2007-11-22 11:18:29 | Notebook
     
何年か前のこと、部屋で独り珈琲を飲んでいたら、ひとの視線を感じた。ちょうど左肩の背後に。
すぐ脳裏に浮かんできたのは、くろぐろとした男の影。じっとりとした視線でこちらを睨んでいる。不穏で、ただならない雰囲気。しかし深刻ではないし、あまり根深くない。
誰なんだろう? そう思って、つぎに脳裏に浮かんできたのは、ある知人の顔。何度見なおしても彼の顔だった。彼の顔が、なにか恨みでもあるみたいに、こちらをじっと睨んでいる。

どうして睨まれているのか? まったく理由が分からない。怒らせた覚えもないし、失礼をはたらいた覚えもない。そもそも彼とは、もうずっと会ってもいない。

その数日後、本人から電話がきた。仕事の依頼だった。わたしは数日前にみた幻視のことなど忘れていて、こころよく引き受けた。つぎの週に打ち合わせに出向き、数年ぶりに彼にあって話をした。陽気で明るく、愉快な男で、わたしのことを気に入ってくれているようだった。あたたかい目に好意が満ちていた。

しかし彼の心は、なんだかフシギなかたちをしていた。劣等感がべつの顔をして思いがけないところに吹き出したり、コンプレックスのようなものが錯綜していて、それが奇妙な世界観を造りあげていた。ひとを見る目や、仕事に対する態度が、一見ノーマルなのに、すこしずつズレている。しかし陽気な性格が幸いしてか、偏屈でもないし、冷たくもない。それに幼児性を帯びているから、ひとに可愛がられるタイプでもある。仕事に夢をもっているし、熱心でもあった。その熱心さにわたしは敬服した。しかし人格の半分だけが生きていて、もう半分が夢をみているような雰囲気だった。なによりはっきり感じるのは、彼のこころが停滞していて、淀んでいる。わたしたちは煙草の煙がたちこめる喫茶店のなかにいたが、彼だけはその店に、もう十年もそうやって座りつづけ、煙草を吸いつづけているひとのように見えた。

仕事はその後まもなく始まったが、やがて頓挫した。理由は彼の勘違いだった。納期を勘違いし、進行を誤った。にっちもさっちもいかなくなって、仕事そのものが未完成のまま終わってしまった。
周囲は彼に振りまわされて走り回っていた。しかし彼は、自分が周囲から振りまわされていると思っていた。まあ妄想の世界にでもいたのかもしれない。

あまりにも極端で奇妙な話なので、わたしは笑ってしまった。当人がまじめに普通に進めておれば、なんの問題もなく仕上がっていたはずの仕事なのに、そうしなかった。そして彼は自分の問題を周囲に投影して、周りの人間のせいだと感じている。しかし彼の知性は、そうではないと知っている。だから彼はこの不幸の原因を「タイミングの悪さ」だと言っていた。なるほど、巡り合わせが悪いと思えば、誰のせいでもないということになる。



わたしたちが忘れてしまっている自分自身の意識や、心のなかの劣等機能の働き。それを心理学では影と呼ぶ場合がある。この理論は比較的分かりやすいが、これをつぶさに見ることは難しいし骨が折れる。この影は仕事関係や対人関係に投影、転移される。

たとえば、わたしは感情や本能が抑圧されているようなところがあると思う。そのせいか、昔から、本能的で能動的で、あけすけな人物が苦手だった。言いたいことを言い、自由奔放に傲慢に振る舞う人物に会うとショックを受ける。ときには軽蔑することもある。
とくに困るのは、影の投影や転移には「情動」がともなうということだ。そうして激しい情動とともに、感情的になり、相手に腹を立てたり、嫌いになるのである。こうなると、どんなに優れた知性でも、ありのままにそれを見ることはできなくなってくる。しかし逆に言えば、自分がそこまで感情的になれる相手こそが鍵をにぎっているわけだから、分かりやすい面もある。ひとが腹を立てたり、とくに嫌いになるときには、必ず、自分のなかの何かに対して腹を立てて嫌っているのだから。
この時点で、わたしはその相手に、自分のなかの影の部分、つまり劣等機能のまま潜在させてしまっている「能動的な部分や感情機能」の影を投影しているわけだ。いや根深い転移現象にまで行っているかもしれない。

