とんびの視点

まとはづれなことばかり

話し合いについて

2016年08月30日 | 雑文
前にも書きましたが、戦後、連合国の取り調べに対して、日本の指導者たちは、
「個人的には戦争開始に反対だったが、それを言い出せる空気ではなかった」
とそろって答えたそうです。 日本人は人と異なる意見を表明することがどうも
苦手なようです。

人が話し合いをするのは、「合意」をするためです。 争いを起こすためなら、
話し合いをする必要はありません。 いきなり攻撃をすればよいだけです。 (ま
あ、攻撃の口実を作るために話し合いをするという場合もありますが…)

人と異なる意見を表明することが苦手な人が、合意するために話をするとどうな
るか。 相手と合意できそうな部分だけを話すことになります。 お互いの意見が
異なる部分については口にしない。 そうすれば、話し合いの過程で意見の異な
りは出てきません。 意見が異ならないから、合意がしやすくなります。

でも、合意できる部分というのは、そもそも同じ意見なので、 それほど話し合
う必要はありません。だからそれは、話し合いと言うよりは、単なる確認に過ぎ
ないわけです。 こういう確認を繰り返していると、話し合いの技術が身に付き
ません。

だから、意見が異なる場面になると、感情的になったり、 黙り込んだり、パ
ワーゲームが始まったりする。 相手は合意をするためのパートナーというより
も、 やり込めるための敵になってしまう。

また、意見の異なりを出すことなく合意した物事の多くは、 実際に物事が動き
出した時にトラブルが発生しやすい。 物事を進めるためには、現実的な細かい
選択が必要になるが、それを事前に行っていないからです。 細かい具体的な選
択においては意見の違いが出やすいのです。

だから、合意のため話し合いで必要なのは、 自分と相手の意見の同じ部分を探
すことではなく、 自分と相手の意見の異なる部分を確認することです。 自分か
ら見えているものを相手に伝え、 相手から見えているものをきちんと聞き、 そ
のズレがなぜ存在しているのかを確認することです。

そうすることによって、物事が動き出してから発生するトラブルを防ぎます。
同時に、自分の見方と相手の見方という二つの視点から物事が見えてくるので、
より立体的に物事が見えてきます。

自分の見ているものをきちんと伝えられる説明力。 相手の見ているものをきち
んと聞き出せるヒアリング力。 どちらもテクニックの問題です。テクニックで
あれば身に付けることは可能です。

このテクニックを必要とするのは、自分の意見と人の意見は異なるものだ。 異
なっているからこそ、合意をしなければならない、と実感している人です。 普
通に考えればみんな自分と同じように考えるはずだ。 そう思っている人には、
こういう技術は必要とは感じられないことでしょう。

自分とまったく同じように考えている人と、僕は出会ったことがありません。
たぶん、みなさんもそうじゃないかと思います。 でもどこかで、みんな自分と
同じように考えるはずだと、思っちゃってるんですよね。 たとえば、この文章
を理解してくれるはずだとか。

学術で平和貢献

2016年08月28日 | 雑文
先日の東京新聞に「防衛省資金を警戒 戦争利用否定 堅持を」学術会議で議論 軍事研究の応募半減」という記事があった。記事によると、会議の中で「平和を守るため抑止力を強化する、という考え方はありうる。学術研究によって抑止力に貢献し、平和を守るというロジックは検討すべきだ」と、ある教授が発言したらしい。

発言に違和感を覚えた。つるん、とした言葉だ。1つ1つの単語の意味は理解できるが、全体としては意味不明なことを言っている。何かを言うことで、何かを言わないようにしている。自分の言葉に対する責任を引き受ける覚悟が感じられない。

「善を達成するためには、多くの悪が行われなければならない、という考え方はありうる」。あるいは「家族が絆を深めるためには、家族が心から憎しみ合わねばならない、という考え方もありうる」。そんな言葉づかいと同じような響きだ。

まず、会議で議題になっていることにたいして、自分の立場をきちんと表明していない。議論しているのは「学術研究の結果を戦争に利用するのはダメだろう」ということだ。それに対する基本的なスタンスは二つに一つしかない。「賛成か」「反対か」だ。学術研究の結果を戦争に利用するか、戦争に利用しないかの二つに一つしかない。

