とんびの視点

まとはづれなことばかり

コロナと資本主義

2021年08月09日 | 時事
斎藤幸平さんの本などで、マルクスについてちょっとだけ学んでいる。
それによると、資本主義とは、社会のあらゆる「モノ」を「商品」に換えていく運動だそうだ。終わることなく「価値(利潤)」の増殖を続けていく運動。

すべてが「商品」に変わっていく社会。誰もが、何かを見たときに「これ売れないかな?」と考える社会。「もっと儲からないかな」と考える社会。それが資本主義社会だそうだ。

冷戦崩壊後、資本主義が世界中を覆った。それ以外のあり方など存在しないかのようだ。実際、多くの人たちが資本主義的な価値観や行動規範を内面化した。(そうしないと、生きていけないような状況が広まった。)

資本主義以外の社会を思い浮かべられないのであれば、社会はそのまま資本主義社会ということになる。疑うことの許されない、信じるべき、唯一の真理。

そんな中、社会や世界のあり方が脅かされたとする。それは自分や家族の生活や命を脅かそうとする。

当然のように、社会や世界を守らなくてはと、私たちは思う。自分や家族の生活や命を守るためにも。必死で、全力で。

ただその社会は、資本主義社会た。あらゆる「モノ」を商品に換えるような運動。その運動を維持する、いやそれ以上に拡大させることが、社会や世界を守ることになる。

コロナ禍と言われてだいぶ経つ。その中で、何人もの人から「コロナ禍を逆手にとってビジネスチャンスにする」という言葉を聞いた。

「コロナ禍」すらも「商品」に換えようとする。それは、あらゆる「モノ」を「商品」に換える資本主義としては当然の行為だ。コロナ禍に負けないというのは、コロナ禍においても資本主義を維持することになる。

なぜなら、資本主義社会こそ唯一の社会だからだ。資本主義を守ることで、世界や社会を維持し、自分や家族の生活や命を守ることが出来る。

そう考えると、コロナ禍での対策の多くが経済対策だったことに納得がいく。資本主義以外の社会が想定されていれば、人命優先ということも考えられるだろう。

しかし、社会とは資本主義しかないのであれば、資本主義が崩壊することは社会が崩壊すること、すなわち人が生きる器そのものが無くなることだ。それは恐怖以外の何ものでもない。

コロナが治って資本主義が崩壊する。コロナが治らなくても資本主義が繁栄する。非現実的な二択だが、そんな二者択一が行われているような気もする。

生産性、という違う角度からの言葉を持ち込めば、生産性のない人はコロナが治らなくても構わない。なぜなら「価値(利潤)」の増殖に役立たないから、ということになる。

世界的な気候変動、富の一極集中、過度な開発による感染症の多発。資本主義をこのまま続けるのは無理だろう。
人は生産性で測られるべきでいない。少しくらい鈍くさくても、まじめに額に汗して働いていれば、笑顔でいられる。そんな社会がよいと思う。

大したことは出来ないけれども、まあ、行けるところまで、行くしかないだろう。
明るく、笑顔で。

「なっている」のではありません

2017年02月25日 | 時事
「なる」という言葉が嫌いだ。べつに「なる」という言葉自体を嫌っているのではない。日常での使われ方がとても気になる。「なります」「なっています」「なりました」。いろんな出来事が、これらの言葉で説明されている。「なっている」って、べつに自然現象じゃないでしょ。誰かがそう「決めた」んだし、あなたがそう「行って」いるんでしょ。そう言いたくなることがある。

「なる」。広辞苑にはこうある。現象や物事が自然に変化していき、そのものの完成されたすがたをあらわす。

ポイントはふたつだ。人の手が加わっていないこと。そして、完成されたすがたであること。「なります」は、これから物事が変化して自然と完成したすがたになること。「なっています」は、物事が変化して自然と完成したすがたになりつつあること、あるいはすでにそうなっていること。「なりました」は、物事が自然に変化し完成した姿にすでになったこと。

