syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

御茶ノ水・聖橋から syu散歩

2017-02-28 | syu散歩
 「浅野総一郎 1848-1931
越中藪田(現富山県氷見市)に百姓の長子として生まれ、1871年に東京の上京。
お茶の水で水売りを初め、竹の皮商から薪炭商へ転じ、コークスの売り込みに成功。
「渋沢栄一」氏の知遇を得、投機商人から産業資本家への道を開き、官営・深川セメント製造所を貸与。
1884年払い下げを受け、浅野工場ー浅野セメントを設立。
同郷の安田善次郎氏の援助で、1896年ー東洋汽船を創立、太平洋航路を開き、豪華船を就航させたが、第1次大戦後の不況で衰退し、その経営を日本郵船に譲り、1913年には安田氏の協力の下、鶴見・川崎海岸の埋め立てに着手し、16年浅野造船所、18年浅野製鉄所(後に両社とも日本鋼管に吸収合併)を設立するなど、多面的な産業王国を築いた。(平凡社の大百科事典より)
                ここ、御茶ノ水で水売りからー浅野総一郎氏。


「駿河台」
元は北の本郷台地の南端に当たる部分が「駿河台」
江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖「伊達政宗」が、1620年に、仙台堀ー神田川を開削したことにより湯島台と駿河台とに分離され
孤立した高台となった。
現在、神田川を挟んで北側に位置する湯島台とは、聖橋とお茶の水橋により台地上端の標高で結ばれている。
削って、その土を下町に埋められた。

      高層ビルは、東京医科歯科大学と附属病院  (教養学部は千葉県市川市国府台)

                  朝の御茶ノ水橋(駅拡張工事中)

                 JR総武線と中央線が平行して。

                         昌平坂






「湯島聖堂」
江戸時代の元禄3年・1690年、江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟であり、後に幕府直轄の学問所となった。
湯島天満宮(湯島天神)とともに、年間(特に受験シーズン)を通して合格祈願のために、参拝に来る受験生が訪れるると云う。
「林羅山」が、上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。
元禄4年、に神位の奉遷が行われて完成され、「林家」の学問所も当地に移転した。

                        孔子の聖堂が

                       今日も若い学生たちが


万世橋付近昔は、東京でも指折りの繁華街で、万世橋駅のある神田須田町は、東京市電の乗り換えターミナル。
大正3年に東京駅が開業し、中央本線が東京駅まで開通すると万世橋駅はターミナルとしての役割を終え、中間駅に。
大正12年ー関東大震災で駅舎が焼失し、大正14年には2代目駅舎が完成したが、非常に質素なものだったと云う。昭和11年に移転してきた
交通博物館と併設する形でホームと直結、昭和18年、不要とみなされ、万世橋駅は役目を終えている。



「昌平橋」は、最初に橋が架設されたのは寛永年間の1624年 - 1645年頃。
橋の南西にある淡路坂の坂上に一口稲荷社があったことから「一口橋」や「芋洗橋」と称したと云う。
「新板江戸大絵図」(寛文五枚図)には、「あたらし橋(新し橋)」、元禄初期の江戸図には「相生橋」とも記されている。
1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで、1691年3月1日に「昌平橋」と命名されたとある。







「都道405号・外濠環状線」
港区新橋一丁目を起点~港区新橋二丁目を終点。
皇居(旧江戸城)外濠に沿った環状の「特例都道」。
本線の通称は「外堀通り」延長12,375m。環状道路、その形は中央通りとの重複を避けるべく少し歪んでいる区間がある。
開通区間の新橋四丁目から虎ノ門二丁目までの支線と、特許庁前付近から昌平橋交差点までの本線は環状第2号線の一部を構成すると云う。





「聖橋」
関東大震災の復興橋梁として昭和2年、完成した橋。
橋長92.47m,幅員22mのアーチ橋で,神田川の景観に美しく溶け込んでいる。
「聖橋」という橋の名前の由来は,北側にある国指定の史跡で江戸幕府の官学所となっていた「湯島聖堂」と,南側にある国指定の重要文化財でビザンチン風建築の「日本ハリストス正教会復活大聖堂(ニコライ堂)」の両聖堂にちなんでいる。

