【ML251 (Marketing Lab 251)】文化マーケティング・トレンド分析

トレンド分析ML251の文化マーケティング関連Blogです。ML251の主業務はトレンド分析をコアにしたデスクリサーチ。

「国家」も「外交」も、人間関係と同じ

2012年08月27日 | 徒然
という考え方は当たり前だとずっと思っていたが、
案外そうじゃないのね・・・、
つまり、そう考えない人のほうが多いんじゃないか?
と気づいたのはこの2~3年のこと・・・。

それはそれとして、
マスコミが煽り立てる「竹島(独島)のパフォーマンス」で、
頭をヒートアップさせることの全くない私だが、
この宮島理氏の記事は説得力があると思った。

<友好強要した日本は韓国に謝罪を――「お隣の国韓国」の起源>

「今回、多くの日本人が痛感したのは、韓国は日本のことが死ぬほど大嫌いという事実である。」

「日本人は外交を「ご近所づきあい」と同じ目線で考えがちだ。そのため、「お隣の国・韓国」に対しては、「ご近所づきあい」と同じように、ひたすら波風が立たないよう努めてきた。しかし、日韓友好が幻想だと思い知らされた今回、日本は「ご近所づきあい」モードを捨てて、冷静に外交を考えるようになっている。」

「日本の八方美人的な傾向から距離を置いてみれば、国も人も、他者から嫌われるのがある意味自然な姿だと言える。また、外交において好き嫌いは本質ではない。相手に嫌われていても、利害が一致すれば手を組むことはできる。」

「そもそも、本当に韓国のことを思うなら、韓国の気持ちになって考えてみるべきだ。死ぬほど大嫌いな相手(日本)に対して、別に仲良くなる気などなく、不満をひたすらぶつけているだけなのに、なぜか相手からは一方的に仲良くしようと擦り寄ってこられる。」

「親書を送り返すという外交上の非礼をするのも、「これ以上仲良くするのはやめてくれ」という韓国からの血の叫びである。日本は「嫌われたくない」というエゴを捨て、韓国が日本を死ぬほど嫌う自由を認めなければならない。」


戦後67年経過しても、
いまだに「戦争責任」を日本に求めるのはなぜか?
私の持論はこうだ。

・中国も韓国は“戦勝国”だが、自力で日本に勝ったわけではない
 ⇒ 根深いコンプレックス

もちろん、「戦争の総括」がいまだにできていない、
という国内の思想的な事情もあるだろう。
(そもそも日本人には無理かも・・・)
宮島氏の指摘する「八方美人」的な日本の姿勢。
私はそれをデメリットとは考えない。
が、戦前の「大東亜共栄圏」の思想が、
インドシナ諸国の植民地独立という成果、
朝鮮半島や大陸のインフラ整備、
といったメリットをもたらしつつも、
「余計なおせっかい」であったことは否めない。

それに加え、宮島氏の言うように「相手(韓国)の立場」になって考えてみよう。
戦後日本が高度経済成長を達成できた一番の外的要因は、
朝鮮戦争であるのは間違いない。
超大国の「代理戦争」によって、
自国が2つに割れて戦禍に見舞われる悲劇。
その悲劇のおかげで日本の経済と国民の生活水準は上がったわけだ。
たしかに、第二次世界大戦終了までの間、
日本によって朝鮮半島のインフラは整備されてきた。
だからと言って、「日本に感謝しなさい」と言う論は通るまい。
ドイツの交通インフラを整えた「功績」があっても、
ヒトラーがドイツで「名誉回復」されないのと同じだ。

「日本」も「中国」も「韓国」も個人と同じだ。

中国:大東亜共栄圏とかいっても、歴史と伝統のある私に、あんた何をが偉そうに。。。

日本:なにタカビーなことぬかしやがる! お前は欧米列強にいじめられてひん死じゃねぇか! 過去のプライドなんてチャンチャラおかしいぜ。

いくら苦しくても、日本なんぞに「助けて」もらうなら死んだほうがまし、というのが中国のプライド。
が、そうそう簡単には死なないが。
そして、日本兵の虐殺も行われた。
、そう、現代の「竹島」「尖閣列島」の茶番よりも野蛮な「パフォーマンス」が繰り広げられたわけだ。

日本:おれはお前を愛しているのに、その態度はなんだ! 俺の気持ちがわからんのか!

こうまでいかなくても、
自分は相手を全然嫌いじゃないのに、
やたらと自分を嫌う人がいる。
私の過去・現在でも沢山いた(いる?)。
逆のパターンもあった(ある)だろう。
なぜかわからないが、
相手のことが癪にさわって仕方がない。
が、相手は自分のことを何とも思っていないとか。

人の好み、態度って実にバラエティーに富んでいるのだ。

「自分」という立場に立てば、
まるで「理不尽」としか思えない、
「身に覚えがないが、自分を嫌う」他人には、
それなりの距離をとってやりすごすしかない。
無理に関係を「改善」なんかするエネルギーは無駄だ。
「無駄だ」と言い切るのは私の経験則なんで、
間違っているかどうかわからない。
が、かえって関係をこじらせて方向に行くことのほうが多かったと思う。

「日韓友好は韓国を苦しめるだけである。」

韓国の立場に立つならば、
日本は「気味の悪いストーカー」なのかもしれない。

「自分は相手に礼節を尽くしている。だから相手も自分に礼節を尽くすべきだ」

というのは、日本人的には「常識」かもしれないが、
もともと、自分を嫌いな人間にとっては苦痛で迷惑なだけ。

私も学生の頃とか、こう考えていたのが気恥ずかしくて仕方ない。。。

「自分の心が強ければ、いつか相手に通じる」

そんなことはありえないのだ。
いや、相手によっては大迷惑になる。
たまたま、奇跡的なタイミングで相思相愛のとき以外は。

まして、、、
「愛」だの「恋」といった感情が入ると、
途端に眼が曇るからね。

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「製品」ではなく「文化」を売るという哲学-「GIANT」(台湾)の経営哲学

2012年08月24日 | マーケティング話
(今日は、先日、Facebookに書いた内容の加筆修正です)

世界最大の自転車メーカーに登りつめた台湾の「GIANT」。
とにかく、この記事を読んでほしい。
日本の誇るべき製造業のソニーやパナソニックの凋落、
ガラパゴス化した理由がよくわかる。
ちなみに私も、ママチャリを使っているが・・・。
(シマノ6段変速ギア付)