いずれにせよ「なる」という言葉は、人が事象や物事の変化には関われないこと、そして、それが完成したすがたであることを示す。

だから、出来事を「なります」「なっています」「なりました」と説明されると、そのプロセスにも関与できないし、その完成したすがたを決めることもできない。私たちはそんな無力感を持つことになる。もちろん、ふたたび巡ってきた春に咲いた桜や、夏の雨降りの後のアスファルトのにおいを語るとき、「なる」という言葉を使うのはよい。しかし、いつ、誰が決めたのかわからない無意味なルールや、目の前の行動の根拠を尋ねた時に、「なっています」というのは思考や責任の放棄といえる。

山本七平の『空気の研究』でも知られているが、第2次世界大戦後に連合国が戦時日本の指導者たちを取り調べたところ、誰一人として「自分が戦争を決定して、遂行した」という人はいなかったそうだ。私としては内心は反対だったのですが、反対できる空気ではなかったのです。みんなそんな感じのことを言ったそうだ。誰一人として自分が決定したという人間がいない。そして日本人だけでも三百万人もの人が死んだ。(この日本人というのは、当時の日本人すべてのことなのだろうか。台湾人や朝鮮人は入っているのだろうか)。

山本七平はそこから「空気」という言葉を使ったが、やはりこれも「なっている」の典型だ。戦争に「なり」そうな雰囲気に「なって」いるから、自分には何も出来ない。「なる」というのは、物事が自然に変化して、完成したすがたをあらわすものだからだ。しかし戦争は人の行うことだ。自然現象ではない。大きな流れが出来ていても、「行う」「行わない」をそれぞれが思考し、自己の責任で決定すべきなのだ。

「なっている」が危険なのは、力の弱いほうに圧力や強制力が向かっていくことだ。はじまることに「なった」戦争は、自然に変化しながら完成したすがたを目指す。「なった」ものだから、その「始まり」に人は関われない。しかし、その完成したすがたへ遂行には人は関われる。戦争に「なっている」のだから命がけでがんばれ。力の弱いものに圧力や強制力がはたらく。力の弱いものも、その圧力や強制力は「なっている」ものとして受け取る。そして内心は反対でも、実際に反対することはない。

「なる」という言葉は自然現象にだけ使うべきだ。人が関わっていることには極力「する」「行う」という言葉を使うほうがよい。四季の巡りは止めることは出来ない。そのように「なって」いるからだ。だから自然をいたずらに開発するのでなく、よく観察して持続可能な交流をするべきだ。しかし、人が「する」「行う」ことには、「しない」「行わない」という選択肢もあるのだ。まずは、その選択をしよう。人が「行う」ことを「なっています」と言ってしまうと、力の弱いものに圧力や強制力が向かってしまう。それはあまりよいことではない。

なぜ、この文章を書こうと思ったか。文科省の天下り問題へのメディアや国民の反応が気になったからだ。官僚が禁止されている天下りを、組織的に行っていた。つまり不正にお金を手に入れられる仕組みを作り、運用していたわけだ。人が行ったことだ。しかし、メディアなどがそれほど強く反発している感じはない。事実を淡々と伝えている。官僚ってそう「なっている」よね、そんな感じがする。その一方、ときおり話題になるのが生活保護の不正受給問題である。これにたいしては、悪いことを「行っている」人がいる。けしからん。そんな反発を感じる。天下りは「なっている」が、不正受給は「行っている」。なんかバランスの悪いことにな「なっている」。そんな感じを持つのは僕だけだろうか。

テロ等準備罪・共謀罪 どっちが嘘?

