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尊さ

2006-08-04 01:51:18 | Weblog
命は本当に尊いものなのか。

命の尊さ、という言葉がある。漫画や小説なんかを読んでみれば腐るほど語られるフレーズだろう。私はこれに疑念を感じている。

別にその考え方を否定するものではないが、尊いとかなんだとかごてごてと飾り立てることに違和感を感じるのだ。はたしてそんな崇めたてるようなたいそうなものなのだろうか。

人間という生き物の倫理観からすれば無意味に生き物を殺すということは悪である。しかし食べるために牛や豚を殺すのは悪ではない。まぁこれもなんだかんだでよく言われることなのであえて何を言う必要もあるまい。

命が尊いとかいうのは無意味に何かを殺すこと、または人が人を殺すことを悪とするという倫理に基づいた言葉だろう。そこで不意に思ったのが、これはどちらが先なのだろうかということだ。

倫理に照らし合わせて悪であるから命を尊いと崇めるのか、命が尊いものであるから人を殺すのが悪であるのか。鶏が先か卵が先かという理論であるのだが、はたしてこの場合はどちらなのだろうか。

そうやって思考をつめていくと、人の理性の基本として同族殺しを良しとしないという基本概念があることに思い至る。殺人事件などに対する派手な報道を見ていて
、娯楽としての意味合い以外にその点があるのではないかと感じたのだ。

人間以外を殺すことは死というものにたいする基本的な恐怖や嫌悪が促すものでしかないと思えるので、わざわざ触れるほどのものでもないと思う。

ともあれ数多存在する動物を見てみると別段同族殺しというのはそれほど珍しいものではないと思う。共食いとなると餌がないゆえのことだろうからまた別種となるだろうが、縄張り争いなどの結果として同種族を殺す生物というものは確かに存在する。

もともと殺すために殺しているわけではないが、同族殺しを嫌悪して忌避しているということはあるまいと思う。他の動物の理性を人間とまったく同じ形式で当てはめること自体愚劣ではあるかも知れないが、そう考えることはまったくの見当違いということもあるまい。

少々脱線した感があるが何が言いたいかというと、人の理性の根源的な部分に同族殺しを避けようとする意識が存在し、それを確固たるものとしようとした結果として「命の尊さ」というものが生まれ出たのではないだろうか。

つまり命は別に尊いということはない。とまで言うといいすぎだが、理性という人を構成する基本的且つ根源的部分に根ざした、理性でありながらある種の本能である思考回路が訴えかける同族殺しを避けるべきという意識を飾り立てただけのことに過ぎないのではないか。

私からすると宗教的な印象を感じてしまった。人の精神の根源にある理解しがたいものにすがる気持ちや逆に恐怖心などを飾り立てたのが宗教の一面であると私は考えているので、そういう点では大差ないと感じるのだ。

命は尊いだなんだといってもっともらしいことを並べ立てたところで何のことはない、本能の訴えそのままではないか。まぁ私は生物学者でも心理学者でもないので理論的な穴はいくつもあるのだろうが、少なくともそんなご立派なお題目には何の意味もないと感じてしまうのだ。

命は尊いなどとわざわざお題目を唱える必要はない。命を消失させる、何かを殺すというのは人の理性の基本構造が訴える禁則事項であり、それゆえに実行すべきでない行動である。無味乾燥とし言い分だがそれで事足りるし、変に飾り立ててそれが美しいものであるかのように見せかけて重要な本質を見失うようにするべきではないと感じたのだ。