syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

義経、弁慶が滞在した腰越 満福寺から

2018-04-29 | syu散歩
「満福寺」 744年、聖武天皇の命で「行基」が建立した寺と伝わり、東国の疫病が流行して、行基が呪力で収めようと、ここ腰越の地で霊感をえて
「薬師如来」を刻し、祀ると流行病は去ったと云う。その後本尊が満福寺で、お薬師さんで知られている。
行基の仏像は、一本の自然の樹から彫っていると伝えれる。
腰越は、鎌倉の西で入口で、宿場として栄えている。
義経を主人公にした能・八島・義経と漁師を語るのは「腰越」では。
寺には、弁慶が「大江広元」に「腰越状」を。その下書きをしたためたと云う書(以前は展示されていたが、今は無い)
義経は、1185年「平 宗盛」らを護送している。
兄、頼朝は鎌倉入りを許されず。

          神奈川県鎌倉市「腰越」源義経、弁慶らが滞在した 「真言宗万福寺」山門


「行基」 668-749 奈良時代百済渡来氏族出の僧侶・社会事業で多くの人々を救う(法相宗の道昭で学ぶ)、広く諸国を巡り、池・道路
大仏建立などを助け、大僧正に任じられた。僧院34・尼院15・橋6・樋3・布施屋9・船息2・池15・溝7・堀川4・直道1(行基年譜より)
第二の行基は出ず
                      満福寺      本殿


「武蔵弁慶」 1189年前後 民衆がつくった英雄、義経の従臣で僧、「吾妻鏡に登場している」・義経前の牛若丸からの知り合い。
知識、知恵、ユーモア、友情、大男であったと民衆がつくった。

襖絵    義経が持仏堂で自害した時、弁慶は、堂ノ前で、無数の矢を受け立ったまま死んだとある。


襖絵                         江島


「源 義経」 武将 1159-89 義朝の9男 鞍馬寺脱出し奥州平泉「藤原秀衡」の庇護を受ける。兄頼朝の挙兵を知り参加し大功を立てたが
頼朝の許可なく任官し怒りをかう。対立し九州へ逃れたが船が難破、再び奥州へ、秀衡死後、その子泰衡に襲われて自殺。

襖絵                        義経・弁慶


襖絵      「勧進帳」能の演目「安宅」を元に創られ、歌舞伎の演目。(歌舞伎十八番の一つ)、




襖絵         義経の持仏堂前で無数の矢を受け立ったまま死んだとある。 


義経物語り「腰越状」の
「孤子となって、母の懐の中に抱かれて、大和国宇陀郡に赴きしより以来」の一文がある。(母・常盤御前)
 
          「吾妻鏡・義経記・義経物語・平家物語」にも、この文が。


襖絵                       静御前


「静御前」 義経を慕って舞った白拍子・鶴岡八幡宮回廊で舞を

「吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき」と歌っている。頼朝は怒った、政子がそれをとりなしたとある。
静は、男児出産するが殺されている。その後は不明

襖絵                       義経と静御前                        


襖絵                        義経の鎧


                       弁慶腰かけ石                 


「日蓮」 1222-82 安房生まれ、日蓮宗の開祖・法華仏教至上、鎌倉に出て「立正安国論」を書き、北条時頼に提出したが無視され伊豆へ流される。
他宗の僧から憎まれ佐渡へ流される。
佐渡に流される前ー役人が竜の口で斬ろうとしたところ、雷鳴とどろき稲妻が突如走り刀は折れ命助かったと云う。

                      竜口神社鳥居


「龍口寺」 日蓮宗(霊跡寺院)

1337年創建 開基 日法。

この地は、刑場跡、文永8年の1271年9月、「日蓮宗の開祖日蓮」が処刑されそうになった。
この事件を日蓮宗では龍ノ口法難と呼んでいる。その後、1337年、に日蓮の弟子、「日法」がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まりと伝わる。
本格的な寺としての格式を整えたのは腰越・津の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が1601年、土地を寄進して以来のこととされている。
明治19年、までは選任住職を置かず、片瀬八ヶ寺が輪番で維持していたと云う。現住は15世本間日恩貫首。(池上法縁五本山の一つ)
本堂は、1832年、竣工。法難時に日蓮が足元に敷いていた敷皮が安置されているため「敷皮堂」ともよぶ。
木造欅造り。五重塔は、明治43年竣工。木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一と云う。
彫刻は、一元流(藤沢彫川)の一元安信。全国的にも数少ない明治期の五重塔だが、近年老朽化が目立つと云う。

                        伽藍づくり                         


                      一元安信作の彫刻                        

                         


                         五重塔


                         御霊窟


                          本堂

今年は早かった富士桜 満開!

