写真は夢に似ている(年末年始のごあいさつ)

2007-12-31 08:38:17 | Notebook
     
ひさしぶりに、観た
以前から知っている、知らないひとのホームページ
http://www.10btm.com/



写真は夢に似ている

なぜなら、そこには自分がいないから

写真からくる解放は、自分からの解放なのかもしれない

自分という、小さな部屋(カメラ)からの解放

死者の目と、生者の目の境界線から観た

しかし色もあり、あじわいもある光景を

わたしたちは快適な部屋で、くつろいで観ることができる

ひとの魂がずっと希求している、おおきなものに、一歩ちかづいた世界

あの太陽に、一歩ちかづき、

あの空に、一歩ちかづき、

いつもそばにいたのに、ちかづけなかった、その人に、

写真のなかでは、一歩よりそう

そろそろわたしは、もう2007年にはいない

2008年のあっちに行ったら、

もうすこし2007年の存在にちかづけるのかもしれない

一枚の写真を眺めるように

というわけで、みなさん、よいお年を

パンツより性格

2007-12-26 16:22:21 | Notebook
     
ときどき電話をくれる友人がいる。彼女はこれまでに何度か精神病院に入院しているのだが、ここのところ安定していて、おだやかな生活をおくっているようだ。よい担当医との出逢いと、あたらしい治療薬の効果もあるのかもしれない。
彼女の話を聞いていると、ときに興味ぶかい発見がある。とくに幻覚体験について貴重な話をいろいろ聞くことができて、思うところがいろいろあったが、ここではその話はしない。

精神病のつらさ。それは想像するしかないのだけれど、彼女のようすをみていると、とどのつまりそれは人生そのもののつらさでもあるような気がする。
もちろん、その症状自体のつらさ苦しさがあるのだろうが、それ以上に、どうやって生きていこうかとか、生活保護を受けるのがつらいとか、働けないのが悲しいとか、電車に乗るのがつらいとか、それから精神的に不安定であることのつらさなどにも、彼女の悩みの一側面があるようだ。
これはほかの病いの場合もそうかもしれない。ひとの病いの苦しみを、他人がこんなふうに決めつけてしまうのはいけないことではあるけれども、ある意味、病気の苦しみとは、人生そのものであったりする。彼女をみていると、そんなふうに思えてくる。

それに深刻さということで言えば、わたしの人生だってそう負けてはいない。彼女たちの場合は薬もあるし生活保護もあるし障害者手帖という味方だってあるが、わたしには何もない。「重度貧乏手帖」とか「不遇手当て」なんてどこにもない。このご時世、神社の前で踊りをおどればお札やお金が降ってくるというわけでもなし、じつにしょぼいものである。

それに彼女はきれいなモデルさんなので、いつもいつも男の話が絶えない。東京下町育ちの、あけっぴろげで庶民的な性格のせいもあって、じつに付き合いやすい女性であり、さらには下町女性にありがちな身も蓋もないキツさがなく、暖かく、のほほんとしている。だから、彼女のまわりにはいつも老若男女が集まり、しぜんと酒盛りが始まる。最近は地元の老人たちのアイドルなんだそうである。

いつ話をきいても、あたらしい恋人の話題や、熱心にアプローチしてくる男性の話ばかりで、華やかすぎて目眩がしそうだ。そして、そんな華やかな男性関係の歴史を、長年にわたってつぶさに聞かされて、微に入り細にわたって知っているのは、たぶんわたしだけだろう。いちど年表をつくってチェックしないと記憶が追いつかないと思ったほどだが、もちろんそんなことはしない。どうせ墓場までもっていくべきものなんだから、忘れてしまうのなら、それに越したことはないとさとったのであった。



