書物

2007-08-14 16:50:44 | Notebook
     
ディネーセンの『アフリカの日々』を読んでいると、この素晴らしい書物のなかに自分の人生がまるごと入り込んでしまったような錯覚を覚えることがある。わたしの数十年分の人生はこの書物のなかにそのまま入り込んで、まったく充足しているのだ。もっともわたしはアフリカを知らないし、彼女とわたしの人生はまったく違う。それでもそう感じさせるのは、それだけの大きさをもった書物であるということと、同時に人生をまるごと共感させ感じさせるような書物であるということなのだろう。

なにより作者自身がこの書物を、書き手にとってそういう本になるように仕上げている。彼女がアフリカで経験した人生、それは執筆当時の彼女にとってまさに人生のほとんどすべてであったようだが、それを過不足なく、その広がりと大きさ、味わい、豊かさ、深みを損なわないように、この一冊のなかに封じ込めようとした。そのまっすぐな営みが、まっすぐに読み手の心に届いて、読み手の人生までもがページのなかに存在し息づき始めるような効果を生んでいるのだろう。このとき読み手は書き手であり、書き手は読み手でもある。

この本に没頭しているとき、まさに、わたしの人生はディネーセンが書いたこの一冊のなかにある。しかし、この本はわたしが生まれる前に書かれた。奇妙な言いぐさかもしれないが、「わたしがこの世に生まれる前に、この本がすでにあるのだから、わたしは生まれなくてもよかったのではないか」とさえ思えてくる。そんな錯覚をおぼえる。だって、わたしの人生はすでにこの本のなかで語り尽くされているし、わたしの人生が彼女の人生を超え、この本から逸脱して跳躍するようなことはありそうもない。
ディネーセンは1962年に亡くなった。わたしが生まれたのも1962年である。わたしが生まれる前に、わたしの人生はもう十分に語り尽くされていたというわけだ。

書店に並ぶ本の一冊一冊、その背を眺めていると、わたしはいつも奇妙な気持ちになる。それらの本を書いた著者たちの肉体よりも、目の前にあるその書物のほうが、より確かな存在に見えてくるからだ。



書物は、人間の精神にとてもよく似ている。そのものだと言ってもよい。音楽もそうだ。音楽は人生の美しさや味わいそのものであり、音楽も書物も、それは人間そのものと言っていいではないか。

もっとも、これは偏った見方であって、人間の世界に存在するものはみな、書物や芸術にかぎらず、人間の精神そのものだ。もっと言えば人間そのものでもある。たとえば、わたしが住んでいるこの街は人間の精神が生みだした。アスファルトも、電柱も、看板も、コンクリートも、人間の精神そのものである。それを生みだした精神はもちろんのこと、それにお金を払ったのは精神であり、看板をそこに設置したのも精神だし、コンクリートをそこに流し込んだのも精神である。ひとの世界はことごとく、人間の精神でできているのだ。

そのうえ、それは時間を超えている。アスファルトに込められた無数の精神は、その担い手が死んだあともその街角に残りつづける。わたしたちは奇妙なことに、なんのへんてつもない街角から、微細な精神のありようを感じ取ることがある。雰囲気。予感。直感。まるで肉親の顔色を読み取るみたいに、わたしたちは多くのものを街角から読みとる。たぶん想像以上の情報をそこから読み取り交感しあっているのだろう。たとえばアスファルトを通じて、見知らぬ他者と共鳴しあっているわけだ。まるで音楽のように。
しかも、そのアスファルトが撤去された後にまで、その場所に込められた精神の名残りを感じ続けるという場合だってある。もちろんこれは人間特有の幻想なのだが、人間の世界ではこの幻想までもが精神とともに力をもつ。幻想は、具体的に物を動かし、ひとの人生も左右する。ひとは幻想によってずいぶん左右される生き物でもある。もっとも、これは人間の現実にかぎってのことである。