       「お茶の水」とは将軍のお茶用の湧き水があったことから名付けられたと云う。

              聖橋の朝日



syu散歩 荻窪桃井Hコース

2017-02-27 | syu散歩
「杉並区今川町」ー区北部に位置。
北に、早稲田通りを境に、上井草・西は、青梅街道を境に善福寺・南は、桃井、東、環八通りを境に清水。
東西に長い長方形状の区域で、東から順に一丁目から四丁目までが並んでいる。町域内は主に住宅地、今川には中央大学杉並高等学校と都立農芸高等学校が置かれ、荻窪病院がある。
特に、「江戸時代」武蔵国多摩郡上井草村の一部にあたる。1645年、今川直房(今川義元の曾孫)に対し、多摩郡井草村(江戸時代初期、上井草村・下井草村に分割)・上鷺宮村(現・中野区上鷺宮一帯)および豊島郡中村(現・練馬区中村一帯)が知行地として与えられた。
以後、この地域は幕末まで今川氏の所領。
今川氏の菩提寺として庇護を受けた「観泉寺」は、その知行地支配の拠点でもあったと云う。
観泉寺境内には今川氏歴代当主の墓所(都旧跡)がある。

            自宅を中心にしたsyu散歩コース8番目にした。月2~3回散歩している。



                   善福寺川の桜古木


                 「観泉寺」杉並区今川にある・曹洞宗・山号ー宝珠山。


慶長2年の1597年、中野にある「成願寺」の住職「鉄叟雄鷟」によって、多摩郡下井草に創建。
当初は観音寺・1619年、大友義親が没し、義親には子がなく大友家は断絶となり、その妻(今川範以の三女)は実家に戻ったのち剃髪して
「観音寺」に仕え、1645年、彼女の弟にあたる「今川直房」が当地一帯の領主に、直房は、観音寺を上井草村の現在地に移転して伽藍を建立し、寺領を寄進し、寺の名を「観泉寺」と改めた(移転と改称の正確な時期はわからない)。
慶安2年の1649年、幕府より観泉寺に朱印状が与えられ、10石の寺領に関する年貢・諸役を免除されている。
1662年、直房は市谷田町の万昌院が牛込に移転するのに際し、万昌院にあった祖父今川氏真と母(吉良義安の娘)の墓をここ、「観泉寺」に移転し、
今川氏真を「観泉寺」の開基とした。(万昌院は、現在中野区に移転し万昌院功運寺となっている)

             1763年に本堂などが焼失したが本堂は翌1764年に再建された。



    近くには、中央大附属高・荻窪病院・荻窪神社・荻窪警察署・荻窪郵便局等がある。






                            山門




                            本堂


                      戦国大名ー今川氏の菩提寺


                         今川氏墓石・塔


                           墓石(都旧跡指定)


                     枝垂桜と紅葉で知られている




                  桃井原っぱ公園(毎回遊歩道トラックを3周する約4km)



     私の一番好きな公園、なぜ?-広々とした原っぱだから。子供達も凧上げで、のびのび遊べている。


                    公園は、草原っぱでいい、気持ち良い。


               点在するベンチで老人も「日向ぼっこ」。















池袋鬼子母神 syu散歩

2017-02-24 | syu散歩

「雑司ヶ谷」ー北豊島郡雑司ヶ谷村であった。
1889年東部が小石川区(現在の文京区)に、残部は巣鴨村にそれぞれ編入され、小石川区雑司ヶ谷町と巣鴨村大字雑司ヶ谷になる。
1898年小石川区は東京市の一部となり、更に1932年西巣鴨町(1918年町制施行)が東京市に編入された際に豊島区雑司ヶ谷町1~7丁目となったが、1966年に住居表示を実施したため、文京区側が音羽に豊島区側も北半分が西池袋と南池袋にそれぞれ編入されてしまい、町域が縮小した。
現在都電の停留所や霊園が南池袋に立地しているのはこのためと云う。
鉄道は、雑司が谷駅(東京メトロ副都心線)・鬼子母神前停留所(都電荒川線)。

