移日々之事物

気になったこととかに関する戯言とか

罪とは何ぞや?

2006-08-23 00:36:55 | Weblog
罪とは何なのだろうか。

人の世における罪とは簡単に言うならば、人の倫理に反した行いをすることとなるでしょうかね。犯罪の多くはそれによって定義されているでしょうから。

さらに言うと殺人は罪とされるが戦争におけるそれは必ずしもそうはならない。それは人の倫理の中において戦争における殺人は殺人とは違うとされるからかと思います。

つまるところ罪とは曖昧なのです。法によって定義されてはいますが、例え同じ罪であっても状況によってその罰則が変わってくることからもそういえるでしょう。

人の心の曖昧さが罪というものの概念を曖昧化しているのです。もちろんそれを悪いというつもりはありません。人が感情を持ち、思考する存在であるいじょうそこからそういった要素を排除すれば厳格すぎるがゆえの歪みを生み出すのは必至でしょう。

人は生まれ、成長していく過程で多くの罪を背負っていきます。それは多くのものを傷つけるということです。それは他社の肉体を傷つけたいする物質的な意味でもそうでしょうし、心に大なり小なりの傷をつける精神的意味でもあります。

どちらにしても人の倫理が他者を傷つける行為を是としていないということでしょう。でもそれらは行き過ぎた行為でなければ当たり前のことで、そうせずに年を経ていく人はまずいません。

それでもそれらに罰則を与えられることはありません。当たり前に存在する事柄にいちいち罰を与えていては社会が成り立ちません。見方によっては罪が罪とされないということです。

多くの人はそうやって許しを与えられ、罪ではないとされながらも自分の心は罪であるという自覚を持ち、自分で自分を戒めていきます。

最初に罪とは人の倫理が決定するというようなことが言いましたがそれは一面においては正しかったとしても、別の面においては間違っています。

それが成立するのは社会的な側面で罪を見た場合であって、個人にスポットを当てた場合はそうとも言い切れません。人に害を与えれば罪となるのが社会ではありますが、ある人にとってはそれを害であると感じられないこともあるでしょう。

前提としている倫理が食い違っているので、社会において罪とされることがその個人にとっては罪となりえないのです。罰せられたとしてもなぜ罰せられるのかが理解できないのではないでしょうか。

結局のところ最終的な点においては個人の倫理が罪を定義するということでしょうか。人に害を与えたりしてそれが自身の心を戒める。それゆえに罪が罪として成立する。社会的に罪とされなくてもその人物は罪であると認識する。

罪とは個人の感性が決定する。故に法によって定義される罪に依存するのではなく、自らの心の認識する罪と言うものを見つめなおすことも時には必要なのではないだろうか。

悪人ですか、善人ですか?

2006-08-08 20:03:38 | Weblog
先日知人にこんな問いかけをしてみた。
「○○さんは自分が善人だと思いますか? それとも悪人だと思いますか?」
そのときなんとなく思いつきで言ったんですが、言われたほうはずいぶんと戸惑っていました。

普通生きている中で自分が善人か悪人かなんてそうそう考えません。実際その知人も何で突然そんなことを言い出したのかとか、いつもそんな変なことを考えてるのかとか言ってきました。思いつきで言っただけですが、まぁ一般的に変と言えてしまう様なことをつづっている最近の内容を顧みるといつもではないにしてもよくそういったことを考えているのは否定できません。

それはともかく何とはなしに口にしたこの質問ですが、以外と答えが出しにくいなと思いました。本人としてどう思っているかはともかく、どちらと答えたとしても素直な受け止め方をされにくいかな、と。

善人と自ら言ってしまうような人はえてして信用しがたい人が多く、また恥を知らないと相手に受け止められてしまいそうな感じがします。悪人と自分の事を言う人はやはり良い印象はなく、さらに言うと今の世の中の風潮では悪ぶって格好つけていると思われかねないという点もあるでしょう。

知人はどちらかといえば善人だと思う、という曖昧な答え方で逃げてくれました。おそらくは多くの人が同じように「どちらかといえば~だと思う」というような答え方をするでしょう。

日本人というのは曖昧さを尊重するものですから、そういった意味では別に悪い印象は与えないでしょうが、でもそう答えるということは自分というものに思いをめぐらすことが少ない証であると感じて、私的には考えることをしない人という感じがしていい感じがしません。そんなことに考えをめぐらす私であるが故の感じ方でしょうがね。

悪人だ善人だというのは他者から見て判断されるべきことで、自分で考えることではありません。大多数の存在が決定する倫理観によって他者が決定するものです。自分が自分のあり方の善悪を決定してもそれが他者に受け入れられることはなかなかないです。そうでなければ法律とか意味が無いですからね。盗みを働いてそれが私にとっての善行ですとか主張しても受け入れられるわけがないんですから。

