syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

北海道の旅 開拓の歴史

2012-10-31 | 気まま旅
世界遺産となった「知床」に旅をすることになった。
千歳空港からバスの旅、道東めぐり、約10回にわたり記録します。まずはスタート。

出発を待つ羽田空港、JAL便


新装なった羽田空港、待合室には旬の食べ物や雑貨が不自由なく揃っている。


千歳空港





「北海道の開拓時代」

明治維新後、旧幕府側に参じた藩の武士たちは、禄をうばわれ窮乏し、生き延びるためには、自ら鍬をもたなければならない。再起を図るために、
新天地である北海道へ移住してきた。伊達藩は現在の伊達市や当別町など、白石藩は現在の札幌市白石区や手稲区、石川藩は室蘭、佐賀藩は釧路などに入植している。

また、没落士族の救済と開拓、さらに北方防備のために「屯田兵」の制度が設けられ、兵士でありながら、日常的には未墾地の開拓にあたるというもので、
1875(明治8)年の琴似屯田を皮切りに、道内37ヵ所に屯田兵とその家族が入植している。

明治20年代になると、会社・結社による移住が増えてきます。帯広の晩成社、札幌・月寒の報国社、浦河の赤心社、岩内の起業社など。
その後は、個人による移住が増え、東北・北陸・四国の各地方から、年間数万人もの移住者が渡航してくるようになった。

屯田兵は、支度料、旅費を支給されたうえに、すでに道路と兵屋が完成し、家具や農具も揃えられていたので、一般の開拓者に比べれば、ずっと有利な条件の移住。
しかし、兵士である以上、厳しい軍律に縛られた生活であったことも事実。日常的には家族とともに開墾作業に取り組むが、いったん事が起これば農事を捨てて
馳せ参じなければならなかった。屯田兵の兵屋は各地に残されているが、ユニークなのは篠津兵村のロシア式耐寒住宅。堅牢な木の角組兵屋で、ペチカもついていた。

 
帯広の本格的な開拓は、1883(明治16)年5月に依田勉三の率いる「晩成社」一行27人が、下帯広村に入植したことから始まる。
米、麦、粟、豆といった穀類に加え、野菜類を栽培したが、度重なる冷害やバッタ、ノネズミの襲来などにより、その開墾生活は苦難に満ちたもの。
後に晩成社は、牧畜やバター生産まで事業を拡げているが、そのほとんどは失敗に終わっている。
しかし、その試みが無駄ではなく、彼らの失敗の上に、その後の十勝の数多くの産業が育っていったから。
大樹町に依田勉三の住居が復元されているが、そこから彼らの質素な生活ぶりがうかがえる。


最初の休憩地 砂川ハイウエイオアシス




蝦夷地北海道は、1800年に「伊能忠敬」が蝦夷地を測量、1809年に「間宮林蔵」樺太、間宮海峡を発見、1855年箱館開口日露和親条約を結んでいる、1869年蝦夷地を「北海道」と改称された、、、、、、。

伊能忠敬 1745-1818 日本地図を作製した測量家、56歳で蝦夷地測量(一歩65cmの歩測)
間宮林蔵 1775ー1844 探検家で幕府の隠密 筑波郡生まれ、数学才能で幕りに、伊能忠敬に測量を学び、樺太[サハリン)から中国大陸で
           樺太は島であると証明し樺太、中国大陸の間の海峡を「間宮海峡」と命名された。


次回は、「富田フアーム」へ。


銀座・数寄屋橋の思い出

2012-10-27 | syu散歩

有楽町は、茶人・大名の「織田有楽斎」の屋敷があった、明治に入り地名が「有楽町」になっている。駅前の「有楽町マリオン」に、日劇があった。
その横を川が流れ架かっていた橋が「数寄屋橋」である。

橋は、1629年江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられ「四間長三間」の木橋であった。橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという。
見附の城門枡形は維新の際に撤去され、大正大震災 1923年後の復興計画によって、近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することとなった。
東京オリンピック以降、首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させ、外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消した。
終戦直後は、外人目当ての、女性と靴磨きの浮浪児、屋台が軒を連ねていた所であった。