(以下引用。「彼」とは「GIANT」のカリスマ経営者、劉金標氏)
10〜20年単位でこだわり続けてマーケットをつかむ彼の執念は素晴らしいと感じました。

また、自転車業界をどうやって引っ張っていくかを常に考えていることから、「自転車界のゴッドファーザー」とも呼ばれています。彼は「自転車という機械ではなく、自転車という文化を売っている」と、ここ10年くらいずっと言い続けています。
(以上、太字部分は引用者)


十数年前、私は某経済研究所で、
日本の「スポーツサイクル市場規模」の数字を作っていた。

カテゴリーは大きく以下の三つ。

(1)マウンテンバイク(MTB)
(2)ロードレーサー
(3)BMX

オフロード用のMTBに街乗り用のタイヤを履かせたのが「クロスバイク」。
マウンテンバイクのカテゴリに入れていたが、
ライト層訴求による市場拡大のキーとなるバイクだ。
90年代、「メッセンジャー」という映画が上映され、
「瞬間風速」でMTBのブームも起きたのも思い出される。

小さな市場の中、
「スポーツサイクル」のカテゴリーに入れてたのは、
ぎりぎり「GIANT」までだった。
それより低価格のものは「ルック車」といって「偽物」。
それ入れちゃうと市場が数倍になってしまう・・・。
「偽物」はただ安いだけではなく危険だ。
例えば、折り畳み自転車(ホールディング・バイク)というのがある。
商店街の福引で当たったような「安物」だと、
走行途中で部品がとれるという事故の危険性もある。
事実、私の友人は安物のホールディング・バイクに乗っていて、
坂道を走行中、部品がとれ大怪我をした。

台湾の「GIANT」がこんな哲学で頑張ってたことは、
この記事を読むまで知らなかった。
数の少ないコア層(スポーツサイクル)と、
パイの大きいママチャリのような大衆車市場の分裂。
こういった「常態」にくさびを打って、
新市場を開拓する。
それは、「文化」を創るということだ。
損得勘定は必要だけど、
それだけじゃできないことだ。

私が関わっていた当時の業界は、
プロ仕様、つまりマニアックな市場に偏重していたように思う。
「世界の常識」は、ツール・ド・フランスで優勝した選手のバイク(ロードレーサーの場合)。
国内メーカーのマーケター達にとって、
「GIANT」も「偽物」の類、と考えている人達もいただろう。
「ユニクロ」を「ファッションではない」と決めたがる、
アパレル業界の一部の方々のように。
マウンテンバイク協会の方にお話を伺っても、
訴求策はアウトドア・イベントぐらい。
それも、お金の「出所」でメーカーさんに苦言を呈していたり。
(担当者の方々は、個人としては「いい人」だったけど・・・)
こういうのって、多くの業界で見られることなんだけどね・・・。

そして、当時、国内のスポーツサイクルメーカー(主に輸入商社)の人達が、
口を揃えて言っていたのはこういうこと。

「日本にはドイツのような自転車専用道路=インフラが整備されていない」
「つまり、自転車の文化がない」

それは事実であるが、、、

「日本にはロックの文化がない」
「欧米のように音楽が生活の中に溶け込んでいない」

という、どこかの業界人と同じだ。
そんな「業界」でもね、
じっくりやりゃ何とかなるって思う今日この頃だ。
もちろん、過去の「常識」なんて捨てての話だ。
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「飛躍」することのない「論理」? そんなの「つまらん!」し「何も生まん!」のだ

2012年08月18日 | 徒然
なぜか夏真っ盛りの今、自分は“内田樹萌え”である。
別に暑い夏と内田樹の間に相関関係も因果関係はない。
ひょっとしたらあるかもしれないけど、
面倒臭いのでここでは追求しない。

今日は昨年に読んだ文庫『ひとりでは生きられないのも芸のうち』から。

(冒頭のエッセイ「いかにして男は籠落されるのか」では、女性が意中の男性の心を射止める超簡単な方法がロジカルに記されているので、特に女性の皆さんにお薦め。男つーのはいとも単純な生きものなのだ・・・)

同書の「非婚・少子化時代に」という章に、
「めちゃモテ・ニッポン」というエッセイがある。

そこで内田は、女性誌『CanCam』が競合の『JJ』『ViVi』を差し置いて“一人勝ち”状態である(あった)ことの理由について考えている。
当時、内田が教鞭をとっていた神戸女学院大学の学生から、『CanCam』一人勝ちの理由を滔々と述べられた内田は、こういう仮説を構築した。

同誌の「めちゃモテ」というコンセプト
 ⇒ 「万人から愛されること」
   ⇒ 「ワタシ的」路線のゆきすぎへの補正の兆候
 ⇒ 自己決定貫徹が生存戦略上、必ずしも有利でないこと

そして、
自己利益確保のためには、
「みんなにちょっとずつ愛される」戦略の実効性が高く、
人類学的には真である。

こう結論づけたのである。
『CanCam』ファッションで上から下まで決めた学生達を、
「主体性のないファッション」と決めつけるのは短見であり、
かなり高度な記号操作のように思われると。

以下、長くなるが(いつも)引用してみる。
(黒字部分引用。赤文字は引用者)

つまり、『CanCam』性は「モノ」自体に内在するのではなく、そのファッションをどういうシグナルとして利用しているかというレベルに出来(しゅったい)するのである。

(中略)

そして、話はさらに飛躍するのであるが、私はこの「めちゃモテ」戦略は実は深いところで日本人の本態的メンタリティに親和するものではないかと思っているのである。
例えば「九条」である。
あれは、よく考えたら、国際関係における「めちゃモテぷっくり唇」なのである。
「私はみなさんにぜえ~ったい危害を加えることはありません。うふ」
というあれは意思表示になっているのではないか。

私は以前、どうして日本ではイスラム原理主義のテロが起こらないのかについて考察したときに、日本でテロをしたら「テロリスト仲間から村八分にされる」からではないかという推理を行ったことがある。
だって、日本でテロをするなんて、「赤子の手をひねる」ようなものだからだ。私がテロリストだったら、そんなやつが仲間うちで手柄顔をすることを決して認めないであろう。