そういう意味ではこの質問には何の意味もありません。しいて言うなら自分というものをどの程度理解しようとしているかという、その人の在り方を探るという悪趣味なものです。

では質問することが無意味でも、それを自身で考えようとすることは無意味でしょうか? 私はそう思いたくありません。

自分が善人だろうが悪人だろうが、それを自分で判断する意味はなくともそれを探ろうとすることで自分というものに対する理解を深めれば、相対的に他者をも理解しようとすることに繋がります。その判断基準を他人にゆだねることを考えているのですから、自分自身のことを思考していても突き詰めていく中で他人という存在がその中に絡んでくるはずなのですから。

ちなみに私は自分を悪人だと思っています。別に重犯罪をしたことはないですからそういった点において社会的悪人ではないのですが、自身の望みを本当に満たすためならば手段を選ぶべきではないと本気思っています。例え他の人に傷を負わすことになっても自身の渇望を満たすのに必要ならばそれを躊躇ってはならないと思っています。このあたりについては本日の御題とは関係ないので細かいところは省きますが、こういった考え方が社会的に否定されるべきものだとは理解してますんで、自分は悪人なんだろうと思っています。

さて、本日の駄文を締めくくるのにふさわしいのはこれでしょう。はたしてこれを読んでくれた奇特なあなたはどちらでしょうか。
「あなたは善人ですか? 悪人ですか?」

尊さ

2006-08-04 01:51:18 | Weblog
命は本当に尊いものなのか。

命の尊さ、という言葉がある。漫画や小説なんかを読んでみれば腐るほど語られるフレーズだろう。私はこれに疑念を感じている。

別にその考え方を否定するものではないが、尊いとかなんだとかごてごてと飾り立てることに違和感を感じるのだ。はたしてそんな崇めたてるようなたいそうなものなのだろうか。

人間という生き物の倫理観からすれば無意味に生き物を殺すということは悪である。しかし食べるために牛や豚を殺すのは悪ではない。まぁこれもなんだかんだでよく言われることなのであえて何を言う必要もあるまい。

命が尊いとかいうのは無意味に何かを殺すこと、または人が人を殺すことを悪とするという倫理に基づいた言葉だろう。そこで不意に思ったのが、これはどちらが先なのだろうかということだ。

倫理に照らし合わせて悪であるから命を尊いと崇めるのか、命が尊いものであるから人を殺すのが悪であるのか。鶏が先か卵が先かという理論であるのだが、はたしてこの場合はどちらなのだろうか。

そうやって思考をつめていくと、人の理性の基本として同族殺しを良しとしないという基本概念があることに思い至る。殺人事件などに対する派手な報道を見ていて
、娯楽としての意味合い以外にその点があるのではないかと感じたのだ。

人間以外を殺すことは死というものにたいする基本的な恐怖や嫌悪が促すものでしかないと思えるので、わざわざ触れるほどのものでもないと思う。

ともあれ数多存在する動物を見てみると別段同族殺しというのはそれほど珍しいものではないと思う。共食いとなると餌がないゆえのことだろうからまた別種となるだろうが、縄張り争いなどの結果として同種族を殺す生物というものは確かに存在する。

もともと殺すために殺しているわけではないが、同族殺しを嫌悪して忌避しているということはあるまいと思う。他の動物の理性を人間とまったく同じ形式で当てはめること自体愚劣ではあるかも知れないが、そう考えることはまったくの見当違いということもあるまい。

少々脱線した感があるが何が言いたいかというと、人の理性の根源的な部分に同族殺しを避けようとする意識が存在し、それを確固たるものとしようとした結果として「命の尊さ」というものが生まれ出たのではないだろうか。

つまり命は別に尊いということはない。とまで言うといいすぎだが、理性という人を構成する基本的且つ根源的部分に根ざした、理性でありながらある種の本能である思考回路が訴えかける同族殺しを避けるべきという意識を飾り立てただけのことに過ぎないのではないか。

私からすると宗教的な印象を感じてしまった。人の精神の根源にある理解しがたいものにすがる気持ちや逆に恐怖心などを飾り立てたのが宗教の一面であると私は考えているので、そういう点では大差ないと感じるのだ。

命は尊いだなんだといってもっともらしいことを並べ立てたところで何のことはない、本能の訴えそのままではないか。まぁ私は生物学者でも心理学者でもないので理論的な穴はいくつもあるのだろうが、少なくともそんなご立派なお題目には何の意味もないと感じてしまうのだ。

命は尊いなどとわざわざお題目を唱える必要はない。命を消失させる、何かを殺すというのは人の理性の基本構造が訴える禁則事項であり、それゆえに実行すべきでない行動である。無味乾燥とし言い分だがそれで事足りるし、変に飾り立ててそれが美しいものであるかのように見せかけて重要な本質を見失うようにするべきではないと感じたのだ。