そんなわけで、先日の電話でも当然、恋人の話がでた。
今回の男性は、精神病院で知り合ったのだそうだ。三十代前半の同い年。

この男性にかんして、彼女の悩みをいろいろ聞いたのだが、内容はごくふつうの男女の話であった。彼の人格とか、性格の問題とか、どれもこれも、どこかで聞いたような話で、まったくふつうの男女の話なのであった。
「うーん、ちょっと子供すぎるねえ、その彼……」
などと相づちを打ちながら聞き役に徹していた。わたしはだいたいアドバイスということをしないし、極力ネガティブな判断はしないことにしているのだが、それでも過去には、それはちょっといかがなものか、とあきれるような話もあった。しかしそんな過去にくらべると、今回はどうやら平凡で、おだやかなものだった。

彼女の部屋に入るなり「男の気配がする、男の匂いがする」などと言って勝手に険悪になっている、こまった男の話を、うんうんと聞いていた。うんうん。めんどくさいやつだねえ、うんうん……。
「ところで、その彼は、いまどこにいるの?」
そう聞いたら、彼女はこう答えた。
「ああ、また入れられちゃったの」
「え、病院に?」
「そうそう」

その彼はある日、親戚をむかえに駅に向かったのだそうだが、なんとパンツ一丁で、裸足のまま駅まで歩いていったのだそうだ。そうして駅前で誰かに両脇をかかえられ、そのまま救急車で病院へ運び込まれ、入院しているんだそうだ。びっくり。
わたしもいよいよ生活が行き詰まったら(いやすでに行き詰まっているのだが)、パンツ一丁で駅まで歩いていけば、自動的に、屋根とお食事とベッドのある暖かい場所へ誰かが連れて行ってくれるのだろうか。

しかし、わたしはつい、こんなことを言ってしまった。
「べつに男がパンツ一丁、裸足で駅へ行こうが、かまわないよなあ。そんなことよりも、やっぱり、ひとの部屋に来ていきなり男の気配とか言いだしたり、わけのわからんことで怒りだしたり、そういうヒネた性格のほうがずっと問題だよなあ」
すると彼女は電話の向こうで、すこし笑って、こう言った。
「そうそう、そうなのよ。性格のほうが問題なの。たまにパンツで外を歩こうが、騒ぎだそうが、そんなことはどうでもいいのよ」
「わはは、そうだよなあ。ひとの気持ちを踏みにじったり、悲しい気持ちにさせたり、心が通じなかったり、そういうことのほうがずっと問題なんだよなあ」
「そうなのよ、そういうことのほうがずっと問題なのよ、パンツなんか、ささいなことなのよ」
「わはは、そうだそうだ」
「そうそう、そうなのよ」

ひそやかな交感

2007-12-24 17:59:00 | Notebook
     
先日、久しぶりにあるひとと会って話をした。とても繊細な男性で、こまやかな気づかいが花の香りのように立ちこめる、独特の雰囲気をもつ相手だった。

こんなふうに書くと、さぞ清潔感のある物静かな色男だと思うだろうが、そうではなく、見た目はずんぐりした、しゃれっけのない、よくしゃべる剽軽な中年男性なのだから笑ってしまう。見る目のある女性にしか見つけられない花みたいではないか。

こういう男性の気づかいは、すっきりと透明で、ひそやかな美しさがある。こういうひとの恋愛がどういうものなのか、あずかり知らぬことではあるけれども、しばらく想像してみるのは楽しかった。



あ、うん、の呼吸。ある種の繊細な男性と話しているとき、この「あ、うん」が行き来するような瞬間がある。ひと言が、瞬時に交感しあい、つぎの交感を生む。あ、うん。

いまうっかり「ひと言が」と書いたが、これは言葉を通じているようでいて、じつは言葉ではない。こういった交感のばあいは、言葉ではなくて、ある種の「におい」や「気分」を交感しあっているようなところがある。ここには男性の、たましいの秘密があるようにも思う。