「有楽町で逢いましょう」1957年 作詞佐伯孝夫、作曲吉田正 歌 フランク永井大流行。マリオンの前に碑がある。 


銀座と云えば、煉瓦発祥地、銀座に煉瓦街を計画し、イギリスの技術援助と技師を招き設計に当って、小菅で煉瓦を焼く許可も出ていたが住民の猛反対で中止された。
明治7年、銀座8丁目に一部完成したが、外人の設計で住む人がいなかったという。

数寄屋橋を舞台に展開する「君の名は」この辺りになる。

  

菊田一夫作 「君の名は」俳優佐田啓二・岸恵子の映画、連続ラジオ放送で大人気であった。

東京大空襲の夜。焼夷弾が降り注ぐ中、たまたま一緒になった見知らぬ男女、氏家真知子と後宮春樹は助け合って戦火の中を逃げ惑う、命辛々「銀座・数寄屋橋」までたどり着く。
一夜が明けて二人はここでようやくお互いの無事を確認する。名を名乗らないまま、お互いに生きていたら半年後、それがだめならまた半年後にこの橋で会おうと約束し、
そのまま別れる。
やがて、2人は運命の渦に巻き込まれ、お互いに数寄屋橋で相手を待つも再会がかなわず、やっと会えた頃には真知子はすでに人妻となっていた。
しかし、夫との生活に悩む真知子、そんな彼女を気にかける春樹、2人をめぐる人々の間で、運命はさらなる展開を迎えていく。

マリオン



作詞菊田一夫、作曲古関裕而 「君の名は」の後宮春樹とアイヌの女の恋の歌 「黒百合」

           黒百合は 恋の花  愛する人に 捧げれば  二人はいつかは 結びつく  あ~あ~ あ- - - - -あ~~
           この花ニシパに あげようか  あたしはニシパが 大好きさ


           黒百合は 魔物だよ  花の香りが しみついて むすんだ二人は はなれない  あ~あ~ あ- - - - -あ~~
           あたしが死んだら ニシパもね  あたしはニシパが 大好きさ、、、、。

有楽町ガード下、終戦後の雰囲気が少し残っている。
      

日劇は1933-1981。日劇ウエスタンカーニバル 第1回 1958. ロカビリー3人男(平尾昌明 ミッキーカーチス 山下敬二郎氏)にて、日本ポップスの幕開けと云われた。
最終回が1981年で、2008年に「新宿コマ」の解体前に1日限りの再結成にて公演されたという。

ガード下、有楽町と新橋の間 公園側
    

「日比谷公園」は、江戸時代、大藩の上屋敷が置かれていた。幕末の時点では、北側には御用屋敷・萩藩毛利家・佐賀藩鍋島家、南側には三草藩丹羽家・
吹上藩有馬家・福知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩北条家の各上屋敷が存在した。
明治になると大名屋敷が廃されて更地となり、「日比谷ヶ原」と呼ばれた。
1871年、日比谷・霞が関の旧武家地一帯に陸軍操練所が設置され、1885年 日比谷練兵場と改称された。
その後、練兵場は、1888年青山火薬庫跡、現在の明治神宮外苑に移され、周囲に官庁街が整備されていった。

日比谷公園入口                        園内噴水
  

公園になり、早くも開園と同年に洋風喫茶店「松本楼」、和風喫茶店「三橋亭」、結婚式場「高柳亭」(現日比谷パレス)、洋風レストラン
「麒麟亭」
(現レストランなんぶ)、植木屋などが出店した。
日露戦争に勝利すると、献木が盛んとなり、樹木が充実した。1905年 音楽堂が竣工、1922年、野外音楽堂が完成した。

大正デモクラシーの中、東京市電賃上反対運動や普通選挙運動、シーメンス事件に対する第2次山本内閣弾劾国民大会など、民衆による社会運動の拠点ともなった。
日露講和条約に対する日比谷焼打事件など、暴動に発展するこ事件も多々起こった。

