金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

目次

2010-11-28 12:17:52 | 目次
目次:クリックすると該当ページに飛びます

プロフィール
  プロフィール


日本語ものがたり
  はじめに
  第58回 「恐るべき麻生読み」
  第57回 「漢民族は羊好き」
  第56回 「あめあめふれふれかあさんが」
  第55回 「幸せになりたいですか」
  第54回 「敬語の品格」
  第53回 「怖い漢字」
  第52回 「福田首相辞任劇」
  第51回 「横綱の品格」
  第50回 「大統領がキレる国」
  第49回 「行ってきます」と「お帰りなさい」
  第48回 「敬語の落とし穴」
  第47回 「沖縄のことば」
  第46回 「安倍首相の日本語力」
  第45回 「左と右」
  第44回 「英語と仏語」
  第43回 「私のこと、好き?」
  第42回 「奈良時代のホッケー」
  第41回 「切る言葉、つなぐ言葉」
  第40回 「ある学生の『か理論』について」
  第39回 「英語の悲鳴・仏語の悲鳴」
  第38回 「恩師のアドヴァイス」
  第37回 「日本語の特徴(その3)」
  第36回 「日本語の特徴(その2)」
  第35回 「日本語の特徴(その1)」
  第34回 「意味の変化か、間違いか」
  第33回 「国語か、日本語か」
  第31回  謎解き「シクラメンのかほり」
  第30回 「赤ちゃんの名前」
  第29回 「3ぺた族」と「ひきこもり」
  第28回 「世界一の男優」
  第27回 「ぶん殴る」の「ぶん」はどこから来た?
  第26回 「名詞修飾節という肩凝り」
  第25回 「国境の長いトンネル:コトとモノ」
  第24回 「追悼:林尚子さん」
  第23回 「米語の悲劇・大阪弁の喜劇」
  第22回 「イスラム」と「イスラエル」:似ていて当然?  
  第21回 「は」と「が」の違い(その2)
  第20回 「は」と「が」はどう違う?
  第19回 「山・島・沼・浜:共通点は何?」
  第18回 「海」は「海水」のことだった?
  第17回 「ケータイさんが行くよ」
  第16回 「ケセラセラとレット・イット・ビー」
  第15回 「ビンラディンを巡る人名と地名」
  第14回 「常用漢字の不思議」
  第13回 「増本さんの想い出:スカートとシャツ」
  第12回 「50音図をよく見ると」
  第11回 「先生、ジュテームは日本語でどう言いますか」
  第10回 「日本語上達の鍵は『てにをは』にあり」
  第9回 「山の手線」か「山手線」か
  第8回 「モントリオールはクロワッサン」
  第7回 「先生、日本語は外来語に寛容すぎませんか?」
  第6回 「アカプルコからの手紙」
  第5回 「連続線としての受身/自・他動詞/使役」
  第4回 「ケベッコワと外来語」
  第3回 「葉と歯って元々同じだったと思う」
  第2回 「ラぬき言葉という名称は正しくない」
  第1回 「三階でございま〜す」

管理人のつぶやき
  余は如何にしてファンとなりし乎


応援のクリック、よろしくお願いいたします。



 2009年7月7日からのアクセス数
 現在の閲覧者数
コメント (19) | トラックバック (1) | goo

第58回 「恐るべき麻生読み」

2010-01-29 12:01:34 | 日本語ものがたり
 以前、この欄に「安倍首相の日本語力」(第46回)と「福田首相辞任劇」(第52回)を書き、辞任の際の記者会見で、この二人の日本国首相がどんな日本語を使ったかを紹介した。「あっだけ物議ば醸(かも)したったい。『麻生読み』のこつも書かにゃ」 とメールをくれたのは熊本の友人である。それに応えて、今回は、昨年8月末の衆議院総選挙に大敗して首相の座を降りた麻生太郎氏のことをお話しすることにしよう。ちなみに、麻生氏は1976年のモントリオール五輪にクレー射撃日本代表として参加しており、当地とはご縁のある政治家である。五輪での成績は41位だった。

麻生太郎氏ほど、マスコミに日本語力を揶揄された首相はかつてなかったろう。首相就任前は「失言問題」が心配だと言われた人物だが、蓋を開けてみると、それよりも国民が驚かされたのは「漢字誤読問題」であった。麻生氏と言えば漢字という風に、マスコミにさかんに取り上げられた。日本の漫画やアニメを文化として高く評価にする氏だけに、誤読は「漫画の読み過ぎ」であるとか、流行言葉の「K.Y.」(空気が読めない)をもじって「漢字が読めない」などと揶揄されたものである。

私などが単純に頭を傾げるのは、何故原稿に仮名を振らなかったのか、ということである。あるいは、一度読んでみて、スタッフに聞いてもらうという手もあった筈だ。とにかく、信じられない間違いが後から後から続いてマスコミで報道され、「麻生読み」という新語さえ出現した。由々しき問題は(1)他の人が書いた原稿を(2)初見で棒読みしていると、誰の目にも思われた点であろう。これでは人の心を動かすことなど到底出来るものではない。

論より証拠。何はともあれ、「麻生読み」の実例を挙げてみよう。有名になったものが多いが、これだけ多発、連打されるとやはり異様と思うほかない。
以下、(      )が正しい読み、「        」が麻生読みである。

   踏襲(とうしゅう) → 「ふしゅう」
   措置(そち) → 「しょち」
   有無(うむ) → 「ゆうむ」
   詳細(しょうさい) → 「ようさい」
   未曽有(みぞう) → 「みぞゆう」
   頻繁(ひんぱん) → 「はんざつ」
   低迷(ていめい) → 「ていまい」
   順風満帆(じゅんぷうまんぱん) → 「じゅんぷうまんぽ」
   破綻(はたん) → 「はじょう」
   怪我(けが) → 「かいが」
   三種の神器(さんしゅのじんぎ)→「さんしゅのしんぎ」