ちなみに、この男性特有の「におい」や「気分」をすっかり台無しにしてしまうような、質のわるいことばを生みだす心こそが、男性にとっての「悪女」の正体でもある。この「悪女」の発する、とるにたりない、質のわるいことばが、どれほど男性のたましいを台無しにし、深刻に傷つけてしまうか。これはもっとひろく認識されるべきことかもしれない。女性が暴力によってたいへんなダメージを受けるように、男性は女性のこころない言葉や態度によって破滅することがある。

こういった独特の「におい」や「気分」の感覚は、女性のばあいにはちょっと色合いが違ってくるような気がする。うまく言えないけれども。たとえばある種の女性の場合は、かぎつけた「におい」がすぐに「ことば」や「かんがえ」のかたちをとっているようにみえる。そのかんがえが、さらに道しるべのような役割をにない、交感の扉をひらいていく。そんなふうにみえることがある。もしこのとおりであるならば、こういった女性のばあいには、かんがえをあらわすこと、しゃべることが必要不可欠なことなのかもしれない。

おもしろいもので、このとき、その「かんがえ」の出来、不出来はどうやら重要ではない。たとえ粗悪なかんがえでもかまわないし、質のわるい意見でもよいのである。これはわれわれ男性にとってもっとも理解しがたいところでもある。おろかなかんがえや、粗悪な言葉をやりとりしながら、しかし高度であたたかい交感をやってのけている女性同士の会話は、ほとんど男性の耳には魔女の会話にしか聞こえない。
男性は、そんな女性の粗悪な言葉を、けんめいに理解しよう感じようとして、においをかごうとしているようなところがある。このズレぐあいもまた、楽しい。

女性のなかには言葉によって解放されるタイプもいる。わたしは池田晶子さんの理知的な文章を読むたびに、言葉が多すぎるという印象をうける。それはきっと、彼女の力強いロゴスのうしろに、たおやかなエロスがひそんでいるからだと思う。

男性のばあいは、言葉で解放されることはあまりない。だから、おしゃべりをする必要がない。言葉以前の嗅覚のようなものと、においや、気分の色合いのようなものの交感。それらの性質。そのあたりに男性の美しさの秘密があるのかもしれない。



きれいであれ。きれいなひとになりなさい。泥水のなかに咲く、蓮の花のようでいなさい。そしてなにより、きれいな恋愛をしなさい。男の子が、そういう教育を受けるという例はあまり聞かない。しかし、そういう教育こそが、男性の本性に合っているのかもしれない。

アイシス

2007-12-20 08:43:47 | Notebook
     
 わたしがアイシスと結婚したのは5月5日
 しかし、ながく続けることはできなかった
 それでわたしは髪を切り、馬に乗った
 誰も知らない土地をめざせば
 もう間違いを犯すことはないだろう

 闇と光の高地へやって来た
 町の中心を境界線が通っている
 わたしはポニーを右側の杭につないで
 服を洗うために洗濯屋へ入っていった

 すみにいた男がマッチをもとめてきた
 すぐに分かった、ただものではないということを
 彼はこう訊いてきた「いい話を探しているんだろう?」
 わたしは言った「金はないぞ」
 彼は言った「かまわないさ」

これはボブ・ディランが1975年ごろにつくった「アイシス(Isis)」という作品の冒頭部分だ。彼はここで結婚について歌っている。しかしそう言うと意外に思うひとも多いだろう。なにしろ主人公は冒頭ですでに離婚しているし、妻はほとんど出てこない。ディラン自身が言うには、これは結婚の歌であると同時に、真実の歌なのだそうだ。

ひとりの男性が、ある女性に魅せられて結婚をするということが、どういうことなのか。どういう魔力がはたらいているものなのか、どういう不吉さを感じるものなのか、どんなふうに意識が変わっていくものなのか、その暗いほうの側面をみることができるかもしれない。