精神は、その場に居座ることもできると同時に、旅をすることもできる。その街角を通ったひとびとに感染することもできる。そうして人間から人間へと、強い力で伝染させることだってある。あくびが染るみたいに。新聞やテレビを通じてばら撒かれることだってある。瞬時に影響しあうこともできる。幻想が戦争を引き起こすことだってある。精神がひとを殺すことだってある。書物がひとをまったく変えてしまうのと同じように。ひとは本を一冊、いや数行読むごとに変化している。あらたな精神と共鳴し合って、まったく別人に変わっている。注意すべきは、こうしたことを神秘の流儀で見てはいけないということだ。神秘家はそれを、まるで奇跡か魔法のように語りたがるが、こうしたことはもっと、ありふれた、あたりまえのことにすぎない。

あたかも世界全体が、人間の精神の微細な繋がりで覆われていて、それはつねに変化し、ひとの命を超えている。それはとても大きな流れになって、ひとの人生を押し流していく。こうしたことがすべて、個々の脳とその連携のなかで起きているのだから、脳はなんと驚くべき器官であろうか。さらに驚くべきことに、この連携は脳を超えている。精神は脳を超えており、個々の命を越えていて、さらに命そのものよりも、人間に近い。人間にとって、世界は精神でできている。この精神は互いに共鳴し合いながら、変化しつづけている。それは死なない。

この大きな流れが見えてくると、この精神の流れそのものが人間の正体であって、肉体や命はオマケのようなものだということが分かってくる。ひとの命は、精神のためにあるのだ。人生は偉大な書物のためにある。



では、なぜ人間はいまも生まれ続けているのか。なぜわたしはディネーセンの死の年に、わざわざこの世に生を享けたのか。無駄かもしれないのに? すでに無数の精神が世界を覆い尽くし、そこにあるのに、書かれるべき書物はすでに書かれたのに。ご苦労様なことではないか。わたしなど生まれなくても、世界は十分やっていけそうなのに。それなのになぜ、わたしは生まれたのだろう。なぜ命はあるのだろう。

その答えは「認識」だ。ひとは肉体をもって、この世を味わい、認識するために生まれてくるのだ。なぜか。それを世界の精神が、偉大な書物が求めているからだ。

ひとは、見るために生まれた。感じるために生まれた。世界を覆う精神は、個々の人間の精神に見られることを求めている。精神は、見られるためにそこにある。人生という苦い味をとおして、世界は認識されるためにそこにある。この世界とは人間の精神のことであり、だから世界は人間でもある。世界はわたしであり、わたしは世界でもある。あの樹々の美しいざわめきを見るとき、わたしは至福を感じる。それは人間の精神と、偉大な書物と交感しているからだ。

そしてわたしたちは、この肉体と人生から、痛みを知る。この「痛み」こそが、ひととひとを深く結びつける。ひとは痛みを通してこそ、はじめて分かりあえることがある。
わたしたちは、見るために、感じるために、認識するために、そして、ときには痛みによって結びあうために生まれてきた。

わたしの認識、痛み、それが精神を変える。ここで見たものが、そのまま精神を変える。わたしは、わざわざそのために生まれた。なぜなら、それが精神にとって重要な糧になるからだ。この認識が、偉大な書物を改訂し続けるのだ。

やがて肉体の死をむかえ、わたしはこの大きな精神に帰っていく。ライオンが死ぬように。すべての鳥が落ちるように。いとも簡単に、そっけなく死はやってくる。死は、無意味だからこそ高貴でもある。そしてそれは祝福されている。宗教観念によって台無しにされないかぎり、そこに涅槃や天国といったものが入り込まないかぎり。祭壇に祭り上げられないかぎり。雀の死骸とおなじように、地面のうえに無意味に転がっているかぎりにおいて、祝福されている。死は強靱だ。死はどんな幻想も吹き消してしまう。この偉大な書物によって、精神によって死は祝福されているのだ。

人間のかたちを成す前に生まれ損なってしまったひとたち、生まれる前にすでに病いに冒されたひとたち、生まれてすぐ死んでいったひとたち、殺されたひとたち、おもいがけない不運に殺されたひとたち、ながい人生の戦いによって台無しにされたひとたち、力尽き自ら死を選んだひとたち、親に殺されたひとたち、わたしの涙はけっして乾くことはないが、どの死も、祝福されている。世界という大きな書物のなかで、死は祝福されている。なぜなら、その痛みも認識も、世界が求めていたものだからだ。神々でさえ、この人間の認識を必要としている。生はそのためにある。命は、この偉大な書物のために、精神のためにある。そして「わたし」という自我は、それを知るためにここにいる。