2017年02月12日 | 時事
アメリカ社会、荒れてますね。トランプ大統領が就任して、社会の分断が進んだようです。異なる意見がない社会は危険だ。しかし異なる意見が社会を分断するのも危険だ。異なる意見が対話できる。それが成熟した社会だろう。日本もあやうい状況だ。

たとえば、あなたが法案について賛否を尋ねられたとする。

一つ目は次のようなものだ。テロ組織などを対象にした法案で、国際組織犯罪防止条約の締結に必要なもの。組織が犯罪の計画と準備を行っていることが確認できれば、犯罪として処罰できる。この法律がないと東京オリンピック・パラリンピックが開けない。大切な法律だ。あなたは賛成するだろうか。テロは未然に防げそうだ。オリンピック・パラリンピックも開ける。悪い話ではない。そう思い、多くの人が賛成するかもしれない。

二つ目。治安維持法の現代版とも言える法案だ。治安維持法は、戦前、日本社会を戦争に向かわせるために効力を発揮した。権力が国民を監視し、思想・信条の領域に足を踏み入れてくる。思想や良心の自由を保証した憲法十九条に反する、違憲の可能性すらある。どうだろう。あなたは反対するだろうか。戦争に向かう社会はいやだ。自分がしていることを監視されるのもごめんだ。自由に考えること、何かを信じることを禁止する。まるで独裁国家だ。多くの人が反対するにちがいない。

もうわかっていると思う。二つは別々の法案ではない。一つの法案に対する二つの説明だ。いわゆる「テロ等準備罪」「共謀罪」。前者が安倍政権や与党の説明。後者が反対する野党の説明だ。この法案が今国会で成立するかもしれない。与党は衆参ともに過半数の議席を確保している。採決に持ち込めば数の力で通せる。安保法制のときを思い出そう。今回もかならずや強行採決をするだろう。

どこかで起こった地震や津波をテレビで見るように、拱手傍観していてよいのだろうか。「なりました」「なっています」。あらゆることを自然現象のように「なる」という言葉で語ってしまうのか。法律を作ることは、社会のルールを作ることだ。社会とは私たちの生活する時であり場である。自分が従うルールが作られようとしている。そのルールの内容や過程に関心をもたないのは「主」の放棄だ。民が「主」であることを放棄する。

民は仕事や日々の生活に忙しい。法案の内容を詳しく知り、国会の議論の矛盾をつくような時間はない。しかし十分な時間がないことを、何もやらない理由にしてはいけない。憲法十二条。この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。この言葉、真に受けてみるのもよいだろう。自分たちの社会のルール作りに関心をもってよい時節だ。

関わろうと決めることで、私たちは選択を迫られる。法案に賛成するのか反対するのか。でも、その説明は政権と野党ではまったく異なる。すべてを理解するほど時間はとれない。中身がわからない中で選択を迫られる。中身がわからなくても賛成する。それは安倍政権の言葉を鵜呑みにすることだ。中身がわからないのに反対する。それは反対する野党の言葉を鵜呑みにすることだ。前者は安倍政権を信じていると言うかもしれない。後者は安倍政権を信じられないと言うかもしれない。「信じる・信じない」という言葉を使うことをやめよう。思考を放棄することになる。

ニュースなどで議論を追いかけるのは必要だ。しかし複雑な内容や意味不明なやり取りに引きずられ、うまく考えられないかもしれない。「信じる・信じない」で決めつけるのでもない。すべてを理解してから判断するのでもない。そのあいだに市井の民ができることはないか。不断の努力が少しでもできるような何かだ。

安倍政権については次の言葉が本当か調べてみよう。「テロ等準備罪がなければ、国際組織犯罪防止条約を締結できない」「この法律がなければ東京オリンピック・パラリンピックが開催できない」。テロ等準備罪がなくても、国際組織犯罪防止条約を締結できるなら、安倍政権は嘘をついていることになる。この法律がなくてもオリ・パラが開催できるなら、安倍政権は嘘をついていることになる。

野党側については三つだ。テロ等準備罪が治安維持法につながるようなものか。つながらないなら嘘になる。憲法十九条に反する違憲立法と言えるものか。言えないなら嘘をついたことになる。権力が国民を監視することになるか。ならないなら嘘になる。

これだけ両者の説明が異なる。どちらかが嘘をついているはずだ。あるいは真実を述べていないと言ってもよい。(もう一つの真実を述べているといってもよい。しかしそうなると、それはトランプのアメリカと同じ社会だ)。最初の言葉で真実を述べない人は、他の発言も同じように真実を述べていないはずだ。そう推論するのが思考というものだ。