日本がそのナショナル・セキュリティを維持できているのは、日本が「とってもラブリーな」国だからである。
例えばの話、テロリストだって、たまには息抜きしたい。
そのときに家族旅行するとして、どこに行くだろうか。
水と安全がただで、道ばたに置き忘れた荷物が交番に届けられていて、ご飯が美味しくて、温泉が出て、接客サービスが世界一で、どこでも「プライスレス」の笑顔がふるまわれるところがあるとしたら、「そういう場所」は戦士たちの心身の休息のためにもできれば温存しておいたほうがいい、と考えるのではないか。

それはテロリストたちが(自分たちの闘争資金を預けてある)スイスの銀行を襲わないのと同じ理由である。
日本人は「ラブリー」であることによってリスクをヘッジしている。
おそらくこれは一五〇〇年来「中華の属国」として生きてきた日本人のDNAに含まれる種族的なマインドなのである。
アメリカにもラブリー、中国にもラブリー、韓国にもラブリー、台湾にもラブリー、ロシアにもラブリー。
みんなにちょっとずつ愛されるそんな「CanCamな日本」であることが二十一世紀の国際社会を最小コスト、最低のリスクで生き抜く戦略だということを無意識のうちに日本人たちは気づき始めているのではないであろうか。

(同書34~36ページより)


ま、今、マスコミが騒いでいる、
尖閣列島や竹島のことで、
勇ましいことを言ってる諸君は、
怒るだろうけど(笑)。
私も日本が大好きだし誇りに思っている。
が、現実的なパワー・ポリティクス、
長い歴史を考察していけば、
感情的な短気ってバカバカしいと思うよ。
自分達の美点を活かした上で、
長期的視点で日本の未来を考えれば、
私は、内田の「日本=辺境」的視座を支持する。
何よりも戦争だけは嫌だからね。
これは本題から外れる話なんで、
もとに戻ろう。

内田の論は、
女性ファッション誌の話から、
当時の女子大生のマインドに至り、
国家の集合的無意識にまで話が飛躍する。

こういう「飛躍」ってのは、
私にとってはフツーである。
「アナロジー思考」もそう。
ずっと、そういう発想で生きてきた。

マーケティングの話でも、
日常のちょいとしたことから、
国家・人類レベルの話と通じることが少なくない。
いや、そっちのほうが基本だ。

で、私、この数年の間のことなんだけど、
やはり、こういう発想をする人ばかりじゃないんだな、
いや、こういう発想をしない(できない)人のほうが多いんじゃないか?
ということに気づいたのである。
それも「マーケティング」を生業とする人達の間でも・・・。
そして、ビジネスの世界では、
「ロジカル・シンキング」の連呼。。。
私の超独断と超偏見で言わせてもらうなら、
どんどん「バカ」になっていくわけだ。
特に経験の少ない若い人たちは。

私の標榜する「Cultural Marketing」の「カルチャー」とは、
音楽や映画やコミックや文学のような「コンテンツ」といった狭義の「文化」だけのことではないんだよな。
どんな消費財であれ生産財であれ、
習慣・慣習であれ、全てが文化、
つまり、「唯文化論」だね、私は。
(音楽やキャラクターといった各コンテンツ分野での、日本を代表するマーケター達は、私の友人にいるので、いつでもご紹介する)
私の知識とか知見とか、方法論、スキルだけの話でもなくって、
「発想」「視点」「視座」ということ。
さらに、武道の人でもある内田樹流に言えば、
「型」「フォーム」なんですわ(笑)。

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自分は何のためにブログを書いているのか?

2012年08月17日 | 徒然
「このブログを書いている第一の目的は、読者さんのためではなく自分自身のため」
と、私は何度か書いてきた。

「ものを書く」ということは、
たとえ誰か「想定する読者」がいたとしても、
モノローグであろう。
これも前に書いたかもしれないが、
自分が何かに“憑かれた”ように、
“書かされている”ような感覚で、
キーボードを打っているように感じることもある。

今回も内田樹の著作から引用させて頂く。
私が言いたいこと100%書いておられるからだ。
(以下、黒字部分が引用。赤字部分は引用者)

あと、一言、言っとくけど、
オフィシャルなものであれ個人的なものであれ、
「書く」という行為は強制されてやるもんじゃないからね。
小中学生以外は。

*最近は、識者の方々の著作のメモが多いけど、
 それは「備忘録」ね。クラウドを利用した。

僕が毎日沢山のものを書くのは、基本的には理解したいからなんです。なにか自分に言いたいことがあって、それを皆さんにお伝えするためではないんです。たとえばあるニュース記事に違和感をおぼえるとします。とりあえず、パソコンに向かって、それについてだらだらと書いていくうちに、自分が違和感をおぼえたみちすじというのがわかってくる。最初から何か「意見」があって書きはじめるわけではないんです。じつは書き出す前は何もわかっていなくて、最後まで書いてみてやっとわかる、そういうものってあるじゃないですか。
それがぼくにとってはひとつの「おはなし」なんです。
その「おはなし」を書かなければ、僕はそのことについて理解できなかった。「おはなし」を通じて自分が何かを知ったということです。書くというのは、自分の内面にあるメッセージを伝える、というのではなく、自分が何を考えているのか、ということを確認する作業なんです。自分が間違っている時は、文章に書くと変なんです。だから書くということは自己発見・自己修正のための大事な手続きだと思います。
(同書251ページより)


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「天皇的キャラクター」と日本人の美意識

2012年08月16日 | カルチュラル・キーワード備忘録
80年代後半、現在、東京都副知事の猪瀬直樹の著書『ミカドの象徴』を読んだことがある。
残念ながら、初版本は手許にはないが、小学館文庫で出てるみたいだね。

そのときだったと思う。
日本の「中心」は皇居。
そこは「権力機構」はなく、
「日本国の象徴」としての天皇皇后両陛下がいらっしゃるだけの森。
ロラン・バルトのいう「空虚の中心」という概念を初めて知ったのは。

どうも、最近、私は“内田樹萌え”なので、
また内田の著書『期間限定の思想』(角川文庫版)から引用したい。
(以下、黒字部分が引用箇所。赤字部分は引用者)

