何年か前のこと、部屋で独り珈琲を飲んでいたら、ひとの視線を感じた。ちょうど左肩の背後に。
すぐ脳裏に浮かんできたのは、くろぐろとした男の影。じっとりとした視線でこちらを睨んでいる。不穏で、ただならない雰囲気。しかし深刻ではないし、あまり根深くない。
誰なんだろう? そう思って、つぎに脳裏に浮かんできたのは、ある知人の顔。何度見なおしても彼の顔だった。彼の顔が、なにか恨みでもあるみたいに、こちらをじっと睨んでいる。
どうして睨まれているのか? まったく理由が分からない。怒らせた覚えもないし、失礼をはたらいた覚えもない。そもそも彼とは、もうずっと会ってもいない。
その数日後、本人から電話がきた。仕事の依頼だった。わたしは数日前にみた幻視のことなど忘れていて、こころよく引き受けた。つぎの週に打ち合わせに出向き、数年ぶりに彼にあって話をした。陽気で明るく、愉快な男で、わたしのことを気に入ってくれているようだった。あたたかい目に好意が満ちていた。
しかし彼の心は、なんだかフシギなかたちをしていた。劣等感がべつの顔をして思いがけないところに吹き出したり、コンプレックスのようなものが錯綜していて、それが奇妙な世界観を造りあげていた。ひとを見る目や、仕事に対する態度が、一見ノーマルなのに、すこしずつズレている。しかし陽気な性格が幸いしてか、偏屈でもないし、冷たくもない。それに幼児性を帯びているから、ひとに可愛がられるタイプでもある。仕事に夢をもっているし、熱心でもあった。その熱心さにわたしは敬服した。しかし人格の半分だけが生きていて、もう半分が夢をみているような雰囲気だった。なによりはっきり感じるのは、彼のこころが停滞していて、淀んでいる。わたしたちは煙草の煙がたちこめる喫茶店のなかにいたが、彼だけはその店に、もう十年もそうやって座りつづけ、煙草を吸いつづけているひとのように見えた。
仕事はその後まもなく始まったが、やがて頓挫した。理由は彼の勘違いだった。納期を勘違いし、進行を誤った。にっちもさっちもいかなくなって、仕事そのものが未完成のまま終わってしまった。
周囲は彼に振りまわされて走り回っていた。しかし彼は、自分が周囲から振りまわされていると思っていた。まあ妄想の世界にでもいたのかもしれない。
あまりにも極端で奇妙な話なので、わたしは笑ってしまった。当人がまじめに普通に進めておれば、なんの問題もなく仕上がっていたはずの仕事なのに、そうしなかった。そして彼は自分の問題を周囲に投影して、周りの人間のせいだと感じている。しかし彼の知性は、そうではないと知っている。だから彼はこの不幸の原因を「タイミングの悪さ」だと言っていた。なるほど、巡り合わせが悪いと思えば、誰のせいでもないということになる。
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わたしたちが忘れてしまっている自分自身の意識や、心のなかの劣等機能の働き。それを心理学では影と呼ぶ場合がある。この理論は比較的分かりやすいが、これをつぶさに見ることは難しいし骨が折れる。この影は仕事関係や対人関係に投影、転移される。
たとえば、わたしは感情や本能が抑圧されているようなところがあると思う。そのせいか、昔から、本能的で能動的で、あけすけな人物が苦手だった。言いたいことを言い、自由奔放に傲慢に振る舞う人物に会うとショックを受ける。ときには軽蔑することもある。
とくに困るのは、影の投影や転移には「情動」がともなうということだ。そうして激しい情動とともに、感情的になり、相手に腹を立てたり、嫌いになるのである。こうなると、どんなに優れた知性でも、ありのままにそれを見ることはできなくなってくる。しかし逆に言えば、自分がそこまで感情的になれる相手こそが鍵をにぎっているわけだから、分かりやすい面もある。ひとが腹を立てたり、とくに嫌いになるときには、必ず、自分のなかの何かに対して腹を立てて嫌っているのだから。
この時点で、わたしはその相手に、自分のなかの影の部分、つまり劣等機能のまま潜在させてしまっている「能動的な部分や感情機能」の影を投影しているわけだ。いや根深い転移現象にまで行っているかもしれない。
これを解消するためには、わたしは知性の力を振り絞って、それをありのままに見る努力をする必要がある。これはなかなか骨が折れる。
それでも諦めずに、何年もかけて見つめつづければ、やがて分かってくる。そのひとは見かけほど自由奔放でもないし、本能的に好き放題やっているわけでもない。彼なりにひとの顔色をうかがい、彼なりに気をつかってもいると分かってくる。多少デリカシーが欠けているところもあるが、じつはわたしのほうがよっぽどデリカシーに欠けていることだってあり、似たようなものだ。そういうことが見えてくるのである。
やっかいなのは、最初の、転移をとおしてみたその人物の暴君みたいな姿も、その後の投影や転移を乗り越えて発見した紳士的な姿も、どちらも「当たらずといえども遠からず」であり、現実だということだ。現実はいつも、うんざりするほど多くの顔をもつ。両方とも「有り」なのだ。投影を乗り越えて、ここまで理解するためには、かなりの知性の力が必要だ。
しかしこの「影に気づく」といういとなみは、値打ちがある。生まれてこのかた、ずっと無意識の底に置き去りにしてきた、劣等機能のなかには得がたい宝石があって、そのひとにいちばん欠けている美徳や、いちばん必要な恩恵をもたらす。冗談でもなんでもなく、この世でいちばん「嫌なやつ」こそが、天使の役目をになうのだ。実際に、わたしの数十年の経験をふりかえってみても、素晴らしい美徳や経験、知識のほとんどは、「イヤ~なやつ」や、「虫唾が走るような最低なやつ」から受け渡された。これはほとんど、魔法のように不思議な話である。そんな魔法が、どのひとの人生でも起きていて、それを知らないひとは、たんにまだ気づいていないだけだ。そうやって、わたしの意識は拡大し、自分自身に近づいていったというわけだ。
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この影は、あまりに意識されず放置されると、ますます力を持ち始め、強力に本人の足を引っ張り始める。仕事を頓挫させ、本人の世界観をゆがめ、偏屈に、うらみがましく、冷たく、怒りっぽく、おかしくしていく。なんだかタイミングの悪いような、不運や悪霊にでもとりつかれたような運命をもたらす。それは他人に投影され続け、周囲の他人の顔のまま、悪魔のように振る舞う。まるで本人にとっては、世界中から冷たくされているような気がしてくる。世の中にはろくなやつがいないと感じるようになる。はずかしながら、いまのわたしも似たようなものだ。
それがさらにこうじてくると、この影は、呪いや幽霊のようにふるまう。ひとりでに歩き始め、独自の意志をもつように見えてくる。
その影が、まるで幽霊みたいに、ひとの背中に立つこともある。