この歌では、それまでにはみられなかった神秘主義的な表現がつかわれている。作品全体に、神秘思想ではおなじみの象徴が散りばめられているのだ。ライト(右=光=意識)の側の杭にポニー(無意識への案内者や、自分の影などの象徴)をつなぎ留めるところも、男と出会うのが闇と光の境目(意識変容の場)であり、同時に洗濯屋(意識の刷新の場)であることも、男が火を欲しがるところなど、まったく神秘思想を知らないひとにこういうものは書けるはずがない。ただし、すぐれた詩的表現として成立しているから、そんなことを知らなくてもまったく問題がない。
この神秘主義的な傾向は、つぎのアルバム『ストリート・リーガル』でさらに深さを増していき、意識の変容をあつかった傑作「チェンジング・オヴ・ザ・ガード」へと花開いていく。

彼の歌い方は、ここでもずいぶん手が込んでいる。周到に作り込まれ、練り上げられたすえに、はしからそれを壊しにかかるような、粗野で、わざとらしくズレた、ばらばらに細かく区切った彼独特のボーカルだ。なぜ粗野でズレているかというと、そのほうが歌に命のようなものが吹き込まれ、迫力が出てくるからだ。
おなじ理由から、彼は作り込んだ作曲のあとを注意ぶかく消しているから、まるでいま思いついて口ずさんだように聞こえる。よく聞かないと、いつのまにか始まっていつのまにか終わったみたいな印象すら受ける。

周知のことだが、ディランの歌というものは、聴き手の感受性を試しているようなところがある。ポップ音楽の世界で「歌に合わせることを聴き手に強要する音楽をつくったのは彼が最初だ」と言ったのは現代画家のボブ・ニューワースだった。かいかぶりすぎているが、ある側面をよく伝えていると思う。
しかしそれ以前に、ディランというひとはつねに芸術家であって、ポップ歌手であったことは一度もなかった。さすがに才人なので、ポップ歌手の役割をこなしてはいたが、本質的にはそうではなかった(このことを考えるたびに、わたしはいつも愉快な気分になる。あの彼がほんとうはポップ歌手でなかったなんて、最近まで思いいたらなかった! あの「ミスター・タンブリンマン」の作者なのだから、最初から分かっているべきではなかったか)。



 われわれはその夜、氷におおわれたピラミッドへと辿り着いた
 彼は言う。「そこにある死体を見つけて掘り起こすんだ
 それを持ち出せば、良い値がつくだろう」
 わたしはそのときはじめて、彼のたくらみを知ったのだ

 風は吠え、雪は荒れ狂った
 われわれは夜通し暴きつづけ、明け方まで切り開いていった
 途中で彼が死んだとき、感染しなければいいが、と願った
 だが、続けるよりほかにしようがなかった

主人公を墓場への旅へと誘った男は、彼自身の意識の影であり、彼自身にほかならない。だからすぐに「ただ者ではない」と分かったわけだ。彼らは毛布と言葉を交換しあう。主人公は「毛布」すなわち眠りによって無意識のなかの彼に近づき、彼からは「言葉」すなわち認識を得る。
ところが影の男は墓を暴く作業の途中で死んでしまう。主人公は独力で墓を開くが、そこには死体はなく、宝石もなにもなかった。ここで彼は妻への愛と、自分自身に目覚める。

このとき、この影の男について主人公は「彼は仲良くしたかっただけだったのだ」と気づく。物語としてはなんだか間が抜けているが、これはそもそもひとの意識にとっての「影」の重要点をよく言い表している。誰にとっても、「影」とどう仲良くするかが最重要のテーマなのだから。戦ってもいけないし、勝っても負けてもいけないし、馴れ合ってもいけないのである。
主人公は、やっと開いてはみたものの空っぽだった棺桶のなかに、その影の男の死体を入れる。そして封印するわけだ。それは自分自身を葬り去り、あらたに再生させる行為でもある。



たとえば手塚治虫のように、こういったファンタジーのシンボルに敏感な感受性を持つひとだったら、ディランがやろうとしていたことに気づいただろうと思う。というより、この「アイシス」そのものが、いかにも手塚が描きそうな物語だ。

