とんびの視点

まとはづれなことばかり

我慢も必要だ

2011年09月25日 | 雑文
この間の水曜日の夜、そう、台風の日。仕事帰りで渋谷駅に向かうと、人々が道玄坂から三軒茶屋方面に歩いて行く。電車が動いていないのだ。電車が止まり、人々が歩いて帰宅する。今年、2度目だ。異常事態というより、ちょっとだけ見慣れた風景に感じる。

電車に乗るために地下に降りる。まぶしいほどの光だ。震災前の明るさだ。空間の隅まで光を行き届かせ、均一な明るさを保とうとしている。陰影がない。薄っぺらな感じだ。とくに震災、節電を経験したあとだと、ちょっとだけうんざりする。

ドジョウを自称する首相が「今年の夏は我慢の節電であった。そんな我慢を皆さんに強いずにすむために原発を再開していく」というようなことを言ってた気がする。

『我慢はそんなに悪いことなのだろうか』

テレビを見ていたら、「画面の前から人がいなくなったら自然にテレビが切れる」というようなコマーシャルをしていた。「便利で賢い」というようなことを言っていた。賢いのは人間なのかテレビなのか。

「我慢をいやがる気持ち」と「人がいなくなったら自然に切れるテレビ」、どちらも同じだ。何も気にすることなく思い通りに振る舞っていたいという気持ちが通底している。そしてその思いはこの社会全体を覆っている。(「覆っていた」と数十年後には言われるようになるかもしれない)。

我慢しなくてよい社会。たとえばそれは電気を好き勝手に使える社会だ。人のいないところで電灯がついていようとも、エアコンがついていようとも気にする必要のない社会だ。そのために原発が必要とされた。

原発に問題が発生すると、今度は「人がいなくなると自然に切れるテレビ」だ。電気の消費量を減らすという意味では、原発への依存度を減らす方向にある。でも、自分が何も考えないで好き勝手に振る舞っていても問題が発生しない(=テレビが勝手に切れて、電気を節約できる)という点では、電気を好き勝手に使っているのと同じだ。

どちらも外界との微妙な対話をしようとしない。使える電気が限られていれば、使い方を考える。外界をよく見て、必要な場所に必要な量だけ使うようにする。テレビが自然に消えなければ、テレビが無駄についているのかを気にするようになる。

こういう外界との微妙な対話により自分たちの在り方を作り直す、ということが震災後の問いだと考えている。個人的には原発は反対だが(核廃棄物処理の方法が確立されていないし、事故が起こった時のリスクが大きすぎる)、僕が根本的な問題だと思うのは、外界との微妙な対話である。

外界とは、自然でもあるし、他者でもある。電気を好きなだけ使える、テレビが勝手に切れる。何も考えなくて良い。何も我慢しなくてもよい。欲望のままに要求していられる世界だ。みんなで汗水垂らして、そういう世界を作ろうとしている。

地震、津波という自然との微妙な対話をしていたのだろうか?自然を予測可能な操作対象としていたのではないか。相手の言葉を聞かずに、一方的にこちらの欲望だけを言い続けてきたのではないか。

自然を無視してきたから天罰が下った、などと言おうとしているのではない。無視しようがしまいが、地震や津波という自然現象は起こる。ただ対話を心がけているかどうかで、それがただの自然現象なのか、天災なのか、人災なのか分かれる。

自然だけではない。他者との対話、自己との対話も同じようなものだ。対話をないがしろにしていると、相手はより大きな声で呼びかけてくる。 相手の小さな声に気づけなくなり、気づいたときには相手は大声で怒鳴っていることになる。

小さな声を聞き取るには『我慢』が必要なのだ。台風の風の大きな音を聞きながらそんなことを考えた。

朝ラン、夕ラン

2011年09月17日 | 雑文
今日は久しぶりにゆっくり眠った。予定していた朝一番の用事がなくなったので朝の8時すぎまで眠れた。ここのところ早起きが習慣化し、目覚ましがなくても5時半に目が覚めるようになっていた。眠ろうと目をつぶっても眠れない。仕方がないのでぼーっとした頭と、だるい体でランニングをする。平日はそれほど早い時間に眠れるわけではない。寝不足にもなる。当然、疲れがたまってくる。

今朝、目覚めたとき、久しぶりにゆっくり眠った気がした。家の中を掃除し、遅めの朝食を取り、録画していた日本vsニュージーランド戦を見る。もちろんラグビーの話だ。日本がワントライ取り、失点が40点以内なら大勝利だと思っていたが、やはり無理だった。日本が主力を温存したとは言え76点も差をつけられてはまずい。それにしてもラグビーは実力差がはっきり出るものだ。