2018-04-26 | 富士山麓日記
今年は2週間も早く富士桜が咲き始めもう散り始めました。4/22撮影
いつも連休に楽しめるのに・・・・。

富士山もまだまだ雪が残り美しい姿です。最近は外国の方々が多く富士山をみて歓声を上げています。

















山荘に咲く花々です。ずっと茶色だった庭がこれからは雑草に悩まされます。















江ノ電に乗って 極楽寺から稲村ヶ崎

2018-04-24 | syu散歩
「真言律宗」
奈良市の西大寺は、鎌倉時代に「叡尊」によって再興され、南都七大寺の寺格をもち奈良仏教の伝統を受継ぎ、一方で鎌倉時代に「叡尊」が興起した
密教と戒律の融合一致を説く新たな教旨をその法統としている。
鎌倉仏教の寺院ということができ、その法統は、後世「真言律宗」と呼称され、西大寺はその総本山。
「叡尊」が各地に新建・修造・寄附した数千の寺院がその末寺となって、西大寺を頂点とする「真言律宗」の一大教団が形成される。
その後の歴史推移の中で、当初の教団規模は縮小を余儀なくされましたが、
現代でも北は福島県いわき市から南は熊本県玉名市にいたるまで90数ヶ寺の末寺を擁する宗団として存続し、奈良市内・近郊の「般若寺、元興寺、
福智院、不空院、白毫寺、海龍王寺、不退寺、浄瑠璃寺・岩船寺、宝山寺、長弓寺」等々の由緒ある名刹も、西大寺の末寺であり真言律宗一門の寺院。
その教旨「叡尊上人」の「真言律」の法燈においては奈良の地に隠然たる地脈を築いているという。

「叡尊」 1201ー90  鎌倉時代中期の真言律宗の僧。
謚号ー「興正菩薩」興福寺の学僧で「慶玄」の子。
大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市)の生まれ。廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた奈良西大寺を再興した僧として知られる。

                        江ノ電 極楽寺駅


「極楽寺」  真言律宗の寺、山号 霊鷲山

                    開山 忍性     1259年創建


「北条 重時」 1198-1261 鎌倉時代前期の北条氏の一門・武将・政治家、極楽寺 重時とも呼ばれた。
鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男で、母は、正室で比企朝宗の娘・姫の前。北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥。
極楽寺流の祖、「六波羅探題」北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。
「六波羅殿御家訓・極楽寺殿御消息」等の家訓の作者でも知られる。駿河守・相模守・陸奥守・・。

                   本殿       開基 北条重時


                   七堂伽藍と十三層塔・四季の花の寺で知られている。


                      重文 木造釈迦如来立像・坐像


                             地蔵堂


                             極楽洞


「江ノ電」
日清戦争の勝利により日本経済は隆盛を極めていた。
明治の中期、鉄道事業者の成功を目の当たりに見た多くの資本家たちが鉄道の建設を計画し、湘南地区に通じる鉄道の計画も10路線を超えていたと云う。
間と湘南は、古くから庶民の招福祈願と大山参りの精進落しの場として定着していた「江の島」。
風光明媚な湘南地区の、史跡と観光価値・・で、これら計画された鉄道の中で、唯一開業にこぎ着けたのが、「江之島電気鉄道が建設と江ノ電」
神奈川県会議員の要職にあった「福井直吉」ほか4名の有志が発起した鉄道会社。
明治31年、鉄道敷設特許状を取得後、33年、設立、35年、藤沢~片瀬(現江ノ島)間を開業され、延長鎌倉へ現在に至っている。



        「江ノ電」 鎌倉ー和田塚ー由比ヶ浜ー長谷ー「極楽寺」-稲村ヶ崎ー七里ケ浜・・・・。


「新田氏」ー清和源氏、家紋、大中黒・新田一つ引・本姓は、清和源氏(河内源氏)義国流 ・家祖は新田義重・上野国新田郡新田荘 。
主な根拠地、越前国・越後国・人物、新田義貞・脇屋義助・支流、分家ー山名氏(武家 → 華族)・里見氏(武家)・世良田氏(武家)など。
上野国発祥の豪族、清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする。
義国流足利氏と同族である。
上野国(群馬県)を本貫とした。

