この間の水曜日の夜、そう、台風の日。仕事帰りで渋谷駅に向かうと、人々が道玄坂から三軒茶屋方面に歩いて行く。電車が動いていないのだ。電車が止まり、人々が歩いて帰宅する。今年、2度目だ。異常事態というより、ちょっとだけ見慣れた風景に感じる。
電車に乗るために地下に降りる。まぶしいほどの光だ。震災前の明るさだ。空間の隅まで光を行き届かせ、均一な明るさを保とうとしている。陰影がない。薄っぺらな感じだ。とくに震災、節電を経験したあとだと、ちょっとだけうんざりする。
ドジョウを自称する首相が「今年の夏は我慢の節電であった。そんな我慢を皆さんに強いずにすむために原発を再開していく」というようなことを言ってた気がする。
『我慢はそんなに悪いことなのだろうか』
テレビを見ていたら、「画面の前から人がいなくなったら自然にテレビが切れる」というようなコマーシャルをしていた。「便利で賢い」というようなことを言っていた。賢いのは人間なのかテレビなのか。
「我慢をいやがる気持ち」と「人がいなくなったら自然に切れるテレビ」、どちらも同じだ。何も気にすることなく思い通りに振る舞っていたいという気持ちが通底している。そしてその思いはこの社会全体を覆っている。(「覆っていた」と数十年後には言われるようになるかもしれない)。
我慢しなくてよい社会。たとえばそれは電気を好き勝手に使える社会だ。人のいないところで電灯がついていようとも、エアコンがついていようとも気にする必要のない社会だ。そのために原発が必要とされた。
原発に問題が発生すると、今度は「人がいなくなると自然に切れるテレビ」だ。電気の消費量を減らすという意味では、原発への依存度を減らす方向にある。でも、自分が何も考えないで好き勝手に振る舞っていても問題が発生しない(=テレビが勝手に切れて、電気を節約できる)という点では、電気を好き勝手に使っているのと同じだ。
どちらも外界との微妙な対話をしようとしない。使える電気が限られていれば、使い方を考える。外界をよく見て、必要な場所に必要な量だけ使うようにする。テレビが自然に消えなければ、テレビが無駄についているのかを気にするようになる。
こういう外界との微妙な対話により自分たちの在り方を作り直す、ということが震災後の問いだと考えている。個人的には原発は反対だが(核廃棄物処理の方法が確立されていないし、事故が起こった時のリスクが大きすぎる)、僕が根本的な問題だと思うのは、外界との微妙な対話である。
外界とは、自然でもあるし、他者でもある。電気を好きなだけ使える、テレビが勝手に切れる。何も考えなくて良い。何も我慢しなくてもよい。欲望のままに要求していられる世界だ。みんなで汗水垂らして、そういう世界を作ろうとしている。
地震、津波という自然との微妙な対話をしていたのだろうか?自然を予測可能な操作対象としていたのではないか。相手の言葉を聞かずに、一方的にこちらの欲望だけを言い続けてきたのではないか。
自然を無視してきたから天罰が下った、などと言おうとしているのではない。無視しようがしまいが、地震や津波という自然現象は起こる。ただ対話を心がけているかどうかで、それがただの自然現象なのか、天災なのか、人災なのか分かれる。
自然だけではない。他者との対話、自己との対話も同じようなものだ。対話をないがしろにしていると、相手はより大きな声で呼びかけてくる。 相手の小さな声に気づけなくなり、気づいたときには相手は大声で怒鳴っていることになる。
小さな声を聞き取るには『我慢』が必要なのだ。台風の風の大きな音を聞きながらそんなことを考えた。
電車に乗るために地下に降りる。まぶしいほどの光だ。震災前の明るさだ。空間の隅まで光を行き届かせ、均一な明るさを保とうとしている。陰影がない。薄っぺらな感じだ。とくに震災、節電を経験したあとだと、ちょっとだけうんざりする。
ドジョウを自称する首相が「今年の夏は我慢の節電であった。そんな我慢を皆さんに強いずにすむために原発を再開していく」というようなことを言ってた気がする。
『我慢はそんなに悪いことなのだろうか』
テレビを見ていたら、「画面の前から人がいなくなったら自然にテレビが切れる」というようなコマーシャルをしていた。「便利で賢い」というようなことを言っていた。賢いのは人間なのかテレビなのか。
「我慢をいやがる気持ち」と「人がいなくなったら自然に切れるテレビ」、どちらも同じだ。何も気にすることなく思い通りに振る舞っていたいという気持ちが通底している。そしてその思いはこの社会全体を覆っている。(「覆っていた」と数十年後には言われるようになるかもしれない)。
我慢しなくてよい社会。たとえばそれは電気を好き勝手に使える社会だ。人のいないところで電灯がついていようとも、エアコンがついていようとも気にする必要のない社会だ。そのために原発が必要とされた。
原発に問題が発生すると、今度は「人がいなくなると自然に切れるテレビ」だ。電気の消費量を減らすという意味では、原発への依存度を減らす方向にある。でも、自分が何も考えないで好き勝手に振る舞っていても問題が発生しない(=テレビが勝手に切れて、電気を節約できる)という点では、電気を好き勝手に使っているのと同じだ。
どちらも外界との微妙な対話をしようとしない。使える電気が限られていれば、使い方を考える。外界をよく見て、必要な場所に必要な量だけ使うようにする。テレビが自然に消えなければ、テレビが無駄についているのかを気にするようになる。
こういう外界との微妙な対話により自分たちの在り方を作り直す、ということが震災後の問いだと考えている。個人的には原発は反対だが(核廃棄物処理の方法が確立されていないし、事故が起こった時のリスクが大きすぎる)、僕が根本的な問題だと思うのは、外界との微妙な対話である。
外界とは、自然でもあるし、他者でもある。電気を好きなだけ使える、テレビが勝手に切れる。何も考えなくて良い。何も我慢しなくてもよい。欲望のままに要求していられる世界だ。みんなで汗水垂らして、そういう世界を作ろうとしている。
地震、津波という自然との微妙な対話をしていたのだろうか?自然を予測可能な操作対象としていたのではないか。相手の言葉を聞かずに、一方的にこちらの欲望だけを言い続けてきたのではないか。
自然を無視してきたから天罰が下った、などと言おうとしているのではない。無視しようがしまいが、地震や津波という自然現象は起こる。ただ対話を心がけているかどうかで、それがただの自然現象なのか、天災なのか、人災なのか分かれる。
自然だけではない。他者との対話、自己との対話も同じようなものだ。対話をないがしろにしていると、相手はより大きな声で呼びかけてくる。 相手の小さな声に気づけなくなり、気づいたときには相手は大声で怒鳴っていることになる。
小さな声を聞き取るには『我慢』が必要なのだ。台風の風の大きな音を聞きながらそんなことを考えた。