                                  旧日比谷公会堂
  


1950年、都知事安井誠一郎の要請により帝国ホテル内の植木屋芳梅園が日比谷公園に日比谷花壇が出店、1954年に大音楽堂、1957年に日比谷図書館が再建。
1971年 沖縄返還運動により松本楼が全焼、1973年 再建された。
1982年 児童園とプールが廃止されて健康運動広場となり、1983年、大・小音楽堂が建替えられた。
2011年 東京都から千代田区へ移管された日比谷図書館が、「日比谷図書文化館」として開館。

さんま収穫祭
  

公園内でイベントが、「おながわ秋刀魚収穫祭」園内にさんまの香ばしい匂いがした。

女川町が、瓦礫の受け入れをしてくれた東京都に対して感謝の気持ちを込めて、10月に日比谷公園にてさんま10tを配布。
テーマは「感謝」、まだまだ復興はこれから、でも女川が新しく生まれ変わるスタートとしてこのお祭りを開催していた。

園内 花壇
    

日比谷図書館文化ホールにて、「市川団十郎荒事の世界」鑑賞した。

団十郎の「弁慶」



「市川 團十」は、歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。
團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも
最も権威のある名とみなされている。
團十郎と関わりの深い名跡に市川海老蔵がある。前期の市川團十郎には團十郎 → 海老蔵と襲名する例が目立ち、後期にはこれが逆転して海老蔵 → 團十郎と襲名する例が目立つようになった。


10代の頃の海老蔵は幼少時から続く厳しい稽古と家柄・伝統の重責に耐え切れず反発を繰り返していたという。
そんな彼を立ち直らせたのは、偶然フィルムで見た「勧進帳」の弁慶をつとめる祖父十一代目市川團十郎の芸の美しさと勇姿に感動したからと語っている。
祖父を目標に掲げているが、その理想を追うがゆえに苦しみ、現在も、もがき続けているという。

いろいろな舞台衣裳も展示していた。

  

これで、東京駅、有楽町、日比谷公園終わります。


東京駅の復元、今昔

2012-10-25 | syu散歩
東京駅が改装なったというので、久し振りに都内散歩に出かけた。

改装なった東京駅、レンガも鮮やかに落ち着いた雰囲気。ライトアップも楽しみ、これは次回に。


1914年(大正3年)に創建された東京駅丸の内駅舎は、辰野金吾により設計され、その堂々たる姿で、多くの人々に愛されてきた。
しかし、1945年(昭和20年)戦災により南北のドームと屋根・内装を焼失。戦後、3階建ての駅舎を2階建て駅舎に復興した。

今回の「保存・復原工事」では、外観を創建時の姿に忠実に再現するのはもちろんのこと、さらに、未来へ継承するため、鉄骨煉瓦造の下に地下躯体を新設し
、機能拡大の工事を行い、巨大地震にも耐えうる建築とするため、「免震工法」で施工した。


新橋―横浜間に初めて鉄道が敷かれた際、東京日々新聞、明治5年に「明治天皇は、直衣をまとい、4等立ての御馬車で、「新橋駅」に到着した。
開業式は、9月9日の予定だったが、雨のため12日に延期されていた。当日の飾りつけは、英人スメドレーが鉄道寮の委託で請負い、緑葉を持って柱を巻き、
万国旗を廻らせた西洋式の飾りつけは日本初めての試みであった。
「新橋駅」前には、大アーチが建てられたが、このアイデアは、鉄道頭井上大臣によるものであった。10両編成の列車は、新橋駅をスタート・・・・
一時間後「横浜駅」に到着した。」とある。昔の「新橋駅」は、汐留駅」を云う。

鉄道院総裁「後藤新平」は、三菱ヶ原(軍練兵場を、三菱創設者、岩崎弥之助が明治23年に8回払いで買わされている)の中央に、ルネッサンス式の
「東京駅」総工費280万円、レンガ、760万個、ロシアを抜く世界一の駅を目指して大正3年に完成。一日乗客数 9600人と記録されている。