昼頃にスーパーと八百屋に相方と買い物に行く。昼食を取り、ゴロゴロしながら本を読むつもりがいつの間にか眠ってしまう。やはり疲れているのだ。目が覚めると夕方の5時。やれやれ、何もせずに一日が終わろうとしている。せめてランニングくらいはしよう。そう思う。

夕方の土手は久しぶりだ。朝とは違う心地よさがある。朝のランニングは未来に向かった感じだ。空気には騒々しさがないし、太陽も上昇していく、町を歩く人たちの服もくたびれていないし、走る人たちにも強い意志を感じる。まだエンジンのかかり切っていない自分の頭と体にムチを入れるという感じだ。そういうのも悪くないが、あまり続くと少し疲れてくる。

それに比べ、夕方のランニングは過去に向かった感じだ。一日も終わりに向かっている。太陽も西の空に沈もうとしている。空気には町の喧騒が残っているが、それが少しずつゆるみ始める。犬を連れて土手を歩く人たちも、子どもと一緒に自転車に乗っている人たちも、どことなくゆったりとしている。走りながら思うことは、今日起こった出来事や、もう過ぎ去ってしまった出来事。

風が吹き柳が揺れる。その風は昼間の熱気をわずかに残しながらも、僕の肌に涼しさを運んでくる。そして川面を揺らす。草むらからは秋の虫の声が聞こえる。何度も、何度も、こういう土手を走ったことがある。そういう過ぎ去ったはずの出来事を再び繰り返す。

少しずつ、あたりが暗くなってくる。遠くを走る人たちの輪郭がだんだんと見えなくなる。荒川沿いの首都高に等間隔に外灯がつく。少しだいだい色っぽいぼんやりした光が並ぶ。明りを反射したトラックが走る。運転手の人生と土手を走る自分の人生に思いを馳せる。

土手のいちばん高いところを走る。左右に町が大きく広がる。そこここに灯がともっている。村上春樹の『風の歌を聴け』の言葉を思い出す。たしか、街にあるたくさんの灯の1つ1つの下で本当にいろんな人たちが生きているのだ、といった類いの言葉だ。

夕方のランニングではいろいろなことを思う。朝のランニングとはかなり違う。朝のランニングは余計なことが起こらないような状態を作り出すランニングだ。夕方のランニングは起こってしまった出来事をしかるべき場所に帰してあげるランニングだ。走りながらそんなことを思う。コウモリがたくさん飛んでいる。


すっかり忘れていた

2011年09月12日 | 雑文
しばらくのあいだブログを書く気にならなかった。書かねばと思いつつサボってしまうことはしょっちゅうだが、今回は「書かねば」という気持ちもほとんど起こらなかった。「何故だろう」とちょっと考えて、早起きランニングのせいではないかと思い至った。

僕の場合、ランニングの走行距離とブログの更新頻度には関連がある。走っているときにはブログは更新されるが、走っていないときにはブログは更新されない。これまでは自宅で仕事をしているときなど、午前中は仕事をしてふるに頭を使う。そして頭がいっぱいになった午後にランニングをしていた。そうすれば、走っているあいだに頭の中で問題点が整理される。おまけに、いろいろ気になったことや気づいたことが言葉になり、それがブログになったりした。

ところが早朝のランニングはそうは行かない。眠さで頭は薄ぼんやりしている。考える材料も詰まっていない。ただ、ただ、重い体を引きずるようにして走る。外界に対するアンテナの感度も悪くなっている。光や風の変化、川面の様子、土手の植物など、世界の細部に目が届かない。こわばった体をほぐすように、1歩、1歩、足を前に出すだけだ。走り終われば頭がすっきりする。でも、かかっていた「もや」が晴れて、空っぽな頭が姿を現すだけだ。

あまりに空っぽなので、「ブログを書かねば」という言葉も浮かばない。言葉が浮かばなければ「あせる」こともない。「あせり」がなければ平穏な日々が続く。そんなわけであっという間に日が過ぎてしまった。(そう考えると、早朝ランニングを続ける限り、ブログを書くためには今までとは違ったシステムを用いなければならなくなる。ちょっと考えよう)。気持ちとしては、このまま書かずにいても大丈夫なくらいだが、それもまずかろう。おざなりに書こう。