これを解消するためには、わたしは知性の力を振り絞って、それをありのままに見る努力をする必要がある。これはなかなか骨が折れる。
それでも諦めずに、何年もかけて見つめつづければ、やがて分かってくる。そのひとは見かけほど自由奔放でもないし、本能的に好き放題やっているわけでもない。彼なりにひとの顔色をうかがい、彼なりに気をつかってもいると分かってくる。多少デリカシーが欠けているところもあるが、じつはわたしのほうがよっぽどデリカシーに欠けていることだってあり、似たようなものだ。そういうことが見えてくるのである。

やっかいなのは、最初の、転移をとおしてみたその人物の暴君みたいな姿も、その後の投影や転移を乗り越えて発見した紳士的な姿も、どちらも「当たらずといえども遠からず」であり、現実だということだ。現実はいつも、うんざりするほど多くの顔をもつ。両方とも「有り」なのだ。投影を乗り越えて、ここまで理解するためには、かなりの知性の力が必要だ。

しかしこの「影に気づく」といういとなみは、値打ちがある。生まれてこのかた、ずっと無意識の底に置き去りにしてきた、劣等機能のなかには得がたい宝石があって、そのひとにいちばん欠けている美徳や、いちばん必要な恩恵をもたらす。冗談でもなんでもなく、この世でいちばん「嫌なやつ」こそが、天使の役目をになうのだ。実際に、わたしの数十年の経験をふりかえってみても、素晴らしい美徳や経験、知識のほとんどは、「イヤ~なやつ」や、「虫唾が走るような最低なやつ」から受け渡された。これはほとんど、魔法のように不思議な話である。そんな魔法が、どのひとの人生でも起きていて、それを知らないひとは、たんにまだ気づいていないだけだ。そうやって、わたしの意識は拡大し、自分自身に近づいていったというわけだ。



この影は、あまりに意識されず放置されると、ますます力を持ち始め、強力に本人の足を引っ張り始める。仕事を頓挫させ、本人の世界観をゆがめ、偏屈に、うらみがましく、冷たく、怒りっぽく、おかしくしていく。なんだかタイミングの悪いような、不運や悪霊にでもとりつかれたような運命をもたらす。それは他人に投影され続け、周囲の他人の顔のまま、悪魔のように振る舞う。まるで本人にとっては、世界中から冷たくされているような気がしてくる。世の中にはろくなやつがいないと感じるようになる。はずかしながら、いまのわたしも似たようなものだ。

それがさらにこうじてくると、この影は、呪いや幽霊のようにふるまう。ひとりでに歩き始め、独自の意志をもつように見えてくる。

その影が、まるで幽霊みたいに、ひとの背中に立つこともある。

物語

2007-11-20 12:40:09 | Notebook
     
わたしはめったに小説を読まない。めんどうくさいし、読むのが遅いし。
それに自分が日々感じていることや、発見していること、抱えている問題があまりにも奇怪で深刻なので、この奇怪で深刻な問題を、あざやかに小説にしてみせた作品があれば読んでみたいと思うのだが、そんなものがこの世にあるとは思えない。いや、どこかにあるのだろうが、どうやって探したらいいか分からないし、失望する可能性のほうが高いとかんがえるべきではないか。
人間の罪について、愛憎について、生きるということについて、さんざん時間を費やして読まされたあげく、通り一遍の浅い話で終わってしまったら、わたしの時間は誰が返してくれるというのだ?