たぶん、日本文化の根底には、たおやかさ、ある種の女性性みたいなものや、すべてを受け入れてしまう包容性のようなものがある。ヨーロッパ的な、実定的でポジティブなものを重ねてゆき、あらゆる隙間を埋め尽くしてゆく、という文化ではなく、空虚さに社会や人間の実質があるというような考え方が、日本人の美意識の内には抜き難く入り込んでいる。絵画にしても、音楽にしても。三島由紀夫的にいうなら、それは政治の中核に空虚がある、ということになる。
(同書239ページより)


そして、具体的な「ヒーロー」として例に挙げるのが長嶋茂雄と、『男はつらいよ』の主人公、寅さんだ。

天皇的キャラクターというのがあるじゃないですか。日本人がもっとも好きで、誰もその人の悪口を言えない、という人。たとえば長嶋茂雄。
(中略)何のために野球をやるのか、ということについて、あの人はたぶん何も考えていない。お金が欲しいだとか、名声が欲しいだとか、すぐれた運動能力によって自己実現をしたいだとか、そういう雑なものが何もなくて、目の前にポンとボールが飛んできたから打つ、捕る、ただそれだけなんです。普通に考えて「意味があること」のために野球をやっているわけではないんです。ボールが飛んでくる、ボールに身体が反応する、「ああ、なんて気持ちがいいんだろう」という純粋な快感だけで成り立っているキャラクターが長嶋茂雄なんですよね。

だから、長嶋を見ていると、その快感が観客にストレートに伝わってくる。ボールゲームに全身で興じている長嶋茂雄自身の快楽がそのまま、まじりけなしに、観客に伝達される。だから、長嶋茂雄を見ている観客はすごく気持ちがいいわけです。その快楽は、他の優れた運動能力を持つ選手(たとえばイチロー)の活躍を見ているときの快楽とは次元が違うんです。長嶋茂雄は空虚なんですよ。彼が空虚な通路だからこそ、彼をシャーマン的な媒介として、観客はボールゲームの本質に全面的に、直接的に触れることができるわけですよね。ああいう無欲無心の人というのが、日本人のもっとも好きなキャラクターなんです。

(中略)他にも、たとえば『男はつらいよ』の寅さんも日本人が好きなキャラクターですよね。
寅さんもまた、ある意味では中空の人ですね。

(中略)長嶋の悪口を言う人がいないように、『男はつらいよ』を徹底的に批判する批評家もいませんね。批判するとしたら、「どの作品も話が同じだ」とか「登場人物が類型的すぎる」とかそういうことでしょうけれど、類型的人物に同じ話を演じてもらうために作られてる映画なんだから、そんなに批判しても始まらない。それでも全四八作という記録的な連作が作られ、一貫して熱烈に支持されているということは、寅さんが日本人が非常に好きな人間のあり方であるということだと思うんです。まわりにいる全員を自分の中に受け入れ、取り込んでしまうけれど、本人は非常に虚ろであり、伝えるべきメッセージも情報も持たない。

寅さんが、「とらや」でみんなを前にとくとくと語ることって、全部、他人から聞いたばかりの話の「請け売り」ですよね。彼自身の経験の中からしみ出るような叡智の言葉というのはほとんどない。あるとしたら、「愛する人を大切にしろよ」ということぐらいだけですけれど、寅さん自身は絶対に「愛される人」にはならないで、去って行くわけです。だから、寅さんからのメッセージはいつも最終的には一方通行で、彼に対しての「返事」は誰からも届かないんですよね。

そういう、本質的に空虚な人間のあり方が日本人は大好きなんです。
他にも例が思いつくかもしれませんが長嶋や寅さんのようなキャラクターが、アメリカやフランスで満場一致的なポピュラリティーを獲得するなんてちょっと考えられないでしょう。
(同書240~243ページより)


「空虚」ではないだろうけど、拙著では日本人の「お笑い」のアーキタイプを「笑点」と指摘したけど(PDF版182ページ)、「類型的」なのがいいところだろうね。

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戦後67年に思うこと (内田樹 『疲れすぎて眠れぬ夜のために』より)

2012年08月15日 | 徒然
今日は67年目の終戦記念日。
父から何度も聞かされたのは、
1945年3月10日の東京大空襲の後、
勤労動員に向かう途中、
浅草(現在の松屋付近)で、
多くの黒焦げの死体を踏まないように歩き(「悪いから」と)、
黒焦げの死体が転がる中でも、
平気で弁当を食べていたという話だ。

戦場に行かれた方は特にそうだが、
国内にいても、生きているのが奇跡に近い人は沢山いるだろう。
私の父も、ちょっとしたタイミングの「ズレ」で命拾いしたという。

米軍機による昼間の爆撃の後、
友人の飛び散った肉片や腕を見ながら、
そんなことを実感したという。

今日、会った母方の伯父は、
中国戦線で数十回の戦闘を体験。
弾丸が身をかすめる中、
「もう死ぬ」と思った刹那、頭に浮かんだのは、
「母親に会ってから死にたかった・・・」。
なぜか父親のことは思い浮かばなかったという。
若き日の大陸での過酷な軍隊生活のため(?)、
90歳を超えた今でも元気だ。

靖国神社で英霊の御霊に祈りをささげるのも立派な行為だろう。
が、それよりもまず、身近な自分の両親をはじめ、
戦争を生き延びてきた、今は亡き祖父母たちへの感謝が大切と私は考える。

身近な家族・親族、さらにはご先祖さまへの感謝の念を持たずして、
ご立派な「理念」とやらを振りかざし、「国を想う」のはどうかな? と。
まして、「親が泣くような」政治活動なんてね。。。

今日は「戦後民主主義」について、
私より上の年代(団塊世代)の知識人である、
内田樹の見解を紹介させていただく。

10代後半の頃、何もわからんのに、
「戦中派」とともに「戦後民主主義」にも楯突いてた自分だったが、
その意味・意義をはっきりさせておいたほうがいい。
そして、少なくとも私が言うより、
内田の論をそのまま引用させていただいたほうが、
伝わりやすいし、説得力があるからね(笑)。