とりあえず、ランニングは12日現在で95km。今月の目標は180kmなのですでに半分以上、だいぶ良い感じだ。自分をコントロールする力が戻ってきている。このまま少しずつ、力をつけていこう。あと1ヶ月もすれば、太陽も昇り切っていない土手を、少し肌寒い風を感じながら走るのかもしれない。秋の草にも茶色が混じる頃だろう。心地よさそうだ。近ごろはそんな日を想像しながらランニングをしている。

ラグビーのワールドカップが始まった。それほど試合を見るわけではないが、ラグビーはけっこう好きだ。あれだけ多様な体型をした人間たちが、1つのフィールドでゲームをしているのは不思議だ。それも1つの楕円のボールを追いかけて体を本気でぶつけ合う。体の大きな外国人のフォワード(2㍍近くあったりする)と日本人のスクラムハーフ(165㌢くらいだったりする)がぶつかったりすると、よく体が壊れないものだと感心する。

日本は残念ながら初戦をフランスに21-47で負けてしまった。途中、4点差まで追いついたのだが、後半25分あたりから一気に突き放された。それでも点差ほど一方的な感じはなかった。それどころか大健闘だ。過去の大会に比べれば日本はすごく成長したように感じた。

だいたい、ラグビーというのはサッカーと違って番狂わせというものはほとんどないらしい。サッカーなら日本(世界ランキング16位)がオランダ(1位)に勝つこともあるだろうが、ラグビーで日本(13位)がニュージーランド(1位)に勝つことは想像すらできない。日本が1つでもトライを取れて、30点差以内に抑えれば上出来かもしれない。ちなみに16日の深夜は、日本はニュージーランドとの第二戦。

日曜日には家族で広尾の山種美術館に『日本画どうぶつえん』という夏休み企画展を見に行った。新しく広尾にオープンした山種に行くのは初めてだが、以前と同様にこじんまりしていて、子どもにも耐えられる点数だ。テーマも動物なので分かりやすい。子どもたちも飽きずに楽しんでいた。それはともかく、僕は子どもをなるべく美術館に連れていくようにしている。そして、中学とか高校になって学校に行きたくないときは美術館に行くといいぞ、と言っている。子どもと一緒だとじっくりと絵を見られないが、絵を見ている子どもを見るのもなかなか楽しいものだ。

週末にはビデオで『南へ』を見た。野田秀樹の芝居だ。この芝居は本来なら劇場で見るはずだった。チケットもきちんと予約していた。日付は3月11日、そう震災の日だ。芝居としては今ひとつだった。話が難解で頭で理解しようとすると少し無理が出る。ただストーリーには力強さがあるので、俳優がきちんと演じてくれれば、頭の理解とは別のところで観客の心を大きく動かすことができる芝居だと思う。で、その俳優だが、主演が妻夫木聡と蒼井優。

妻夫木君は堤真一のよくない部分だけ真似したような感じだった。声の出し方とかがまったく同じだった。(この2人は野田秀樹の『キル』という芝居で、別の時期に主演をしている)。妻夫木君は狂気的な感じがなくてツルンとしていた。蒼井優は頑張っていた。思ったより体が動くし、精一杯演じていた。でもちょっと力不足。彼女がセリフをしゃべると空間が彼女の周りにぐーっと小さくなってしまうのだ。劇場全体を自分の空間にできるようにならないと、観客の心を引き込むことはできない。(藤原竜也と宮沢りえが主演だったら凄いことになっていたかもしれない)。

この『南へ』という芝居は、地震のシーンで芝居が始まる。地震と富士山噴火、それを観測する人間(=日本人)がテーマの1つだ。舞台上で椅子や大道具をガタガタ震わせて「地震だーっ」というようなセリフが出てくる。芝居の細かい筋よりも、この時期に「地震」が出てくる芝居をやっていたことに驚いた。そして芝居の中で描かれる日本人のダメさが、震災への対処を巡っての日本人のダメさと見事に重なった。同じセリフが震災前と後では違う響きを持ってしまう。芸術家としての野田さんの凄さを見た気がした。

さてさて、今日は満月である。思いのほか精神状態は落ち着いている。僕の中の狼男(コビトサイズ)はおとなしく眠っているようだ。これも早朝ランニングのおかげかもしれない。走ることで、過剰なエネルギーを朝のうちに消費しているのかもしれない。(僕の中の狼男も朝の散歩で土手を走っているのかもしれない)。そう言えば、近ごろ朝の電車の中で必ず居眠りしてしまうようになった。早起きランニングでいろいろ変わっているのかもしれない。