わたしはここで手塚の「どろろ」を思い出した。あの百鬼丸とどろろの関係は、まさに主体と影との関係ではなかったか。そのうえ、どろろは百鬼丸の女性的魂でもある。
まさに、どろろは百鬼丸と「仲良くしたかっただけ」なのだ。そして意識の光(「どろろ」では刀、「アイシス」ではマッチ)を欲しがる。しかも、どちらも本人の命を危険におとしいれる存在でもある。
もし「どろろ」が第一部で終わらずに続いていたら、きっと、どろろの成長がそのまま百鬼丸の成熟へつながるような物語になっただろう。手塚ならきっとそういう物語を描いたであろうと、わたしは確信している。この構成から「ファウスト」を連想するひともいるかもしれない。そういう意味でわたしは、手塚がファウストを解釈しなおした「百物語」は、「どろろ」の変形だと思っている。

手塚のこうしたモチーフの扱い方を、こういう流儀で見なおしていくと、おもしろい発見がいろいろある。たとえば「やけっぱちのマリア」あたりをよく読み返してみると、手塚のほかの作品のかなめが見えてくるだろう。あのマリアを憑依させたのがダッチワイフであることの多層的な意味に気づかないのはもったいない。そのうえあの物語は、まさに古い秘教的な意味からみても「マリア」の物語でもあることに驚かされる。彼の作品はこういうふうに、一見とんでもないアイデアに見えるものが、じつはかなり挑戦的な意図をもっていることがある。



ただし手塚の場合はストーリーテラーとして、こうした表現の意味も値打ちも分かったうえでやっていたが、ディランの場合は、あくまで詩的ひらめきと声のちからによって探り当て、創り上げているので、どこまでわきまえているのか、計りかねるところがある。じっさい、この歌は、その後の彼のステージで、どんどん姿を変えていく。

詩の才能と声のちからで手探りに、物事の本質をダイレクトにつかんでみせるディランの才能には驚くべきものがあって、それは彼のほかの歌にも、デビュー以来一貫してよくみることのできる特徴だ。共感の才能。古い歌や言葉への共感。いきなり初対面で本質をつかむ能力のようなもの。理解するより先に、ひらめきによって、彼は本質をいきなりつかみあげる。

主人公は、そのピラミッドでやっと、別れた妻への愛情と自己をよみがえらせる。彼はそのために、わざわざ苦しい旅をしなくてはならず、もうひとりの自分をピラミッドに葬らなくてはいけなかったということだ。
ところが、主人公は幸福になったというわけでもない。ここに彼の言う「真実の歌」の姿が立ち現れてくる。

それは歌の最後のクライマックスで発せられる「Yes!」という彼の声だ。妻への愛にめざめて復縁したというのに、喜んでいるんだか、諦めているんだか、絶望しているんだか、なんだかよく分からない精彩を欠いた、なげやりな声。彼は、この「Yes!」をキーワードのように提示している。
リアルといえば、これほどリアルな声もない。物語はハッピーエンドなのに、まったくそんなふうに聞こえないのだ。やれやれ、なにもここまでリアルでなくてもいいだろうとは思うが、そう歌いたかったのだろう。この「yes!」はその後ステージでどんどん姿を変えていき、ほとんど悲痛な叫びのようなものになっていく。そして彼は、やがて実際に離婚してしまうのだ。



この歌を聴くとき、わたしはいつも首をかしげてしまう。この神秘的な、まるで中世から抜け出てきたような表現は、どこから来たのだろう。そして、ディランの人生にどのようにかかわりあっていたのだろう。
やがて来る離婚の運命。彼のなかのなにかが、あらかじめその運命を予見してこれを書かせたのだろうが、それはどういうことなのか。当時の彼は古い中世の精神のなかに生きていたとでもいうのだろうか。あるいは逆に、ディランという現代人のなかに「それ」が生きていたのか。そして、それはいまも生き続けているのか。