日々の瑣末な議論に惑わされてはダメだ。まずは最初の説明の言葉をしっかり吟味する。そして嘘があれば、声をあげよう。そんな不正義を日本社会や日本人は好まないのだと。武士道に反すると。ぜんぜん美しくないと。

共謀罪つきのオリンピックはいらない

2017年01月29日 | 時事
「共謀罪」が話題になっている。今国会のひとつの焦点だろう。政府与党側は「共謀罪」ではなく、「テロ等準備罪」と名前を変えているようだが、名前を変えれば良い、というものではない。小学生のころ掃除をやらない同級生に担任は「きみを掃除大臣にしよう」といった。同級生はにんまりと喜び、ほうきを取りに行った。騙されやすいヤツだった。「よかったテロから守られる」、私たちはにんまりしてオリンピックを楽しめばよいのか。

安倍政権になってから、日本を変える動きが続いている。それ自体を否定するつもりはない。意志にもとづいて何かを行おうとしているだけだ。もちろん、それが違憲、違法ならダメだ。しかし虚偽や隠蔽、不誠実な言動などは、人によって見えるものが違う。なんとも言えない。個人的には、安倍首相の言葉を軽視する姿勢は、危ないものだと思っている。

「云々」を「でんでん」と読んだ件ではない。ある種の脱力感はあるが、漢字を読む力はそのくらいだと思っていた。きちんと官僚がルビをふっていればよかったのだ。今後はそうするだろう。僕が危ないと感じるのは、「TPPに反対などとはいちども言ったことはない」とか「汚染水は完全にブロックされている」などの言葉だ。

僕が子どものころは、いまよりは牧歌的で「勉強が出来なくてもよい。でも人に嘘をついたり、人が嫌がることをしたりしてはいけない」と言われたものだ。汚染水に関しては安倍氏も調べることはないだろうから、誰かにそう教えられているのかもしれない。でも「TPP」は違う。『ウソつかない。TPP断固反対。ブレない。日本を耕す!!自民党』などの反対ポスターがあった。

事実に反する言葉、つまり嘘をつかれると困る。どんなに良い言葉を聞いても、疑わなくてはいけなくなるからだ。自分自身を疑ったり、何がものごとの真実なのか疑うことは良い。でも、嘘を言っているかもしれないと人を疑うのは気分の良いものではない。とくに、影響力のある人がそういうことをすると社会が危ういことになる。

言葉が信じられないと、目の前の出来事しか目に入らなくなる。テーブルにケーキが2つある。あなたはお腹がいっぱいで、ちょっと買い物に行かねばならない。私に「あとで食べるから取っておいて」という。私は「ああ、取っておくよ」と答える。あなたが家を出た瞬間に、私はあなたのケーキを食べる。買い物から帰ったあなたは私に文句をいう。私は「ケーキを食べないなどとはいちども言ったことはない」と言い返す。

それ以後、あなたは私の言葉を信じるだろうか。無理だろう。あなたはケーキを持って買い物に行くか、満腹でもケーキを食べてから買い物に行かねばならない。これは良い関係とは言えない。社会全体がそんな状態になったとしたら、とても危ういことだ。

話を戻そう。安倍政権になってから、特定秘密保護法が成立し、安保法が成立し、そして今度は「共謀罪」だ。その先には「憲法改正」を狙っているだろう。いずれも日本社会を大きく変えるものだ。でも、安倍政権は変えようとしているだけだ。それに賛成する人がいるから、あるいは反対する人がいないから、だから変えることができるのだ。

法律が変わっても社会は一気に変わらない。だから多く人にはピンと来ない。法律が変わるというのは、とりあえず言葉が変わることでしかない。今までの法律の言葉がなくなる、書き変わる、新しい言葉が付け加わる。それだけのことだ。衆参両院で法案が可決されても、その瞬間、目に見えて何かが変わるわけではない。おまけに法文は読みにくい。時間があっても素人には簡単には読めない。法文そのものが難解なのに、それに合わせて社会がどう変わるか想像するのは困難だ。だから、私たちは立法とうまく関われないままになる。