「詳細」「破綻」、ことに「怪我」などは空いた口が塞がらないミスだ。しかし、ここでは特に最後に挙げた「三種の神器」に注目したい。これは、記者クラブでの出来事だが、その模様がYouTubeという便利な文明の利器のお蔭で、いまでも見られるので、ご興味のある方はどうぞ。(http://www.youtube.com/watch?v=H7UIJOiwab4) 

この画像を見ると、流石に血の気が引く思いがする。ここで麻生氏は、原稿から目を上げて、記者たちに話しかけながら、何度も「さんしゅのしんぎ」と言い続けているのだから、相当深刻だ。さぞや記者達は凍り付いたに違いない。麻生氏は、さらにご丁寧にも「覚えています?三種の神器って。神様の器(うつわ)、と書くんです」と漢字の説明までしつつ、麻生読みは「さんしゅのしんぎ」なのである。

誤解のないようにここで付け加えておくと、「神器」だけならば確かに「しんぎ」と読めないことはない。広辞苑にもそうある。しかし、熟語で「三種の神器」となると、これは「さんしゅのじんぎ」のみである。つまり、この言葉に関しては「誤読」でさえなかった。

考えてもみよう。皇位(=天皇の地位)の象徴である「三種の神器」の正しい読み方を、中央政府の頂点にいる日本国首相が知らなかった、という衝撃の事実を。誠に恐るべき失態と言わねばならない。もっとも、この「事件」はあまりマスコミの取り上げることろとはならなかった。皇室に関することであるし、また首相がここまで漢字に無知であることは、日本人全体にとって決して名誉ではないと記者にも思われたからだろう。

大衆は、日本の顔である政府代表者、とりわけ首相には「外に出しても恥ずかしくない」教養と知性を備えた人物であることを期待している。漢字が読めない首相は、後日石原都知事がインタビューで指摘したように「リカバリーが出来ないほど軽蔑・侮蔑の対象になって」しまい、結局は一年で退陣をする遠因の一つを作ってしまった。

なお、麻生氏の名誉のために付け加えておくと、ベストセラー『バカの壁』で知られる解剖学者養老孟司は麻生氏の誤読問題を「読字(どくじ)障害ではないか」との見解を示している。麻生氏にとっては大変有難い援軍の出現と言わねばならない。

「読字障害」とは、学習障害の一つで、知的能力や会話には支障がないが、文字を読むことが難しいという症状である。その一方で、物事を視覚的にとらえたり、空間を把握する能力が高く、芸術や工学などで優れた能力を発揮するといわれている。つまり障害とはいいながら、それと同時に大きな長所でもあるわけだ。驚くなかれ、発明家エジソンや理論物理学者アインシュタイン、芸術家ではロダンやピカソ、推理作家のアガサ・クリスティや俳優のトム・クルーズなども読字障害者の例であるらしい。

しかし、そのことは、いたずらに誤りを繰り返したことの言い訳にはなるまい。日本中に報道されることが分かっているスピーチであるなら、何故前もって一度音読し、スタッフに確かめてもらわなかったのか、という疑問はやはり残る。誠に不思議でならない。

以上、失礼ながら、三回にわたって日本における宰相の日本語力を拝見することとなった。取り上げたのは、2006年9月から3年間にわたって、1年づつ矢継ぎ早に入れ替わった3名の総理大臣の忘れがたい言葉たちである。「揚げ足取り」のそしりは免れないだろうが、相手は「日本政府の顔」でもあり、公人としての「有名税」とでも鷹揚に受け取って頂けたら幸いである。

しかし、その状況の裏に、実はもう一つの重大な事実があることを忘れてはいけない。それは、首相が間違う度に眉をひそめ、何の躊躇もなく「これはひどい」と評価を下せる一般大衆の教養、とりわけ日本語力の高さなのである。『日本語が亡びるとき』(水村美苗、2008)という著作がベストセラーになったが、私は日本語は亡びないと信じている。母語に対する一般庶民の愛着と高度の知識は、日本語を亡びさせるようなことは決してしないと思うからだ。(2010年1月)

応援のクリック、よろしくお願いいたします。
コメント (6) | トラックバック (0) | goo

第57回 「漢民族は羊好き」

2009-11-11 08:21:37 | 日本語ものがたり
 今回は「羊」にまつわる漢字の話である。漢民族は「羊」が昔から大変好きだったと見えて、この部首を含む漢字にはいい意味のものが勢揃いする。ただし、前もってお断りしたいのは、多くの字に関してその字源には諸説があるということだ。ここでご紹介するのも、いくつかの説から最も説得力があり、教室で説明しやすいと判断した字源である。こういう事情だから、「いや、こちらの字典には別の説明があった。これが正しい」と反論されても、残念ながらいつまでも平行線で、結論は出ないことをご理解戴きたい。

 まず「羊」グループのトップバッターは「美」。これは誰が見ても一目瞭然。「羊が大きい」であって、その状態を漢民族は「美しい」と愛でた。面白いのはほぼ同じように見える「太った馬」との比較で、「駄」には全く逆の評価が下される。「駄目」「無駄」「駄洒落」などに使われて悪いものばかり。全然美しくないのだ。