もちろん、現実の戦争の遂行や平和の維持には、さまざまなケースがある。単純なケースを想像して、明確に線引きができるわけではない。しかしいったん戦争となれば人の命が失われる。だからこそ、ギリギリのところで自分の立場を表明しないのは卑怯である。何かあった時に言い逃れができるような語り口だ。

「平和を守るために抑止力を強化する」「そのために学術研究で貢献する」という。これはだめだ。抑止力とは、いざとなった使うことが明らかだからこそ抑止力となる。戦争になったら使うぞ、という意志を相手に伝えなければ抑止力にはならない。それなのに、「平和を守るため」という言い方で、戦争には関わらないような雰囲気のただよわせている。こういうしわ寄せは、結局、末端が引き受けることになる。ことが戦争ともなれば、それは命でひきぅきけことになる。

抑止力として機能させいたのであれば、世界には他国を侵略するような国もある。そのように国が攻めてきたときに返り討ちにするために学術研究で貢献しよう。そうすることが結果的にも戦争を抑止することにつながるかもしれない。そう言えばよいのだ。(このときには、その武器はあくまで専守防衛のみでの使用になるが、実際の戦争ではその線引きはあいまいになるだろう。)

その一方で、軍事力を増強することによる抑止力の維持にはお金がかかるので、同時に別の方法も模索することがひつようになる。。外交などを通じて、国際社会において戦争などが起こらないようにする。そちらに対しても、学術の成果を通して貢献していけばよい。そう言えばよいのだ。

あるいは武器輸出が可能になったことで、経済界からの要請があるのかもしれない。大学の研究室も予算が削られ、研究費が手に入らないそうだ。研究費を手に入れるためには、軍事研究にも手を出さなければならない現実があるのかもしれない。そうであるなら、研究費が欲しいから軍事研究も行いたいと言えばよいのだ。それを「平和を守るための抑止力のために学術を通して貢献する」などと言ってはいけない。

きびしい言い方をしていることは理解している。しかし、そういうきびしさをきちんと言葉にして、矛盾を抱え込みつつ、個々人が日々を過ごすことが必要だ。実際に戦争が起こったら、そこでは人が死ぬ。人が死ぬことに自分が加担しているかもしれないと自覚すること。多くの人がそうするほうが問題が小さなうちに解消される。さまざまな問題をみんなで少しずつ背負う。そういう社会の方がよい。

夏の夜の夢

2016年08月17日 | 雑文
ここ数年、夏になると繰り返し同じような夢を見る。今年もまた夢を見た。鏡の前に立っている。鏡の中の自分は、いつの間にか髪が薄くなっている。そんな夢だ。

数年前、初めてその夢を見たとき、夢の中で僕はがく然とした。自分が思っている髪の量の半分もない。おまけにぼさぼさ。頭頂部あたりは髪の色よりも地肌の色のほうがしっかり出ている。おまけにひどく貧相な姿だ。どうしよう。これでは外に出ていけない。ちょっとしたパニックだ。人生が終わったような気がした。

夢が覚めたときにはほっとした。まだ生きていけると安心した。でも、いずれは自分もああいう姿になるのかも知れない、そういう覚悟もした。

翌年、同じ夢を見たときには、がく然とはしながらもパニックにはならなかった。何というのか、鏡の中の自分の姿を見ながら、自分はこんなものなのだな、と静かな諦めの気持ちになった。でも、少し哀しかった。

その翌年の夏、また鏡の中の髪のない自分と向き合っている。あれっ、自分はこんなに髪がなかったっけ。ちょっと参ったな。でも、毎日これで過ごしているはずだから、周りの人たちは何も感じないだろう。あまりかっこよくはないが、まあいいか。

かなりポジティブになっている。どこかで人間的な成長をしてるいのだろうか。

そして昨夜、再び僕は鏡に向かっている。心が波立つことはない。冷静に自分の姿を眺めている。前髪も頭頂部も後頭部にも髪はない。わずかに側頭部に白髪の束が残っている。まあ、たんなるハゲだ。側頭部の白髪が邪魔なくらいだ。うん、いっそ髪をすべて剃ってしまって坊主になろう。そう決心したところで目が覚めた。

さてさて、来年の夏はいったいどんな夢を見るのだろうか。今年の夏もだんだんと終わる。夜には虫が鳴き出した。暦の上ではもう秋だ。

上司が部下の仕事などを管理するのと、公園で遊ぶ小さな子どもを親が見守るのって、似ているところがありますね

2016年08月06日 | 雑文
そういえば、都知事選が終わりましたね。僕はほとんどテレビを見ないので詳しいことはわかりませんが、参院選に比べて、都知事選のテレビの扱いは多かったようですね。何故なのでしょう?不思議です。