どんな法律に変わったのか、どんな法律ができたのか。私たちはその中身を理解していないので、実際的に社会が変化しても、社会の変化を法律と結びつけて考えることが出来ない。何か違和感があってもその根拠となる法律に意識が向かうのではなく、違和感を引き起こす現象に感情的に引きずられる。生活保護の不正受給問題などにも、同じような構造が見て取れそうだ。

憲法も法律も日本の骨格を作る大切なものだ。骨格に合わせてしか肉はつかないし、服を着たり、装飾をすることもできない。また、バランスの取れた骨格を作らなければ、高いパフォーマンスを発揮する鍛えられたしなやかな身体にはならない。その骨格が大きく変わろうとしているのかもしれない。そういう時くらいは、誰もが立ち止まって考えるべきなのだ。

「共謀罪」は大きな変化だ。報道ランキングが世界で72位になったとは言え、メディアも取り上げる。(問題は取り上げ方だ)。さすがに私たちと関係のないままには法律を成立させることは出来なそうだ。そう、政権側はこの法律を私たちと結びつけてくれている。「この法律(共謀罪)がなければ、オリンピック・パラリンピックが開催できない」と。

「共謀罪がなければ、オリンピック・パラリンピックが開けなくなる。それでもよいのか?」。そう私たちに問うているのである。この問いはおそらく嘘だろう。(そんなに重要な法律なら、招致するときに必要なはずだ)。しかし、いまのメデイア状況では「共謀罪とオリ・パラ」はセットの問題として語られるだろう。

人々がセットだと思い込めば、「オリ・パラのためには共謀罪は仕方がない」という答えが増える。そういう狙いがあるのだろう。もちろん「共謀罪はいやだから、オリンピックもパラリンピックもいらない」という答えもある。

私たちが突きつけられている問いは、以下のようになる。
①オリンピック・パラリンピックを開催するためには共謀罪も成立させる
②共謀罪を成立させるくらいなら、オリンピックやパラリンピックは諦める
「さて、どちらが日本社会や次の世代へのメリットとなるでしょうか?」だ。

私たちは、きちんと選択肢を立てて、主体的に何かを選ばねばならない。こういう大きな問題については、とくにそうだ。気がついたらこんなことになっていました。そういうことはやめよう。社会は人が作るもので、雨降りのような自然現象ではない。

少なくとも一方に社会を変えようと意図して行動している人たちがいる。その社会は、彼らのみが生きる社会ではなく、私たちも生きる社会だ。反対であればきちんと反対だと伝えることも礼儀のありようだろう。なんの反応もしなければ、そんな相手として彼らも私たちを扱うだろう。

アメリカファースト、都民ファースト

2017年01月25日 | 時事
ブログ



ついにトランプがアメリカ大統領に就任した。アメリカ国内はもとより、世界中でどたばたしているようだ。日本も例外ではない。何をするにもアメリカとの関係を重視する国なので、この変化が日本に及ぼす影響は計り知れないだろう。

トランプはオバマのような理念的な政治家ではない。基本的にはビジネスマンで、おまけに勝ち負けにこだわる気質だそうだ。すでに自動車産業に対して行っているような厳しい要求を次々と突きつけてくるだろう。

日米関係は強固だとか、日米同盟は不変だ、などと日本では言っている。あたかも対等なパートナーで、日本がアメリカを大切だと思うように、アメリカも日本を大切に思っているかのような響きがある。それは本当なのだろうか。アメリカはシビアに自国の利益を考えて振る舞う。その利益に合致している限り日本を重要視している。それが実際ではないか。

それでもアメリカの利益と日本の利益が同じ方向に存在し、シェアできるだけの利益の量が存在しているならよい。トランプは難しそうだ。「アメリカファースト」である。勝ち負けにこだわる気質のビジネスマンが自らを「ファースト」というとき、取引相手は「セカンド」の利益を手に入れられるだろうか。案外、利益をむしり取る相手に映っているかもしれない。