近年の宮内勝典さんの小説を読むと、宮内さんがまるで神々にケンカを売っている姿を見ることができて、ああ読んでよかったと思うことはある。世界中の宗教や神々をも敵に回してまで、人間をふかく掘り下げて、それを超えた視線をもとめている。しかも自分の言葉でものを言っているわけだ。ただし娯楽の手法では書かれていないので、彼がなにをやっているのか分からない読者も多いのかもしれない。

いま人間を掘り下げて、と言ったが、ただ掘り下げればいいというものでもない。人間を腑分けして、中味をあれこれ広げて見せるだけでは悪趣味にすぎない。

むかし『ソフィーの選択』という小説があって、これは思い出に残っている小説のひとつでもある。人間の痛みや絶望について、その存在について、ずいぶん掘り下げて見せてくれた素晴らしい作品でもあった。しかしこんなものを書いてしまったスタイロンさんは、その後精神的にちょっと危ない状態になり、ずいぶん苦しんだのだそうである。むべなるかな。文学というものは、具体的に身体と精神にダメージをあたえ、書き手の命を蝕むものなのだろう。そのうえ生活と経済までも蝕みそうだから、まるで受難そのものではないか。ほとんどの作家が、文学を放棄して娯楽作品に甘んじているのは、よくかんがえてみたら賢明なことなのかもしれない。いうまでもないが、わたしは娯楽作品を文学の下に置いているわけではない。別物だといっているだけである。むしろ、ひとの目を拓かせる力もないような、めんどうなだけの文学にくらべたら、落語や漫才の楽しい笑いのほうがずっと高級で、たくさんのひとを救っている。



しかし、物語の存在意義というものはある。
わたしはこのブログのおかげで、自分の言葉を書くという行為を始めることができた。いろいろ印象に残っていることや、考えたこと、発見したことなどを、思いにまかせて書く。そうして書いているうちに気づいたことがあった。
いまさら、こんなことに気づいているわたしは、よっぽど阿呆なのだろうが、ひとは物語を必要としている。フィクションであらねばならない、ということが意外なほど多いものだ。

深い話であればあるほど、それは現実に即した話であってはいけない。そのことに気づき、とたんに思考が止まってしまうことが何度かあった。いちばん肝心なことを書くとき、それはたいてい、フィクションであらねばならない。思いがけないことであった。
なぜなんだろう? いくら考えても理由が分からない。誰の話か分からなければ、いいじゃないか。当人さえ自分の話だということを分からないように書いておけば、いいんじゃないの? 誰かを傷つけることさえしなければ、いいのでは? そう思っていた。しかし、よくないのである。だからわたしは、いつも肝心のことを書けないでいる。急所を外さざるをえないのだ。

ベトナム戦争の現場を取材したあるカメラマンが、ピュリッツァー賞をとった。彼の作品のなかに、全裸で泣きながら走り回る少女の姿が写っているものがあって、顔もくっきり見えている。わたしはこれを見たとき、ああ酷い、と思った。
そのとき、わたしは中央線の電車に乗ってドアのところに立っていた。すると写真展の小さな広告が窓に貼り付けてあって、そこにその写真がつかわれていたのだ。
ものすごく良い写真だった。それに意義深い作品でもあった。世界を変えうる力を持っている。だからわたしは、その作品に対してなんの文句もない。しかし、わたしはその全裸の少女を見たとき、胸が痛くなった。これはだんじて、酷い、こんな写真を電車のなかに飾ってはいけない。それは戦争の悲惨さと現実を世に問う、という行為とはまったくべつの問題だ。
では電車のなかではなく、写真展の会場ならいいのか? おなじことではないのか? わたしは考え込んでしまった。しかし、なにかが間違っている。これは、してはいけないことだと思う。なぜわたしはそう思うのだろう?

わたしがその広告主なら同じことをしただろうし、そのカメラマンの立場だったら、やはりこの写真を世に問うだろう。その少女にとってみても、自分の姿が世界中のひとびとの目を拓かせるのであれば、本望かもしれない。しかし、間違っていることに違いはないと思う。なにが間違っているのだろう?



