移日々之事物

気になったこととかに関する戯言とか

悪人ですか、善人ですか?

2006-08-08 20:03:38 | Weblog
先日知人にこんな問いかけをしてみた。
「○○さんは自分が善人だと思いますか? それとも悪人だと思いますか?」
そのときなんとなく思いつきで言ったんですが、言われたほうはずいぶんと戸惑っていました。

普通生きている中で自分が善人か悪人かなんてそうそう考えません。実際その知人も何で突然そんなことを言い出したのかとか、いつもそんな変なことを考えてるのかとか言ってきました。思いつきで言っただけですが、まぁ一般的に変と言えてしまう様なことをつづっている最近の内容を顧みるといつもではないにしてもよくそういったことを考えているのは否定できません。

それはともかく何とはなしに口にしたこの質問ですが、以外と答えが出しにくいなと思いました。本人としてどう思っているかはともかく、どちらと答えたとしても素直な受け止め方をされにくいかな、と。

善人と自ら言ってしまうような人はえてして信用しがたい人が多く、また恥を知らないと相手に受け止められてしまいそうな感じがします。悪人と自分の事を言う人はやはり良い印象はなく、さらに言うと今の世の中の風潮では悪ぶって格好つけていると思われかねないという点もあるでしょう。

知人はどちらかといえば善人だと思う、という曖昧な答え方で逃げてくれました。おそらくは多くの人が同じように「どちらかといえば~だと思う」というような答え方をするでしょう。

日本人というのは曖昧さを尊重するものですから、そういった意味では別に悪い印象は与えないでしょうが、でもそう答えるということは自分というものに思いをめぐらすことが少ない証であると感じて、私的には考えることをしない人という感じがしていい感じがしません。そんなことに考えをめぐらす私であるが故の感じ方でしょうがね。

悪人だ善人だというのは他者から見て判断されるべきことで、自分で考えることではありません。大多数の存在が決定する倫理観によって他者が決定するものです。自分が自分のあり方の善悪を決定してもそれが他者に受け入れられることはなかなかないです。そうでなければ法律とか意味が無いですからね。盗みを働いてそれが私にとっての善行ですとか主張しても受け入れられるわけがないんですから。

そういう意味ではこの質問には何の意味もありません。しいて言うなら自分というものをどの程度理解しようとしているかという、その人の在り方を探るという悪趣味なものです。

では質問することが無意味でも、それを自身で考えようとすることは無意味でしょうか? 私はそう思いたくありません。

自分が善人だろうが悪人だろうが、それを自分で判断する意味はなくともそれを探ろうとすることで自分というものに対する理解を深めれば、相対的に他者をも理解しようとすることに繋がります。その判断基準を他人にゆだねることを考えているのですから、自分自身のことを思考していても突き詰めていく中で他人という存在がその中に絡んでくるはずなのですから。

ちなみに私は自分を悪人だと思っています。別に重犯罪をしたことはないですからそういった点において社会的悪人ではないのですが、自身の望みを本当に満たすためならば手段を選ぶべきではないと本気思っています。例え他の人に傷を負わすことになっても自身の渇望を満たすのに必要ならばそれを躊躇ってはならないと思っています。このあたりについては本日の御題とは関係ないので細かいところは省きますが、こういった考え方が社会的に否定されるべきものだとは理解してますんで、自分は悪人なんだろうと思っています。

さて、本日の駄文を締めくくるのにふさわしいのはこれでしょう。はたしてこれを読んでくれた奇特なあなたはどちらでしょうか。
「あなたは善人ですか? 悪人ですか?」