【1979年】(浪人)
C高文化祭
日曜日。
手帳には書いてあるものの、この時期に浪人生が遊びに行つたとは考へにくい。
【1980年】(1囘生)
英(Macbeth)
秋分の日(火曜日)。
25日に酒井(幸)先生の英語の試驗がある。
この講座はシェークスピアを題材にしてゐたらしい。(もう覺えてゐないが)
その試驗のために、この日は「マクベス」の章を一通り讀んだのだらう。
【1982年】(3囘生)
11:30 河原町阪急 H孃
モギの下宿 徹夜
秋分の日(木曜日)。
1980年5月25日に私から去つて行つたH だつたが、この數日前に電話があり、また一度會ひたいね、といふことになつた。
私としては1年ほどかかつてやうやく心の整理がついたつもりでゐたのだが、Hの聲を聞いてしまふともうダメ。
會ひたさがつのつてしまつた。
この日は2年數ヵ月ぶりにHと會へる筈だつたのだが、Hの都合で會へなくなつた。
なんだか飜弄されてゐるよなあ。
Hと會へなくなつたその寂しさを紛らはすためか、モギの下宿へ行つてゐる。
モギは話すのが好きなヤツなので、彼の話を聞いてゐるだけで時間がたつてゆく。
で、いつのまにか、外はしらじらと明けてゐるといふわけだ。
【1983年】(4囘生)
清水和音 14:00 Sym.H
「悲愴」「熱情」、リスト:ロ短調ソナタ
H宅訪問 一泊。
秋分の日(金曜日)。
清水和音 は、いまでいふところの「イケメン」ピアニストだつた。
1981年、20歳でロン=ティボー国際コンクール・ピアノ部門で優勝し、リサイタル賞も受賞。
輝かしい經歴を引つ提げて、翌1982年にデビューリサイタルを開いた。
まさに同世代のピアニストといふことで、私も注目してゐた。
そんな彼がシンフォニーホールでベートーヴェンのアパッショナータを彈くといふので、このスケジュールがわかつた時點で手帳に記しておいた。
でも、そんなことより、もつとたいへんなスケジュールが入つたのだつた。
Hのお宅を訪問する。
ああ、恐ろしい・・・
前年10月、私は2年數ヵ月ぶりにHと再會し、交通機關がなくなるまで飮んでゐた。
家に電話をかけたHから受話器を手渡され、彼女の母君からタクシー代は出すから責任をもつて家まで送つてこいと云はれた。
タクシーで走ること1時間以上、大事な娘を夜中まで引き摺り囘したガキに父君の怒りが炸裂した。
ところが、このガキは父君の「お前」といふ二人稱に反應し、「あなたにお前呼ばはりされる覺えはない」と逆ギレ。
父君との關係を修復不能レベルまで破壞してしまつたのであつた。
かなり醉つてゐたとはいへ、なんともひどい話だ。
その後、詫状を書き、母君からは執り成してやるとの手紙を頂き、2ヵ月後にやつとHに逢へるやうになつた。
そして、この日、家に遊びに來なさいとの指令が・・・
私は氣が乘らなかつた。
もつとハッキリ云へば行きたくなかつた。
どのツラさげて父君と會へと?
