幻想は体に悪い

2009-07-29 22:20:36 | Notebook
     
ヨガにはとくべつ興味がないけれども、若いころにハタ・ヨガの解説書を読んでいて、これは果たして「健康法」になるんだろうか? と首をかしげたことがある。

べつに健康法としてヨガをやるのは良いけれども、もともとハタ・ヨガは宗教的修行のために身体をととのえるための技法だった。宗教的修行のためには心をととのえ鍛える必要があり、そのためにはまず身体をととのえなくてはならない。

ハタ・ヨガの技法をあれこれ見ていると、どれもこれも、「身体意識」を緻密に深くしていく技法であることに気づいてくる。

わたしは生来の怠け者なので、「屍のポーズ」とか「火の呼吸法」くらいしか試したことはなかったが、この二つの技法だけでも、身体意識を深める効果はあったと思う。

屍のポーズというのは、ただ仰向けに寝転がって、身体から力を抜いていくだけの技法だ。こんなにラクな修行は他にないだろうというくらい、簡単である(笑)。
しかしここで重要なのは、ちゃんと意識して力を抜いていく。
まず、つま先に意識をおいて、徹底的につま先の力を抜く。つぎに足首、ふくらはぎ、膝、腿、腰、というぐあいに、力を抜いていって、ついに頭頂まで完全に脱力する。ほんとうに「完全脱力」しちゃったら、えらいことになりそうだが、まあこれはイメージなので、安心して力を抜く。そうして心を平安に保ち、その充足した状態を味わえばいい。

ヨガの話題が出るごとに、
「屍のポーズだったら、まかしておいてください!」
とよく冗談を言っていたものである。

火の呼吸法とは、床の上に結跏趺坐して背筋を伸ばし、意識を丹田に置く。そして片方の鼻孔を手でおさえてふさぎ、あいたほうの鼻孔だけで激しく呼吸をする。このとき下腹部をつかって「フイゴのように」つよく呼吸をする。速く強く。しばらく激しい呼吸をくりかえしたら、次には、いま呼吸をしていたほうの鼻孔をふさぎ、それまでふさいでいたほうの鼻孔で呼吸をする。こうして交互に鼻孔を入れ替えながら、激しい呼吸をする。

これを人前でやったことはないが、ビジュアル的にいかにも「わたしヨガの修行してます!」という感じがする技法なので、ひそかに気に入っていた。鏡の前でおのれの姿をうつし、そのヨガ行者みたいな様子にウットリするのもいいかもしれない。

言うまでもないが、火の呼吸法はほどほどにしておかないと、身体にわるい。じっさい過呼吸になるため、一種のランナーズハイみたいに、頭もボーッとして、なんだか酔ったような陶然とした状態になってくる。飲み代に困ったひとは火の呼吸法でウットリしてみるのも、お酒の代わりになっていいかもしれない。

この火の呼吸法でも、独特の身体意識がひらいてくる。身体感覚がとぎすまされてくる。こんなふうにヨガ行者みたいなやり方で、とことん身体とつきあい、未知の身体意識を探求する日々を送るというのも、なかなかオツな生き方かもしれない。



しかし、このハタ・ヨガを「健康法」として実践してしまうと、この身体意識に曇りが生じてくる。ハタ・ヨガの眼目はあきらかに健康のためのものではなくて、身体意識を高め、深めているところにあるのだから、
「これをやっていたら痩せるワ」とか、
「ガンにかからないかも」
などと思っていると、身体意識からズレてしまう。

意識を身体にあずけ、その感覚を深めていかなくては、なんにもならない。ここでよけいな「御利益」を期待している心には、身体意識は開いていかないのだ。

「健康志向」は、あんがい身体に悪いものかもしれない。それは幻想であり、幻想は目を曇らせ、あきらかに身体意識から遠ざけてしまうからだ。

愛をアダで返す

2009-07-02 18:28:53 | Notebook
     
ほほえみあう。ほほえみあうということが、難しい。

可愛い女の子を、いじめたくなる男の子みたいに、稚拙な感情しか持ち合わせていない、わたしたち。
それが子供の話ではなく、大の大人や、老人たちの話なのだから、
この救いようのない愛の病いは、どれほど深く、ひろく、蔓延していることだろう。

大切なひとが、目の前にいて、じぶんのこころが花のように開いていく。
しあわせであるはずの、その瞬間に、嫌悪感や怒りが顔をだす。
こころが開けば開くほど、揺さぶられ、混乱させられ、きたないものが顔をだす。
それが相手を汚してしまう。

いちばん好きな男性の前で、愛らしく振る舞えない。
微笑む相手の、大好きな横顔が、汚らしく見える。
言ってはいけない言葉を相手にぶつける。
してはいけないことをする。
それが本物の憎悪に育つ場合だってある。

殺しあい、傷つけあい、台無しにしあう、わたしたち。
愛憎なんていうほど、高級なものではなく。
こわばり、ひび割れた感情にふりまわされる病い。
愛情に出会う前から、愛に倦んでいるみたいに。
まだ官能に裏切られるほうが、ずっとましだと思えるほどに。

まるで敵をあつかうように、愛すべきひとを、あつかう。
それは愛が冷めたのではなく、はじめから、育てそこなったのだ。
おろかな依存が、それをどれだけ辱めたことだろう。
おろかな言葉と甘えが、それをどれだけ損ねただろう。

手渡されそこなった、無駄に浪費された愛が、どれほど多いことだろう。
届かなかったメッセージが、どれほど多く捨てられたことだろう。
この病いに罹ったものには、愛される資格がない。
そして愛する能力もない。

この病いを治すために、
いったいどれだけの正気と、祈りと、涙と、絶望が必要だろう。
じぶんは愛にあたいしないのだと悟り、治療のためのカルテが作成されるまでに、
どれほどの間違いが繰り返されるのだろう。