移日々之事物

気になったこととかに関する戯言とか

孤独

2006-11-29 01:05:28 | Weblog
最近無性に孤独を感じてしまうことがある。

なぜそんなことを感じるようになったのか正直よくわからない。これまでと生活のあり方があまり変わったとは思わないし、周囲の環境が多少なりとも変わったとはいえ、それが孤独感に直結するような何かとも思わない。

けれども強い孤独感が自分を苛む瞬間が以前よりも頻繁に訪れているような気がする。

昔からふとした瞬間に自分が一人のような錯覚を抱くことはあった。本当に錯覚なのかどうかはともかく、それはおそらく多くの人が持つ想いではないかと思う。その意味ではまったくもって当たり前のことだ。

ひょっとするといま自分に降りかかっているこの気持ちもそうなのかもしれない。誰もが表に出さず、言葉にしないだけのことなのかもしれない。そうならばこれ自体は当たり前のことなのだろう。

ただこの孤独感が自分の心を蝕んでいくような感覚が恐ろしい。別に自殺したいなどというつもりはない。そこまで私の心は打ちのめされてはいないし、自分の在り方に絶望していない。

恐ろしいのはこの孤独感との付き合い方を誤ったとき、自分という存在が失われてしまうのではないかと思えることだ。

私は人は個であると思って生きてきた。親しい友人と共にあっても、彼らは彼らであって私ではない。心を近づけることはできたとしてもひとつになることはありえず、どこまで言っても交わることはできないものだと。しかしながらそうした人との関係性が自分を形作り、自分に自分というものを知らしめてきたというのも確かである。

問題となるのはこの孤独感がその個であるという思想をより明確にし、他者との関係性を内面的に断絶させ、最終的に自分というものをぼかしてしまうという恐怖を感じてしまうことだ。

人が真に孤独に耐え切れないのはそこにあるのかもしれない。他人という鏡を失うことにより自分というものさえも見失ってしまう。自分の存在というものがなくなってしまうのだ。表面上何事もないように見えたとしても、その実中身が空っぽになってしまうのだ。

まさに虚ろな生というべきだろう。生きながらにして死んでいるようなものだ。

人がどこまで言っても個であるということを超えられない以上、どうしようとも孤独であることからは逃れられない。強い孤独感が自らに襲い来ることも避け得ないことだ。

私は、私たちはその孤独とどう向き合えばいいのだろうか。そもそもが向き合う必要などないというのが答えかもしれない。実際孤独を感じてもそれを口にしない人がほとんどなのは、他者との関係に埋没しようとすることでそれをごまかすことができるからなのだろう。

だが、あえて言おう。他者と共に生き、その中で生じる孤独と向き合い、孤独を見据えて生きていこうとする人間はどうあるべきなのか。

私自身その解を持ち合わせてはいない。こうして言葉を紡ぎ、不特定多数の人に発信して一方的ながらも交流のような何かを行いながらも孤独に恐怖している人間に正答するなど不可能な話だ。

私の一生がどの程度の長さなのかは知りえない。平均寿命にのっとるならあと五十年以上はある。その間にこの孤独との付き合い方を言葉にできるほどに理解できるのだろうか。

繰り返すが私はそれを理由に自殺したいなどと微塵も考えていない。今は心を蝕まんとする孤独に恐怖しているが、その強さは何とか向き合うことができる程度のものだ。これがこれからも強さを増していくかもしれない中で、孤独とともにあろうとする中で私は何を見出すことができるのだろうか。

人は個であり、孤独から完全に逃れることはできない。見ない不利をして生きていくのが賢い生き方だとしても、向き合ったその先に何かを見出すことができるのだとしたら眼をそらしたくはない。恐怖を乗り越えて孤独を否定せずに生きることが自分の選んだ生き方なんだと、孤独の先には何があるのかと、胸を張って言えるようにありたいと思うのだ。

時間

2006-11-16 21:41:20 | Weblog
時間というのは気がつくとずいぶんと過ぎているものだ。

中の良い友人と会った翌日にふとそう思った。その友人と出会ったのは高校生時代であったのだが、当時ほど頻繁に会うことはもちろんないが今でも変わらぬ友好を結んでいると思っている。

彼らとあったとき、話す内容こそ年齢相応になってきてはいるが、その場の雰囲気のようなものは当時とあまり変わっていないように感じる。だからその場においての自分は高校生のころのままの自分であるわけだ。

しかしそれから一日二日と立って職場にて働いていると当然そんな自分でいることはできない。そのギャップを感じながら不意に考えてみると、その友人たちと出会ってから十年がたとうとしているのだ。

十年という時間が自分にとってどれほどのものであったかは今考えても正直よくわからない。だが少なくとも当時十年という時間に感じていたほどの長さが感じられなかったようには思う。

時間というのは瞬く間に過ぎ行くものなのだと強く実感した瞬間であった。

愚かしさすら許される、そんな子供時代であったときのまま成長していないということはないと思いたい。友人と会うときと仕事のときとの己の違いというものに気づいているのだから多少なりとも大人にはなっているのだろう。

あっという間に過ぎ去ってしまった年月の中で自分が成長したという実感はほぼ皆無に等しい。まぁそういったものはえてして自分自身ではわからないものなのだろうが、こうもあっさりと十年という年月を経てしまうと何も変わっていないからそう感じられるのではないかとか思ったりもする。

ともあれ時間というものは気がついたときにはずいぶんと進んでいるものなのだと思わされてしまった。冗談半分で自分もおじさんになってきたとか言ったりすることがあるが、それがもはや冗談でなくなっている。

私はそんな時間の流れを感じたときにこうも思った。

この十年の中で私は自分の中に何かを刻みつけることができたのだろうか、と。

十年という時間は短くはないが若さのうちでの十年というものは周りに何かを刻むのではなく、己のうちに何かを刻み込む時期だと思っていたし、今でも思っている。

己というもの、己の生き方というもの。それは進路だとかなんだとか言う意味ではなく、自分がどういう人間としてこれからの人生を歩んでいくかという人間性におけるあり方のこと。

それは経験によって変わるものであり、大人になってからでも変化しうるものである。しかしその根幹となる部分は若さの中であがくうちに作り上げられるものではないだろうか。そしてその根幹というものはそうそう揺らぐことがないものではないか。

私はそんなものを自分のうちに作り上げられたのだろうか。こうありたいという願いを自身の心のうちに刻みつけることができたのだろうか。

時間の流れの速さというものを感じると同時に、その時間の流れの中で何かを得ることができたのだろうか。瞬く間に過ぎ行く時の中では振り返ってもそれを確認することはできない。

できるのは、気がつけば過ぎてしまっていた十年という年月が自分の中に確かな何かをもたらしていると信じるだけである。