「それ」とはなにか? わたしには分からない。しかし、ただひとつ言えるのは、きっとそれは物語のアリバイなのだろうと思う。


※写真はディランのアルバム『Desire』ジャケット。2曲目に「アイシス」が収められている。

自我

2007-12-12 11:37:58 | Notebook
     
自我をもたない意識というものが、どういうものなのか。ずっとかんがえてきた。
自我をもたないということは、そこには「私」は存在しないはずだ。そして、私が存在しないということは、そこには「時間」も存在しないはずだ。
自我がなく、私がおらず、時間を知らない意識。それはどういうものなのか。

以前からそんな疑問をもっていて、あれこれかんがえていた。もうずいぶん長い間、かんがえ続けてきた。なんでこんな面倒なことをかんがえるかというと、人間が生きるとき、どういう世界観をもって生きるべきかが重要になってくる。そして、その世界観をかんがえるとき、この自我が邪魔になってくる。どうしても自我という眼鏡を外して世界を見なくてはいけない、ということを、古今東西、さまざまな思想家や宗教家が言ってきていることには、それなりに理由があるということだ。

自我はコンプレックスの一形態でもある。だからそれは、すでに世界をただしく見せてはくれない。たとえば、外向的な意識をもっているひとは、自我を名前と混同することがよくある。だから名前を捨て去れば自我を離れることができるなどと言う。これはずいぶん昔からそうで、これは真実というより、彼らの外向的な自我の眼鏡がそういう実感をもたらしているにすぎない。もちろん意識が育っていくうえで、自我と名前は密接にかかわりあうのだが、むしろ名前になにが投影されているかを見きわめるのが先だろう。このように、自我はつねに間違った世界を見せてしまうのである。

そんなわけで、わたしはこういう面倒なことをかんがえてきた。しかし分からない。ぜんぜん分からない。むずかしい本も読んだ。でも、読めば読むほど混乱するばかりで、いくら首をひねっても分からない。

ところが、つい最近、分かったのだった。その答えはすぐそばにあった。しかも、拍子抜けするほど簡単だった。あまりにも簡単だった。こんなに近くにあって簡単なのに分からなかった、まったく間抜けな自分に呆れて、笑いだしてしまった。わたしはその意識といつも出会っていたのだ。

それは、夢のなかに出てくる意識だ。
夢のなかに、さまざまな現象や人物、生き物のかたちをとって現われる意識こそが、「自分というものを知らない、自我のない、時間という観念をもたない」意識たちだった。彼らは、自分が生まれたことさえ知らないのである。

それがあまりに不可解で、理解不能で、ばかばかしい、取るに足りないものに見えるから、つい気づかなかっただけだ。夢にみたものが、そのまま、それであった。わたしたちのかんがえる「意味」や「意識」といったものから、なんとかけ離れていることだろう。しかし世界は、彼らの流儀でうごいているのである。リアリティも、アリバイも、アイデンティティも、彼らの側にある。ちっぽけな自我は、それに従うことしかできない。



もっとも夢のなかには、自我意識に対する反応にすぎないものもある。というより、そういうものばかりだ。むかしの思想家が言ったような、世界を示し人類をみちびくような「大きな夢」を見ることはほとんどないだろう。だからわたしは、夢がそのまま世界でありリアリティだと言っているわけではない。

クリシュナムルティははっきり、わたしは夢を見ないとまで言い切っていた。これは彼がいつもリアリティを意識化しているから、それが夢に出てくる余地がないと言っているわけだが、じつはこれは自己洞察、自己認識をとことん極めた状態のことを言っている。ユングは無意識を意識化し自己認識を深めるべきであって、無意識のままでいることが罪だという思想を持っていたが、これは彼の夢分析が自己認識を深めることに通じている。どちらも自己認識の重要性を説いているわけであって、そういう意味でわたしのなかでは、クリシュナムルティとユングが結びついている。