おそらく、真実は、明るみに出せばよいというものではない。明るみに出すということ、そのものが、間違いなのだ。そこに真実がこもるとき、それに光をあてるとき、それはフィクションであらねばならない。だから聖典は、あんな語り方をしているのだ。どこかのクニの、知らないひとの話。そのうえ、かんじんのことが、いつもすり替えられている。男の話が女の話になり、当人の話が飼い犬の話にすり替えられる。自分の話が他人の話として語られる。隠喩。比喩。そうしなければいけないのだ。それが現実にそのまま光をあてたものであると、それはなにかを深刻に壊してしまうのだ。あの少女の姿は、わたしのなにかを壊したのかもしれない。そして誰かのなにかを、壊し続けているのかもしれない。

テレビをつけたら、ある芸能人が記者会見をやっていて、離婚の原因について話をしていた。その芸能人は「ないことを書かれるのがいちばん困る」と言っていたが、わたしはそうは思わなかった。ないことであろうが、真実であろうが、離婚の理由までも公開するという行為じたいが、深刻に間違っているのだ。いや友人同士のプライベートな場であったとしても、やってはいけないことだ。ましてやそれを、言葉で表現してはいけない。言葉はつねに間違っているからだ。言葉で暴くという行為は、もっとも最低の行為のひとつでもある。どうして離婚したんですか、と言葉で訊くほうも間違っているし、それに言葉で答えようとするほうも間違っている。
テレビに映っているのは、彼の心がばらばらにされ踏みにじられている姿であった。有名人はいつも、すでに死んだ人のように扱われる。その仮面には現金が支払われるのだから、本人も辞めるわけにはいかないのだろうが、けっしてイーブンではない。有名税などという馬鹿げた楽天的なものでもなく、どうみても代償が大きすぎる。死んだら死んだで、今度は金儲けに利用される。

ひとは、真実にとどく光を現実にあてられると、引き裂かれ、傷つけられる。それはまったくなにかを破壊してしまう。
しかしひとは、真実を語る物語はもとめている。こんなにたくさんの物語が日々うみだされ、読まれ続けている理由がそこにあるんだろう。語られるのを待っている真実がたくさんある。しかし、それにじかに光をあててはいけないのだろう。

無意味と意味

2007-11-15 20:19:41 | Notebook
     
わたしは長いあいだ、悪を転用して善に利する方法を学んできた。
それはまるで、アメリカを支持する国に税金を払い込みながら、戦争反対のデモに参加するようなやり方だ。
あるいは、駆け引きによって愛を輝かせようとする恋人のようなやり方だ。

狡猾なプレゼント。利口な沈黙。演技。そらした目。相手をうかがう心の目。
そんなものでも、善良な愚かさが何もかも台無しにし、無垢な稚拙さが庭の草木を根こそぎにしてしまうよりは、はるかに上等だったからだ。

わたしの欺瞞は陽を輝かせ、水を澄みきらせ、花をよみがえらせた。
わたしの悪徳は富をもたらし、美しい料理やワインを実らせ、それをひとびとに分かち与えた。
わたしの傲慢はひとを励まし、恩恵をあたえた。

真心をナイフのように相手につきつけ、円満な笑顔と同意と利益を得ようとするビジネスマン。わたしは彼のまぼろしを見る。善意をはずかしめ、取り引きのための小銭に換金し、より多くの善意と富を生みだすその姿を。



彼はナイフにうつる月の光の美しさに見とれる。なにもかもが無意味なのに、そこに彼の人生があり神聖さがあるのはどうしたわけだろう。その月が本物であろうが街灯のイミテーションであろうが、それがどうだというのだろう。とうのむかしに彼は仕事に倦んでおり、彼にとっての職業は、しきりにネジを巻いては歩かせ、またすぐに止まってしまい巻きなおす、時代遅れの傷んだ玩具のようになっている。ナイフは無意味だ。それは偽物であり、ろくに切れもしない。彼はそれを身に染みて知っている。それなのに、その神聖さが本物であるのはなぜだろう。

彼は作り物の街に出て、株券と企画書が建てた新装開店のレストランで妻と食事をする。空疎なサービスを受けながら、妻の髪の色が変わったことに気づく。彼はかんがえる。はじめて出会ったときの妻の頭はどんな色だったろう? 奇妙なことに思い出せない。夢のような栗色だったろうか、暖色を秘めたグレーだったろうか。そして彼は思う。ほんとうの髪が何色であろうが、いま目の前にあるそれが地毛であろうがウィッグであろうが、そのことにどういう意味があるというのだろう。