「疲れすぎて眠れぬ夜のために」

とてーも長いけど引用させて頂く。

戦後の日本の復興を担ったのは、明治生まれの人たちです。
だってそうでしょう。ぼくの父は明治四十五年生まれですが、その父は敗戦の年にようやく三十三歳です。まだ白面の青年です。ということは、敗戦直後において政治経済や文化的な活動を実質的に牽引していたのは、明治二十年代、三十年代生まれの人々だったということです。
明治二十年生まれということは、漱石の『三四郎』の年頃の人たちです。三四郎は敗戦の年にまだ五十代なのです。今のぼくの年ですよ。
夏目漱石が四十九歳で亡くなったので、ぼくたちはその小説の主人公たちもまた大正年間に死に絶えたと思い込んでいますけど、漱石だって生きていれば敗戦の年にまだ七十八歳なのです。今の瀬戸内寂聴や佐藤愛子より若いんです。

みんなが忘れているのは、戦後の奇跡的復興の事業をまず担ったのは、漱石が日本の未来を託したあの「坊っちゃん」や「三四郎」の世代だということです。この人たちは日清戦争と日露戦争と二つの世界大戦を生き延び、大恐慌と辛亥革命とロシア革命を経験し、ほとんど江戸時代と地続きの幼年時代からスタートして高度成長の時代まで生きたのです。

そういう波瀾万丈の世代ですから彼らは根っからのリアリストです。あまりに多くの幻滅ゆえに、簡単には幻想を信じることのないその世代があえて確信犯的に有り金を賭けて日本に根づかせようとした「幻想」、それが、「戦後民主主義」だとぼくは思っています。

ぼくは一九五〇年代は子どもでしたから、その世代の人たちのエートスをまだかすかに覚えています。小学校の先生や、父親たちの世代、つまりあのころの三、四十代の人はほとんどみんな従軍体験があって、戦場や空襲で家族や仲間を失ったり、自分自身も略奪や殺人の経験を抱えていた人たちなのです。だから、「戦後民主主義」はある意味では、そういう「戦後民主主義的なもの」の対極にあるようなリアルな体験をした人たちが、その悪夢を振り払うために紡ぎ出したもう一つの「夢」なのだと思います。

「夢」というと、なんだか何の現実的根拠もない妄想のように思われるかもSれませんが、「戦後民主主義」はそういうものではないと思います。

それは、さまざまな政治的幻想の脆さと陰惨さを経験した人たちが、その「トラウマ」から癒えようとして必死に作り出したものです。だから、そこには現実の経験の裏打ちがあります。貧困や、苦痛や、人間の尊厳の崩壊や、生き死にの極限を生き抜き、さまざまな価値観や体制の崩壊という経験をしてきた人たちなのですから、人間について基本的なことがおそらく、私たちよりはずっとよく分かっているのです。

人間がどれくらいプレッシャーに弱いか、どれくらい付和雷同するか、どれくらい思考停止するか、どれくらい未来予測を誤るか、そういうことを経験的に熟知しているのです。
戦後日本の基本ルールを制定したのは、その世代の人たちです。

(中略)「戦後民主主義」が虚構だということをよく知っていたのは、たぶん「戦後民主主義」を基礎づけた当の世代です。それが虚構でしかないことを彼らは熟知していました。ほとんど歴史的な支えを持たないような弱々しい制度であるからこそ、父たちの世代は本気になって、それを守ろうとしたのです。

ぼくたちは父たちの世代が作り上げた虚構の中に産み落とされました。そして、それを「自然」なもの、昔からずっとあるもの、だから、どれほど裏切っても、傷つけても、損なわれないものだと思って育ってきました。
だから、「目線が近い」のです。

(中略)ぼくたちの民主主義は、ある世代が共同的に作り出した脆弱な制度にすぎません。ちょうど映画のオープンセットの建物のように、表だけあって、裏には何もないのです。それを守るためには、それが「弱い制度」だということを十分に腹におさめておかねばなりません。

(中略)民主主義は「民主主義を信じるふりをする」人たちのクールなリアリズムによって支えられているものです。
「民主主義ではない制度」はいくらもありえます。成員が民主主義社会を「信じるふりをする」という自分の責務を忘れたら、ぼくたちの社会は別の制度に簡単にシフトするでしょう。民主主義というのは、そのことを知っている人たちの恐怖心に支えられた制度です。


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文学や音楽が必要なわけ (内田樹著『期間限定の思想』 より)

2012年08月14日 | マーケティング話
拙著『コンテンツを求める私たちの「欲望」』では、なぜ、腹の足しにもならん文学や音楽をはじめとするカルチャー、物語がわれわれに不可欠なのか?
ということについて、現実の生活におけるコミュニケーション(特に男女)の不可能性について述べた。
「不可能だから無理!」という話ではなく、
不可能じゃないか? と気づきつつも、「あるべき姿」を求めてあがいたりもがいたり悩んだり、それが人間の姿であり、フィクションの需要もあるのだ、と書いた。
漱石の小説の登場人物から、現代の識者の知見を引用させていただきながら。

それに関連する話題だが、内田樹『期間限定の思想』を読んでその核心のひとつ、それも深層的な仮説を見つけた。
われわれが欲する「物語」のうち、最もシェアが高いのは「恋愛」だろう。
「現実」には実現不能なものを、フィクションの世界での「昇華」に求めるわれわれ。
以下、引用させていただく。

(以下引用)
女性に対して限りない愛を注ぎながら、彼女からは十分に愛されていないと思い込んで苦しむ男、彼女を理解しようと全力を尽くしながら、ついにその理解が届かず呆然と立ち尽くす男。間違いなく女はそのような男をもっとも愛している。そのような男の苦しみを見ることから女性は無上の快楽を汲み出している。

「女の欲望」をなぜ男は構造的に見誤るのか。その理由はもうお分かり頂けただろう。
それは「女の欲望を男が構造的に見誤ること」をこそ女が欲望しているからである。だからこそ、女を心から愛する男は、女の望み通りに、もっとも重要な瞬間において、もののみごとに「女の欲望を見誤る」ことになるのである。

逆のケースを考えればすぐに分かる。次々と女を手玉にとって、何人もの女に愛される男というのがいる。なぜ、そんなことが可能なのか。それは彼が女たちを少しも愛していないからだ。愛していないから、彼は「女の欲望を見誤って欲しい」という女たちのもっとも深い欲望には眼も向けない。愛のない眼には曇りがない。だから彼には、女が何を望んでいるかがお見通しなのである。女の欲望を見誤らないのは、女を愛していない男だけなのだ。

(中略)男女の関係において、不幸であることこそが「常態」なのだという真理を受け入れたものだけが、ほんとうの幸福に触れるチャンスがある。

(角川文庫版72~74ページより)


