宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

宝について

2021-07-09 09:54:51 | 祈り
私のところへいろんな人が来ます。
まあこういう言い方をすると誤解する
人もあるかもしれないけれども、
地位のある人も来るし、お金を持ってる
人も来るし、社会的に名誉をもってる
人にも会ったことはあるし、かと思うと、
その日をどうやってお米代を出そうか
といって悩んでる悲しんでる人も
来ましたし、未だにいろんな人の姿を
こちらから見ておりますが、つくづく
思う事は、余分なものを持たないことの
清しさ。

ところが、人間というのは余分なものを
持ちたくなる。
でまた、持ちたいと想う時、持たされて
いる時というのは、余分なものだとは
思わないですね。
例えば、会社に勤めていて、月給が
上がっていく。
上がっていくことはそれで生活が楽に
なってくる事だから、それは安心立命の元
なんで、良かったですね、としか
言いようがない。
普通ならばそうなんだけれども、だんだん
だんだん10万円で生活していたものが
20万になって、20万円で生活していたんが
30万になっていくと、これは、30万の
生活に慣れると、今度逆に、20万にする
10万にするというのは非常に難しいんですね。
今までの生活の習慣といいますか、
これだけの経済でこれだけの事をやっていく
というのが、もう多ければ多いことに慣れて
いるから、それを減らしてやっていく
というのは、何か自分の立場とか自尊心とか、
今までの経歴とかいうものも全部否定
されるような気になる。
だから、なかなか諦めていくということは
難しい。
経済一つとっても、人間というのはなかなか
不自由に出来ているんです。

たとえば、欲というものは良い欲と悪い欲
とあってですね。
悪い欲というととらわれているみたい
だけれども。
何が何でもお金が欲しい、地位が欲しい
名誉が欲しいというので、ガリガリ亡者の
ように、そういう気持ちでものを
求めていって手にしている人というのを
見ると、中身がカラッポと申しますか、
外見だけいろいろあるんだけれども、
中身が非常に空虚な感じがする。
物質的にいろいろ持っていても何か非常に
虚しい。
何によってこの人の心は救われて
いくんだろうかと気になる。
そういう事をつくづく考えてみると、
人間がどういう時に一番自由になるんだ
ろうか、どういう時に朗らかになるんだ
ろうかということになると、自分を忘れ
ている時ですね。
自分が何処に属していて、どういう給料を
もらっていて、あるいは今どういう立場で、
どういう顔して生きていくか、生きて
いかなきゃいけないか、そういういろんな
煩いを忘れていって、そして、本当に
赤児のような本来の自分の顔を出してる、
その一瞬の時に人間というのは救われて
いく訳ですね。

それは別に、宗教を持ってるもってないに
関わりなくそうなんです。
私どもはそういう我を忘れた本来の自分の
素顔、ふっと出すその素顔が5分でも
10分でも15分でも長続きをして、
自分も人も良くなっていくように祈っていく。
光が満ちてくように祈っていく、想いや願い
ではなく、そこへ祈りが加わって、ついには
祈りによって、自分も人も皆が救われていくと
いいますかね、そういう大きな愛情に
包まれる。
そこを目指す訳なんですね。

だから、実は、そういうふうにして空になって
無になって、そこも突き抜けていきますと、
本当に人間というのは、先ほどから言ってる
ように、自由になって解き放たれる。
その時に、人間というのは何も持って
いないようだけれども、実は身も心も
突き抜けて、一番の宝物を持ってること
になる、それは何かというと、何ものにも
煩わされない、何ものにも強制されない
自分自身というのがそこへ素直に出せる。
その時に人間というのは一番安心するんです。

それは私の方から言いますと、神様の愛
というものを知って、神様の自分が子ども
であるということを知って、神様が全部
知って下すってるそのふるさとへ帰って、
ふっと安らぐ時に、人間というのは一番
安心するんです。
そういうふうに人間というのはできてる
もんなんです。
神様というのは我々のふるさとだから、別に
宗教でなくても、芸術であっても何で
あってもとに角人間というのは、その
ふるさとを目指して歩いている旅人みたいな
ものですから、そこへ我々は、どんな形
であっても、その人たちを連れて行きたい
と思う訳です。

自分の中にある宝というものを持ち腐れに
しないで、その宝を確認して祈って
やっていくと、ますます自分自身も張り切る
ことが出来るし、輝くことが出来るし、
まわりも喜ぶことが出来る。

これはもう、自分も他人も両方の成道
なんでしてね。
道が成っていくのであります。
ですから、そこをすべての宗教家は
目指しましたし、私自身もそれを目指して
今までやって来ている訳だし、これからも
やっていく訳であります。
そのために、世界人類が平和であります
ようにという祈りは、誠に絶大な力を発揮
する訳でありまして、ただ無心にこの祈りを
唱えて、そうして神様に任せていく。
その時に本当に自分自身が自分自身として
生きる。
その喜びの瞬間というものを取り戻すことが
出来る。
そうして、それがずっと続いていくと、
やがて道がついていって、自分も知らない間に、
あーこんな所まで来てしまったかというような
所まで、神様というのは連れていって下さる。
そういう事を信じて、そうして謙虚になって、
この祈りを唱えていきたいものだと思います。
        昭和63年6月13日   
           五井 昌久