40を過ぎて体力、気力の衰えが激しい。元が虚弱な体質な物でなおさらだ。
「こんなはずじゃ」の毎日。多分この辺が一番打たれ弱い年代なのかもしれない。音楽に癒される事も少なくなった。合法ドラックに癒される事もまた同じく。でも、50歳つまり半世紀を過ぎるとまた違うものが見えてくる、ある意味開き直りみたいな心が生まれるに違いない。
こないだお客さんと三半規管の弱い自慢話になった。
かなりの強敵だったけど、ディズニーランドのアトラクションでもっともゆるい子供が喜びそうなやつ、3Dの映画を最後まで観れずそ外でうずくまってしまった話で俺の圧勝だった(同時に敗北でもある)。俺の三半規管の弱さを甘く見るな。これがデートならば最悪だ、というか、たしかにデートだった。そんなやり取りをしながらの日々。
我が店も気がつけば来年で10周年目に突入する。10年一昔とはよく言ったものだ。さすがに慣れもあるけど、同時に甘えからか一人独走する事が増えてきた。良いこととは思えないが、気にしていても仕方が無い。
自由な時間が必要だ。時々ギターを弾き好きな歌ったり、時々好きな本を読んだりするけどそれは自由な時間ではない。ぼんやり映画を捲るのも、それは「必要不可欠」だったり「活字を補したり」ゆったりした時間の様に思えるが、「物」や「する事」に対する自分との距離の表れだ。もちろん好きな事に代わりはないはないし、一時のやすらぎでもある。揺らぐ煙草の煙を自由に眺める一服のようなものだ。
幼い頃から文章を書くのは好きだった。小学生の頃、原稿用紙1枚に作文を書く宿題で、13枚分書いた記憶がある。それを読んだ先生に続きをせがまれた事もあった。子供ながらに完結した様で、さも継ぎがあるかのような文章だったのだろう。それは勤勉の中の小さな抵抗だったのかもしれない。それでまた知らない自分が見えてきたりするものだ。そうやって自分とのバランスをとる癖がついている。
草むらに寝そべって鳴き声のする方へ耳を傾けたり、鳥の飛んでいく方角を想像したり、腹が減ったから飯を食う。月が浮かぶころ眠り太陽と共に目が覚める。それこそが自由だと思う。今の生活スタイルではなかなか難しいけど、何処かにその隙間を置ける様に日々心がけている。
実家にあった双眼鏡を貰った。このタイミングでとてもありがたい貰い物だ。でも肝心のお堀の鴨たちはまだ帰ってこない。鴨の雛の天敵のカラスやかもめや蛇や猫や狸やら、それらが生息しない水辺はなかなか無いだろう。小さな雛達を引き連れた鴨の大行進は霞の地では見られないのだろうか。
また別の場所に猫の集会所を見つけた。その子達に会いに行くのもまた嬉しい。公園管理の人達が作ってくれたであろうか、猫達のダンボールハウスが並んでいて、雨の日はその波板の屋根の下でただじっとしている。側に寄ると鳴きながら歩いて来て雨の中をゴロゴロ引っくり返り体中枯葉だらけになる。
この心地の良い季節もあとわずかだ。梅雨の後に盆地特有の猛暑がやって来る。止まらない時間の中、一筋縄ではいかないであろう40代を駆け抜けて行くだけ、虚弱な身体を引き連れて。
「こんなはずじゃ」の毎日。多分この辺が一番打たれ弱い年代なのかもしれない。音楽に癒される事も少なくなった。合法ドラックに癒される事もまた同じく。でも、50歳つまり半世紀を過ぎるとまた違うものが見えてくる、ある意味開き直りみたいな心が生まれるに違いない。
こないだお客さんと三半規管の弱い自慢話になった。
かなりの強敵だったけど、ディズニーランドのアトラクションでもっともゆるい子供が喜びそうなやつ、3Dの映画を最後まで観れずそ外でうずくまってしまった話で俺の圧勝だった(同時に敗北でもある)。俺の三半規管の弱さを甘く見るな。これがデートならば最悪だ、というか、たしかにデートだった。そんなやり取りをしながらの日々。
我が店も気がつけば来年で10周年目に突入する。10年一昔とはよく言ったものだ。さすがに慣れもあるけど、同時に甘えからか一人独走する事が増えてきた。良いこととは思えないが、気にしていても仕方が無い。
自由な時間が必要だ。時々ギターを弾き好きな歌ったり、時々好きな本を読んだりするけどそれは自由な時間ではない。ぼんやり映画を捲るのも、それは「必要不可欠」だったり「活字を補したり」ゆったりした時間の様に思えるが、「物」や「する事」に対する自分との距離の表れだ。もちろん好きな事に代わりはないはないし、一時のやすらぎでもある。揺らぐ煙草の煙を自由に眺める一服のようなものだ。
幼い頃から文章を書くのは好きだった。小学生の頃、原稿用紙1枚に作文を書く宿題で、13枚分書いた記憶がある。それを読んだ先生に続きをせがまれた事もあった。子供ながらに完結した様で、さも継ぎがあるかのような文章だったのだろう。それは勤勉の中の小さな抵抗だったのかもしれない。それでまた知らない自分が見えてきたりするものだ。そうやって自分とのバランスをとる癖がついている。
草むらに寝そべって鳴き声のする方へ耳を傾けたり、鳥の飛んでいく方角を想像したり、腹が減ったから飯を食う。月が浮かぶころ眠り太陽と共に目が覚める。それこそが自由だと思う。今の生活スタイルではなかなか難しいけど、何処かにその隙間を置ける様に日々心がけている。
実家にあった双眼鏡を貰った。このタイミングでとてもありがたい貰い物だ。でも肝心のお堀の鴨たちはまだ帰ってこない。鴨の雛の天敵のカラスやかもめや蛇や猫や狸やら、それらが生息しない水辺はなかなか無いだろう。小さな雛達を引き連れた鴨の大行進は霞の地では見られないのだろうか。
また別の場所に猫の集会所を見つけた。その子達に会いに行くのもまた嬉しい。公園管理の人達が作ってくれたであろうか、猫達のダンボールハウスが並んでいて、雨の日はその波板の屋根の下でただじっとしている。側に寄ると鳴きながら歩いて来て雨の中をゴロゴロ引っくり返り体中枯葉だらけになる。
この心地の良い季節もあとわずかだ。梅雨の後に盆地特有の猛暑がやって来る。止まらない時間の中、一筋縄ではいかないであろう40代を駆け抜けて行くだけ、虚弱な身体を引き連れて。