「義国と義重」は、渡良瀬川対岸の浅間山噴火で荒廃していた上野国新田郡(群馬県太田市)を開発。
1157年、平家方の藤原忠雅に開発地を寄進し、新田荘が立荘され、本家は鳥羽院御願寺の金剛心院、領家は藤原氏北家花山院流となる。
荘官ー任ぜられた義重は新田氏を称し、新田荘と八幡荘を中心に息子たちを配して支配体制を確立するとともに、東山道・利根川という水陸交通路や凝灰岩石材の産地であった天神山一帯を掌握して経済的な基盤を固める。

                       市指定 十一人塚


義重は、源頼朝から参陣の遅さを叱責・その後の平家との合戦や奥州合戦にも義重が参陣したとの記録がなく、1221年の「承久の乱」においても惣領は参陣せず、代官として庶家の世良田氏が参陣している。そればかりか、義平の未亡人となっていた義重の娘祥寿姫を頼朝が側室にしようとしたところ、
義重がそれを拒否したため頼朝から勘気を蒙ったと伝えられている
(吾妻鏡)ーこれらの経緯により、鎌倉に東国政権として成立した鎌倉幕府において、新田氏本宗家の地位は低いものとなった。
新田氏本宗家は頼朝から御門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。
早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになる。
その後も新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏や岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体化する。
以後、新田一族は堀口・里見・桃井・大館・一色の5家に分かれている。

                          供養塚 


足利高義の時代に元服した「新田義貞」、「氏」ではなく「義」の字が入っている事がこの事実を裏付けと云う。
後に、新田義貞が討幕の兵を挙げた時の事を
「源義貞ト云者アリ。高氏ガ一族也」(神皇正統記)・「尊氏の末の一族新田小四郎義貞といふ物」(増鏡)と記しているのは、実は婚姻関係と烏帽子親を通じた擬制的親子関係の結果、足利氏庶流と化していた新田氏本宗家の実態を的確に表した。

鎌倉時代後期には、新田義貞が後醍醐天皇の倒幕運動に従い挙兵、源義国流の同族にして北条氏と重代の姻戚の最有力御家人足利高氏(後の尊氏)の嫡男千寿王(後の足利義詮)を加えて鎌倉を攻め、幕府を滅亡させる。
当初、鎌倉幕府の冷遇によって建武政権での新田氏本宗家の権威は同族である足利氏惣領よりも格下に見られていたが、後に政権内部の政争により、
義貞は長年の足利氏との関係を断ち切って反足利氏派・反武家派の首班として尊氏と対立した。
新田一族中でも義貞とともに上京した者と鎌倉や新田荘に残った者にわかれ、前者は主に義貞に従い、後者や山名時氏や岩松氏・大舘氏・里見氏・世良田氏・大島氏などは主として足利氏に従い北朝方となった。
以後、新田氏一族は南朝方の中核を担うが楠木正成とともに戦った「湊川の戦い」で敗戦。
比叡山での戦いの後、長男の新田義顕と共に後醍醐天皇の皇子・恒良親王を奉じて北国に拠点を移した。
しかし越前国金ヶ崎城で足利方の「斯波高経・高師泰」らに敗れ、義顕は自決し、義貞自身も同国藤島で戦死する。

          1333年「極楽寺切通し」で新田軍の兵士の人骨が多数出土、


「稲村ケ崎海岸」
新田貞義が鎌倉攻略の為、ここ稲村ケ崎で兵を進めることが出来なかった。
そこで、義貞が「潮を万里の外に退け給え」と竜神に祈って太刀を海中に投げ入れると。海は、干潟となって、幕府軍を攻略できた。
それも空しく、貞義の子「義顕・義興」も南朝方に尽くしたが、悲劇てな最期を遂げている。

                         稲村ケ崎


                      正面に江の島が


                  新田貞義が竜神にいのった稲村ヶ崎


         鎌倉由比ヶ浜ー江の島七里ケ浜の間、江ノ電もここから海岸線に入る。


                         碑


                    海岸に沿て、国道134号線


                      稲村ヶ崎、今日は波高し


次回は、隣の腰越へ。

源氏山 実朝と北条政子の墓

2018-04-21 | syu散歩

「北条時政」 土豪から幕府初代執権 1138-1215 娘北条政子 頼朝の挙兵に加わる。頼朝死後13人合議制で二代将軍頼家を廃して次男実朝を
三代将軍とした。有力御家人「梶原・比企・畠山・・」を謀殺し、後妻の娘婿「平賀朝雅」を将軍にしようと企てた。
陰謀が発覚、突如出家退隠・朝雅は殺されている。

「北条義時」 二代執権 時政の次男 1163-1224 13人合議制、「和田合戦」で和田氏を倒し実権を御家人支配した。
京都「九条頼経」四代将軍に迎え「承久の乱」で武家政権を確立させた。「六波維探題・公家政権監視」を設けた。