                   「鬼子母神」参道


「鬼子母神」ご尊像は、
室町時代の1561年、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、「山村丹右衛門」が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたもの。
東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。
信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の1578年、
「稲荷の森」と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に。

お堂は、本殿が1664年、徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張され、昭和35年、都有形文化財の指定・昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われた。

             鬼子母神は安産・子育の神様として広く信仰の対象。




                 都天然記念物ー樹齢600年のイチョウ





                    


                             本堂




                     威光山 法明寺参道


往時は、真言宗とも天台宗ともいわれ、吾妻鏡に見える威光寺に比定されていた。
しかし、妙楽寺の日光菩薩像の胎内から墨書銘が発見されたことにより、威光寺ではないことが判明,鎌倉時代、日蓮の弟子・日源により、日蓮宗に改宗し、「威光山法明寺」に。
室町時代、鬼子母神が安置されて茶屋などが軒を連ね門前町を形成した。

             旧本山は、身延山久遠寺。通師雑司が谷法縁の縁頭寺となる


810年(弘仁1年)威光寺が創建。1312年、日源が日蓮宗に改宗し、法明寺と改称。1665年、不受不施派の弾圧により、法明寺15世・日了は流罪に。
1923年、関東大震災により、本堂が倒壊。1932年、本堂を再建。1945年(昭和20年)戦災により、全山焼失し、1959年(昭和34年)本堂を再建。



                          本堂




                    目白通り  千登世橋


                   橋から    明治通り


                   橋から  都電荒川線

南千住 syu散歩

2017-02-22 | syu散歩

「千住・お化け煙突」ー1953年、監督五所平之助 俳優上原健・田中絹代なかー
場所によって一本にも二本にも、又三本四本にもみえ、界隈に暮す無邪気な人々をたえずびっくりさせ、そして親まれた千住のお化け煙突。

足袋問屋に勤める緒方隆吉は、両隣で競いあう祈祷の太鼓とラジオ屋の雑音ぐらいにしか悩みの種をもたぬ平凡な中年男だが、戦災で行方不明の前夫をもつ妻弘子には、どこか狐独な影があった。だから彼女が競輪場の両替えでそっと貯金していることを知ったりすると、それが夫を喜ばせるためとは判っても、隆吉はどうも裏切られたような気持になる。
-緒方家二階の下宿人、ひとのいい税務署官吏の久保健三は、隣室にこれまた下宿する街頭放送所の女アナウンサー東仙子がすきなのだが、相手の気持がわからない。
彼女は残酷なくらい冷静なのである。
--と、こんな一家の縁側に或る日、捨子があった。
添えられた手紙によれば弘子の前夫塚原のしわざである。
戦災前後のごたごたから弘子はまだ塚原の籍をぬけていない。
二重結婚の咎めを怖れた隆吉は届出ることもできず、徒らにイライラし、弘子を責めつけた。泣きわめく赤ん坊が憎くてたまらない。
夜も眼れぬ二階と階下のイライラが高じ、とうとう弘子が家出したり引戻したりの大騒ぎになった。
騒ぎがきっかけで赤ん坊は重病に罹る。
あわてて看病をはじめた夫婦は、病勢の一進一退につれて、いつか本気で心配し安堵しするようになった。
健三の尽力で赤ん坊は塚原の今は別れた後妻、勝子の子であることがわかり、当の勝子が引取りに現われた時には、夫婦もろともどうしても赤ん坊を渡したくないと頑張る仕末である。
彼らはすつかり和解していた。
赤ん坊騒ぎにまきこまれて、冷静一方の仙子の顔にもどこか女らしさが仄めき、健三はたのしかった。……おばけ煙突は相もかわらず、この人達をおかしげに見下している・・・・・。「映画・煙突の見える場所」から。