 おそらく、成長した「羊」は美しい姿の代表と考えられたのだろう。そうすると思い浮かぶのは「義」という漢字だ。「羊」が「我」の上に乗っかっている。「我」はいわゆる「わたし」と言うよりは音(ガが後に変化してギとなった)を表すが、本来は舞の姿を表すらしい。そうすると「我」と「羊」とで「美しい舞の姿」となる。礼をふみ行う美しさ、それが転じて「正しいみち」となった。正しい人物や行いは義士、正義と言われる。さらに今度は「義」を音符(ギ)として、「議、犠、儀、蟻」などの形声文字が作られたことは言うまでもない。このように、関係のない漢字を次々に教えるよりも「羊の漢字」を一緒に関連づけて教えた方が、学習者の記憶にも残るものである。

 「うつくしく(=美)」かつ「正しい(=義)」となると、次には「よい(=善)」が出て来るのは予想通りだ。「善」には様々な字源説があるが、私が気に入っているのは「羊」に「台(=お膳)」に「口」と解くもので、つまり美味しい物が「善」である。旨いものが悪である筈がない。ちなみに、この「台(=お膳)」を表す部首は「前」という漢字の上部にも現れる。これはお膳の前に月(=肉づき)と「リ(=包丁)」を添えた漢字。教室では食事の用意をしている光景と説明している。だから「(食べる)前」なのだ、と。

 その「月(=肉づき)」を「善」に添えたのが「膳」である。今では「食物を載せる台」のことを「(お)膳」と言うが、元々はそこに載っていた食べ物が「膳」だった。

 「真・善・美」の三要素は「人間の理想として普遍妥当な価値」(広辞苑)であるとされる。「真」の代わりに「義」が使われたのが今回取り上げた「義・善・美」だが、これら全てに「羊」が使われているのは大変印象深いことである。多くの人が参照する「漢字源」(学研:2002年)にも次のように書いてあるが、素直にうなずける。「善は、羊のようにうまいもの、美は、羊のようにうつくしいこと、義は、羊のようにかっこうがよいこと。いずれも羊をよい物の代表としている」。統計を調べてみると、羊は古代中国から飼育され、現在でも中国は世界一の羊飼養国なのだ。羊肉は勿論のこと、羊乳もよく消費されている。

 他にも「姿の美しい魚」が「鮮」(=>新鮮、鮮明)、「神意(=示)が美しい形となって現れたもの」の「祥」(=>吉祥、祥月、瑞祥)、「羊のように美味しいものを食べる」の「養」(=>栄養、滋養、養老)、「美しい水の広がり」の「洋」(=>洋々、海洋、大洋)などが次々と思い浮かぶ。

 さて、そろそろこの話題を締めくくろう。実はとっておきの漢字があって、これが書きたくてこれまで長々と書いてきた、というのが正直なところなのだ。日本語教室の初歩ではまず習うことのない漢字だが、次の説明を聞けば学生もすぐ覚えてくれるのである。

 その漢字は「羨」である。羨望(せんぼう)の羨、訓読みは「羨(うらや)ましい」。こんな一目瞭然の漢字はないと見え、複数の漢字字典が同じ説明を加えている。「欠」とは(これも諸説あるが)「開いた口」であり、口を開けて「歌」い、「吹」き、「飲」む。では「羊」の前で、口を開けて、一体何をしているのだろう。そのヒントは残りが「サンズイ」であること。つまり「水」がその口から垂れるのだ。それは美味しそうな羊を見て、食べられない人が垂らす涎(よだれ)である。「あぁ、いいなぁ、食べられて」という気持ち。それが「羨(うらや)み」だというのだ。漢民族のユーモア感覚をほのぼのと感じさせる一字ではないか。

 さらにつけ加えるなら、和語の「うらやみ」は、かなり趣きが異なる。「うら(=心)」+「やみ(=病み)」が語源であるから、こちらはいささか深刻と言わなくてはいけない。嫉妬の思いに連なるこの心境を、漢民族は笑い、大和民族は戒めた、ということだろうか。お国柄の違いとも思われて、誠に興味が尽きない。
(2009年11月)

応援のクリック、よろしくお願いいたします。
コメント (4) | トラックバック (0) | goo

第56回 「あめあめふれふれかあさんが」

2009-10-12 10:38:10 | 日本語ものがたり
 外国語としての日本語を教えていて、ときどきふと立ち止まる。それは、いままで気付かなかったことが急に意外性を帯びて立ち現れた時だ。あれ、どうしてこうなんだろう、と自問していろいろ調べ、答えが見つかることもあるし、疑問が疑問のまま、何年たっても分からないこともある。いずれの場合にしても、ああでもない、こうでもないと考えを巡らせること自体が刺激的で、とても楽しい。答えが分かった場合の多くをこれまでこのエッセーで述べてきた。今回もそうした新発見、と言うよりはむしろ再発見の例である。

 それは「日本語の基本語彙は2モーラ単語が圧倒的に多い」ということだ。モーラ(mora)とは何だろう。広辞苑を引くとこう書いてある。「音韻論上の単位。1子音音素と1短母音音素を合わせたものと等しい長さの音素結合。拍」。これではよく分からないが、早い話、俳句や短歌を考えてみるとよいのだ。5-7-5というのは、モーラを数えているのである。「かな一文字」は「ん」も含めて大抵1モーラだが、拗音の「きゃ、きゅ、きょ」、実際は発音されない「きっと」の促音「っ」などもそうだ。

 ちなみに、債務の履行を延期する一定期間をモラトリアムと言うが、それも長さの単位である「モーラ」から出来た言葉だ。心理学者エリクソンが名付けた、なかなか成長出来ず社会的義務の遂行が遅れる「モラトリアム人間」は一時流行語となったのでご記憶の方も多いと思う。