そもそもこの「アメリカファースト」という言葉がひっかかる。「あなた達をいちばん大切にする」というメッセージっぽいが、そうでもないようだ。ふつう「アメリカファースト」のような言言葉は、アメリカをひとつにまとめるときに使う。しかし、トランプは自分の支持者に向かってその言葉を使った。そして国内を敵味方に分裂させてしまった。対立する相手を、ゲームを成り立たせるためのパートナーというより、叩きつぶすための敵にしてしまった。

それに「ファースト」というのは「セカンド」「サード」などとの相対的な関係を意識させる言葉だ。労働者たちが月に50万円の収入が必要だとする。50万円満額をみんなに与えれば満足するだろう。「ファースト」とか「セカンド」などという必要はない。「ファースト労働者」には25万円、「セカンド労働者」には10万円、「サード労働者」には見せしめに何もやらない。25万円はたしかに「ファースト」だけど、もともと必要な50万円には足らない。それでも「おまえがファースだ」と相対的な優位を感じさせることで、ある程度は人を満足させることが出来る。

気になるのは、トランプ自身も同類である大企業の経営者などの1%の存在だ。今回のトランプ政権の重要ポストには政治家がいないそうだ。経営者や退役軍人などの集まりらしい。共和党支持のFOXニュースなども、経営者が政治家からホワイトハウスを奪い取ったある種の革命のようだと慌てていたそうだ。

さてさて、そんなトランプが大統領である。「アメリカ」という名前は変わらねど、内実はこれまでとは異なるだろう。アメリカに迎合していれば安泰だと思っていた日本の政治、正念場である。

そういえば日本でも「都民ファースト」と言っている人がいる。小池都知事だ。なにやら「都民ファーストの会」という政治団体をもとに地域政党を結成し、都議会の過半数を目指すそうだ。言葉づかいが同じなので、いちおう同じように気をつけておきたい。

まず、「都民ファースト」ということで、都民を分断してしまわないようにすること。次に、「セカンド」「サード」との相対的な優位で「ファースト」を成果としないこと。そして、都民よりべつにもっと大事な人がいる、などとならないようにすること。

ちなみに「都民」という言葉に、多くの人はどんなイメージを持っているのだろう。東京に住んでいる日本人、漠然とそう思っているのではないか。

都民とは、東京都に住所を持つ自然人(いわゆる「人」)と法人のこと。ちなみに国籍は問いません。

つまり小池都知事の言葉をそのまま受け取り、ちょっと冗談めかして論理を追いかければ次のようになる。

東京都内にある法人と、その会社に通っている埼玉県民では、法人がファーストで、社員がセカンド。東京都に住所がある外国人と、東京都に通っている千葉県民では、外国人がファーストで、会社員がセカンド。

なんか「ファースト」とか「セカンド」という言い方、ちょっと嫌な感じだ。


富の偏在

2017年01月20日 | 時事
「資産合計額 富豪8人=下位36億人分」という記事が先日の新聞に出ていた。わかりやすい記事だ。資産の合計額で見ると、世界の富豪8人分の額が世界の下位36億人分の額と同じだ。そういうことをだ。ちなみに現在の人口は約73億人。36億とは現在の全人口のほぼ半数である。

内容の理解は簡単だ。しかし、内容を理解することと、状況を受け入れることは別だ。状況の受け入れは、たんなる言葉の理解ではなく、言葉が指し示す状況を受け入れることだからだ。世界の上位たった8人が、下位36億人分と同じ資産を持っている。この状況にはなにか違和感がある。

上位の8人に日本人はいないし、下位の36億人にもほとんどの日本人は入らないだろう。その意味では、記事の内容は私たちには関係ないように思える。しかしそうも言えまい。すでに領域国民国家のフレームが強かった時代ではない。グローバル化により資本が世界中を駆け巡る現在においては、世界で起こる富の偏在は私たちに影響する。

2014年のFAO(国連食糧農業機構)の発表によれば、世界で飢餓状態になっている人は8億5000万人もいたそうだ。世界の人口の9人に1人に当る。1日の餓死者数も4万人にも上るそうだ。実際、日本でも貧困により食事を減らしたりする人も増えている。つまり、富豪8人が下位36人分の資産を持っている状況は、世界で9人に1人が飢餓状態である状況と別ではない。