                          JR南千住駅ー地下鉄日比谷線


「浄土宗寺院の延命寺」-山号・豊国山。

昭和57年、小塚原回向院から分院独立し開山した。

                首切り地蔵(延命地蔵尊)が祀られている。


              何度も、何度も、震災で首が落ちている。


「回向院」
井伊直弼による「安政の大獄」で処刑された。

明治維新への精神的指導者と云われる「吉田松陰」
開国派として危険視された「橋本左内」、更に著名な幕末期の儒学者で、日本外史で有名な儒学者・頼山陽を父に持つ「頼三樹三郎」
幕末の重要な思想家たちの墓所がある。
吉田松陰の墓所は、1863年に高杉晋作らによって世田谷区若林に改装され、明治時代、その地に松陰神社が建立されたので、ここには当時の墓石だけが、文化財として保存されていると云う。
因みに政治犯であった彼らの処刑は、小塚原刑場ではなく伝馬町牢屋敷でしたが、罪人として回向院に葬られた。


  明治維新を産み出すきっかけとなった歴史的な弾圧事件を、その中心人物である三人が今に伝える、幕末史では重要な墓所。


1860年3月3日、雪に見舞われた江戸で、江戸城途上の為、彦根藩邸を出発した井伊直弼ら一行約60名が、桜田門外に差しかかった時、総勢16名の元水戸浪士に襲いかかられた。
60名の警護がいながらも、余りに突然であったことと、寒い雪の日と云うことがあり、襲撃の体勢が遅れているうちに井伊直弼は弾丸を受け、駕籠でもがいているところで首をはねられたのです。
この時の元水戸浪士の現場での総指揮者が関鉄之介で、実際の襲撃には不参加でしたが、襲撃後、全国で潜伏中に捕えられ斬罪されたのち、ここ回向院に埋葬されました。
桜田門外の変は、急速に明治維新に向けて動き出す歴史上重要な事件で、ここにはその歴史の証人である、関鉄之助をはじめ多くの元水戸浪士たちが眠っている。



「坂下門外の変」などの討幕運動に関連した処刑者や、昭和に起きた“二・二六事件”の磯部浅一の墓所もある。

江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした有名な窃盗犯・鼠小僧次郎吉・河内山宗俊と共に悪事を働いた片岡直次郎・明治初期の稀代の悪婦として知られ、最初の夫を毒殺後、各地を放浪しながら悪事を重ねた「高橋お伝・江戸時代の侠客で、喧嘩で深手を負った自分の片腕が見苦しいと、子分に鋸で切り落とさせた伝説の持ち主腕の喜三郎等、全て小塚原刑場で処刑され、回向院に葬られた。
(鼠小僧次郎吉の本来の墓は墨田区の回向院で、ここには義賊に恩義を受けた人々が建てたと言われている)



回向院の壁には、前野良沢、杉田玄白の『解体新書』の扉絵がついた記念碑がある。
『解体新書』を作成するにあたり参考にした“ターヘル・アナトミア”の人体解剖図を検証するため、前野良沢、杉田玄白らが小塚原刑場を訪れ、一般的に解剖などは出来ないのですが、ここでは刑死者の解剖“腑分け”が行われていたと云う。

解剖にあたっていたのは“虎松の祖父”と呼ばれる老人で、肺、心臓、胃などを正確に切り分けて説明。この様子が“ターヘル・アナトミア”の解剖図と一致していたことから、良沢や玄白はその意を強くし、その後、難解なオランダ語の翻訳に苦しみながら『解体新書』を作り上げた。
西洋医学が紹介される前に、人体解剖技術と主要臓器の知識があった“虎松の祖父”の腑分けが、日本近代医学の黎明期の出発点となった。













「小塚原刑場」
江戸のお仕置場(刑場)は、品川の「鈴ヶ森刑場」と千住の「小塚原刑場」の二つ。
小塚原の刑場は
間口60間(108m)、奥行30間余(54m)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。
首切り地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年の1741年、造立されたものであると云う。

