syuの日記・気まま旅

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与謝野公園(鉄幹・晶子)開園

2012-04-29 | 諸々日記
与謝野公園(鉄幹・晶子)開園(杉並区南荻窪4丁目3番22号)



与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻が晩年を過ごした家の跡地にある南荻窪中央公園が再整備され、「与謝野公園」と名称が変わり新たに公園が開園した。
これを記念し、公園の開園式が行われました。

園内には与謝野夫妻がこの地で詠んだ歌碑が建立されており、往時の雰囲気を味わっていただけます。足を運んでみてください。

開園式終了後、参加者に鉢花または椿の苗木を差し上げます。の区報に大勢集まった人々。





桃井第二小学校の校歌が演奏されました。 与謝野晶子作詞(昭和11年)

高くそびゆる富士の嶺は 桃井第2の校庭へ
学びの心澄みいれと 朝朝清き気を送る



やは肌のあつき血潮にふれも見で さびしからずや道を説く君  「みだれ髪」明治34年 晶子
などの歌碑が14基建立されています。


下野 安国寺六角堂から

2012-04-27 | 気まま旅
六国史には古代から平安時代中期にかけての歴史が記されている。以下日本書紀より引用。
下野国下では、紀元前50年(崇神天皇48年)- 崇神天皇が豊城入彦命に東国を治めるよう命令する。この豊城入彦命が下毛野君の始祖となった。〔日本書紀〕

676年(天武天皇5年)- 下野国司は以下のように奏上した。「所部の百姓が凶年に遭い、飢えのため子を売ろうとしています。」しかし、朝廷はこれに取り合わなかった。〔日本書紀〕
684年(天武天皇13年) - 下毛野君ほか52氏が朝臣の姓を賜る。〔日本書紀〕
687年(持統天皇元年)- 帰化した14人の新羅人が下毛野国に居し、賦田を受けて扶持とし、安んじて生業させた。〔日本書紀〕
689年(持統天皇3年)- 直広肆の下毛野古麻呂が600人の解放を奏上し、許可される。〔日本書紀〕
698年(文武天皇2年)- 下野国と備前国が赤烏を献上する。〔続日本紀〕、、、、。


「下野安国寺」医王山 真言宗
足利幕府成立期に存続していた日本3戒壇で有名な「下野薬師寺」を指定した寺。
寺は、[下野薬師寺」に隣接しており、「安国寺」の名からして、古寺で最も権勢を誇示できるところであったようだ。現安国寺「下野薬師寺戒壇院跡」に
江戸時代に「六角堂」が建てられ現存している。「六角堂」は建物、柱、礎石が全て六角形をしており、中の厨子に非公開の鑑真和上画像があるという。
堂下の土は日本、中国、インドの三国の土を混ぜ合わせたものといわれている。

  


  


「薬師寺八幡宮」
創建は古く、875年 清和天皇の御勅定により東北守護の大神として京都石清水八幡宮の御神霊を勧請し鎮座。
貞観17年己末歳9月人皇56代清和天皇の御勅定により、京都石清水八幡宮の御神霊を下野仮夷國大内山郷磯之坂上旭日ヶ丘に東北守護の大神として勧請、鎮座した。
 
下野薬師寺が衰退してゆく中で八幡宮もその勢いを弱めていったようだが、佐竹右京大夫公が領主となるに及び、其の援助によって神社の整備が進み、
1662年には本殿が再建され、拝殿・玉垣が修理された。現在の社殿はその時のものであり、県指定有形文化財である。
貴重な建造物であり、現在も災難除け・厄除けの八幡様として、氏子崇敬者の方々の信仰を集め、郷土の祈願所とし大切に保護されている。
(神社伝より)

  