料理は美味しく、店の雰囲気は奇妙に洗練され行き届いている。彼はその奇妙さとともに味わう。ひとりの人間の夢から生まれたものではない、がらんとした無意味な空間のなかに、雇われた料理人の、ちいさな心がしがみついていることの奇妙さ。それが丸い皿のうえに降りてきて、色とりどりのかたちをなしている。

彼の目にはすべてが遠く見えてくる。それはまるで砂のように姿形を喪い、こぼれ落ちてゆく。空疎のなかに、料理人の嘘のない気持ちだけが届いてくる。それは株価を変動させはしないだろうし、企画書の重要項目にのぼることもないだろう。神聖な森のものと海のものが姿形もなく裏ごしされた、たぶん報酬以上の手間をこめた汁物に、彼はスプーンをくぐらせる。なにか探し物をするみたいに。



わたしは人生の無意味さに圧倒される、それが空疎だからじゃない。そんな空疎のなかにさえ神聖さがあるから、圧倒されるのだ。

神聖さ。それを見つけるには特別な目が必要だ。秘儀をしるした書物のなかにではなく、王による厳かなお告げからではなく、樹々がみのらせた葉脈をつたわる暗合ではなく、それは駅前で配られる宣伝用のポケットティッシュのように、易々と、安っぽいやり方で手渡される。そのことに、あまりの無意味さに、わたしはまったく驚いてしまうのだ。

人生の無意味さのなかで、男たちは帰り道を喪う。女たちは行き先を喪う。どこを歩いていたのか、なんのために歩いていたのかさえ思い出せない。

わたしは見る。女のまぼろし。その女性は仕事帰りに、街角のカフェの椅子に腰掛けて、珈琲カップのふちに時間が流れゆくのを見つめている。ほんの五分、あるいは数十年。彼女は未だ少女であり、同時にすでに若くはない。誰を待っていたのか、なにを待っているのか、思い出せない。そんなふうに時は過ぎ去っていく。なにが起きているのか、あるいは、なにも起きていないのか。それがなにであるのかを、カップのなかに探している。

わたしはここに坐って、神聖なものとそうでないもの、意味のあるものとそうでないものについて、かんがえている。しかしその答えは月の光のように移ろい続ける。

蜂蜜とシナモンパウダーのかけられた、満月のようなパンケーキ。気前よく何枚もかさねられたそれを、わたしは見つめる。まるで幼児のような目で、不器用な、稚拙なやり方でそれを見つめ、意味のあるものを探している。そんな方法でも、そこに信念や技法が入り込むよりはずっとましだからだ。

それは悪魔めいてもいて、神話的でもあり、深い味わいもあり、甘くもあり苦くもあり、単純であると同時に複雑で、無意味でもあり、きまじめな意味を帯びており、崇高でもあり、真実でもあり、同時に子供じみてもいて、ありふれていて、馬鹿馬鹿しい。



ずっとあとになって、夢のなかでふいに彼女は気づく。
カップのなかに探していたものを、たぶん、ひとつ見つける。

もうとっくに忘れていた、むかしむかし好きだった男の部屋の匂い。彼と話していたときの空気のようなもの。男が生得的にもっていた美徳のようなもの。彼の肉体の、ある部分のライン。それは彼の故郷や生い立ちから来るなにか。草木や湧き水のように、力強く真っ当ななにか。さりげない愛らしいしぐさに宿っていた、たぐいまれな祝福のようななにか。たぶん彼女しかその値打ちに気づいていないはずの、なにか。それがどれほど彼女を自分自身にしてくれて、新鮮によみがえらせてくれていたかを、おもいだす。

彼女は覚る。もう忘れちゃいけない、自分をもう一度きれいにしなくちゃいけないとおもう。
あたしはなんて馬鹿だったのだろう。無意味なものを引き受けすぎていた、ぜんぶ引き受けられるわけがないのに。

彼女は窓から街を眺める。彼女の目は変わってしまった。すべてのものが、りんかくを失い、ひどく遠くに見える。だが神聖なものがはっきり見えている。

そして彼女は笑う。まったく信じられない、だって、あんなに愚かで、いかがわしくて、馬鹿馬鹿しい、無意味な恋だったのに!