刑罪場
千手街道中小名小塚原縄手の西脇にあり、本所回向院の持地なり。
石像坐身の地蔵あり。高さ1丈又高1丈余の題目の石碑あり。元禄11年立る所なり。
傍に高さ8尺の石地蔵あり。元文4年立る所、又文化年中立る所の石佛阿弥陀の像及び稲荷社あり。
萬冶年中町奉行渡邊大隅守村越長門守命を傳へ、牢死若くは道路にて倒れし屍を(小塚原)回向院境内に葬埋せしむ。
然るに年を追って隙地なければ同院より願ひ上て寛文7年此刑場を持地に賜はり傍に庵を造立し、阿弥陀を置。(中略)
かの無縁屍を葬と云。
按に刑罪場は始本町4丁目の邊にありし由、後二所に分れて、南方は本材木町5丁目、北方は浅草鳥越橋の際にありしと云こと、此書に見ゆ。材木町にありし事は他の所聞なし。鳥越橋の事は諸雑記にも載たり。
其地は元鳥越甚内橋の邊なりし由、夫より又聖天町西方寺の向に移せり。
今も刑罪場の蹟なりとて、8間四方許の所残れり。
そこより当所に引し年暦は傳へず。(新編武蔵風土記稿より。)


千住道間と日光街道 syu散歩

2017-02-21 | syu散歩
「真正寺」と門前町
寛文元年の1661年、「真正寺」が浅草から当地に移転してきた時に
「真正寺門前町」も同時につくられたと云う。
東西二十間三尺、南北二十四間二尺・面積約1600㎡、ほどの土地であるが、この地域のただ1つの門前町と云う。
町奉行支配地で、1749年、に類焼の後、家作と畑地に分けられた。
明治2年、地名を下谷真正寺町と改めたが、明治12年、下谷通新町に合併されている。



                        真正寺の本堂


開山から四百年

「公春院」 開基400年前
開山は、「晏清満海大行者」1627年で、修験者の僧坊として建立されたという。
延宝年間に、「三世・円連社岳誉唯称上人梵冏和尚」によって浄土宗の一院に、下谷通新町ー公春院として現在に至る。
江戸中期の火災により縁起などは焼失・震災戦災は免れ、寛延2年、(1749)以降の過去帳をはじめとしていくつかの寺宝を現在にのこしており、
現在も浄土宗念仏道場として教化につとめている。
江戸時代、公春院は浄土宗の准別格寺院として栄え、境内に稲荷社や霊神社があり、合わせて六反歩ほどの田畑を有していたという。
1877年、二十二世・麻上普静上人により関東大震災での火災には免れたものの本堂、観音堂ともに傾き、昭和14年、現本堂落成、

「公春院の松」
境内に入ってすぐ左の角に大きな松があった。昭和9年に枯死。
大きさは、周囲はおよそ4m・高さ14mで樹齢は優に五百年を超すものであったという。
寺域について争いが立ったとき、このお寺の古いことの証拠になったため「証拠の松」といわれ、東武三十六名松の一つ。
徳川歴代将軍が三河島方面狩猟の際、鷹が鶴を捕らえて落下したのが大抵この辺で、この松を便りに捜索したといわれ「目当ての松」、また将軍秀忠公がこの地に狩した時、一羽の鷹が梢にとまったので「鷹止めの松」ともいわれていた。

                如意輪観音及び西国三十三観音。


                        本堂


「千住間道と製絨所」
千住製絨所は、ラシャ場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。
軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果していました。
初代所長は、ドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三氏。(荒川総合スポーツセンター西側に井上省三の胸像が保存)
当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設され、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は32,406坪に。
「千住間道」を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所
などが旧敷地に該当する。



                      日光街道・奥州街道・初宿千住


「吉田勘兵衛」1611 -1686・
江戸時代前期の材木商である。吉田新田を開墾した。
南千住付近を 干拓し、勘兵衛は木材・石材の販売だけでなく農業経営にも人並みすぐれた才を見せ、 南千住に開いた新田から ... また、江戸の木材・石材商の店はその後、起立人として 札差業を営むなど隆盛を誇ったが、やがて番頭に店を譲渡し、子孫も横濱の地へ移住 したある。

                          真養寺に眠る。


「真養寺」ー日蓮宗・山号 運千山。
萬冶2年の1659年、自性院日身が開基となり運千山自性寺として創建。
元禄2年の1689年、下谷上野町廣布山真養寺と、当地で合併、運千山真養寺と改号している。