昭和22年頃、電車に乗り東京駅へ、トンボ捕りに遠征していたのを思い出す。特に雨上がりにになると大発生、おとり(同種の牝トンボを糸につけ、回して、
誘い寄せる方法)で、ギンヤンマ(銀ちゃんと云っていた)、オニヤンマ、サナエなど、面白いように獲る事が出来た。
今は、地下26m、日本一の乗降客のマンモス駅である。



赤レンガの外観で親しまれてきた「東京駅丸の内駅舎」。
幾多の文人にも愛されてきた東京ステーションホテルも、駅舎の保存・復原工事に合わせて全施設を改装し、3日に開業。この巨大な建築物の耐震改修には、
免震工法が採用された。

浜松町駅止まりとなっている「東京モノレール」を新橋駅か東京駅へ延伸する計画がある。完成すれば成田エクスプレスとの乗り換えが便利になり、
羽田・成田両空港間の移動時間が短縮される。

駅構内も明るくモダンに改装されている。
    

「原首相暗殺現場」の碑 
大塚駅の転轍手であった「中岡艮一」は、以前から「原敬首相」に対して批判的な意識を持っていた。
艮一の供述によれば、原が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。
その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司の「橋本栄五郎」の影響を受けたことなどもあって、艮一は原暗殺を考える。
1921年11月、原は京都で開かれる立憲政友会京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口の改札口へと向かっていたが、午後7時25分頃、突進してきた艮一に
短刀を右胸に突き刺された。原はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、すでに死亡していた。
突き刺された傷は原の右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。

  

「浜口首相遭難現場」
南口改札付近。昭和初期、緊縮財政や金解禁といったフレーズで語られる事が多い首相で、「ライオン宰相」と呼ばれていた。原は刺殺されたが、浜口は銃で狙撃された。
1930年11月、岡山で開かれる陸軍大演習の視察に出掛けるため、浜口は東京駅に、午前9時発の特急燕に乗車するため、書記官長、法制局長官や民政党幹部らと共に、
東京駅駅長に案内されて第4ホームを歩いていた。

浜口らが乗車する予定であった一等車の付近で銃声が響いたのが、8時58分。狙撃したのは佐郷屋留雄という右翼の青年。
この時佐郷屋と浜口との距離は3m程しかなかったという。至近距離から撃たれたため、弾丸は腹部に命中。
ホームは大混乱に陥り、周囲に「大丈夫だ、大丈夫だ」と洩らすほど、撃たれた浜口本人は気丈だったという。



「平将門・首塚」は、神田明神同様、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた地。
地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来。

関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で
噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、
不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。
 
    

「平将門」~940、東国桓武平氏の一人、京都藤原忠平に仕え、下総に帰郷し、武蔵国の官人と土豪の争いに介入後、東国国司を追放して、
新皇と称したが、平 貞盛・下野藤原秀郷に討たれる。将門の首は、京都へ送られ晒首に、その首が飛んで大手町に落ちたという。

       

「酒井家上屋敷跡」でもあるここは、酒井雅楽頭の中庭、歌舞伎の「先代萩」伊達騒動の場の、原田甲斐殺害された所であるようである。
山本周五郎「樅の木は残った」の、原田甲斐(1619-71)伊達家の重臣原田宗資の嫡男、伊達宗勝(正宗の末男)仕え、政敵の伊達宗清等の陰謀で、
不正を訴えられ対決していく、最後は、酒井忠清に謀刹される。歌舞伎とは違うようだ。


   
 
東京駅丸の内口は大きく変貌している。左東京郵便中央局も、再開発され、JRビルと結ばれ高層ビル「JPタワー」に、皇居外苑の馬場先濠、桔梗濠、
大手門、内堀通り、三菱ビル、大手町の周りもビルラッシュの工事中。