富豪8人のせいで8億5000万人が飢餓状態にあるとか、富豪8人が悪人だというのではない。彼らも合法的にその資産を手に入れたのだろう。僕が不思議に思うのは、富豪8人にそれだれの富が偏在することが合法であることだ。彼らはルールや制度によってその状況が守られているのだ。

星の運行や季節の巡りのような自然現象とは違い、法や制度は人間が作ったものだ。人間が作るのだから、そこには何らかの意思や目的があるはずだ。では、富豪8人が36億人分の資産を持ち、8億5000万人が飢餓状態にある世界は、誰かの意思や目的によるものなのか。あるいは、別の意思や目的に付随しておこってる現象なのだろうか。あるいは、意思や目的としては、世界中が豊かになることを求めているのだが、その実現のためには避けては通れない現実なのだろうか。

よくわからない。「資産合計額 富豪8人=下位36億人分」という言葉にされるとわかった気になるが、ちょっと想像力を働かせるとわからないことだらけだ。

ただ、世界のグローバル化を推し進めようとしている人たちがいることは事実だ。そしてそういう人たちの政治的、経済的な力は強い。グローバル化によって確実に起こるとされているのが、中間層の貧困化だ。つまり、一億総中流と言われた日本人の多くが下位36億人に近い状況になっていくことだけは確かである。そしてそれは、星々の運行や季節の巡りとは違い、人が行うことなのだ。

存在していないものに影響される

2016年11月11日 | 時事
11月も10日を過ぎた。今年もあと50日程度だ。早いものだ。明日から3週間続けて、地域の小学校の周年記念式典と祝賀会が続く。11月もあっという間に終わってしまうだろう。

トランプ氏がアメリカ大統領になった。何か意見をいいたくなるが自制する。メディアの情報から最後にはヒラリーが勝つと思っていた。そして予想は外れた。そんなメディアからの情報しかもっていない状態で、トランプについて考えても、的外れになるだけだ。まずは、トランプが勝つと予想した人たちの言葉を追いかける。何か考えるのはそれからだ。

さて、先日の東京新聞に次のような記事があった。

『福島の整備工場 洗車汚泥に放射性物質 最大5.7万ベクレル 基準7倍超 保管限界』

タイトルしか載せないが、内容は簡単に想像できるだろう。この手の話には慣れてしまったので、意識していないとスルーしそうになる。原発事故前であれば、この程度の事故がどのように報道さていたのか。この手の記事を目にするたびに、そう意識するように務めている。

以前であれば、大きな扱いとなっていたはずだ。新聞では1面扱い、テレビもワイドショーが大げさに取り上げただろう。しかし、フクシマ以後、このくらいでは大きな問題にならない。原発事故の大きさに比べたら、ささいに見えてしまうから。

本当は大きな問題なのに、もっと大きな事故があったせいで小さく見えているだけ。似たようなことが何度もあるので慣れてしまっているだけなのだろうか。あるいは、本当は小さな出来事なのに、以前は大げさに騒いでいただけなのだろうか。

事故後、政府が「ただちに健康には被害がない」といったことを思い出すとあてにならない。マスメディアはきっとどんなことにも両論併記をするだろう。判断するのは私たち自身だ。専門家も誰が専門家で誰が御用学者なのかわからない。何を基準に判断すればよいのかわからない。結局、自分が見たいこと、聞きたいことを追い求めているだけかも知れない。

事実として言えるのは、福島の整備工場に5万ベクレルを超える放射性物質があるということだ。大きな事件と思おうと、小さな出来事と思おうと、私たちの思いとは関係なく、放射性物質はきっちり5万ベクレルの影響を及ぼす。その影響がどのようなものか僕にはわからない。でもその影響は存在する。

放射性物質の存在を知らない人は、その影響を受けていても、その影響が存在していることを知らない。つまり影響は存在していないことになる。そして存在していないものから影響を受けることになる。得体の知らない何かと、やり取りをしなくてはならない。

存在していないものにつねに影響されている。それが私たちのありようである。