 では本題に入ろう。初級クラスで疑問詞を黒板に列挙していた。英語でいわゆる「5W1H」と言われるものの日本語は、「だれ(who)・なに(what)・どこ(where)・いつ(when)・なぜ(why)・どう(how)」と見事に「かな2文字」つまり「2モーラ」になっている。今回2モーラ単語の重要性を再発見したきっかけは、ある学生がふと漏らした「へえ、きれいに並ぶんですね」の一言だった。さらに「which」を増やして「6W1H」にしても、やはり「どれ」は2モーラである。英語でも仏語でもこんな風にきちんとは揃わない。

 「どれ」と言えば、空間詞として大変重要な「こそあど」も、その基本部分は「これ・それ・あれ・どれ」「この・その・あの・どの」と全て2モーラ。基本色彩語彙と言われる4色がまた「あか・あお・くろ・しろ」である。自然物の名詞はと言えば「やま・かわ・たに・さわ・しま・ぬま・いけ・はな・くさ」などと2モーラ語が断然多い。気象関係なら例えば「そら・くも・ほし・あめ・ゆき・きり・しも」、動物なら「うま・うし・ぶた・ねこ・いぬ」。このうち、本来日本にいなかった「馬」は音読みの「マ」の前にわざわざ「う」をつけて2モーラの「うま」にしたもので、花の「梅」も同じ(う+メ)である。基本動詞をとっても、その最も使用度の高い「連用形」で見ると「食べ・飲み・行き・書き・読み・聞き・買い・売り・貸し・借り・会い・吸い・待ち・持ち」と初級日本語から列挙に暇がない。

 さらに驚くべきは、表記上は1モーラでも、発音する時はわざわざ2モーラに変える場合である。例えばスーパーで桃を買ってきたとしよう。買い物籠に入っている10個ほどの桃を我々はどう数えているだろうか。おそらくは、指さしながら「いち・にい・さん・しい・ごう・ろく・しち・はち・きゅう・じゅう」と唱えるのである。

 1モーラの「に・し・ご」ではなく、「にい・しい・ごう」とわざわざ長母音にしているのは、その方が数え易いからである。ある年齢層以上の日本人なら漢数字でなくて和数字を使うだろうが、やはり「ひい・ふう・みい・よう・いつ・むう・なな・やあ・ここ・とお」と、「1、2、3、4」などでは延ばしている筈だし、「9」では逆方向で2モーラに切っている。地方によっては「ここ」ではなく「この」と言ったり、倍の4モーラにして「ここのつ」と言うらしい。音読みの筈の曜日も同様で「にち・げつ・かあ・すい・もっ・きん・どう」と揃えるのが普通だ。

 1モーラの和語の「日(ひ)」もそんな例だろう。このままでは短すぎて使いにくいので「お日さま」と言ったりする。また、苗字の中で「井(い)」や「榎(え)」の後にわざわざ「の」をつけて「井上(いのうえ)」「榎本(えのもと)」と読んだりする。

 思えば、外来語の日本語化というプロセスにおいて「2モーラ」は大変重要な役割を演じた。漢字の音読みとは本来中国読みのことだが、中国では漢字は全て1音節(シラブル)で発音される、これらの多くを日本語では(最後に母音を加えたり1モーラの撥音(ん)とするなどして)2モーラに変えた。さらにそうした漢字を2つ重ね、明治期の(西周など)日本人知識人は「哲学・芸術・感覚・総合・分解」など近代化に必要な多くの漢語語彙を4モーラで作り上げた。これらは完全に日本語に日用語として定着しているし、中国に「逆輸出」されたのはよく知られた史実である。

 さらに面白いのは、それと同じ4モーラ化のプロセスを戦後の日本語は英語においても踏襲したことだ。時事語なら「ハイテク・セクハラ」、ゲームや漫画なら「ドラクエ・ポケモン」。とりわけ注目すべきは「パソコン・マザコン・ゼネコン・エアコン・ボディコン・ミスコン」の場合で、後半の「コン」は、この順番でコンピューター、コンプレックス、コントラクター、コンディッショナー、コンシャス、コンテストと本来は全て別物である。呑気というか、大胆というか、胸のすくような手際のよさである。これら夥しい数の「和製英語」言葉は、もはや英語ではなく、日本語と認めるほかないのだ。

 こうした状況は日本語や朝鮮語の特徴と言われる擬態語・擬音語の多くにも見られる。「どきどき・はらはら・いらいら」のABAB型、「さっぱり・きっぱり・がっかり」の「AっBり型」、「ちんまり・げんなり・うんざり」の「AんBり」型など、形に違いはあっても、これらのオノマトペアは2X2=4モーラという点で一致している。

 さて、日本語を語彙面で支え、ある意味でが外来語から守っている「2モーラ」のリズムの快さを、日本人はいつどこで体得するのだろうか。それは間違いなく幼少期、母親の背中や腕の中だと思う。そう、「あめ・あめ・ふれ・ふれ・かあ・さん・がぁ」と母親が身体を揺らしながら歌ってくれたあのわらべ歌が、まさにこの2モーラのリズムなのだ。(2009年10月)

 追記:この記事を読まれた方からコメントを戴きました。ハンドル・ネーム「外部の人」さんは、2モーラ語彙の例として四季の「はる・なつ・あき・ふゆ」、数字の桁数を言う「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、おく、ちょう」、諺の「もも・くり・さん・ねん・かき・はち・ねん」も追加して下さいました。

「きれいに並ぶんですね、と言った学生さんの感性に座布団3枚」も下さったMISAさんは、少女時代に「日本語が4拍子だから日本人はワルツが踊れない」とお母さんがおっしゃっていたのだとか。また、ご指摘の通り、平安時代の同じ仮名を繰り返さない「あめつちの歌」も「あめ・つち・ほし・そら」と2モーラでした。そう言えば昔の教科書に「はな・はと・まめ・ます」というのがありましたね。

