ユング思想なるもの

2012-06-29 23:13:06 | Notebook

ひとの意識を、無意識の海に浮かぶ小島のようにかんがえ、その小島の外側に、自我とは別の「セルフ」という存在を仮定したユングの思想は、思想としてはなんら新しいものも、みるべきものもないが、人間にとっての宗教というものをみなおし、また宗教が人間に与え続けてきた「生きる意味」をみなおすうえでは、有用であると思う。

ユングとは、すでに死んでしまった宗教を、現代人のなかに、よみがえらせた思想家だったのだ、というのが今のわたしの解釈だ。とくに、神の子が人間から産まれるという教義によって、旧約の神から新約の神へと、神と人間の認識を深めるに到った経緯を描いた『ヨブへの答え』は圧巻である。

わたしは、ユング派の医者が言うことなど信じないし、ユング思想を「幸せになるための思想」などと紹介する嘘つきの学者をも信じない。学問という側面からみるならば、ユング心理学なるものは、最もいかがわしい。夢占いで病気を治そうとする霊媒のようなものだ。しかしその値打ちは別のところにあって、ユング思想とは現代的な宗教復興であり、その意味においてのみ値打ちがあるのだ。

わたしは、ほんとうの敬虔さや、畏怖の念、神への崇拝というものを、ユング思想を手がかりにして、自分の夢のなかから、じかに手に入れてきた。二十数年をかけて。
それは、わたし一人の宗教であり、同時に、とても現代的な宗教でもある。

宗教は、紙に書かれたものから学ぶことはできない。記憶することもできないし、教えてもらえるものでもない。まして講義などで学ぶことのできるようなものでもない。教会で与えられるものでもなく、お寺で叩き込まれるようなものでもない。瞑想や禅の技法によって体得できるようなものでもない。

自分のなかから、あたらしく生みだすしか、ないものなのだ。
わたしにそれを教えてくれたのが、ユング思想なのである。

だからわたしは、ユングが好きなひとたちや、ユング派のひとたちとは、まず話が合わない。ユング教で頭がいっぱいになってしまったひとたちとは、付き合えないのである。

そのかわり、あらゆる宗教人たちの、その敬虔さや、神聖さに、共感できる感受性を持つことができた。まさにユングがそうであったように。

それは、いったん「ユング教」に染まってから、それをまた脱色するような作業だった。
わたしは夢のなかの大切な女性を、アニマと呼ぶことを、やめることにした。
ある存在を、「セルフ」と呼ぶのを、やめることにした。
そうして、わたしの信仰は、さらに成熟していったのだ。

それは、わたしだけのものになった。

そもそも、すべての宗教が、もともと、たった一人のものであったように。

それから、すべての信仰が孤独であるように、夢は、孤独なのである。だからこそ値打ちがあるのだ。


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