「源 実朝」 1192-1219 三代将軍 北条時政、義時父子が実権を。和歌や蹴鞠に熱中、子供が無く源氏断絶・右大臣に。
家集「金槐和歌集」を残す。頼家の子「公暁」の殺される。 

「北条政子」 1156-1225 尼将軍 流人頼朝と結婚 2男2女 頼家将軍で尼に、北条氏の権力拡大にを図る。
次男実朝を将軍し、その後見役として幕政に参画し、二代執権に義時に。三大執権に長男の「泰時」を据えた。

         JR横須賀線踏切を渡ると、住宅別荘地に、「川喜多映画記念館」が。


               鎌倉を愛した川喜多氏の別荘(現在、市が管理)


「川喜多長政」
明治36年、生まれ、東京府立四中を卒業後、大正10年中国に渡り北京大学に学ぶ。
ドイツに留学し、ヨーロッパの文化に接し、国際交流の重要性を実感、帰国してすぐ昭和3年東洋と西洋の和合を願って「東和商事」を設立し、
ヨーロッパ映画を日本に紹介する仕事を始めた。
数々の名作を輸入・配給し、「自由を我等に」「巴里祭」「会議は踊る」「女だけの都」「望郷」「民族の祭典」など、映画史上不朽の名作がある。
昭和12年、ドイツとの初めての合作映画「新しき土」を制作し、昭和14年、日中戦争のさなかに上海に日中合弁の中華電影公司が設立されると、
その最高責任者に就任している。
中国側スタッフに自由な映画制作を許し、軍部からの圧力に抵抗・戦後、昭和26年、社名を「東和映画」。
外国映画の輸入・ヴェネチア映画祭に、黒澤明監督の「羅生門」を出品することに協力など、映画産業に大きく貢献している。



                     小路が続いている。


「東慶寺」  鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院、山号は松岡山ー寺号は東慶総持禅寺。

寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった[注 1]。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた

                           山門


「禅寺・伽藍配置」
建長寺は、正面南から中心線上に惣門・三門・仏殿・法堂・玄関・方丈と並び、
三門から仏殿には回廊が巡らされて、この回廊に接して東西に庫院と僧堂がある。
僧堂北には衆寮が建ち、三門の南方東西には浴室と西浄が配される。
一般に他の禅宗寺院でも伽藍の方位は南面を原則としている。

                           門


                北条政子・源実朝の墓は、本堂の裏のやぐら


                          本堂


                 墓石が並ぶ奥源氏山斜面にやぐらが


                        北条政子の墓


                          やぐら


                          やぐら


                         源実朝の墓


                         古い石塔


                東慶寺に並んで「八坂大神」(創建・建久3年)           


                           神木


                           社殿


                       商店街の「小町通り」


江ノ電で稲村ヶ崎へ。

静かな小路を 源頼朝の墓へ 

2018-04-18 | syu散歩

「後白河天皇」 王朝最後の天皇 1127-92 77代天皇(鳥羽天皇の第四皇子)
皇位継承問題摂関家の内紛「保元の乱」が起こる。後白河側勝利し、信西を中心に新体制が固まる。「保元・平治の乱」は武士抜きで解決できず。
武士の棟梁「平の清盛」大政大臣になり全盛を迎える。(頼朝は、後白河天皇を日本一の大天狗と評した)

「似仁王」 源氏に決起を促した皇子 1151-80 後白河天皇の第二皇子で平家の為天皇になれず、優れた人物と云う。
「源頼政」と相談、「平家討伐の令旨を発した、奈良県に逃げる途中で殺されている。が、源氏が決起する。頼朝は兵を挙げる。

「源頼義」 988-1075 前九年の役の勝利者 頼信の長男・京都石清水八幡宮に篤く信仰、嫡男「義家」社殿で元服させている。(鶴岡八幡宮に)
義家「八幡太郎源義家」と称し、武士の棟梁に。

「源義朝」 1123-60 「平治の乱」の敗将 平清盛の留守を狙って挙兵「平治の乱」を起こすが敗れ、尾張国で謀殺。
子「義平」は斬られる・「頼朝」は、伊豆へ流された。源氏哀勢に。平家全盛を迎えた。

「源頼朝」 1147-99 鎌倉幕府初代将軍 義朝嫡男 母熱田大宮司「藤原季範」の娘。
佐竹氏を討って関東を固め、弟「範頼・義経」を代官にして=木曽義仲・平家を滅亡させた。義経謀反事件が起こると、院に強要し「守護・地頭」設置。奥州藤原氏を討ち全国支配を成し遂げた。白河院が崩れると待望の「征夷大将軍」となる。妻は、「北条政子」 