また、このブログの管理人のチエ蔵さんがおっしゃるように、「あめ・あめ・ふれ・ふれ・かあ・さん・がぁ」は「ぴち・ぴち・ちゃぷ・ちゃぷ・らん・らん・らん」とやはり2モーラで終わっています。

皆様、さまざまな点のご指摘、お礼申し上げます。

応援のクリック、よろしくお願いいたします。
コメント (3) | トラックバック (0) | goo

第55回 「幸せになりたいですか?」

2009-09-08 09:51:02 | 日本語ものがたり
 遠い昔の思い出話である。受験した大学が二つとも不合格だった私は北海道から上京し、予備校の寮に入ることになった。ぽっと出の田舎者にとって、首都圏での新生活は人生の大転機である。戦場のごとき予備校での一年間の詰め込み授業。翌年の春、何とか二浪を免れて新入生になった時は、心身ともに疲れ切っていた。

 正門の近くに陣取って、キャンパスに入ろうとする学生に笑顔で近づき、話しかけてくる人たちがいた。若い女性が多かったように記憶するが、もちろん男性もいただろう。不思議なことにいつも二人組だった。「おはようございま〜す」と声をかけて来ては、薮から棒にこう質問するのである。「神様に関心がありませんか?」

 いわゆる新興宗教団体への勧誘なのだった。いきなり神様と言われても「はい、よくぞ聞いてくれました」と答えるような学生は、今も昔も日本には少ないだろう。私とて同様で、何も言わず手を振って足早に立ち去ったものだ。「東京ってとこは、何とも変な人たちがいるもんだなぁ」と思いながら。

 数ヶ月後、彼らは戦術を変えていた。ある日を境に「神様」は姿を消し、質問はこう変わった。「幸せになりたいですか?」 
最初の質問が変わっただけで後の勧誘は同じなのだが、なるほど、よく考えたものだ。確かに、この質問には「いいえ」とは答えにくい。マーケティングってやつだな、と彼らなりの工夫、戦術の改善にちょっぴり感心したものである。

 そんな昔のことをふと思い出したのは、去る8月30日の衆議院総選挙がきっかけである。大川隆法主宰の宗教団体「幸福の科学」を母体とする政党の名前が「幸福実現党」だったからだ。「幸せになりたいですか?」と聞かれた学生時代が彷彿として蘇った。「幸福実現党」は、合計337人もの立候補者(小選挙区288人、比例代表区49人)を出したものの、大川総裁も含めて全員が落選している。

 それもその筈である。全くの好奇心で「選挙公約」をインターネットで読んでみたが、内容は荒唐無稽。日本を大統領制に移行させるとか(大統領は当然大川総裁を想定しているのだろう)、歴史上初めて減り始めた日本国の人口を2030年には三億人まで増加させ、GDP世界一の国家にする、しかし日本人だけでは無理なので、うち一億人(!)は移民でまかなうとか、まさにトンデモ公約なのだった。

 さて、このエッセイは「日本語ものがたり」だから、後半は言葉の話をすることにしよう。和語の「しあわせ」の語源、それから漢字「幸」の字源を調べてみた。

 「しあわせ」という言葉を、例えば紫式部は知らなかった。これは室町時代になって初めて生まれた語だからである。さらに意味も今日とは違っていた。今でも時には「仕合わせ」と書くように、語源的には複合動詞(し+合う)の使役形「しあわせる(し+合わ+せる)」の名詞形であり、今日で言う「巡り合わせ」と同じ意味だったのだ。当初は「しあわせ善し、しあわせ悪し」と評価の形容詞を伴って用いられた理由もそこにある。江戸時代になって、「しあわせ」のみで「幸運な事態」を表すようになり、さらに「事態」から「気持ち」へと意味が移って、漢字も「仕合わせ」から次第に「幸せ」と書くようになったのである。

 「しあわせ」という和語の元の意味を正しく理解して作ったと思われる歌があるのでご紹介したい。中島みゆき作詞作曲の「糸」(1992)だ。実は順序が逆で、この歌を聞いてから「しあわせ」の語源を調べてみようと思ったのだけれど。


        なぜめぐり逢うのかを 私たちはなにも知らない  
        いつめぐり逢うのかを 私たちはいつも知らない 
            どこにいたの 生きてきたの  
             遠い空の下 ふたつの物語

           縦の糸はあなた 横の糸は私  
        織りなす布はいつか誰かを暖めうるかもしれない

           縦の糸はあなた 横の糸は私   
        逢うべき糸に出遭えることを人は「仕合せ」と呼びます

 ご覧のように、漢語は一つも使われておらず、すべて和語(大和言葉)の歌詞となっている。日本に生まれてよかった、日本語ってこんなに美しい、としみじみ思えるような作品だ。

 続いて漢字「幸」の字源を調べてみた。字源には色々な説があるが、有力なのは「(刑罰として手にはめる)手かせ」の象形文字であるとする説だ。この説が正しいとすると、原意は「手かせ」や「刑罰」だったが、後に「手かせをはめられる危険から免れたこと」を意味するようになり、「思いもよらぬ運に恵まれたこと」から「幸運、幸せ」へと変わったことになる。

 「幸=手かせ」と考えてこそ、「執(=つかまえる):手かせ+人が身体を丸めた姿」や「報(=仕返し):手かせ+膝まづかせた姿+手」など他の漢字もうまく理解出来ることを考えると、この字源説には説得力がある。

 これで、和語の「しあわせ」と漢字の「幸」の共通点が見えて来た。それは、両者ともに長い旅を経て現在の意味に到ったという点である。幸福も得てしてそういうものかも知れない。(2009年9月)

応援のクリック、よろしくお願いいたします。
コメント (9) | トラックバック (0) | goo

東京と広島で講演!

2009-07-10 10:43:50 | 最近の出来事
 たきさんファンの皆様、こんにちは。管理人チエ蔵です。

 なんと! たきさんが日本(東京と広島)で講演をなさいます。入場はいずれも無料。日本語文法についてご関心のある方ならどなたでも参加できます。
 
 詳細は以下のとおりです。



北米留学のすすめ
東京学芸大学:2009年7月22日(水)15時〜17時


日    時:2009年7月22日(水)15時〜17時
場    所:東京学芸大学講義棟N313教室
参  加  費: 無料
問い合わせ先:東京学芸大学留学生センター 岡 智之 okatom@u-gakugei.ac.jp



三上章の生涯とその功績
広島国際会議場:2009年7月25日(土)14時〜16時


日    時:2009年7月25日(土)14時〜16時
場    所:広島国際会議場 ヒマワリ
参  加  費: 無料
申し込み方法:往復はがきに講座名(三上章の生涯とその功績)、
       住所氏名、年齢、電話番号を記入し、
       7月17日(金)(消印有効)までに、
       広島市役所国際交流課(郵便番号 730-8586 住所不要)へ
問い合わせ先:広島市市民局国際交流課 
       電話:082-504-2106  FAX:082-249-6460



日本語教育セミナー
広島国際会議場:2009年7月26日(土)9時〜16時30分


日    時:2009年7月26日(水)午前の部  9時  〜12時
                午後の部 13時30分〜16時30分
場    所:広島国際会議場 ヒマワリ
参  加  費: 無料。ただし、当日テキストとして、金谷武洋著「日本語文法の謎を解く」(ちくま新書)を使用します。(当日購入可 714円)
申し込み方法:広島市留学生会館に直接お申し込みください。(先着100名)
問い合わせ先:広島市留学生会館
       電話:082-568-5931 FAX:082-568-5600
主    催:財団法人 広島平和文化センター国際部留学生会館
コメント (1) | トラックバック (0) | goo

第54回 「敬語の品格」

2009-07-07 12:39:14 | 日本語ものがたり
 日本語の特徴の一つとされる敬語だが、その使われ方は時代とともに大きく変化してきた。国語学者の宮地裕は、古代敬語を「公と私の対立意識による敬語」、それに対して現代敬語を「相互性、場面性による」ものと区別している。確かに、現代の敬語は、場面での話し手・聞き手の相対関係で変化しやすく、そこにいない話題の人物への敬語はかなり失われてしまった。

 古代敬語では貴族制度や士農工商など階層的規範性があって、身分に基づく敬譲の意識が強かった。従って、自分の主君や家族への敬語を省くことはないし、話題の複数の人物の関係をわきまえて、いちいち敬語を使った。なお、今でも関西圏では「父と母が行きはったわ」などと言うことは、こうした古代敬語の名残りとも考えられる。

 対話の場にいない第三者に対して敬語が使われなくなった状況は、大石初太郎が行った家庭の言葉遣いに関する大学生のアンケートでも報告されている。例えば、「先生はお帰りになった?」は「先生は帰った?」より遥かに少なく、男子学生では何と1%にも満たない0.3%、女子学生でも3.4%だった。つまり、どんなに偉い先生に対しても、そこにいなければ敬語はもう使われない。

 これは極めて重要な指摘である。長い間、敬語は話題になっている人に関する「尊敬語」「謙譲語」と、聞き手に対する「丁寧語」があると三分類されてきたが、この構造が明らかに崩れつつあるのだ。

 上記の宮地は「現代の敬語は、敬の言葉と言うよりも礼の言葉だ」と言い切っている。つまり「敬(うやま)う、尊敬するから使う」のではなくて、目の前の聞き手に対して「礼儀として、失礼にならないようにという気配りから使う」という主張だ。その上で、「敬語」というよりも「礼語」と言った方がいいと述べているが、的を射た指摘と言わねばならない。

 そう言えば、本来は話題の主に関する尊敬語や謙譲語であったものが、その人物の行為とは関係のない文脈でテレビのレポーターなどが使うのをよく耳にする。これらは話題主への敬語が聞き手に対する丁寧語へと変化した例と言える。下の文で、(1)は尊敬語、(2)と(3)は謙譲語が聞き手に対する丁寧語として使われている。

(1)こちら、田中さんのお宅でいらっしゃいますか。
(2)もう秋も終わるのだな、という気が致します。
(3)聖火がスタジアムに入って参りました。

 礼儀正しさ、上品さ、はいま流行の言葉でいえば「品格」や「品位」にも関わってくると思う。「礼儀正しさ」に当たる英単語を探してみると、まず「ディコールム:decorum」という言葉が思いつく。それから「プロプライアティ:propriety」(普通はthe proprietiesと複数形)。これらの原意は前者が「飾り」、後者が「清潔さ」で、どちらもやはり目の前の聞き手に対して失礼にならないように身を飾ったり清めたりするという発想が基本にある。礼儀正しい「ポライト:polite」だって元は「磨かれた」という意味だ。最近、敬語の一部に関して「美化語」という言葉が使われ出したのも、その「聞き手中心」の「社交敬語」への変化に応えるものだろう。

なお、フランス語の「礼儀正しさ」は「ビャンセアーンス:bienseance」と言うが、これの語源は何と「ちゃんと(bien)坐っていること(seance)」なのだ。これを知った時に私はすぐ坐禅を思い出した。共通するのは、奢り高ぶった振る舞いとは正反対の、自然の前に身を屈め、腰を低くして座した時の目線であるとは言えないだろうか。

 考えてみると、「(ここに)います」の「居る」だって、その語源は「坐っている」であることは、「立ち居振る舞い」とか「居ても立ってもいられない」という表現から分かる。「ございます」も「御座る」も、文字通り「御座ある」で、やはり坐っている。