拙著でその知見を大いに援用させて頂いた、黒川伊保子さんと同じこと言ってるね!
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橋本治 金言集 『ナインティーズ』 読書メモ (コメントなし) <第13回>

2012年08月12日 | マーケティング話
<第12回>より続く。

■共和制国家の破綻

まず、国家というのは、所詮“家族”ですね。家長をいただく家族が寄り集まって、国家を作る。集まった家長が代表を選び出すことをすれば、“近代的=民主的”だし、ある人間が家長達を呼び集めてその支配者になっちゃえば、“前近代的=非民主的”だという、そんだけの差ですね。
「国家は家族のアナロジーだ」というところからスタートして、“家族形式”とは縁を切った国家体制を作ろうとするのが共和制で、だいたいこれはうまく行かない。なぜかというと、それはせっかくの“友達同士”が、“家族”という伝統的なスタイルの中に収まってしまって、それに気がつけないでいるから。

家族というものはどこかで“管理”の様式を持たないとうまくいかないものです。でも友達にはそういう様式がない。「別にお前なんかに管理される理由なんかねーよ」と言えてしまうのが友達で、友達には、それを成り立たせる相互の感情(つまり“友情”ですね)だけがあって、それを仕切る“枠”がない。友達同士というのはなんにも生産しないし、ある意味では“公然と役立たずの集団”をやっていられる関係ですからね。

(中略)だから友達というのは、“結婚を前提としない恋人同士”のようなもんです。これは永遠に枠をはめられないし、ここにつまんない枠がはめられたら、友情は死ぬ。共和制国家の破綻は、この集団ルールに関して無知だった友情の破綻とおんなじで、結局のところ、友達夫婦の破綻とおんなじです。

(同書230~232ページより。太字部分は引用者)

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欲望=自我の統合が不可能という消費社会の病理 (『第四の消費』 三浦展 より)

2012年08月06日 | カルチュラル・キーワード備忘録
私は以前。ある生活研究シンクタンクの研究員のコメントを新聞で読んで「へえ」と驚いたことがある。同研究員が高校生の食生活を調査したとき、高校教員の意見として「食べることを楽しいと感じない、面倒と思う子が増えてきた」という声が目立ったというのである(「東京新聞」2003年1月13日付)。しかし、この話を知り合いの食品メーカーの人にすると、食べるのが面倒くさいという感覚があることは食品業界では数年ほど前から常識だと言われてしまい、また驚いたのである。

(中略)欲求の基本的な源泉は不足である。人は足りないものは欲しいと感じる。あり余っているものはあまり欲しいと感じない。ここで食べておかないといけないと今度はいつ食べられるかわからないと思えば、多少まずいものでもよろこんで食べる。
ところが現代の生活は、コンビニにもファミレスにもファストフード店にもデパ地下にも、そして駅のプラットフォームにすら、いつでもそこでも食べる物があふれている。いつでも手に入ると思えば食べる気が薄れるのは当然だ。食べ物が多様に大量に目の前に存在し、それを自由に選択できるにもかかわらず、むしろそれだからこそ、かえって食べることが面倒になっているのだ。

それはちょうどわれわれが、情報社会の中で、過剰な情報の洪水を処理することができずに、ただ流れている情報をぼんやりと眺めるしかできないでいる状況とよく似ている。欲しいとも言わないのに、つまらない情報が大げさな演出を施されて24時間垂れ流されている。いや、ものすごい圧力で放出されている。

(中略)私があるとき若者に行ったインタビューでも、一体自分が何を食べたいと思うか予測がつかないので、あらかじめ食品を買いだめできないという意見があった。スーパーに行って安いものを買いだめしても、結局食べきれないという。食べきる前に他のものが欲しくなるからだ。だから買いだめせず、何か食べたくなったら、たとえ夜中の二時でもコンビニかドン・キホーテに駆け込むほうが無駄がないらしい。若者は(若者だけではないが)、腹がへったと内発的に感じて物を食べるのではなく、偏在する食物情報による刺激に反応して物を食べるようになったのである。

しかしこうなると、食欲を満たすことは幸福感にはつながらず、むしろ食欲は、食べても食べても満たされることのないもの、むしろ、いつ何時自分に襲いかかってくるかもしれない不快なもの、不気味なものとして意識されるようになる可能性がある。それが、若者が食べることを面倒くさいと思うようになった理由ではあるまいか。そして若者は、いつ何が欲しくなるかわからない自分というものをもてあますようになった。自分がわからなくなったのだ。

(中略)自分がわからないということは、自分の欲求を自分で統合できないでいるということである。統合するには、あまりに自分の欲求には脈絡がなく、突発的に現れすぎる。それが本当に自分の欲求なのかすら不明である。自分をわかるということが困難になっているのだ。

もはや自分は統合されたひとつの「自分(アイデンティティ)」ではない。自分の内部に唯一のたしかな自分があるのではなく、自分の外部に自分でも知らないいくつもの自分があると感じられるのだ。まさに「複数の自分」である。そして、この「複数の自分」こそが、自分をわからなくさせるのである。


(同書132~135ページより)

随分、長い引用となった。
食欲は人が生きる上での生理的で基本的な欲求だ。
にもかかわらず、このような「現象」が見られるとは、重症だ。
「選択肢の多さ」がストレスを生むことは多くの論文や実験結果の発表により周知のこととなっている。
特に目新しい知見ではない。
そうなると、数多くの商品・サービスのうち最もシェアの高いものが選ばれたりね。
つまり、「ネットワーク外部性」も人々の「ストレス」軽減と連関してると思う。

三浦の知見に、私の意見を入れさせてもらうとすれば、「食べること」の目的を考えてみたらどう? ということだ。
もちろん、老いも若きも男も女も「食欲」は生命維持の基本だ。
しかし、「食事」の目的が、「インストゥルメンタル(道具的)」か「コンサマトリー(充足的)」か? という視点で考えてみることだ。
この区分は(後述するが・・・たぶん)、三浦の得意とするところでもあるし。
「食事」の目的が「インストゥルメンタル(道具的)」か「コンサマトリー(充足的)」か、生活者調査の結果から興味深い知見を導き出しているのが、辻中俊樹氏である。