「頼朝の嫡男・頼家」 1182-1204 鎌倉幕府二代将軍・18歳で家督を継ぐが
頼家の独裁を止められ「御家人」代表の合理制に改められ、急病時・弟「実朝と一幡」に「総地頭職・総守護職」を分けるようにした。これに怒り、
妻の実家「比企氏」と共に北条氏を討とうとしたが、敗れている。

「比企能員、頼朝に信頼された武将」 1200年頃 頼朝の乳母ー比企尼の養子。13人合理制の一人・暗殺され、将軍は、「三代実朝」となる。

                     鶴岡八幡宮から横小路に


「大江広元」 守護・地頭の設置の献策者 1148-1225 鎌倉幕府の重臣、書記官役、公文所・政所の別当になった。北条政子に信任
13人合議制の一人、広元の子孫は長井・毛利・海東・水谷など。

「島津忠久」 武将、御家人 1200年頃、島津氏の祖・初代。

                    八幡宮からの道標案内板


                    法華堂跡の墓地。


石段下の鳥居前、島津忠久墓参道と大江広元墓参道の間の広場が発掘調査された結果、
北条義時法華堂と推測される堂跡が発見され、2006年、北条義時墓の法華堂跡部分等を追加し、名称変更されたとある。
北条義時は2代執権で、北条政子の弟、1247年、に法華堂に籠った北条泰村ら三浦一族500人余りの自害の地としても知られる。
鳥居手前のやぐらには石塔が建ち北条泰村ら三浦一族の墓とされ、背後の山麓にあるやぐらには薩摩藩主島津家の藩祖とされる島津忠久、執権政治の確立に尽力した大江広元とその子で毛利家の祖である毛利季光の三人の墓が並んでいる。
古墳時代の横穴墓だとされるが墓を造成する際に掘削されていてやぐらのように見える。
国指定文化財等の詳細解説には、
「法華堂阯ハ西御門ニ在リテ頼朝墓ノ下西側ニアリ、始メ頼朝ノ持佛堂ニシテ其ノ薨去後其ノ廟所トナレリ 江戸時代ニハ八幡宮供僧坊ノ管理ニ属セシカ維新後廃セラル 今地域内ニ白旗神社ノ小祠ヲ祀ル 法華堂阯ノ背後ナル丘陵ノ中腹ニアリ長方形ニ石疊ヲ敷キ土鏝頭ノ上ニ高サ七尺ノ多重塔一基ヲ建テ石玉垣ヲ周ラセリ」
(昭和2年の指定当時の指定説明が記載。
白旗神社が建つ平地に頼朝の持佛堂が建っていたが薨去後に廟所として法華堂になったことが印されている。
1779年、薩摩藩主の島津重豪が多層塔(供養塔)を建て、1989年、にこの多層塔は破壊され、平成2年、新たに造り替えられたと云う。

                 広場で正面の鳥居上が墓地 


          看板に「薩摩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ・・」 「法華堂跡」(明治政府)                     


法華堂跡は、鎌倉駅から北東に約800m・この付近「雪の下」と云い、大倉山がある。

                       やぐら(頼朝の墓・法華堂跡は、大倉山の中腹にある。


                       やぐら

  
           看板に「薩摩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ・・」 「法華堂跡」(明治政府)                      


                      法華堂跡の碑


                   「源頼朝」の墓 入口の碑        


                 頼朝が出陣戦勝祈願した神社「白旗神社」         

                       
                    頼朝墓地入り口の鳥居


                     階段を登ると街並みが 


「源頼朝」鎌倉幕府初代将軍 義朝の嫡男 1147-99
1199年、相模川架橋視察の帰途に、落馬が原因で53歳で没している。遺体は、ここに葬られた。
頼朝の子孫「薩摩藩主 島津重豪」により建立されたと云う。(1779年)

                        頼朝の墓(1927年史跡指定)


               鎌倉10の橋の一つ筋替橋跡の碑(今は県道、近くに滑川が)


                     県道204号線


「畠山重忠」 1164-1205 鎌倉武士で武蔵国秩父一族の「畠山重能」の子。母は、「三浦義明」の娘。
頼朝上洛で先陣を、二度目の結婚で「北条時政」娘・息子「重保」は、時政の後妻「牧方の娘婿平賀」と口論し、時政夫婦は、重忠父子討滅している。
畠山氏は、全滅している。
                       伝  畠山氏の屋敷跡


次回は、北条政子・実朝の墓へ。