「天狗山雷電神社」
その昔、薬師寺八幡宮境内の鬱蒼とした森の中に雷電神社があった。「いかづちの雷電宮」と呼ばれ大切にお祀りされていた。
ある時うち続く雹や雨の災害に困り果てた農夫が、「いかづちの雷電宮」に 一心に祈りを捧げていると、天狗に姿を変えて顕れた雷神様が「おまえは感心なやつだ。
自分だ けでなく、みんなのためにお祈りをしている。此よりは、この薬師寺地域には雹、雨等の災害を起 こさないようにしよう。」
と言って消えた。それ以来此の薬師寺地域には嵐等のひどい災害も無く、 農作物も順調に獲れ豊かな処に変わったという。
農民たちは、いかづちの雷電宮を天狗山雷電神 社と呼び改め大切にお祭りしたと言う。(下野民話百選より)

    


  

「八坂神社」
1063年、の宇都宮城城主・藤原宗円(宇都宮氏の祖)が本丸を築城の際、鬼門の鎮護として奥州街道の出入口に当たる今泉の地に神明宮を建立したのが始まり。
その後、1910年に宇都宮市博労町の八坂神社を合祀し、社号を現在の『八坂神社』と改称したという。

  

次回は栃木市の続き。

下野薬師寺跡 日光街道

2012-04-25 | 気まま旅
日光・奥州街道最大の宿場宇都宮を後にし、日光街道を上っていった。東北新幹線を挟んでバイバスと旧道4号線に別れ旧道を行く、夕顔の種から作られる、
かんぴょうの雀宮宿、将軍家の日光参拝の休憩の石橋宿と進めた。

日光街道は五街道のひとつで、江戸から日光までの約140kmを結ぶ街道である。幕府の公道としては、日光道中と言った。
日光には、東照大権現と崇められた徳川家康の墓があり、歴代将軍や諸大名の社参の道として整備され、江戸から宇都宮までは東北へ向かう奥州街道と
重複しているため、参勤交代の大名の通行も多かった。

1843年に発行された紀行文によれば室町時代、足利義満が将軍の時代、将軍と将軍が争うことが多くこの地方でも小山と宇都宮の合戦が発生し戦争の中心地であった。
「茂原合戦」ともいわれ、地蔵院とゆうお寺がその戦争で焼かれた多くの人々が亡くなり村人達は戦死者の散乱した刀の鞘を拾い集めてお寺の焼後に埋め
小さなお堂を造り石仏の地蔵様を安置しとある。
明治・大正・昭和の初めには地蔵尊入口両面には桜の並木があり安産地蔵様として親しまれ、お祭には露天商がたち並び手づくりの舞台で演劇や踊りで
大勢の参拝客で賑わいっている。


雀宮宿に入る少し手前の国道右側に石碑が1本立っている。「茂原正観音道」と刻まれている。下野三十三観音霊場の二十番札所へ行く道標でもある。

  

「石橋宿の開運寺」
日光のお成道、休憩寺であった。
第15宿となる石橋宿。宿名は池上明神前に架けられていた石橋に由来するという。今となってはその明神や石橋がどこにあったのかもわからない。
本陣・脇本陣・問屋・名主の宿役人はいずれも伊沢家が務め、現在も伊澤茶舗や伊沢写真館等、伊沢姓の家が多いと聞く。
伊沢家は宇都宮氏一族の多功城主多功氏に仕える家柄だったが、戦国時代末期に宇都宮氏が没落すると石橋の地に土着したという。

1843年当時の記録によると、石橋宿は町並み南北5町28間(約596m)、人口414人、家数79軒、本陣1、脇本陣1、旅籠30軒という宿場規模で、
北条雄之助代官所の支配下にある幕府領であった。石橋は、干瓢の産地である。

      

石橋山の扁額を山門に掲げる開運寺。徳川将軍日光社参の際、休息場として境内に御殿所が設けられたという。境内に見事な松の古木がある。

  

「下野市 愛宕神社」
国道4号線沿いに鎮座。拝殿の手前には石碑があった、境内、社や神輿倉が並んでいる。

  

愛宕神社参拝し、国道352号線を右折する。

  


「史跡 下野薬師寺跡」は、7世紀末、この地方をおさめていた豪族、下毛野朝臣古麻呂によって創建されたと考えられている。
古麻呂は、天武天皇・持統天皇らに仕え、また藤原不比等からの信任も厚く、大宝律令制定の重要なメンバーで、古麻呂の、下野薬師寺の重要度を高め、
709年に、式部卿正四位下という、現在でいえば国務大臣級という高い地位で亡くなっている。
その翌年、710年に、都は藤原京から奈良の平城京へと移り、律令国家の制定とともに、国を仏教の力で治める「鎮護国家」の確立が推し進められ、
都はもちろんのこと、地方でも寺院が整備されていった。下野薬師寺も、下毛野朝臣古麻呂の功労から国によって整備され、東国における仏教施策の一翼を担う、
重要な寺院として位置づけられる。
薬師寺は、9世紀中頃に大火災に見舞われ、伽藍の中心部が焼失してしまい、国家仏教の衰退とともに、天台宗など新興宗派が興り、比叡山などに戒壇を置き、
それぞれが独自に戒を授けるようになった。
廃寺となりかけた下野薬師寺を、鎌倉時代に慈猛上人が復興。14世紀南北朝時代には、足利尊氏が、戦死者を弔うために、全国に安国寺の建立を発願し、
下野薬師寺が、安国寺と改称されたといわれている。
戦国動乱の時代、1570年に下野薬師寺は、小田原北条氏と結城多賀谷氏との戦いの中で焼け落ちたと伝えている。記録も失われた。
 

  

藤原不比等 659-720 鎌足の子 奈良時代、養老律令推進者、持統天皇(女帝)の信頼を受け太政大臣・正一位に。

    

次回は栃木市へ。 

宇都宮宿の今

2012-04-22 | 気まま旅

宇都宮の名物「餃子」、消費量日本一で餃子マップまである。餃子会加盟27店舗、それぞれ味が違いと云う。一皿300円前後で手頃料金。
最近は、カクテルの街としてPR。

「松が峰教会」は、1888年ブジェ神父により聖堂が完成された歴史ある教会                                       

重厚さの中にも美しい建物。町とその美しさがマッチし建物が際立っている。
造られたのは1932年、設計はスイス人の建築家の手によるもの、教会宇都宮特産の大谷石で建てられ、窓のステンドグラスと調和されている。

この宇都宮も空襲で甚大な被害を受け、大谷石でできたこの教会も大きな被害は受けたものの焼失は免れた。
大谷石は耐火性に優れているそうで、その特性が発揮された。

    

スイス人、ヒンデル氏の日本における代表作の一つであり、最後の教会建築作品。聖堂の内外壁に用いられている大谷石は、
旧帝国ホテルに用いられた場所と同じ大谷の採石場から切り出されたものに、石工職人によりさまざまな意匠が施されている。

古代および中世初期の教会建築とロマネスク様式によって建設されており、日本では数少ない双塔を持った教会建築。

    

「旭町の大いちょう」樹高 32m、目通り幹囲 6.2m、推定樹齢 300年以上、市指定天然記念物、「とちぎ名木百選」に選ばれた。
県庁と市役所を結ぶ南北の道路と、国道123号から西に延びる、通称「いちょう通り」の交差点。北西角にこの大イチョウが立っている。
立つ場所が一段高くなっているが、これは宇都宮城三の丸と百間堀の境界を成す土塁の跡。

城のシンボルであったイチョウは、その後、もう一度、宇都宮市民にとって、大きな意味を持つ象徴となったことがあった。
昭和20
年7月12日深夜から翌日の未明にかけてのこと。宇都宮市はアメリカ軍の大空襲を受け、多くの犠牲者を伴って、中心市街地の約半分を失った。
そのときの火災で、大イチョウもすっかり真っ黒焦げになった。
それが、終戦の翌春に、緑の芽を吹き出し、この健気で力強い生命力が、戦禍に打ちひしがれた宇都宮市民の心に、勇気の火を点した。
以来、イチョウは戦後復興のシンボルとされ、市制90周年を機に、1986年、宇都宮市民は市の木としてイチョウを選んだ。

「田川」は、日光市を源流とし、宇都宮市、下野市を流れ、小山市で 田川放水路を経て鬼怒川に合流する。

    

