移日々之事物

気になったこととかに関する戯言とか

閑話休題

2007-01-03 21:02:16 | Weblog
12月は特に忙しすぎて更新など考える余裕がまったく無く、結果として惨憺たる有様になってしまいました。しかもいきなり更新しようにもどうも頭が回らないので閑話休題ということでいつもより短めに、いつもとは少し違った形でいこうかと。

さて、ニュースを追うのをやめてから早数ヶ月。とはいいながらもその間での更新数は数えるほどでしかありません。言い訳ではないのですが、毎日更新すればいいというものではないでしょうし、内容的にもそれは難しいと思っています。

日々の中で何気なく感じながらも、つい見過ごしてしまいそうな、当たり前といえば当たり前なことを掘り下げられたらな、というようなことが現在のこのブログのコンセプトみたいなものです。

究極的な到達点の一つとしては「人間を知る」というような考えが始める前にあったのを覚えています。もちろんそれは今でも変わっていません。

今まで書いてきた中にはそれとは一見ずれているようにも見える内容もあったりしますが、上記の「人間」というものの考え方の一端であると私自身は解釈しています。

私にとってもっとも身近な人間は私自身です。身近という表現が適当かはわかりませんが、最も理解しやすいという意味では間違っていないと思います。まぁ自分のすべてを理解できているなどというつもりもありませんがね。

だから自分自身の考え方を整理し、それを理解していくことはそれ自体が人間というものを知ることにつながると考えています。だけれども私のようなことをしている人間は少数であろうことから、私のことを理解したとしても大多数の人にとってはまったく異なり、人間の中でも異質な形を理解することしかできないという可能性も考慮しています。

事物の全てを知りうるのは神のみであり、私は神ではない。生涯の全てをかけたとしても人間の全てを知ることはかなわないだろう。

それは単純に知るための時間が足りないということもあるし、私は私以外になれないのだから、私以外の他人のありようを完全には理解できないだろうからだ。

人間とは歪なものである。その歪みにぴったりとはまるものならある程度の理解もできるやも知れないが、大半はそうならずにわからないままに終わってしまうものだ。

繰り返しのようになるが、私がどんなに頑張ったとしても私に理解できるのは私という欠片と、それにはまりうる何かだけなのだ。「人間を知る」などというのは傲慢に過ぎると思わないでもない。

しかしながらそれを求める想いが確かに我が内にはある。私はそれを持って今後も同じように日々の中の物事を拾い集めていくことだろう。