小さな夢のなかにも、自我に対する反応にすぎないようなもののなかにも、夢の流儀をうかがうことはできる。この世界のなかで、ちっぽけな自我が彼らの目にどう見えるかを、うかがうことはできる。すくなくとも、自我を離れた目で見た世界が、そこにある。



しかし、それを「見る」という行為は、自我にしかできない。自我がない意識には、そもそも世界を見ることができない。世界を見ることができないということは、世界が存在しないにひとしい。

わたしたちの意識は、目が覚めているあいだも夢を見ているのだが、起きているときは意識の光がつよすぎて、ふつうは夢を見ているとは思わない。しかし実際にはいつも、無意識と意識の両方を生きている。

わたしたちは、つねにこの「見る」という行為のなかで、自我とリアリティの境界線に、すなわち、世界の十字路に立っている。そのことを、わたしたちが日々見る夢が、あっけらかんと、ありふれたやり方で、きわめて簡単に、すぐそばに、示しているのである。

夏姫

2007-12-05 08:26:55 | Notebook
     
最近、矢野絢子さんの「夏姫」という歌をやっと聴くことができた。
小学生くらいの女の子の、夏休みの思い出をぎっしり詰め込んだような、たのしい歌だ。

わたしがはじめて彼女のライヴを高知で聴いたとき、いちばんびっくりしたのがこの歌で、その自由奔放な豊かさに舌を巻いた。その後歌のタイトルも知らないまま(なにもかも知ってしまわないままでいることの楽しさもある)ときどき思いだしては、遠い高知の夏空に思いをはせていた。

あのときはすこし趣向が違っていて、イントロが、なんというか、土砂降りのようなピアノで、稲妻が落ちたり、雷の音がとどろいたり、そんな激しい音がえんえん演奏されて、だんだん音がおとなしくなってきて、やがて雨があがり、空が晴れてくる。そんな長丁場の演奏のあとにやっとこの歌が始まるのだった。そこには夏の太陽がぎっしり詰まっている。見事な構成だった。わたしはこれを台風と夏休みの歌だと思いこんでいた。

 でっかい青空で、足の裏、洗いたかったな
 夕立の庭で、ワンコと踊りたかったな
 揚羽の羽はあっという間に見えなくなった
 ポストの中はアリンコ独り
 リンリン電話は宇宙の果て
 ピンポンチャイム、猫のお昼寝、きっと、おばあさまの庭は草ぼうぼうだ

ほかのプレイヤーにくらべて、とくにピアノが巧いわけでもないし、歌がすごいわけでもない。でも独特の味があって、これが音楽的にどういうものなのか分からないが、いつも感じるのは放課後の匂い。教室の床におちる陽射しの匂い。それから小さな女の子がお遊戯で踊っているようなリズム。これがなくなるくらいなら、あまり巧いピアニストにならないでいてほしいと思うくらいだ。そして涙と雨をたっぷりふくんだような声。

音楽というのは不思議なもので、わたしのような、すっとこどっこいな聴き手でさえ、その演奏や作品が、そのひとにとって趣味にすぎないのか、生き方そのものなのか、そこにアリバイがあるのか、アイデンティティがあるのか、どれくらい大切なものなのか、逆にどうでもいいのか、一瞬にして気づいてしまうことがある。目の前のものをどのくらい愛しているのか、そういうことが、テクニックを超えて、聴き手の胸にじかに届くことがある。

 窓辺のビー玉、流したサンダル、平べったい小石
 風になびくテントの色、なまぬるい扇風機

この歌でとくに好きなのは、空を馬たちが駆け抜けていく場面。この強引さが素晴らしい。天才だと思った。

 あわてて玄関あけると、空はもう、
 馬だらけ、馬だらけ、
 馬だらけ、ったら馬だらけったら馬だらけったら馬だらけったら馬だらけ……

こんな名作が発売されないはずはないので、いつか正式にリリースされると思って高をくくっていたのだが、まだまだ先のようである。わたしのなかではこの歌はいまでも「台風と夏休みの歌」だ。