でも、すべては身から出た錆、それにきちんと向ひ合つてお詫びをしなくてはいけないとも思つてゐた。
父君はすべて濟んだことと云つてくれたが、だからと云つて私から氣輕に話かけられるわけもなく、針のムシロ状態だつた。
母君が氣遣つていろいろ話かけてくれたが、空氣は重たい。
結局、Hの部屋に避難して音樂を聽いた。
2人だけになつて、私はどれだけ緊張から解き放たれたことか。
ヨッフムのブラ3。
あの有名な第3樂章の冒頭、美しい旋律なのだが、オケの音が軋み合つたかのやうに聞えるところがあつたのを覺えてゐる。
もしかするとマスターテープからレコード盤をプレスする時に何らかのミスがあつたのかもしれない。
そんなどうでもいいことをしつかり覺えてゐるのは記憶のメカニズムの面妖なところだ。
メンゲルベルクの「悲愴」。
初めて聽いたメンゲルベルク。
こんなにもポルタメントを多用した演奏は初めての經驗。
古い演奏(1937年)だからと云へばそれまでなのだが、フルトヴェングラーと10年ほどしか違つてゐないのだ。
オールドファッションな演奏ではあるが、私の耳にはむしろ新鮮に聞えた。
そして、Hの彈いてゐるアレグロ・バルバロ(バルトーク)。
とにかく指が廻ることが前提の曲で、コンクールの課題曲に入ることもある曲らしい。
私にはよくわからなかつたが、演奏者本人が「あ、もう指が動いてない」と評してゐた。
いつまでもHの部屋に閉ぢこもつてゐるわけにもいかぬ。
夕食は一家團欒に異物が1名。
何を食べたか、まるで覺えてゐない。
夕食後はどうしたのか。
眠る時はどうだつたのか。
まつたく覺えてゐない。
翌朝は、どうしたのだらう。
朝食を一緒に食べた?
出勤する父君を見送つた?
覺えてゐないし、さうした状況は想像すら出來ない。
ともあれ、とてもしんどい訪問ではあつたが、これでひとつの關門を通り拔けたといふ安堵感はあつた。
(あの37年盤かどうか不明)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<1982年>
10月9日:京都。飮む
12月10日:シンフォニーホール。ヘンデルのメサイヤ
12月24日:梅田。クリスマスイヴ。
<1983年>
2月18日:花房晴美リサイタル。ベートーヴェン:ピアノソナタ第32番ほか。
5月14日:京都。「楢山節考」。
5月26日:大阪城など。(秋田沖地震)
6月2日:みゅーず → 圓山公園 → 枚方。
6月11日:「細雪」 → 須磨海岸。
6月17日:藤原眞理のチェロ。
7月20日:ピカソ展 ~ 銀閣寺。
8月2日:鞍馬寺、夕立。
C高文化祭
日曜日。
手帳には書いてあるものの、この時期に浪人生が遊びに行つたとは考へにくい。
【1980年】(1囘生)
英(Macbeth)
秋分の日(火曜日)。
25日に酒井(幸)先生の英語の試驗がある。
この講座はシェークスピアを題材にしてゐたらしい。(もう覺えてゐないが)
その試驗のために、この日は「マクベス」の章を一通り讀んだのだらう。
【1982年】(3囘生)
モギの下宿 徹夜
秋分の日(木曜日)。
1980年5月25日に私から去つて行つたH だつたが、この數日前に電話があり、また一度會ひたいね、といふことになつた。
私としては1年ほどかかつてやうやく心の整理がついたつもりでゐたのだが、Hの聲を聞いてしまふともうダメ。
會ひたさがつのつてしまつた。
この日は2年數ヵ月ぶりにHと會へる筈だつたのだが、Hの都合で會へなくなつた。
なんだか飜弄されてゐるよなあ。
Hと會へなくなつたその寂しさを紛らはすためか、モギの下宿へ行つてゐる。
モギは話すのが好きなヤツなので、彼の話を聞いてゐるだけで時間がたつてゆく。
で、いつのまにか、外はしらじらと明けてゐるといふわけだ。
【1983年】(4囘生)
H宅訪問 一泊。
秋分の日(金曜日)。
清水和音 は、いまでいふところの「イケメン」ピアニストだつた。
1981年、20歳でロン=ティボー国際コンクール・ピアノ部門で優勝し、リサイタル賞も受賞。
輝かしい經歴を引つ提げて、翌1982年にデビューリサイタルを開いた。
まさに同世代のピアニストといふことで、私も注目してゐた。
そんな彼がシンフォニーホールでベートーヴェンのアパッショナータを彈くといふので、このスケジュールがわかつた時點で手帳に記しておいた。
でも、そんなことより、もつとたいへんなスケジュールが入つたのだつた。
Hのお宅を訪問する。
ああ、恐ろしい・・・
前年10月、私は2年數ヵ月ぶりにHと再會し、交通機關がなくなるまで飮んでゐた。
家に電話をかけたHから受話器を手渡され、彼女の母君からタクシー代は出すから責任をもつて家まで送つてこいと云はれた。
タクシーで走ること1時間以上、大事な娘を夜中まで引き摺り囘したガキに父君の怒りが炸裂した。
ところが、このガキは父君の「お前」といふ二人稱に反應し、「あなたにお前呼ばはりされる覺えはない」と逆ギレ。
父君との關係を修復不能レベルまで破壞してしまつたのであつた。
かなり醉つてゐたとはいへ、なんともひどい話だ。
その後、詫状を書き、母君からは執り成してやるとの手紙を頂き、2ヵ月後にやつとHに逢へるやうになつた。
そして、この日、家に遊びに來なさいとの指令が・・・
私は氣が乘らなかつた。
もつとハッキリ云へば行きたくなかつた。
どのツラさげて父君と會へと?
