とんびの視点

まとはづれなことばかり

子どもたちのこと

2017年04月19日 | 雑文

あっという間に4月も残りも10日ちょっとになった。桜の花が散り、葉を茂らせるようになると、東京にも緑の面積が増える。このところ3日ほど25°を越える日が続いている。初夏を思わせる日々だ。毎年、ゴールデンウィークにはこんな感じの日があるが、いつもより早い気がする。

そんな緑の中、今朝は土手を7kmほどランニングをした。ジョギングではなくランニングだ。久しぶりに、本当に久しぶりに「走っている」という感覚を味わえた。あとはこれで腰痛が悪化しなければよい。そうすれば少し走り込むことが可能になる。汗とともに悪いものも流れ出るし、体重も落とせる。

小学校のことと中学校のことを書こうと思う。どちらも多少、批判めいた感じになるが、誰かを責めたいわけでもなく、自分が正しいと言いたいわけでもない。現状の確認と、それに対しての疑問を記しておきたい。

まずは小学校のこと。

先日、小学校の保護者と久しぶりに話をした。聞いてみると、今年度から小学校は規則が厳しくなったそうだ。筆箱はみんな四角い形のものにするとか、持ってきてよいペンはこれとこれとか、62個も規則ができたと言っていた。確かに、学校としてはルールが決まっていると指導がしやすいだろう。基準が曖昧だったり、学年ごとクラスごとに基準が違っていたら、生徒も先生も面倒が増える。

しかし、ルールを決めることと、全員の持ち物が均一化されることは違う。勉強に支障のないかぎり筆箱は自由なものでよい。そういう基準を明確にし、学校全体に徹底させてもよい。みんないろいろな筆箱を持ってくることだろう。人によっては勉強に支障があるように見える筆箱を持ってくる生徒もいるかもしれない。でもそれはどうしても避けなければならない問題ではない。

まずは本人に、その筆箱が勉強に支障がない理由を尋ねればよい。その説明に教員や他の生徒が納得すればオーケーだ。納得いかなければ、なぜ支障がでるのか生徒に説明すればよい。そういうやり取り自体が、教員と生徒の考える力、説明する力、対話する力などを養うはずだ。もちろん、それなりの労力がかかる。しかし得るものも多いはずだ。何よりも基準を明確にすることで、多様性が生まれるのはよいことだ。

日本では基準を明確にすることは、均一で同質なものを生み出すことだと思っている人が多いようだ。みんなが同じ服装を着て、みんなが同じ髪形をして、みんなが同じ持ち物を持つ。そういうものが持つある種の好印象は否定しない。しかしこれは同調圧力を生み出す。マイノリティーを排除する傾向を生み出す。だとすれば、均質で同質なものを生み出すルールは何のためなのだろう。

言われたことに従う人をつくり出すためという明確な目的があるならわかる。少なくとも目的・手段関係は成立している。しかし、それが日本社会に必要な教育か否かは別問題だ。また、そのようなやり方で子どもたちに、考える力、説明する力、対話する力を求めるのは止めたほうがよい。ダブルバインド的な状況を作り出すだけだろう。

均一で同質なものを求める理由が、教員の管理や評価のしやすさ、あるいは細かいやり取りを避けるためというなら、それは子どもたちの教育とは別の問題だ。管理する側が効率的に仕事を進めるためでしかない。そしてその結果、生徒たちはある種の力を身に付けることができないままに大人になる。

こう書くと学校批判になってしまう。しかし2年間、わりと近くで先生たちとやり取りしていた実感からすると、そんな単純な話ではない。学校現場で何らかのやり方が選ばれるには、その学校の教員たちだけの決定ではない。1つには文科省をトップとする教育行政からのさまざまな要求が現場にきているからだ。現場としては(トップほど)そう簡単にそれを無視することはできない。(だから今後の道徳教育はきちんとウォッチしなければならない)。

そしてもう一方には保護者がいる。保護者に限定したことではないが、現在の日本人には消費者マインドがかなり浸透している。支払ったものに対して正当なサービスを受ける権利があるという感覚だ。じっさい保護者からは「なぜ、うちの子どものクラスにはあの問題児がいるの。クラスを換えてくれ」「なぜ、妊娠している先生を担任にしたの。子どもに不平等だ」などのクレームがきたりする。

学校現場に求められているのは、行政にも保護者にも分かりやすく、そのうえ満足できるアウトプットを示すことだ。だとすると子どもたちに均一で同質なものを求める基準を作ってしまうのも自然なことだ。(僕の嫌いな「こうなります」だ。)取り組みも明確だし、アウトプットも見えやすいし、評価も理解されやすい。さまざまな立場から出てくる問いに対して、一応、説得力ある答えにはなっている。学校現場はきっとそんな答えを模索しているのではないかと思う。(その中で各人の意識する先が「行政」「学校」「生徒」「保護者」とわかれ、さらに取り組みの姿勢に差が出るから現場も一枚岩になりにくい。)

大切なのは、その説得力のある答えが「正解」ではないかもしれないと自覚していることだ。現場の事情から導き出された最適解は、必ず現場の事情に引きずられている。つまりその答えは、考えを止めるゴールではなく、そこから考え始めるための暫定的なものでしかない。では、何に照らして暫定的な答えを測るのか。それは「子どもたちをこういう大人に育てよう」という理念だ。

自分より相対的に強い相手の言うことに、何の疑問も持たない。自分の意見も持たず、ただ、ただ従順な人間を育てたいのか。誰に対しても相手の話をよく聞き、疑問があれば丁寧に問いかけ、そして自分の意見も言う。そして対話を通して現状をより良いものにしていくような人間を育てたいのか。文科省は(というか現政権は)明確にそのビジョンを持っている。教育現場も多くは理想を持っているだろう。保護者もそれぞれ考えている。この三者がうまくやり取りをしていかないと、そのしわ寄せは子どもたちにいくだろう。

せっかく、たまたまこの時期にこの日本に生まれてきた子どもたちだ。できるなら、よい人間に育って生きていけるように、大人たちがそれなりの労力を注ぎ込むべきなのだ。