不思議といえば、自民党員が小池百合子に投票した場合、本人のみならず、それが家族であっても、除名するみたいなことを言ってたそうですね。でも、立候補した小池百合子本人は、除名されないんですね。これも不思議です。

前置きが長くなりました。

上司が部下の仕事などを管理するのと、公園で遊ぶ小さな子どもを親が見守るのって、似ているところがありますね。

小さな子どもを公園で遊ばせる親にもいろいろな人がいますね。ときどき、あれっ、と思うことがあります。子どもが遊んでいるのをほとんど見ないで、スマホをいじっている親です。

子どもが親から離れ過ぎていたり、ちょっと危ないことをしていたり、はたで見ていると、ひやひやするるのですが、親はスマホを見ているので気づかない。ほとんどの場合は何事もないので、親も問題ないと思っている。

それでも、時々、周りの子とトラブルになったり、ケガをしたりする。小さなトラブルやケガであれば、子どもを注意したり、バンドエイドをはったりする。親からすれば、きちんと子どものしつけやケアをしている気になれる。めったにないけど、大きなトラブルやケガになるとそうもいかない。相手の親とケンカになったり、子どもを連れて病院に駆け込むこともある。

まあ、いずれの場合も事後対応ですね。スマホ見てて子ども見てないから。

部下の管理もこれに似ていますね。指示やオーダーだけしておいて、あとはほとんどウォッチしない。何かあったら報告や相談して、と言って自分の仕事に向かう。(まあ、忙しいから仕方ないのですが…)

顧客との小さなトラブルや作業ミスであれば、部下を叱ったり作業の手伝いをする。上司からすれば、部下をきちんと管理している気になる。顧客との大きなトラブルや、作業での大失敗があるとそうもいかない。部下を注意したり、サポートしても何にもならない。顧客に謝罪に行ったり、下手をすれば賠償問題になる。

公園の子どもと同じように、事後対応しかできない。自分の仕事もあるし。

このままでよいとは言えない。じゃあ、トラブルやケガを未然に防ぐように、つねに口を出せばよいのか。そういうものでもない。

子どもの遊びに対して、「それは○○ちゃんのおもちゃだからさわっちゃダメ」とか「滑り台を反対から上るのは危ないからやっちゃダメ」と、すべての遊びに口を出す。親は子どもより強いので、いくらでも言うことをきかせることはできる。それだと子どもは成長しない。チャレンジが起こらないから。

部下の管理も同じ。上司が部下のやることすべてに口を出していたらダメ。
一つ一つの作業に対して具体的な指示を出す。やったことを全部チェックする。そうすると、部下は自分で考えず、指示を待つだけの人間になる。チャレンジもなく、成長もしない。

親は子どものことを考えるより、自分の不安を避けることを最優先にしている。上司も部下の成長を考えるよりも、自分の責任の方を優先している(かもしれない)。

まったく、見ていないのも良くないし、口を出しすぎるのも良くない。

記憶が定かではないのですが、「まもる」という言葉は、もともと「目守る」と書いたそうです。意味は「じっと見ていて、手や口を出さない」ということだそうで。

子どもが多少危なっかしい遊びをしていても我慢する。子どもがどんなチャレンジをしているか。ちょっと危ないときにどんなやり方でそれを切り抜けているか。そういうものをきちんとウォッチする。でも、決定的な場面では、きちんと止めに入る。

そういうことは、親にとってはドキドキすることだけど、それが長期的には子どもの自立につながっていくのではないか。同時に、親自身も子育てがきちんとできる親に成長できるのではないか。

部下を見るのも同じかもれない。指示やオーダーを出したら、必要なウォッチをする。何をどんなやり方でやっているのかをきちんと見る。きちんと課題に向き合ってチャレンジしているか。ちょっとしたトラブルをどんな風に自力で解決しようとしているか。そういうものをきちんと見ている。そして必要なときには、適切なアドバイスをする。

それが、長期的には自分で考え行動できる部下を育てることになる。同時に、上司自身も部下を育成できる上司に成長できるのではないか。

結局のところ、人を育てるには、ある程度のドキドキと手間がかかるのでしょう。まあ、時間のゆるす限りトライする価値はありそうですね。