【1980年】(1囘生)
12:00 四條河原町 H&トモカ
二日醉ひで、worst condition
「Doji House」 比叡山、「アルセーヌ・ルパン」
疲れた。夜、HにTel。 もう暫くは會へない。
Hは私の初戀の相手で、中學の頃關西に引つ越してしまつた。
私が京都に來ることが出來たので、デートすることも出來るやうになつた。
4月1日の奈良・西ノ京、4月12日の廣隆寺につづく3囘目のデート。
この日は、彼女の友達のトモカちやんと私の友人のスギモトも加はり、4人でデート。
トモカちやんは彼氏はゐたものの、新しい彼氏募集中だつたらしい。
スギモトは私の高校の同級生だが、現役で大學に入學してゐたので2囘生。
クルマも持つてゐて、女の子とも遊びなれてゐた。
私は前日の夕方からこの日の午前1時頃まで、山歩會といふ山登りサークルの新歡コンパ。
見事に潰されて、二日醉ひといふよりまだ醉つ拂つてゐるやうな状態だつた。
しかも子供の頃からクルマに弱いので、九十九折の比叡山ドライブウェイを登つてゐる時は吐きさうなほど氣持ちが惡かつた。
「Doji House」も「アルセーヌ・ルパン」も名前は覺えてゐるのだが、どんな店かまでは覺えてゐない。
「アルセーヌ・ルパン」は右京區、金閣寺あたりにあつたやうな氣がするのだが・・・
せつかくのデートだといふのに、あまりの體調の惡さに、私はまともな會話すら出來なかつた。
とにかく疲れた。
スギモトはそんな状態の私をよくフォローしてくれたと思ふ。
スギモトに感謝。
夜、HにTelして謝つた。
彼女の機嫌が惡いことは鈍感な私にも傳はつて來た。
いまから思へば、この日からすでに見限られ始めてゐたのかもしれない。
【1981年】(2囘生)
心理學實驗甲登録
和巳「我が心は石にあらず」
3囘生で教養部生から學部生になるわけだが、その時に專攻を選擇しなくてはならない。
大學に入學した時點では國文を專攻するつもりだつたのだが、2囘生になつたこの頃には、心理學か社會學か國文かで迷つてゐた。
「心理學實驗甲」は心理學を專攻する場合の必修科目。
2囘生のうちにこの單位を修得しておくことが、3囘生で心理學を專攻する條件になつてゐた。
專攻の選擇肢を確保しておく意味で、この講座に登録した。
この時期、高橋和巳をまとめて讀んでゐた。
【1982年】(3囘生)
國文(研)濱川
濱川といふのは當時京都女子大の助教授で、國文の講師として招聘されてゐたのだつたと思ふ。
火曜日の5コマ目に登録してゐた。
講座内容は、私の好きな梶井基次郎。
私には珍しく、毎囘と云つてよいほど熱心に出席した講義だつた。
先の話になるが、單位の認定はレポート試驗で、私は「梶井論」と稱する怪しげなレポートをでつちあげて「良」を頂いた。
塾で一緒だつた工學部のイムラに提出前のレポートを見せたら、「いいなあ、文學部は。客觀的な根據なしに言ひたいこと書けるんだもんなあ」と羨ましがられた。
もしかするとバカにされたのかもしれないが。
【1983年】(4囘生)
HよりTelありしとのこと
Hはこの當時つきあつていた彼女。
どうやら、電話を貰つたけれども、私は外出してゐたやうだ。
この年、水曜日は17時から21時まで枚方の塾で教へてゐたので、もしかしたらその時間帶だつたのかもしれない。
12:00 四條河原町 H&トモカ
二日醉ひで、worst condition
「Doji House」 比叡山、「アルセーヌ・ルパン」
疲れた。夜、HにTel。 もう暫くは會へない。
Hは私の初戀の相手で、中學の頃關西に引つ越してしまつた。
私が京都に來ることが出來たので、デートすることも出來るやうになつた。
4月1日の奈良・西ノ京、4月12日の廣隆寺につづく3囘目のデート。
この日は、彼女の友達のトモカちやんと私の友人のスギモトも加はり、4人でデート。
トモカちやんは彼氏はゐたものの、新しい彼氏募集中だつたらしい。
スギモトは私の高校の同級生だが、現役で大學に入學してゐたので2囘生。
クルマも持つてゐて、女の子とも遊びなれてゐた。
私は前日の夕方からこの日の午前1時頃まで、山歩會といふ山登りサークルの新歡コンパ。
見事に潰されて、二日醉ひといふよりまだ醉つ拂つてゐるやうな状態だつた。
しかも子供の頃からクルマに弱いので、九十九折の比叡山ドライブウェイを登つてゐる時は吐きさうなほど氣持ちが惡かつた。
「Doji House」も「アルセーヌ・ルパン」も名前は覺えてゐるのだが、どんな店かまでは覺えてゐない。
「アルセーヌ・ルパン」は右京區、金閣寺あたりにあつたやうな氣がするのだが・・・
せつかくのデートだといふのに、あまりの體調の惡さに、私はまともな會話すら出來なかつた。
とにかく疲れた。
スギモトはそんな状態の私をよくフォローしてくれたと思ふ。
スギモトに感謝。
夜、HにTelして謝つた。
彼女の機嫌が惡いことは鈍感な私にも傳はつて來た。
いまから思へば、この日からすでに見限られ始めてゐたのかもしれない。
【1981年】(2囘生)
心理學實驗甲登録
和巳「我が心は石にあらず」
3囘生で教養部生から學部生になるわけだが、その時に專攻を選擇しなくてはならない。
大學に入學した時點では國文を專攻するつもりだつたのだが、2囘生になつたこの頃には、心理學か社會學か國文かで迷つてゐた。
「心理學實驗甲」は心理學を專攻する場合の必修科目。
2囘生のうちにこの單位を修得しておくことが、3囘生で心理學を專攻する條件になつてゐた。
專攻の選擇肢を確保しておく意味で、この講座に登録した。
この時期、高橋和巳をまとめて讀んでゐた。
【1982年】(3囘生)
國文(研)濱川
濱川といふのは當時京都女子大の助教授で、國文の講師として招聘されてゐたのだつたと思ふ。
火曜日の5コマ目に登録してゐた。
講座内容は、私の好きな梶井基次郎。
私には珍しく、毎囘と云つてよいほど熱心に出席した講義だつた。
先の話になるが、單位の認定はレポート試驗で、私は「梶井論」と稱する怪しげなレポートをでつちあげて「良」を頂いた。
塾で一緒だつた工學部のイムラに提出前のレポートを見せたら、「いいなあ、文學部は。客觀的な根據なしに言ひたいこと書けるんだもんなあ」と羨ましがられた。
もしかするとバカにされたのかもしれないが。
【1983年】(4囘生)
HよりTelありしとのこと
Hはこの當時つきあつていた彼女。
どうやら、電話を貰つたけれども、私は外出してゐたやうだ。
この年、水曜日は17時から21時まで枚方の塾で教へてゐたので、もしかしたらその時間帶だつたのかもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます