syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

新橋演舞場へ

2017-12-31 | 諸々日記

駅東口の飲食店街「すしや横丁」は、1962年の昭和37年、有楽町駅前整備の都市計画によって撤去。
昭和38年、都と三菱地所の共同出資による株式会社東京交通会館が創立され、昭和40年、回転展望レストランを備えた交通会館ビルが完成している。
戦争終了後は、対米友好感情の醸成と日本国民への啓蒙宣伝活動の一環として、アメリカ文化の象徴する映画が日本に流入。
銀座・日比谷映画や有楽座、スカラ座など主要な映画会社の看板館が集中し、洋画ロードショーのメッカとして、多くの観客を集めた。
「有楽町映画街は黄金時代」を迎え、日活、東宝、新東宝など日本の映画産業業界の大手6社の本社が有楽町に集中。
昭和30年代前半、これら6社は、毎週2本立ての新作映画によって興行を続ける体制をとり、激しい映画の大量生産競争を繰り広げる。

                    現在の新橋演舞場ビル


新橋演舞場は、大正14。12月演舞場に出向いた。今日の出し物はベテラン歌手の芝居と歌。
京都や大阪には立派な演舞場や歌舞練場があるのに、東京にないというのは残念だという「川村徳太郎(芸者屋屋号森川家)」の発案で、
五業組合の協賛のもとに資本金200万円の新橋演舞場株式会社を設立したのが起源。
当時、東京市京橋区・(現在の中央区銀座6丁目)場所は、偶然にも「芝居狂言・加賀見山旧錦絵」のお初が、主人尾上の敵である岩藤を討った松平周防守の下屋敷跡、建設以前は、狭い川に面した荒れ果てた空き地で、草木もうっそうと茂り、夜は道行く人も珍しい実に不気味なところだったという。
そこに、定員1,679人の三階建ての立派な劇場が建てられた。
大正12、その途中で関東大震災に遭い、一時工事を中止するハプニングも、が、20ヶ月にわたる全工事を完了し開場に。
当初目的だった新橋芸者の技芸向上を披露する場として春秋二季に「東をどり」を主に公演。昭和15、新橋演舞場は松竹株式会社と興行契約を結び、松竹が興行面を受け持って松竹傘下の主要劇場。
観客に親しまれながら、歌舞伎、新派、新喜劇、新國劇、前進座を演舞場のカラーとして 今に。
第二次世界大戦では空襲のため、外周りを残して焼失。
昭和23、復興し、終戦直後の再建のため、舞台の規模を生かす舞台機構や諸設備が新しい時代の要請や消防法などにこたえられなくなり、昭和57年に新装されたのが、日産自動車本社ビルと複合した現在の演舞場。











「歌舞伎座」
地下鉄日比谷線・東銀座駅にある。1889年の明治22年ー福地源一郎と金融千葉氏によって開場している。
木挽町の地に誕生し、歌舞伎の殿堂として明治、大正、昭和、平成にわたって、古典演劇としての洗練を極めると共にその時代 の息吹を取り入れた舞台を上演し続けてきた。また、その間には幾度もの災禍を乗り越え、力強く復興を果たしてまいりました。
歌舞伎座の歩みは、まさに近代日本の演劇史そのもので、平成25、第五期となる歌舞伎座が開場し、現在も賑わいをみせている。

鴨川 鏡忍寺 彫り物大工の七福神

2017-12-30 | 気まま旅
房総の旅もこれで終わります。




日蓮聖人四大法難の一つ、小松原法難の霊場。
文永元年(1264)11月11日この地で地頭東条景信等に襲撃され弟子の鏡忍坊と信者の工藤吉隆公が殉死、日蓮聖人も腕を折られ頭部に刀傷を負った。後に日蓮聖人は2人の菩提を弔うため日隆上人(工藤吉隆公の遺子)に命を下し開創されたのが当山の始まり。

当山には日蓮聖人ゆかりのものから、江戸期に活躍した地元鴨川出身の彫り物大工「波の伊八」作の七福神の彫刻や明治の俳人「正岡子規」がこの地を訪れて詠んだ句碑などもある。
また境内には、四季折々の草花やとても大きな木々が生い茂っており、中でも日蓮聖人法難の際、危ういところ救った鬼子母神が降臨されたと伝わる「降神の槙」は樹齢が千数百年といわれている。







































館山の新鮮魚料理 仁右衛門島

2017-12-28 | 気まま旅

                   魚料理で満腹










                      旨い




    総武本線の内房線「太海駅」で下車・次が「安房鴨川駅」その先は外房線に。

名勝仁右衛門島は、鴨川市太海浜にぽっかり浮かぶ島で面積約30,000平方メートルの県内最大の島。風情あふれる珍しい二丁櫓の手こぎの渡し船で島に渡ります。風光明媚で源頼朝や日蓮聖人の伝説があります。
鎌倉時代の初代平野仁右衛門以来、平野家が一戸だけ住んでいるところから仁右衛門島といいます。
四季を通して花が絶えることなく特に、キンギンナスビという珍しい植物もあります。
今上天皇の皇太子殿下時代、常陸宮殿下、三笠宮殿下も御訪問されています。
昭和10年(1935年)に千葉県の名勝に指定されました。新日本百景にも選ばれています。













