【1981年】(1囘生)
武藏新城
祖母より ¥10,000
火曜日。
武藏新城といふ驛から歩いて行けるところに、叔父(母の弟)の家があつた。
そこに母方の祖母がゐたので年始參り。
祖母から¥10,000 カンパを受けた。
2日間のアルバイト相當。
ありがたや。
【1982年】(2囘生)
アサノと「馬亞車」
水曜日。
アサノは高校の同級生で、確かバレー部だつた筈。
特別に仲が良かつたといふわけではないのだが、なぜか一緒に「馬亞車」に。
「馬亞車」といふのは、千葉にあつた喫茶店(だつたと思ふ)。
何を話してゐたのだらう。
【1983年】(3囘生)
川崎
「ピンチランナー調書」讀了
木曜日。
川崎といふのは、母方の叔父(母の弟)の家をさす。
最寄驛は武藏新城なのだが、アバウトに川崎と呼んでゐた。
たぶん祖母からお年玉を頂いたと思ふのだが、手帳には記されてゐなかつた。
大江の「ピンチランナー調書」を讀了。
大江は嫌ひな作家だつたが、大學の左翼かぶれたちが好んでゐたので、一通りは目を通してゐた。
【1984年】(4囘生)
北澤峠BC ~ 駒ピストン ~ 大平小屋泊
金曜日。
北澤峠BC ~ 駒津峰 ~ 甲斐駒ヶ岳(2966mH) ~ 仙水峠 ~ 北澤峠BC ~ 大平小屋 (泊)
朝、テントから顏を出したら、前々日からの雪はやみ、天氣は快晴。
快哉を叫ぶ。
前日はBCから南に登つたか、この日はその反對の北へ。
雙兒山を越え、駒津峰 に登る途中でアイゼンを着けた。
甲斐駒ヶ岳は仙丈と違つて岩が露出した山なので、アイゼンの着けどころが難しい。
早く着けすぎると歩きづらいし、遲いとスリップして危險だ。
駒津峰 を越えて、甲斐駒の登りにかかる。
岩の急斜面が續き、案の定、歩きづらいことこの上ない。
アイゼンのツァッケ(爪)を岩に引つ掛けて轉倒しないやう注意しながら登つていく。
甲斐駒ヶ岳(2966mH) の頂上は、ピーカンの空の下、まさに360°のパノラマが廣がつてゐた。
前日の仙丈とはえらい違ひだ。
南には、BCを置いてゐる北澤峠を挾んで、その仙丈岳が白くたをやかな姿を見せてゐる。
南アルプスの女王と呼ばれるのがよくわかる。
その左手には日本で2番目に高い北岳(3192m)や、鳳凰三山。
さらには遠く富士山の姿も見えた。
寫眞を撮りまくつて頂上を後にする。
歸りは、駒津峰 から仙水峠 に降り、北澤沿ひに仙水小屋、北澤長衞小屋を經由して歸つて來た。
仙水峠までは急な降りだが、その後はのんびりとしたハイキング氣分。
天氣ひとつで山はまつたく違ふものになる。
北澤峠BC に歸り付いてヌマタと相談。
山はもう終つた。
寒いテントで我慢する必要がどこにあるといふのだ。
大平小屋で暖かいストーブの前で祝杯を上げようではないか。
たぶんヌマタもさほど抵抗しなかつたのではなかつたか。
その2時間ほど後、我々は、ストーブの前に陣取つて、手作りの野澤菜をつまみつつ祝杯を上げてゐた。
濕つて冷え切つた毛の靴下からは、しばらく湯氣が立ちのぼつてゐた。
この日、客は我々2人だけで、小屋は貸切。
「6年前の正月に泊つた時も貸切だつたよ」とオヤヂさんに話したら、「ああ、道理で見たやうな顏だと思つた」とオヤジさん。
社交辭令かもしれないが、私はひそかに嬉しかつた。
ひとしきりオヤジさんと南アルプススーパー林道をこきおろした。
國立公園は石ころひとつ持ち歸つても罰せられる筈なのに、そのど眞ん中に道路を通すとは何事か。
林業のためといふが、そもそも林業による需要がどれだけあるといふのか。
觀光客目的なのは明らかではないか。
この素晴らしい原生林を觀賞するためには自分の足で登るべきだらう。
原生林を見せるためにその原生林を切り開くなんて、愚か者の所行だ。
などなど。
大平小屋にとつては目の前に道路が出來たわけだが、登山客は北澤峠までバスに乘つていくので大平小屋は素通りされてしまふのだとか。
この素朴な小屋が今後も存續できるのだらうかと心配になつた。
武藏新城
祖母より ¥10,000
火曜日。
武藏新城といふ驛から歩いて行けるところに、叔父(母の弟)の家があつた。