次回は、有楽町へ。


吉原宿の富士川 

2012-10-23 | 気まま旅
吉原は、富士市の中心より少し東に位置。田子の浦港に架かる橋「沼川橋」を通ると、戦国時代の「吉原宿」のあった所。
田子江川、潤井川、小潤井川、和田川、沼川が流入し、港の周辺は、古くから製紙の町として発展してきた。
富士市ということもあって日本製紙・王子製紙・三島製紙などの製紙工場が多く、倉庫(埠頭倉庫)、運輸業、食品加工工場も集中する。
南側には石油埠頭があり、油槽所も多い、西側には、旭化成の工場、東側寄りには貯木場となっている。
港を作る前は砂浜海岸であり、湾になっていることで、定期的に浚渫工事が行われている。
しかしながら、田子の浦港に入港する外航船(外国貨物を運ぶ船舶)は、主に紙の原料となるチップや コーンスターチの原料となるトウモロコシなどの
バルカーがあり、これらはパナマックス級であることが多いが、このクラスの船に貨物が満載の状態や潮の干満を考慮しないと船底を擦ってしまい
接岸できなかったりする。


沼川の石水門は、明治19年に完成し、「6つめがね」の通称で親しまれていた。長さ63.5メートル、幅・高さ6.9メートルの立派なもので、沼川一帯の農耕地を
海水の逆流から守ってきましたが、貯木場を建設するために取り壊され、(現在は沼川橋になっています)昭和41年12月沼川石水門は、撤去され、碑が建てられている。



現在の街並み                      石水門の碑             
    

「田子の浦」
「田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」 山部赤人(新古今集)。
(田子の浦まではるばる来てみると、富士山の高いところは真っ白になっている。今でも雪は降り続いているのだ)

「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」 山部赤人(万葉集)。
 (“田子の浦ゆ”の“ゆ”がまず違い、これは経由の由(ゆ)。
 ”田子の浦に”ではここから富士山を見たという事になり、“田子の浦ゆ”ではここを通って富士山が見えるところまで出たという)

“雪は降りつつ”と“降りける”でもかなり違う。“つつ”では今も降っているという意味になり、“ける”では降ったということになる。

“白妙の”と“真白にぞ”でもかなり違ってくる。万葉集・新古今集とどっちが・・・・。


田子の浦みなと公園の森                田子の浦    化学工場のクレーンが
    

「田子の浦みなと公園」山部赤人の歌碑あり。
公園から残念ながら田子の浦の港は臨められないが、秋には、展望台から、御前崎、東は箱根山麓、南は天城から大瀬崎、そして北は富士山、愛鷹山、
南アルプスと見える時もあるという。


公園展望台から                  園内の神社で参拝
    

「市の津波想定」は、東海地震の被害想定で、富士市沿岸に到達が予想される津波の高さは2.6~2.8mと推定、
田子の浦湾内に侵入した津波は高さ3.8mと推定され、市の海岸沿いには、過去の高潮被害の後に高さ17mの防潮堤が設置されており、この防潮堤を超えるような
推定はされていないという。
市内の津波の浸水の深さは0.5m以下と推定されて、津波による家屋の倒壊や人的な被害は想定されていない。
しかし、東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会の報告にもあり、想定できなかった地震の規模と巨大津波が東北地方を中心に発生し、
未曾有の大震災に日本中の沿岸地域に住んでいる人々が不安を感じている。

ここ「みなと公園」も、海は、コンクリートの壁。


「毘沙門天・妙法寺」は、中国風、インド風の建物が同じ敷地内にある毘沙門天妙法寺。
毘沙門天は、四天王最強の神で、すべてのことを一切聞きもらさない知恵者というところから多聞天とも呼ばれている。日本では財宝や福徳を与える神様としている。
毎年旧暦の正月に行われる毘沙門天大祭は日本三大だるま市の1つとして有名で、ここで売られる立派なひげのだるまは五穀豊穣、商売繁昌などの縁起物として人気。

毘沙門天妙法寺                   正面
  


山号、香久山、毘沙門天、市今井町、 日蓮宗 本尊 一塔両尊、創建 1627年  開基 渡部彦左衛門 、開山 日深上人、本寺 身延久遠寺、 日蓮宗橘、
毘沙門輪宝 鎮守 毘沙門堂、 旧暦正月7~9日:大祭(だるま市)。

