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世界遺産スイスのぶどう畑・スイスのローマ都市・サンベルナルド峠

2017-07-10 10:33:06 | 旅行

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旅行 2017 索引 8


ラヴォー Lavaux は、スイス、ヴォー州、ローザンヌからモントルー郊外のシヨン城にかけて広がるレマン湖北岸の丘陵地帯を指す。葡萄栽培が盛んに行われ、スイス有数のワイン産地となっている。

世界に葡萄畑は数あれど、堂々と世界遺産登録されているところといえば、スイスの西、レマン湖畔に広がるラヴォー地区(2007年登録)と、2014年の今年登録されたばかりのイタリアはピエモンテ州南部のランゲ・ロエロ・モンフェッラート地域くらいではないだろうか。

(世界遺産に指定された地域の一部としてなら、ドイツのリューデスハイムもあるが)どちらも、葡萄栽培とワイン造りの伝統が古より絶えることなく続いている、という特徴があり、見渡す限り続く葡萄畑はため息が出るほど美しい。

喜劇王チャーリー・チャップリンは不世出の天才であるが、1952年、自由の国であるはずの米国で共産主義者のそしりを受けたために、スイスのラヴォー (Lavaux) に亡命している。彼は故郷のロンドンではなく、永世中立国のスイス、

その中でも葡萄畑が広がる高級リゾート地を晩年の居住先に選んでいる。


チャップリンは葡萄畑の端に広大な邸宅「マノワール・ド・バン」を構え、88歳の生涯を終えるまでの20余年をこの地で過ごした。

亡命直後にワインセラーで開かれた歓迎会、天気の良い日に散策した葡萄畑など、ラヴォーの葡萄畑とワインは晩年のチャップリンに安らぎを与えたようだ。


チャップリンだけでなく、オードリー・ヘップバーンやクイーンのフレディ・マーキュリーもこの辺りを最期の住処に選んだことで有名。名を成した人々の心に平和をもたらしてくれる葡萄畑とワインには絶大な魅力がある、ということだろう。

 「ラヴォー地区」の画像検索結果   「ラヴォー地区チヤプリン」の画像検索結果

品質の良いワインを作るためには、葡萄の糖度や酸度を高める必要があります。そのため、葡萄の生育には十分な日照が条件となります。そしてラヴォー地区には「3つの太陽」があると言われています。

「3つの太陽」とは、まず本物の太陽。ラヴォー地区は南西向きの斜面のため、特に日照に恵まれています。2番目の太陽は、湖からの反射光。広大なレマン湖の湖面は巨大な鏡となり、太陽の光を下から注ぎます。そして3番目の太陽は、石垣の輻射熱(ふくしゃねつ)。

急斜面を支える石垣が日中に蓄えた熱が、夜間の温度の低下を防ぎます。

アヴァンシュ(Avenches)、スイスのローマ都市 「アヴァンシュ(avenches)」の画像検索結果   
現在のアヴァンシュは中世の城塞都市の面影を残すものとなっているが、その昔はローマ植民都市としてスイスの中心を成す都市だった。ローマがスイスを支配する前は、この地にケルト系のヘルウェティー族が住んでいたのだが、シーザーによって滅亡されてしまった。

しかし皆殺しではないので、ケルトの血も残されており、またスイスの東にはやはりケルト系のラエティア族がいた関係で、スイスにはケルト由来の語句が多い事で知られている。スイスのアルプスの奥深くには、秋田のなまはげみたいな祭りもあって、

スイス独特の伝統文化を形成しているのだが、これらは多神教を旨とするケルトやゲルマンの土着信仰の継承だ。この様にヨーロッパに存在していたキリスト教以前の文化を、今なお色濃く残しているというのもスイスの魅力の一つといえる。

スイスという国土を概観すると、南半分は標高4000m級の山々を抱える山岳地帯であることが明瞭にわかる。北半分は比較的緩やかな丘陵地帯が広がっている。しかし丘陵地帯にも山塊が入り込んでいて、実際に人が住めるのは湖の周辺、河川の周辺といったところだ。

北半分に広がる丘陵地帯の北縁は再び山脈が迫っている。フランスと国境を接するスイス北部はジュラ山脈、ドイツと国境を接するスイス北部はシュヴァルツヴァルドがスイスに食い込んで来ている。

この様な土地柄なので、スイスの7割強が山間部で占められており、古くから人が住めたのは、主にスイスの北寄り中央部に広がる丘陵地帯だった。(Google Earthで確認されることを推奨)

 この中央丘陵地帯に入って来たのがケルト人で、紀元前より鉄器文明などを築いていた。ケルト人は中央アジア出身だそうだ。一概にケルト人といっても、沢山の部族に別れていて、それぞれ領土争いなどを繰り広げていた。

今の中央丘陵地帯に住んでいたのはヘルウェティ族と呼ばれる人々だった。このケルト部族はシーザーによって滅ぼされてしまう。その後、この地域はローマの支配下となった。ローマ帝国はアヴァンシュに街を築き、ここを中心にしてスイスを殖民支配した。

アヴァンシュはローマ帝国の町だったので、今でもローマ遺跡が残っている。闘技場も残っていて、そこでも奴隷闘士が戦ったのだそうだ。

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アヴァンシュのコロセウム(円形闘技場)
ここでも奴隷対奴隷の殺し合いや、奴隷対ライオンなどの猛獣との戦いが繰り広げられたのだそうだ。

サンベルナルド峠グラン・サン・ベルナール峠の地図 「サンベルナルド峠」の画像検索結果

イタリア語ではSan Bernardo。イタリア=スイス国境の大サンベルナール,イタリア=フランス国境の小サンベルナールの2つがあり,ともに,アルプスを越えてイタリアと中部ヨーロッパを結ぶ,古代ローマ以来の重要な交通路上の峠である。

大サンベルナール (グランサンベルナール) Grand-Saint-Bernardは,イタリア北西端バレダオスタ州の州都アオスタと,その北方,スイス南西部バレー州ローヌ河谷のマルティニを結ぶ峠。

モンブランの東方にあり,国境の峠としては世界有数の高さで,標高 2469m。峠近くにある石造のアウグスチノ会修道院と宿坊は,マントンの聖ベルナールが 10世紀に再建したもので,以来,旅人の救いの宿となってきた。

現在セントバーナードという英語名で知られる種類のイヌが,この宿坊付近の雪原を舞台に多くの旅人の難を救ったことは有名。 1800年5月,ナポレオン1世は4万の軍を率い,乗馬道のこの峠を越えてイタリアに入った。

現在は大サンベルナール本道トンネル (1964開通,全長 5855m) により冬季も自動車の通行が可能。小サンベルナール (プティサンベルナール) Petit-Saint-Bernardは,アオスタから西方のクルマユールを経て,フランス東部サボア県のブールサンモリスにいたる峠で,

モンブランの南方,正確にはフランス領内にあり,標高 2188m。前 218年,カルタゴ軍を率いたハンニバルはこの峠を越えてローマに入ったといわれ,古くからアルプス越えの主要路の一つ。ヘラクレスが通ったなどの伝説もある。

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