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足利義政供養塔・日野富子の墓 2015.03.02 「214」

2024-04-12 13:22:22 | 歴史

足利義政供養塔

・日野富子の墓 2015.03.02

自性院常念寺
〒709-0704 岡山県赤磐市沢原1208

日野家は藤原氏である。藤原継嗣(北家)の兄、参議真夏を始祖とし、その孫・家宗が現在の京都市伏見区に法界寺を建立した時、そこが「日野荘」であった事から「日野」の名が興された。

日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。

 室町幕府8代将軍足利義政の正室。父は蔵人右少弁・贈内大臣日野重政、母は従三位北小路苗子(北小路禅尼)。

 第8代将軍 足利義政が亡くなると、日野富子が抗争に破れ京都から都落ちする。

 応仁の乱では、日野富子の東軍に属していた赤松政則が、その領国である備前の国を紹介した。

幕府と関係の深い、本阿弥家・松田氏の斡旋で、日野富子は、松田氏の領地に避難する。その地が、赤磐市沢原である。

 赤松政則略歴

康正元年(1455年)赤松満祐(嘉吉の乱で滅亡)の弟・赤松義雅の子・赤松時勝の子として生まれる。

第9代将軍・足利義尚、第10代将軍足利義稙にも仕え、軍奉行として活躍し、足利一門以外の武家の三位叙位は、政則が初である。

 能や猿楽を奨励するなど一流の文化人として名を馳せる。

大名にしては珍しく刀工としても一流で、名工・長船宗光に師事したと言われ、後世に幾つかの名刀を残している。

 このことから、足利幕府の中枢にいた赤松政則が富子の避難に関与した可能性は高い。 

また備前長船刀剣の関係で、本阿弥氏、松田氏との関連も興味深い。

日野富子2015.03.02  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2 コメント

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Unknown (丹後松田)
2018-02-28 23:04:04
>>京都の室町幕府には、松田氏が奉行として出仕していた。備前松田氏と同族である。足利幕府の刀の鑑定奉行であった松田右衛門三郎清信である。

・・・と記述されていますが、備前の松田氏と室町幕臣の松田氏は全く別の一族であることが分かっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E6%B0%8F

東大歴史編纂所の研究報告
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/04/kiyo0004-ebara.pdf
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松田氏について (淡登水)
2018-03-01 07:34:48
ご指摘ありがとうございます。
訂正させてもらいます。
返信する

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