拙著「コンテンツを求める私達の『欲望』」の181ページ(PDF版)で私はこう書いた。

「シニア向け」といわれる商品・サービスを開発するにしても、まず、「シニア」という言葉やニュアンスが少しでも匂えば、到底、受け入れられることはありません。
さらに、20代や30代のリサーチャーが、グループインタビューやデプスインタビューといった定性調査で「仮説」導き出し、定量調査で「検証」したつもりになっても、成功商品・サービスの開発に貢献できるわけがありません。第2章で説明させていただきました夏目漱石の「存在論的不安」のお話のように、「きわめて肉感的」なイメージ(柄谷行人)とセンスが必要となるからです。


この文章を書いていた私の脳裏にあったが、辻中俊樹氏と私の先生でもあった故 油谷遵氏である。
実際、この10年以上、大手広告代理店や有名シンクタンク、多くのマーケティング・リサーチ企業の「シニア」市場分析をみるにつけ、あまりに表層的で呆れるばかりだった。
「これじゃ“成功事例”なんて無理だよな・・・」と。

で、話を戻すと、三浦の言うところの「若者」(若者に限らない)にとっての「食事」の目的とは、「インストゥルメンタル(道具的)」ではないか? というのが私の考えだ。
Facebook を見ていると、美味しそうな食事や飲料の写真をアップされているのは、若くても30代。
ほぼ40代以上の友人たちだ。
20代の「若者」が、そんなことばかりしていたらかえって気味が悪い。
もっと、「食事」どころではない雑多なことに興味・関心を向けるのが「若者」だしね。
年齢を重ねなければ「食」についてのこだわりは高まらない。
まして、辻中氏によれば、「食」と「調理」の目的が本来の意味での「コンサマトリー」になるのは、「仕事」「子育て」から解放された「定年後」のことだという。
40代、50代の「調理」がまだ「生きること」の足かせになっている事実、「美味しいもの」を食べるのが「ストレス解消」の次元に止まっているうちは、「食」「調理」の目的は、十分、「インストゥルメンタル(道具的)」なのである。

そう考えれば、生理的な「食欲」とは別の次元の話として「食べるのが面倒くさいという感覚」は私にもよくわかる。
実感することも多いしね。

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“hanna's Monday Blues” &“ソウルフードとレベルミュージック”(@青山CAY)

2012年08月05日 | マーケティング話
前回の6月19日に引き続き、8月2日(木)、青山CAYにてミュージックソムリエ協会主催のイベント。
今回は“hanna's Monday Blues” &“ソウルフードとレベルミュージック”だ。

ホルモン文化がポップスを育んだ!!アメリカの南部に焦点をおき、食文化と音楽の相関関係を文字通り耳と舌で味わっていただきたいと思います。 前売り予約をされた方には1dish(企画にちなんだ料理)付き。当日ご予約なしでお越しの方には先着順で1dishご提供させていただきます。

当日は二部構成とさせていただき、前半は上原善広氏を迎えてのトークショー、後半は若手ギタリストhannaが独自の解釈による、生きたブルースを発信するライヴイベント”hanna's Monday Blues”。今回は”テキサスブルース”をテーマに、唯一無二のブルースライヴをお届けします。
(ホームページより)

いつものように、ピーター・バラカンさんがホストとしてトークが進められた。
「レベルミュージック」とは、すごく単純化して云うと、
「社会や権力に抵抗する音楽」ということだ。
わかりやすい事例としては、ジャマイカ初のレゲエとか。
レゲエのラスタカラーってのは、
ジャマイカのある中南米じゃなくて、
アフリカということは有名だね。
黒人奴隷、移民・・・。
レゲエに限ることなく、世界中の音楽、いや、文化のルーツを探索するならば、
その多くが「レベル=反抗」とか「逃避」などの歴史に突き当たるのだ。

私の実家の父がたまにこう云う。
「ジャズなんてのは、アメリカの黒人が棒きれとかで金物を叩いて生まれたもんだ」
父の姉、つまり私の伯母にあたる人は、戦後間もない昭和20年代前半に逝去した。
御茶ノ水女子大出の才媛だったそうだ。
当時、米軍基地周辺のミュージシャンのマネジメントとかしていたらしい。
もし、生きてれば「ナベプロ」とか「ホリプロ」よりも早く、
日本にエンタティンメント企業を立ちあげてたかもしれないね(笑)。
そういう環境下だったので、クラシック好きだった父も、それなりにジャズのルーツとかの知識はあるようだ。

話をを戻そう。
この日のゲストは、ジャーナリストの上原善広氏
大阪の被差別のご出身だ。
日本でも世界でも、「文化」の深層を追求するなら、
「タブー」の問題とぶつからざるを得ない。
それを避けていては、わかるものもわからなくなるのだ。

「被差別地域で育った食文化(ソウルフード)と音楽」

この日は、刺激的かつ根源的なお話を聞くことができた。

われわれの生活に身近な「ケンタッキー・フライドチキン」。
これも元を辿れば、米国南部の被差別黒人の編み出した知恵だという。
骨も食べられる。
昔から、ケンタッキーのフライドチキンを食べるたび、
骨が軟らかく、いっそ食べてしまおうか? と思ったことが少なくない。
「な~るほど! 俺の感覚は間違ってなかったわけだ・・・」

ブラジルにも黒人奴隷の歴史があって、
逃亡奴隷たちが住んだ川沿いの湿地帯で作られた料理など興味深い。
それなりに魚介類が多く、栄養は偏っていたものの、筋骨隆々の男性が多いとか。
ちなみに、ブラジルでは今でも階層差別があり、
たとえば、欧州のクラブで数億円を稼ぐサッカー選手でも、
階層から自由になることはない、とのことだ。
サンバのカーニバルが熱狂的に行われるのは、
364日間は仕事で「眼が死んでる」生活を送り続け、
カーニバルの1日だけ「眼が輝く」とのこと。
「お祭り」の歴史ってどこも同じだね。