銭洗いの池に、「お札やコインを洗って種銭して下さい」、と書かれていた。毘沙門天は勝負運、開運に利益があるとされて、ここでお金を洗って商売の種銭にしたり、
勝負事などにも御利益が?。

大鳥居                        鐘楼          本堂前           
    

本堂は、毘沙門堂と呼ばれ、日本風建築、奥には、インド風建築の建物。同じ寺内の建物とは思えない、屋根は、竜が彫られている。
左右に狛犬も彫られ、歴史を感じさせる。呪文で、フクジュウカイムリョウの呪文を唱えは、惣無量の物を与えたまえの意味らしい。


焼香殿                              本殿
  


本堂の中に、大きなダルマがあり、網で囲われていた。立派なひげをたくわえたダルマが笑っている。手前には商売繁盛と家内安全の文字。
小さなダルマは、右目だけ黒く入れられていた。念願が成就したときに左目を入れるのであろう。

本堂内                      竜神                         本殿外廊下
    

今回で富士川に沿っての旅を終わります。

富士川の戦い 平家越え

2012-10-21 | 気まま旅
駿河の海を見渡し、みかんの山を眺めつつ、歩いた。ここは、天下の東海道、五十三次、15番目の蒲原の宿。街は、由比と同じ細長く、格子戸が並ぶ町並み、
江戸時代と大きく変わっていないようだ。
蒲原宿は、山、川、海に囲まれた静岡市清水区蒲原である。駿河湾で最も奥深い海岸沿いに広がる東西約6.4kmの細長い町並み。
東海道五十三次の時代から、交通の要所として栄えた歴史のある地域。温暖な気候や豊かな海に恵まれて柑橘類、桜えびなど特産品で知られている。
海辺の町らしく明るく伸びやかで、確かな歴史の息吹が感じ、通りの人に聞くと左に見える山の頂上に「蒲原城」が有ったという。

「蒲原城」は、 山城、築城時期は、 南北朝期。築城ー 蒲原氏、その後、佐竹氏、北条氏等。遺構ー 曲輪、土塁、堀切、石積 等

歴史は、鎌倉期に「入江清定」の三男、清実が蒲原荘に居住し蒲原氏を名乗り、築城は南北朝期と推定されている。

1582年の織田信長・徳川家康の甲斐・駿河への侵攻の際、蒲原城は、朝比奈駿河守信置が守備していたが徳川軍の攻撃により落城したと言われる。

蒲原城は、東海道の難所、由比ガ浜と薩捶峠を眼下に控え、「海道一の堅城」と呼ばれていた。
城山」と称される山は周囲と比べて飛びぬけて高い山、というわけではない。南側は急な崖、他の三方も深い谷に守られた堅固な要害であった。
甲相駿三国同盟が信玄の駿河侵攻によって破られた後、駿東一帯は武田氏と北条氏による激しい抗争が続きます。そんな中でも、北条の長老格であった
幻庵長綱の子ふたりが討ち死にしたこの蒲原城の攻防戦は最も激しかった戦いのひとつであったという。

蒲原宿から見える  蒲原山城跡の山  善福寺           



蒲原城跡の約650m東に標高約164mの御殿山山頂に、「狼煙場」と呼ばれてい 所がある。
蒲原城の東側は北方から山が張り出している、 そのため、「狼煙場」は、敵の動向を監視する目的で築かれ、蒲原城の外曲輪の働きをし ていたという。

宿場と山城跡                        御殿山向かいの山に狼煙場が     


蒲原宿は、町をあげて古い物を大事にしているという。小さい蒲原宿の名所の中には「旧五十嵐歯科医院」、「志田邸」「青山荘」などがありました。

旧東海道蒲原宿の街並み                 大正時代の歯科医院    


「志田邸」は、東海道蒲原宿でコメや醤油を扱っていた商家志田家の主屋。国の有形登録文化財に選定された。
東海道町民生活歴史館は、志田家に残る江戸時代からの醤油工場等を活用した資料館、江戸時代から昭和前期までの町民生活に関係したもの
展示している。

