ヨガにはとくべつ興味がないけれども、若いころにハタ・ヨガの解説書を読んでいて、これは果たして「健康法」になるんだろうか? と首をかしげたことがある。
べつに健康法としてヨガをやるのは良いけれども、もともとハタ・ヨガは宗教的修行のために身体をととのえるための技法だった。宗教的修行のためには心をととのえ鍛える必要があり、そのためにはまず身体をととのえなくてはならない。
ハタ・ヨガの技法をあれこれ見ていると、どれもこれも、「身体意識」を緻密に深くしていく技法であることに気づいてくる。
わたしは生来の怠け者なので、「屍のポーズ」とか「火の呼吸法」くらいしか試したことはなかったが、この二つの技法だけでも、身体意識を深める効果はあったと思う。
屍のポーズというのは、ただ仰向けに寝転がって、身体から力を抜いていくだけの技法だ。こんなにラクな修行は他にないだろうというくらい、簡単である(笑)。
しかしここで重要なのは、ちゃんと意識して力を抜いていく。
まず、つま先に意識をおいて、徹底的につま先の力を抜く。つぎに足首、ふくらはぎ、膝、腿、腰、というぐあいに、力を抜いていって、ついに頭頂まで完全に脱力する。ほんとうに「完全脱力」しちゃったら、えらいことになりそうだが、まあこれはイメージなので、安心して力を抜く。そうして心を平安に保ち、その充足した状態を味わえばいい。
ヨガの話題が出るごとに、
「屍のポーズだったら、まかしておいてください!」
とよく冗談を言っていたものである。
火の呼吸法とは、床の上に結跏趺坐して背筋を伸ばし、意識を丹田に置く。そして片方の鼻孔を手でおさえてふさぎ、あいたほうの鼻孔だけで激しく呼吸をする。このとき下腹部をつかって「フイゴのように」つよく呼吸をする。速く強く。しばらく激しい呼吸をくりかえしたら、次には、いま呼吸をしていたほうの鼻孔をふさぎ、それまでふさいでいたほうの鼻孔で呼吸をする。こうして交互に鼻孔を入れ替えながら、激しい呼吸をする。
これを人前でやったことはないが、ビジュアル的にいかにも「わたしヨガの修行してます!」という感じがする技法なので、ひそかに気に入っていた。鏡の前でおのれの姿をうつし、そのヨガ行者みたいな様子にウットリするのもいいかもしれない。
言うまでもないが、火の呼吸法はほどほどにしておかないと、身体にわるい。じっさい過呼吸になるため、一種のランナーズハイみたいに、頭もボーッとして、なんだか酔ったような陶然とした状態になってくる。飲み代に困ったひとは火の呼吸法でウットリしてみるのも、お酒の代わりになっていいかもしれない。
この火の呼吸法でも、独特の身体意識がひらいてくる。身体感覚がとぎすまされてくる。こんなふうにヨガ行者みたいなやり方で、とことん身体とつきあい、未知の身体意識を探求する日々を送るというのも、なかなかオツな生き方かもしれない。
*
しかし、このハタ・ヨガを「健康法」として実践してしまうと、この身体意識に曇りが生じてくる。ハタ・ヨガの眼目はあきらかに健康のためのものではなくて、身体意識を高め、深めているところにあるのだから、
「これをやっていたら痩せるワ」とか、
「ガンにかからないかも」
などと思っていると、身体意識からズレてしまう。
意識を身体にあずけ、その感覚を深めていかなくては、なんにもならない。ここでよけいな「御利益」を期待している心には、身体意識は開いていかないのだ。
「健康志向」は、あんがい身体に悪いものかもしれない。それは幻想であり、幻想は目を曇らせ、あきらかに身体意識から遠ざけてしまうからだ。