名勝仁右衛門島は、鴨川市太海浜にぽっかり浮かぶ島で面積約30,000平方メートルの県内最大の島。
風情あふれる珍しい二丁櫓の手こぎの渡し船で島に渡ります。風光明媚で源頼朝や日蓮聖人の伝説がある。
鎌倉時代の初代平野仁右衛門以来、平野家が一戸だけ住んでいるところから仁右衛門島という。
四季を通して花が絶えることなく特に、キンギンナスビという珍しい植物もある。
今上天皇の皇太子殿下時代、常陸宮殿下、三笠宮殿下も御訪問されている。昭和10年に千葉県の名勝に指定され新日本百景にも選ばれている。















             「太海駅前」の柳屋さんで、干しワカメを



船形海岸 那古寺(観音)

2017-12-25 | 気まま旅




正式名はせ
正式名は補陀洛山(ふだらくさん)千手院那古寺ですが、那古観音と通称されている。 補陀落とは、南方の海上にあるとされる観音菩薩の住処。

寺伝によれば行基は、元正天皇の病気平癒を祈るため那古を訪れ、海中より上げた異木で彫った千手観世音菩薩を安置して祈願。
無事、元正天皇の病は平癒し、天皇の勅によりこの那古寺が創建されたのだという。

1703(元禄16)年の元禄の大地震で倒壊し、大正12年の関東大震災でも被災したが、その都度再建され、平成22年には観音堂(本堂)の平成の大改修も完了し、美しい境内が蘇っています。

那古寺裏参道には閼伽井弁天(あかいべんてん)が祀られている。
1703(元禄16)年の地震で倒壊した寺を再建する際に、「伊勢屋金物店」伊勢屋甚右衛門が伊豆石を運び、井戸に石組したというのが霊水の閼伽井(あかい)。
往時には参詣の人々ののどを潤した井戸です。

坂東三十三観音の結願寺で関東八十八ヶ所第56番霊場

多宝塔
境内には千葉県の有形文化財に指定される観音堂、多宝塔のほか、仁王門や和泉式部の供養塔などがあり、本尊の木造千手観音立像は、高さ1.5mのクスの木の一本造りで国の重要文化財にも指定されている。
ほかに、鎌倉末期作の銅造千手観音立像(国重要文化財)や繍字法華経普門品など多数の宝物を収蔵している。

本堂の裏手から那古山山頂の潮音台まで続く遊歩道もあり、春は桜見物を兼ねた参拝客でにぎわいを見せます。
かつては山上の古屋敷に建っていましたが、1703(元禄16)年の大地震で倒壊し、1759(宝暦9)年、岡本兵衛を奉行として、中腹に再建されたもの。
江戸時代には観音堂のすぐ足もとまで波が寄せていましたが、地震の隆起で海岸が後退したのだとか。

また坂東三十三観音の結願所、安房国札三十四観音霊場の1番、関東八十八箇所の56番にもなっている。

坂東三十三ヶ所
鎌倉から始まる長大な巡礼道「坂東三十三ヶ所観音霊場」は、鎌倉時代に、西国霊場を模してつくられた札所。
第一番は鎌倉の杉本寺で1都6県の広範囲にまたがり那古寺(那古観音)で結願するまで全行程は1300kmにも及びます。



                       那古寺観音堂


















                        本堂


                     船形漁湾・海水浴場が










                        那古船形駅

赤山地下壕跡・館山

2017-12-23 | 気まま旅

              館山海軍航空隊・赤山(地下壕跡)


                房総半島南部の丘陵に。


平成16年4月1日より、館山海軍航空隊赤山地下壕跡(通称:赤山地下壕)の一部が公開されました。
赤山地下壕は、合計した長さが約1.6kmと、全国的にみても大きな壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつ。
昭和10年代のはじめに、ひそかに建設がはじまったという証言もありますが、今のところ赤山地下壕に関する資料が、ほとんど確認されていないため、つくられた時期は、はっきりしていない。
このような大きな地下壕が,1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はなく、当時の軍部が本格的に防空壕をつくりはじめたのは、1942(昭和17)年より後であることを、他地域の壕から知ることができます。
また、全国各地につくられた大きな地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上であるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭いうえ、計画的に掘られたとは考えにくく、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後に建設されたのではないかと考えられています。

アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終りの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは、壕内にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務をおこなったという体験や、病院の施設があったなどの証言からうかがい知ることができます

館山航空基地のすぐ近くにあり、懐中電灯、ヘルメットをもち地下壕に入りました。


























「館山海軍航空隊」
館山湾に突き出した海上自衛隊館山基地。
千葉、木更津方面からは内房なぎさラインを南に下り、宮城という交差点で突き当たった海上自衛隊館山基地のなかにかつての本部の建物が残っている。かつては、滑走路などや兵舎もあったと云う。
南側の頼忠山(通称「赤山」)には関連施設として赤山地下壕が現存し、また付近に掩体壕が一基残る。
館山湾の鷹ノ島から当時の海岸線まで、関東大震災によって隆起した浅瀬を空母に似せて方形に埋め立て、館山空は設置され、北西には沖ノ島があるが、これも砂州でつながっており、沖ノ島のなかにも壕などもあると云う。
鷹ノ島は、国土地理院の地図に書かれているように「高ノ島」ともいい、そこには鷹之島弁財天があるが、古く平安時代に祀られたと伝えられ、近隣の漁師や船乗りたちの信仰を集めてきた。
鷹ノ島には、明治42年、農商務省水産講習所館山実習所高の島実験場(農商務省水産講習所・明治30年)に設置。
東京水産大学、現在は商船大と統合し東京海洋大学の実験場が設けられ、海産生物の調査研究が。