志田邸跡


山梨南アルプス駒ヶ岳、釜無川・笛吹川源流から南に流れ、ここ蒲原の駿河湾に注いでいる富士川河口「新富士川橋」を渡ります。
登呂の遺跡、駿河国府、今川氏の本拠地、家康の城下町、、。歴史の静岡市と別れ富士市の中心「吉原宿」に向かいます。

新富士川橋



「富士市」は、駿河トラフとその延長上の富士川河口断層帯に面しているため、プレート境界型の大地震「東海地震」の危険性が指摘されており、
国・県・周辺自治体とともに地震対策、特に津波対策に力が入れられている所。
江戸時代には東海道の宿場町の一つである「吉原宿」が存在したが、津波で2度壊滅的な被害を受け、その度に宿場の位置が内陸部に移動。


富士川


「富士川の戦い」は、 治承4年秋の夜、武田信義の部隊が平家軍の背後に回るために渡河を開始した。
この時、富士川の川面で静かに眠っていた水鳥の大群がこの物音に驚き、一斉に飛び上がった。この時の水鳥の羽音がすさまじく、これを源氏軍の夜襲と
勘違いした平家軍は大混乱に陥ったという。
武器も持たずに逃げ回る者、杭につないだ馬にまたがり、ぐるぐる走り回る者、等々、散々な混乱ぶりだったと「平家物語」や「源平盛衰記」は伝えている。
しかし、実際にこのような混乱ぶりがあったのかどうかは定かではない。この混乱ぶりには、軍記物の特徴である誇張がかなり含まれている。

士気も振るわず兵力でも劣勢に立たされていた平家軍が、源氏軍の襲来とともに、戦いらしい戦いもせずに潰走したことは確かであろう。
平惟盛が京に逃げ戻った時には、7万騎の兵力が僅か10騎になっていたという。

「平維盛」 1157-84 平清盛の嫡孫、重盛の長男、後白河法皇「五十の賀」で「青海波」を舞い、桜梅少将と呼ばれていた。
平家の総大将として「富士川の戦い」で潰走。「墨俣川の戦い」で勝利するが、倶利伽羅峠で木曾義仲軍に大敗する。
妻子を京都に残して高野山に出家する。都の空を望み妻子が恋しく那智の滝に打たれたと「平家物語」は、伝えている。

和田川          富士川の戦いの「平家越え橋」 


「平家越え橋」は、
平氏が敗走したのは富士市の新橋町辺りとされる。付近にはかつて「平家越」という小字があり、和田川にかかる平家越え橋の東詰めには「平家越えの碑」が建つ。
現在の富士川は市西端を流れており、碑とは6kmほど離れているが、これは江戸期の治水事業で川筋が西へ移ったため。
往時はもっと東を流れ、幾筋もの支流を形成していた。市内には地名に「島」とつく地域が多いが、これらは砂州・中州だったことに由来している。
吉原宿に近い。

平家越えの碑                   吉原宿跡


「源氏、頼朝」は、安房国平北郡猟島に。同地で先発していた三浦一族らと合流地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。
頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求め、
千葉常胤は、直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが「結城浜の戦い」、房総半島に大きな勢力を有する
上総広常の向背には不安があった。

頼朝は、300騎を率いて安房国を出立。下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。
武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっている。
頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、
何らの抵抗を受けることな、源氏累代の本拠地鎌倉に入った。


この辺りは、安藤廣重も東海道五十三次の「吉原 左富士」として描いた景勝地だったという。
治承年の10月、源平両軍が対峙した古戦場と伝わっているが、現在は、和田川の薄汚れた川が流れているだけの埃っぽい工場地帯であった。もっとも富士川合戦とは名ばかりで、実際には古戦場と呼ぶほどの大規模な衝突は起きていなかったという人もいる。


浮㠀ヶ原、富士沼での源平の戦いが



次回は、吉原宿、田子の浦方面へ。