フセイン政権が崩壊して久しいイラクでは今でも内戦状態が続いている。
昔、「世界の警察」と言われた“強迫神経症”国家の“介入”による泥沼化。
フセインは、ジプシーなど少数民族をとても大切に保護したそうだ。
もちろん、クルド族のように反抗する民族には、毒ガス兵器を駆使してまでも徹底的に弾圧はしたが。
少数民族を定住化させたのは、対イラク戦争での「徴兵」の必要など実利的な理由もあったが、それでも彼らにしてみればフセインへの忠誠心が高まったのは当然だろう。
ジプシーの集落では、現地住民からの投石を防ぐためのフェンスまで設置したという。
そして、フセイン政権崩壊後、ジプシーたちは再び、周辺住民たちからの迫害を受け始めたという。
それで、今でもイラクの現政権に対する報復の連鎖が続いているわけだ。

普段のマスコミではこんな報道はされない。
これも、「差別と被差別」という構造を知らねば、理解できない事実なのだ。

日本でも「差別」の構造は完全には解消されてはいない。
「タブー」も厳然として存在する。
優秀なジャーナリスト、文化人である上原氏も決してテレビ出演の依頼はないそうだ。
スポンサー企業と広告代理店の問題だね。
メディアの規模が大きくなるほど「規制」は強くなる。
色んな人が色んなことを言ってくるから。

あと、上原さんのお話で興味深かったのは、
江戸時代まで「(えた)」と「()」の差別構造があったという話。
「」は現在でいうところの皮革産業に携わってきた人達で世襲。
「」は、心中事件の方われ者など流動的な身分。
江戸時代のある時期まで、「」は「」の上位階層だったという。

それが「」側の反抗(裁判?)があって、「」が勝ったそうだ。
言うまでもなく、「歌舞伎」役者(河原乞食)は江戸時代までは「」だった。

歌舞伎の舞台で今でも、
客が「よっ! ○○屋!」とはやし立てるのは、
役者が「」の階層を脱して「屋号」を持つようになったことを祝うため。
はやし立てる客は、もちろん「サクラ」だ。

また、「」「」の差別構造はチベットにその源流があるという。

今、こうして文章を書いていても、
「」「」と打ち込んでも漢字変換されない(苦笑)。
「差別用語」なので当然といえば当然だろうが、これも「タブー」だ。
しかし、「タブー」から離れてばかりいたら、
今、私が書いているような「文化のルーツ」を語ることは不可能なのだ。

もっと希薄だけどわかりやすい話をすることこうなる。
「タブー」じゃないけど。
日常生活で君達が何気に穿いているいる「ジーンズ」。
(私は約30年、「ブルージーンズ」は穿いていない)
誰でも知ってると思うけど、米国のワークウェアだよね。
***************************************
シンポジウムの後は、24歳のブルーズギタリストhanna のライブだ。


演奏の途中から、私は控室で当日の料理を食させていただいた。
これが実にうまい!!!
本来は、そのままでは食べられないような料理を、
現代のわれわれが美味しく食べられるように調理されたからだ。

演奏が進むにつれて、だんだん音が大きくなってるぞ? と。
演奏されているのはゴキゲンなブルーズナンバーのカバーだ。
料理をいただいた後、ステージを観たら、
Female ギタリストなど参加メンバーが増えていたのだった。


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橋本治 金言集 『ナインティーズ』 読書メモ (コメントなし) <第12回>

2012年08月02日 | マーケティング話
<第11回>より続く。

■“日本教”とは

“日本教”という言葉もありますが、日本人は制度というものに一切を委ねて、自分というものの根拠を自分の中に見ることをしなかった。その点で、日本は完全な宗教社会です。ただ、この日本には“神”がいない。江戸時代の“宗教改革”で、日本は完全に“神”という概念を払拭した世俗の社会としての完成を見ちゃったけれども、そこにはまだ、“強い個”というものがいなかった。「明治維新をになったものはなんだ?」という問いもあるかもしれないけど、「あれは単に“強情な青年達”だった」と言った方がいいと思います。

日本人は、徳川幕府による上からの“宗教改革”の結果、多分、神と格闘するだけの力を持てなくなったんです。それでなければ、明治になって国家神道というものが創造された時に、ああも平然と多くの日本人達が巻き込まれて行ったことは理解できない。日本の場合、近世の初頭に宗教改革があって、近代になってから宗教支配という逆行が改めて起るんですから。

神という絶対者を持つ宗教的な支配は、日本の場合「主君を戴く武士の忠義」という世俗のものに解消されて、一般市民=町人には、神との葛藤がなかった。なくて、それが分からなくて、そのまんま国家神道が支配するファシズムの中に巻き込まれて行って、そしてそれが“他人”の手によって解除される。敗戦でやって来たアメリカ軍がファシズム体制を排除しちゃったもんだから、日本人は分からないまんまの“免疫なし”なんですね-きっと。

(同書190~191ページより。太字部分は引用者)

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2012年08月01日 | マーケティング話
実はまだ終わっていなかった。
結構、「文化」の核心部分に入っていく気配。
<第10回>より続く。

■「大和撫子」って何だ?

マザコンであることが正しい男の性行動として組み立てられた社会で、“母親”というものは、勿論一つの“制度”です。日本の女は正しく“母”となるように位置づけられ、そのあり方を称える言葉として「大和撫子はあったわけです。かつて、「日本の女は世界一」と言われ、その配偶者たる「日本の男」はまったく問題にはされず、かえって「日本の男は世界一魅力がない」なんてことを言われた-これは今でも同じかもしれません。

女が魅力的で男が魅力なしという理由は至って簡単で、それを外から見る人間になにが魅力的に見えるのかということになったら、それは「そういう魅力的なものが存在する制度」です。魅力的なのは、女をそういう制度的な存在にしてしまった“かつての男達が作り上げた制度”で、別に現在の男ではない。かつての日本の魅力は、日本という国の制度の産物で、だからそれは、日本のハイテク技術は世界一であっても、それを生み出す日本の会社男達にはなんの魅力もないというのとおんなじなんです。

「大和撫子」は日本文化が生み出した最高の商品ですが、「そういう自分はどうも人間ではないらしい」ということに気づいた段階で、日本の女達は「大和撫子」をやめてしまった。日本の男社会の混乱はそこから生まれるんですが、「男という制度は女という制度によって支えられる」が日本の両性調和の真実だったんですから、こんなことは当然です。当然ですが、こんなことは誰も指摘しないので誰も知りません。だから若い男の子達は、古くからの日本的伝統にのっとって「女を乗りこなせないと男として失格してしまう」と焦り、女に振り回されることを人生の基本態度として了承してしまったのです。

(同書188~189ページより)

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