そこに母方の祖母がゐたので年始參り。
祖母から¥10,000 カンパを受けた。
2日間のアルバイト相當。
ありがたや。
【1982年】(2囘生)
アサノと「馬亞車」
水曜日。
アサノは高校の同級生で、確かバレー部だつた筈。
特別に仲が良かつたといふわけではないのだが、なぜか一緒に「馬亞車」に。
「馬亞車」といふのは、千葉にあつた喫茶店(だつたと思ふ)。
何を話してゐたのだらう。
【1983年】(3囘生)
川崎
「ピンチランナー調書」讀了
木曜日。
川崎といふのは、母方の叔父(母の弟)の家をさす。
最寄驛は武藏新城なのだが、アバウトに川崎と呼んでゐた。
たぶん祖母からお年玉を頂いたと思ふのだが、手帳には記されてゐなかつた。
大江の「ピンチランナー調書」を讀了。
大江は嫌ひな作家だつたが、大學の左翼かぶれたちが好んでゐたので、一通りは目を通してゐた。
![]() | ピンチランナー調書 (新潮文庫) |
大江 健三郎 | |
新潮社 |
【1984年】(4囘生)
北澤峠BC ~ 駒ピストン ~ 大平小屋泊
金曜日。
北澤峠BC ~ 駒津峰 ~ 甲斐駒ヶ岳(2966mH) ~ 仙水峠 ~ 北澤峠BC ~ 大平小屋 (泊)
朝、テントから顏を出したら、前々日からの雪はやみ、天氣は快晴。
快哉を叫ぶ。
前日はBCから南に登つたか、この日はその反對の北へ。
雙兒山を越え、駒津峰 に登る途中でアイゼンを着けた。
甲斐駒ヶ岳は仙丈と違つて岩が露出した山なので、アイゼンの着けどころが難しい。
早く着けすぎると歩きづらいし、遲いとスリップして危險だ。
駒津峰 を越えて、甲斐駒の登りにかかる。
岩の急斜面が續き、案の定、歩きづらいことこの上ない。
アイゼンのツァッケ(爪)を岩に引つ掛けて轉倒しないやう注意しながら登つていく。
甲斐駒ヶ岳(2966mH) の頂上は、ピーカンの空の下、まさに360°のパノラマが廣がつてゐた。
前日の仙丈とはえらい違ひだ。
南には、BCを置いてゐる北澤峠を挾んで、その仙丈岳が白くたをやかな姿を見せてゐる。
南アルプスの女王と呼ばれるのがよくわかる。
その左手には日本で2番目に高い北岳(3192m)や、鳳凰三山。
さらには遠く富士山の姿も見えた。
寫眞を撮りまくつて頂上を後にする。
歸りは、駒津峰 から仙水峠 に降り、北澤沿ひに仙水小屋、北澤長衞小屋を經由して歸つて來た。
仙水峠までは急な降りだが、その後はのんびりとしたハイキング氣分。
天氣ひとつで山はまつたく違ふものになる。
北澤峠BC に歸り付いてヌマタと相談。
山はもう終つた。
寒いテントで我慢する必要がどこにあるといふのだ。
大平小屋で暖かいストーブの前で祝杯を上げようではないか。
たぶんヌマタもさほど抵抗しなかつたのではなかつたか。
その2時間ほど後、我々は、ストーブの前に陣取つて、手作りの野澤菜をつまみつつ祝杯を上げてゐた。
濕つて冷え切つた毛の靴下からは、しばらく湯氣が立ちのぼつてゐた。
この日、客は我々2人だけで、小屋は貸切。
「6年前の正月に泊つた時も貸切だつたよ」とオヤヂさんに話したら、「ああ、道理で見たやうな顏だと思つた」とオヤジさん。
社交辭令かもしれないが、私はひそかに嬉しかつた。
ひとしきりオヤジさんと南アルプススーパー林道をこきおろした。
國立公園は石ころひとつ持ち歸つても罰せられる筈なのに、そのど眞ん中に道路を通すとは何事か。
林業のためといふが、そもそも林業による需要がどれだけあるといふのか。
觀光客目的なのは明らかではないか。
この素晴らしい原生林を觀賞するためには自分の足で登るべきだらう。
原生林を見せるためにその原生林を切り開くなんて、愚か者の所行だ。
などなど。
大平小屋にとつては目の前に道路が出來たわけだが、登山客は北澤峠までバスに乘つていくので大平小屋は素通りされてしまふのだとか。
この素朴な小屋が今後も存續できるのだらうかと心配になつた。
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