 文化度が低い社会ほど攻撃的だとよく言われる。そういう社会の人々の多くは声高で威丈高、つまり粗野である。茶道における「和敬清寂」などからはほど遠いものだ。面白いことに、文化度の「高さ」は、腰の「低さ」に比例すると言えるのかもしれない。とは言え、それは卑屈になることではなく、凛とした振る舞いでなくてはいけない。 臍下丹田に力を入れ、襟を正し背筋をのばして端座する。それこそが品格であり品位だろう。日本文化を鋭く洞察した李御寧「縮み志向の日本人」(1981)が日本人の最も品位ある姿勢として「正座」と挙げているのも納得の行くところだ。(2009年6月)


応援のクリック、よろしくお願いいたします。

コメント (2) | トラックバック (0) | goo

第53回 「怖い漢字」

2009-02-23 11:37:38 | 日本語ものがたり
 先日、二年生のクラスで学生から面白い質問を受けた。習い事の「茶道、華道、書道」から伝統スポーツの「柔道、剣道、合気道」まで、なぜ「道」がついているのか、と言うのである。私は北海「道」生まれですけどね、と先ずは駄洒落で受けたが、さて、どう答えようか。

それにしても不思議なタイミングだった。その直前の一年生のクラスで漢字の「道」の怖さを教えたところだったのだから。毎年のことだが「怖い漢字」に出会うとクラスがその都度盛り上がる。「道」はその代表的な例なのだ。なお、怖い漢字については「白川静さんに学ぶ漢字は怖い」(小山鉄郎著、共同通信社2007年)という長いタイトルの本があって、今、なかなかの評判だ。その姉妹篇とも言える「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」(2006年)と並んで大層面白い。勿論、白川さんも怖い漢字の例として「道」を挙げている。

 部首のシンニョウは、「辻、通、近、遠」などの様に「人の行く道」を意味する。それと「首」で出来た会意文字が「道」だが、さてどこが怖いのか。「道」に「首」が含まれている理由を白川さんは上記の本の中でこう説明している。「道は、邪悪なものが潜んでいる非常に危険な場所ゆえに、異族の首を刎ねて持ち、その首の呪力によって、道に潜む邪悪な霊を祓いながら進んでいったからです」

 血の滴る首を手に持って道を祓う姿、これは相当に怖い。面白いことに、和語の「みち」にもこの「道に潜む邪悪な霊」の意味が示されていた可能性がある。「帝(みかど)」の本来の意味は「御門」であり、「宮(みや)」も「御屋」だったように、「道(みち)」の「み」も「御」であったとされるのが通説だ。常識的に考えると「み」に続く「ち」は先ず「地」であり「路」であったろうが、もしかすると「雷(いかづち)」や「大蛇(おろち)」の「ち」であったかも知れず、そうなると「霊(ち)」や「血(ち)」の領域にも入ってくるのである。

 初級クラスで教える漢字だが字源がなかなか怖いものをもう一つだけご紹介しよう。それは「取」である。右側の「又」は「何かを取ろうとして伸ばした手」で、その先に何があるかというと「耳」だ。古代中国の戦争で、敵を殺した証拠に、死体の耳に手を伸ばして、それを切り「取」ったのだ。敵の大将なら首実検というのがあるから「首級」を持って行かねばならないが、単なる兵士なら「質より量」、多くの耳を集めて指揮官の陣営に持って行く。それは言うまでもなくご褒美を頂戴するためである。集めた耳の数が多ければ恩賞も増えた。

 とは言え、それは中国だけの話ではない。思い出すのは、京都市東山区の豊国廟の前にある「耳塚」である。秀吉の、二度にわたる常軌を逸した朝鮮侵略戦争、いわゆる文禄(1592-93)慶長の役(1597-98)で、敵の死体から切り取った夥しい数の耳(一部は鼻)が塩漬けにして秀吉の検分に供されたとされる。その後で、流石に寝覚めが悪いと思ったか、埋めて供養したのが「耳塚」だ。字源も怖いが、それよりも身近に史実があるのはさらに怖い。

 さて、冒頭の学生の質問に戻ろう。「茶道、華道、書道」にせよ、「柔道、剣道、合気道」にせよ、日本人は習いごとに「道を歩む」イメージを持っている。それは決して到達するとこのない道であり、こつこつ、「一歩一歩」「地道」に、習得に勤しむのだ。道を極めた人を「達人」と言うが、そう呼ばれる人間国宝のような人でも「いえいえ、まだ修行中でございます」などと謙遜する。それが品格というものである。

 「習う、慣れる、並ぶ、成る」などの動詞もそのことを裏付けている。例外なく「nar-」を持つこれらの動詞は、ある目標に向かって、一歩一歩近づくという意味で共通している。自分の立ち位置を、その目標に少しでも近づける、つまり「並ぼう」とする努力が「習う・倣う」ことで、それは次第に「慣れる」ことでもあったし、その目標に近づくことは、自分が自分であり続けながら同時に他のものに「成る」ことでもあった。江戸時代に書かれたものを読むと、どこかに旅をしていて、ある場所に着くことも「なる」と言っている。「三日あまりして、早や大坂になりにけり」と言った風だ。殿様がお出ましになることも「お成〜り〜」と知らされたように。

 こういう話をすると「茶道、華道、書道」や「柔道、剣道、合気道」が何故「道」なのかを学生もよく分かってくれた。最後に、「皆さんの日本語の勉強だって道なんですよ。『日本語道』、道のりは長いですが、そこに楽しみもあります。一歩一歩、邁進してください」と言ってその日の授業を終わった。    (2009年2月)


応援のクリック、よろしくお願いいたします。


コメント (4) | トラックバック (0) | goo

第52回 「福田首相辞任劇」

2008-10-31 04:29:28 | 日本語ものがたり
 今回は、首相を突然辞任した福田康夫首相の記者会見をおける発言を取り上げてみたい。今回の辞任劇については既に各種メディアで広く報道されたから、このブログをお読みの皆さんも既にご承知のことと思う。福田首相が辞任の緊急記者会見を開いたのは去る9月1日のこと。「新しい布陣の下、政策実現を図るためにきょう辞任を決意した」と述べて、首相を辞任する考えを正式に表明したのだが、一年前の2007年9月には安倍晋三元首相がやはり突然辞任表明している。日本の首相が二人続けて任期途中、しかも就任の僅か一年後にあっさり政権を投げ出すという異常事態が日本中を震撼させた。

 私は政治に関心はあるものの専門家ではないので、自分に興味のある言葉の面から今回の辞任劇を眺めてみたい。たまたまこのシリーズ46回目「安倍首相の日本語力」で、安倍元首相の辞任記者会見における重大な敬語の誤りを指摘したのだったが、果して今回も、福田首相のある発言がマスコミを大いに騒がせたのである。

 福田首相は以前にも北京五輪の日本選手団を前にして「せいぜい頑張ってください」と何ともユニークな「激励」をしたことがある。その失言がまだ記憶に残っているが、今回の発言はさらにインパクトが大きかった。「2008年の流行語大賞間違いなし」とさえ言われているし、その言葉をプリントしたTシャツが飛ぶように売れているそうだ。

 それではその問題発言を書き起こしてみよう。中国新聞の記者の質問の中に「総理の会見は、国民から人ごとのように感じるという話がされていた。今日の退陣会見を聞いてもそういう印象を持つ」という発言があった。明らかに感情を害した首相はこう答えたのである。「人ごとのようにとあなたはおっしゃったが、私は自分自身は客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」。売れているTシャツの文句はこの「あなたとは違うんです」である。いま、試みに「あなたとは違うんです」とGoogleに放り込んだら、何と10万件i以上ヒットした。こうなるとちょっとした事件である。記者会見の光景は今でもYouTubeで見ることが出来るので、ご興味のある方はどうぞ。http://www.youtube.com/watch?v=FBI2NAxddgs

 こともあろうに「あなたとは違うんです」と言い放つ首相。この傲慢で高飛車で威丈高なセリフには、質問した記者のみならず一般国民も、一方的に突き放された印象を受けたに違いない。その理由は二つあると思う。一つは「違うんです」という自他の切り離し。そしてもう一つは「あなた」だ。

 ここでご紹介したいのは、社会言語学者鈴木孝夫が「ことばと文化」で指摘した親族同士の呼び方に見られる上下の分類である。鈴木は「話し手」である「私」を中心に一本の線が引かれることを発見した。その線の上には「目上」である「兄、姉、父、母、おじ、おば、祖父、祖母」などがいる。

 これらの人のことを話題にして話す時、あるいはこれらの人を聞き手として対話する時に、「私」はどう呼ぶだろうか。目上に対しては、当人の名前も、(いわゆる人称代名詞の)「あなた」なども使えない。自分との関係で呼ぶのだ。「お兄さん」や「おばあちゃん」や「パパ・ママ」など。一方、自分から見て「目下」の「妹、弟、娘、息子、孫」などに対してはその逆で、関係のことばが使えない。「ちょっと、娘」などと呼ぶのはいかにも滑稽で、その場合には単に当人の名前で呼べばいいのだ。また「お前」なども使える。

 森瑶子の短編「夜光虫」(1983)を読んでいたら、 こういう下りがあった。「この後、私は母に対して、お母ちゃまと呼びかけることができなくなってしまった。一度だけどうしても何とか呼ばなくてはならなくなって母をあなたと呼んで父にひどく叱られた。英語は誰を呼ぶのでも全部YOUだと言い返して、箸の頭で手の甲をこっぴどく打たれた」

 この親族同士の呼び方が、実は一般社会でも応用されているのだ。例えば会社内では「目下(や同じレベル)」に「あなた・君・お前」などが使えるが、目上にはとても使えない。その証拠にこの記者は福田首相を「総理」とは呼べるが、「あなた」とは呼べなかった。

 辞任会見の翌日、石原慎太郎東京都知事の次のコメントを述べている。「あの人やる気あんのかね。理念を感じないよ。それに伴う言葉がなく、情熱が感じられない」。石原氏も毀誉褒貶相半ばする人物だが、人を動かすのは要するに言霊(言葉の力)であることを見抜くあたりは、流石は芥川賞作家と言うべきか。  
(2008年9月)   

応援のクリック、よろしくお願いいたします。
 
コメント (5) | トラックバック (0) | goo

英語の講演

2008-03-22 04:30:42 | 最近の出来事
2008年2月1日に英語の講演をやりました。「"I love you"を日本語でどう言うか」とフザケた演題です。









東京(早稲田大学)とバンクーバー(UBC)、それからモントリオール大学を結んでの同時ビデオ講演です。ネットからダウンロード出来たんですが、いつの間にか見られなくなって残念です。









その翌週。たまたまバレンタインと重なったこともあり、モントリオール大学広報課の「Forum」がこの演題に釣られてインタビューに来ました。記事は仏語ですが、ちらりと眺めてやってください。

http://<wbr>nouvel<wbr>les.um<wbr>ontrea<wbr>l.ca/c<wbr>ontent<wbr>/view/<wbr>957/22<wbr>1/



応援のクリック、よろしくお願いいたします。
 

コメント (4) | トラックバック (0) | goo