でも、すべては身から出た錆、それにきちんと向ひ合つてお詫びをしなくてはいけないとも思つてゐた。
父君はすべて濟んだことと云つてくれたが、だからと云つて私から氣輕に話かけられるわけもなく、針のムシロ状態だつた。
母君が氣遣つていろいろ話かけてくれたが、空氣は重たい。
結局、Hの部屋に避難して音樂を聽いた。
2人だけになつて、私はどれだけ緊張から解き放たれたことか。
ヨッフムのブラ3。
あの有名な第3樂章の冒頭、美しい旋律なのだが、オケの音が軋み合つたかのやうに聞えるところがあつたのを覺えてゐる。
もしかするとマスターテープからレコード盤をプレスする時に何らかのミスがあつたのかもしれない。
そんなどうでもいいことをしつかり覺えてゐるのは記憶のメカニズムの面妖なところだ。
メンゲルベルクの「悲愴」。
初めて聽いたメンゲルベルク。
こんなにもポルタメントを多用した演奏は初めての經驗。
古い演奏(1937年)だからと云へばそれまでなのだが、フルトヴェングラーと10年ほどしか違つてゐないのだ。
オールドファッションな演奏ではあるが、私の耳にはむしろ新鮮に聞えた。
そして、Hの彈いてゐるアレグロ・バルバロ(バルトーク)。
とにかく指が廻ることが前提の曲で、コンクールの課題曲に入ることもある曲らしい。
私にはよくわからなかつたが、演奏者本人が「あ、もう指が動いてない」と評してゐた。
いつまでもHの部屋に閉ぢこもつてゐるわけにもいかぬ。
夕食は一家團欒に異物が1名。
何を食べたか、まるで覺えてゐない。
夕食後はどうしたのか。
眠る時はどうだつたのか。
まつたく覺えてゐない。
翌朝は、どうしたのだらう。
朝食を一緒に食べた?
出勤する父君を見送つた?
覺えてゐないし、さうした状況は想像すら出來ない。
ともあれ、とてもしんどい訪問ではあつたが、これでひとつの關門を通り拔けたといふ安堵感はあつた。
![]() | ブラームス:交響曲第2番&第3番 |
ヨッフム(オイゲン) | |
EMIミュージック・ジャパン |
![]() | チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」 ほか |
クリエーター情報なし | |
OPUSクラ |
(あの37年盤かどうか不明)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<1982年>
10月9日:京都。飮む
12月10日:シンフォニーホール。ヘンデルのメサイヤ
12月24日:梅田。クリスマスイヴ。
<1983年>
2月18日:花房晴美リサイタル。ベートーヴェン:ピアノソナタ第32番ほか。
5月14日:京都。「楢山節考」。
5月26日:大阪城など。(秋田沖地震)
6月2日:みゅーず → 圓山公園 → 枚方。
6月11日:「細雪」 → 須磨海岸。
6月17日:藤原眞理のチェロ。
7月20日:ピカソ展 ~ 銀閣寺。
8月2日:鞍馬寺、夕立。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます