深刻なものに
なってしまう。つまり、個我というものが、
そのまま出てしまうわけですね。そこには、
慎しみとか、遠慮とか、普段私達が人間として
持っている、人に対する配慮といったものが、
全く忘れられた状態になっているわけです。
 争ってる時の人間の心というものは、もう
何ともいえない気といいますか、気も濁れば、
想念も真赤に燃えてるわけで、たまに、
交通信号の黄色位点したって損にはなるまい
と思う程、怒りだとか、口惜しさだとか、
相手に対して怒っている、というより、怒り
しか見えない、何ともやり切れない状態に
なっているわけです。

 で、どうして、そんな浅ましい状態になるか
というと、人間がこの世に生まれて、大きく
なって、成人して、いつの間にか、何かしらの
位置というものを得ます。そうすると、その
位置に対する執着というものが出るんです。
 しがみつきたいという想い。これに
からまれると、もう自由自在の心も、どんどん
息苦しくなってきて、いつの間にか世間的な
自分の位置が主人公になってしまって、自分自身
というものは追い出されちゃうわけです。
 争っている状態というのは、この、本来、
自分自身でない、一時的に、この世で自分が
果たしてゆく役割を、自分だと思い違いをして、
そこに思い入れしちゃって、癖から性格から
惚れ込んでね、全部与えちゃって、
奉るものだから、気にしなくても大丈夫、
ちゃーんと生きてゆけるようになっているのに、
自分自身が馬鹿にされたと思って争うわけです。

 けれども、みんな、自分自身自分自身と
言うけれど、自分自身というのは、そんな
小っちゃなものじゃないんです。宇宙のように
大きく深く拡がってゆくことも出来れば、
ラクダの針の穴という言葉があるように、
細かく細かくなることも出来る。本来、私達に
神様から与えられる能力は、全く測り知れない
ものがあるわけなんです。
 それを、変なところで物惜しみをしたり、
引っかかりするものだから、守護霊さんの方で、
こうしてやりたいと思って、一生懸命信号を
送っているのに、万分の一もその力が出て
こないわけなんです。

 そりゃあ、わけも無く殴られたり、辱め
られたりすれば、人間の素直な気持ちとして、
何ともやり切れない気持ちが湧き上がってくる
わけですが、祈りというものを知っている私達
としては、その想念に身を任せ切ってしまっては、
それこそマイナスにしかなってゆかない。祈り
というものに、あまり気負いを持たず、構えず、
イライラしたらしたまま、世界人類が平和で
ありますようにと心の中で唱えればいいわけです。

 みんな、一生懸命無になろう、悟ろうと思って
やってるけれど、妙な焦り心がある間は、
中途半端で、第一その人自身が満足出来ないわけ
でしょう。お祈りというものは、勿論一人一人が、
守護霊さま、守護神さまを通して神さまに向かって
叫ぶわけだけれど、私なんかから見ていると、
世界人類が─とやり出した途端、みんながみんな、
光明化してしまうわけです。色々な個々の悩みや
苦しみやそういうものを持ち乍ら、しかも、光体に
なってしまう。この事実はどういうことかというと、
祈りというものは、霊界神界─宇宙神につながって
ゆくあらゆる光を放射される神霊方と、一人一人の
みなさんとの協同作業だということに
他ならないのです。言葉を変えて言いますと、
光一筋というのが、人間本来の姿であって、それは、
この今の自分自身が、どのように傷つき苦しんで
いようと、変わることのない光一筋なのだという
事実を、証するものなのです。祈りというものは、
肉体人間が放射せずにはいられない様々な想念を、
むしろ土台として、一層、霊体、神体─神界の
自分と一体化をする為のものだといえるので、
このことを、心に呼び覚ます時、怒りは怒りの
ままに終わってはゆかない筈であると思うのです。
 怒りもまた祈りに浄められて、すべてが光に
なってゆく。

 そのために祈りというものがあるのであります。
 すべてを世界平和の祈りに託すとき、私達も、
またこの世界も光にみちてゆくのであります。
          昭和61年7月
             昌 久

神 の 愛

2013-04-27 09:51:45 | 祈り
 宇宙の真理というのは、決して複雑なもの
ではありません。
 縦横十字につらぬかれている神の愛を信じ、
素直にその中に溶け込めばいいのです。
 しかし、肉体人間の想念が、中々光そのもの
である神の愛に溶け込ませにくくなっている。
それだけ世の中が物中心になり、
こころ=神様が忘れられた現代といえましょう。
 しかしながら、この世の中のすべての顕れは、
実質、実体ではなく、我々人間の心の奥に
眠らされている、光としての真性を
よびさますなら、世の中は、そのまま真実霊界
となり、神界となるのであります。

 宗教家の中には、説教はしてもあの世は
信じないという人々が存在しますが、人間の
内外に、無限に働いてやまない神霊の援助、
あるいは、神仏の加護による永世への
みちびきを、心に感じることがなければ、
真に人をみちびき、人を救うということは
不可能であります。
 私のいうそうした援助を、心に感ずる
というのは単なる観念や、人間の弱い憧れ
ではありません。
 人を愛し人を導き、更に、救いにまで
及ぶためには、無私、無我の愛、言葉を
かえていうなら、無限定の愛が土台と
ならなければなりません。どんなに愛に富み、
誠実をつくしても、人が人を愛するという
枠の中だけで、愛や祈りの実践─無限の
実践─は出来るものではないのであります。
 そこに永遠者への眼というものを
持たなければ、とうてい、人の力だけで、
いわゆる愛や救いは成し遂げられるものでは
ありません。
 もっと話を飛ばしていえば、本来人間を
動かしている力─行為の土台─は、
この無限の愛から来るのであります。

 時代が移り、社会が発展を遂げる中で、
人は、段々に、この自分をつらぬき
突き動かしている神の愛を疑い、遂に神は
死んだと迄言わしめたのでありましたが、
神の愛、無限の愛というものは、そんな
浅い思想や、ちっぽけな否定で、消え去る
ものではないのであります。
 肉体を持っていますと、生活に追われ、
人間関係に疲れ、神の愛などというものに
心を向けるには、あまりにも心がゆとりを
持てなくなってしまうのですが、たとえ、
この身と心がどんな状態におちいっても、
さん然とかがやきを失わず、海のように
深いみ心を持っているのが神の愛なので
あります。

 人間が霊止(ひと)であったところまで、
私どもは帰らなければなりません。
 実際をいえば、本源の心は、あらわれよう
あらわれようとして、私どもに合図を送って
いるのですけれど、永年の思いグセがそれを
押しとどめているといったかっこう
なのであります。

 ここまできますと、神様と、人間の想念の
いたちごっこに終わるのではないかとさえ
思われるのですが、ここに至って真の宗教者、
真の人間が、朗らかなかがやく神の愛を
呼び覚ます源を与えられていることに、
ほん然と気付くのであります。その源、
その光とは、神への祈りに他なりません。

 はじめは、やり場のないかなしみや、
苦しみが、自己をとらえ、しばり、むしろ
不自由ななかで、神に向かっての叫びを
挙げるのでありますが、何にしろ、絶対の神に
向けられる(人のまなざしが)ということが、
光の源である神にとっては、むしろ、その
一人一人の運命と愛念をおくりやすく
なるわけで、この辺りが、痛み、苦しみ、
苦労を、ただのがれたいともがき、神に
むかって、恨みつらみをいう私ども人間の
計算では、計ることのできない神のみ心
なのであります。
 いつも説いておりますように、神という
ものは、絶対の愛でありまして、人間
一人一人はその神の愛し児であり、神の
分生命(わけいのち)なのでありますが、
その人の生まれた環境、又、育ち方、それぞれ
によりまして、天から与えられた賜物
とは別に、前に述べました、思いグセが、
その人の個性の中に、一見深く喰い込んで、
中々これがやっかいなものなのであります。

 神様は、そうした人間一人一人のクセを全て
御存知で、み心のなかに、その人の天命が
溶け入り溶け込み、遂に大神様のふところに
いだかれて、一体となるまでには、何を
のぞかなければならないか、又、どこで、
いわゆる運命の修正をさせる為に、修行を
させ、人と会わせ、よろこびや、かなしみを
与えて、その霊なる命が成長してゆくように
仕向けなければならないかということなどを、
全て御存知なのであります。しかも、人一人の
天命が完うされるというのは、一生や二生の
ことではなく、何百生をかけてのことであって、
そこを全て御覧になった上での愛念の発揮
であり、それを助けるものが祈りであって、
その祈りが生きる為には、時々に、神に
対して恨みの声を挙げることをも、御承知の
上でのことであることを知る必要があります。
 恨みや、そねみが、一時的にその人を
とらえ、業想念がその人をとりまいたと
しても、永遠の真理の眼からみれば、それは、
真の祈りに昇華させ目覚めさせる為の
第一段階であるのであります。

 そこで、実相は今私が申し上げたとおり
なのですが、かっての古代の人々のように、
神様と二人というような純朴な信仰心、
神への眼を、科学が発達し、人間に与え
られた理性を、過度に信頼し、遂に、信仰
するに迄至っている今日の社会に生きる
人々に、こうした往相と還相とを
むずかしい言葉で説いたところで、それは、
一つの哲学としてのみ心に消化されるのが
精一杯なのであります。

 元来、祈り心というものは、無邪気な
単純な明るいものなのですが、思想、哲学
としてとらえられてしまっては、それは、
あくまで人間の枠を出ることは出来ません。

 そこで、こうした現代に生きる人々にも、
やさしく真理の奥義を説き、しかも、誰の
心をも納得させて、本心開発へと導き、神の
光の一筋としての本体を自覚させる祈りが、
私の提唱する“世界人類が平和であります
ように”という言葉にはじまる祈り言
なのであります。この祈りには、よこしまな
私の思い、下手な思想などというものの入る
スキは全くありません。
 無私、無我にはじまり、宇宙神の奥の奥の
心へとみちびきとけ込み入らせる祈り
なのであります。そうして、没個性という
のでは更になく、一人一人の人のこれらの
何十生、何百生の思いグセは思いグセの
ままで、ありのままに、祈ることを御心
とした祈りなのであります。

 私が、祈りは、天界へのきざはしなのだ
というのは、ここのところを指すので
ありまして、一人一人の親である神様は、
その子どものそのまま、あるがままを
抱きとって、そうして魂を高め、次の高い
世界へと高めて下さるわけなのです。
 この叫びにはじまる神への心、神への
まなざしが、やがて、いつの間にか光の
一筋となり、神の助けによって、神界(縦)
からの光と、神の子人間(横)私達の光が
さわりなく、交わります時、縦横十字の神の
絶対の愛がかがやくということ
なのであります。
           昭和61年7月7日  
               昌 久

天地をつらぬくもの

2013-04-26 12:22:26 | 祈り
 人間は本来、霊であり、光そのものなのです。
 宇宙神の奥の奥から流れてくる愛によって、
私達は日々瞬々を生かされているものなのです。
 だから、この心が、どんなにかなしんでも、
寂しがっても、本体の、光につつまれた光
そのものの自分は、かがやいているんだ
と思うことが、神様と共にいることであり、
いつの間にか、神様の深い深い愛にいだかれる
ことになり、その時、私達は、本当に無邪気に、
神様のふところでやすらがせていただくことに
なるのです。

 すべて自分がやるんじゃない。神様がさせて
下さる。我々は、唯、神のみふところの深さを
おもって、どんな時にもやすらいでいればいい。
 泪がながれる、ながれるままでいいのです。
 淋しくて淋しくてたまらない、そのままの
孤独なたましいを、ありのままで、世界平和の
祈りの中に放り込む時、私達の本体は
光りかがやくのであります。

 天の私と、地の私が合体するというのは神様の
みこころのなかに入り、いつのまにか
入らせていただいて、自己という意識もなく、
唯、あるがままにながれる生命そのものをいう
のであります。
 その時、人は、姓名などという個々のものを
超えて、神様の愛とともにあり、神様と一体に
なるのであります。そうしますと、いわゆる
想念の波によって、動かされる肉体の心、
肉体波動というものは、全く消えて、肉体に
いながら霊身、神体となり、天と地をつなぐ、
本来の人間の姿となるのであります。

 生命というものは、本来明るく、さわりなく、
むじゃきに、神をよろこび、神とともに
生きることを日常とするものであります。(日常
というのは、いわゆる肉体身の、我々の日常では
ありません。)そのことを信じて、素直に明るく、
世界平和の祈りを行じて参りましょう。