「旧篠原家住宅」国指定重要文化財・市文化財。江戸時代から奥州街道口で、醤油醸造業、肥料商を営んでいた市代表する旧家で、現在の住宅は、明治に建てられた。
戦災で米蔵を残し焼失しているが、明治時代の豪商の姿を今日に伝えている。




黒漆喰や大谷石を用いた外壁、店舗先の格子と街道交差するJR宇都宮駅前で歴史的シンボルになっている。


    

平成8年に市に寄贈されている。主屋は、1・2階合わせ約100坪、箱階段、帳場、大黒柱、床の間など歴史を感じさせる。


    


新蔵二階建てで明治28年に建っている。一階約6坪程度に古びたひな人形が飾られていた。石蔵には、醸造用の道具などを陳列され主屋の鬼瓦を見る事が出来た。

  

この付近に、昔、腕のよい伯楽、馬の病気を治す医師が住んでいたことから伯楽町といい、それが博労町になったといわれている。
また、馬喰町と記された、奥州街道の出口にあたり、質屋・醤油屋・荒物屋などがあった。
JR宇都宮駅前の「白沢街道」に沿ってあり、旧奥州白沢宿で、昔ながらの風格ある蔵造りの家が何軒もあると聞く。



次回から、日光街道4号線を栃木市に向かう。

宇都宮城と二荒山神社

2012-04-20 | 気まま旅
宇都宮市内に入り、さすが栃木県最大の首都、日光奥州街道の交わる町。大型デパート、オフィスの集中した賑やかに繫栄していた。

「二荒山神社」
宇都宮市の中央繁華街馬場通りに鎮座し、緑に囲まれた古社で、毛野国の祖といわれる「豊城入彦命」を産土神として祀る下野国一宮。

 

古くは宇都宮大明神や日光山大明神と呼ばれ尊ばれた。正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社との区別のために鎮座地名を冠して呼ばれる。
両社は祭神が異なり名称の由来も異とされるため、全く別の神社と謂われるが、日光社は下毛野氏の氏寺であり東大寺や観世音寺(筑紫国)と
並ぶ戒壇であった下野薬師寺の修行僧であった勝道上人を開祖とする傍ら、ここは、宇都宮氏が座主となるまで、座主は下毛野氏の姻戚者で
あったと謂われており、両社とも古代関東地方の文化の中心地であった下野国の豪族であり国造である下毛野氏にゆかりの深い神社である。

文化財は、鉄製狛犬・三十八間星兜の2件で、国の重要美術品に認定。

    

明神の井 - 宇都宮は各所に湧水があり、明神の井の湧き水は江戸時代には宇都宮名水「七水」のひとつとして数えられた。
明治天皇の御行幸の折にはこの水を茶の湯としたと伝えられる。

  

宇都宮は、二荒社神社の門前町として発展してきた。一宮の訛りという説、遷座したことから「移しの宮」の転という説、「二荒山の神の現宮」という説、
豊城入彦命が東国の総監として此処に住し国がよく治まったことから「宇津くしき宮」と呼ばれそれが「うつのみや」に転じたという説など諸説ある。
 
オリオン通りは、アーケードのある商店街で、県内で最大の繁華街。オリオン通り西端(東武宇都宮駅前)、オリオン通り東端(バンバ通り側)、
オリオン市民広場、オリオン通りのさらに西に伸びる商店街ユニオン通りや、東側で交わるバンバ通り、オリオン通りの裏手にある商店街・
親水公園釜川プロムナードとJR宇都宮駅を結んでいる。


    

「宇都宮城」
宇都宮丘陵の南、本丸町に残る平城で、江戸に「本多正純」が大改造している。城内の「釣天井」で有名である。
戊辰戦争で焼失されたが土塁の一部が現存し本丸跡を公園としていた。




基を築いたのは、藤原秀郷、藤原宗円とも言われており、平安後期。中世に入り宇都宮氏で、鎌倉時代御家人として活躍している。
小倉百人一首の成立にかかわった「頼網」、元寇に出陣した「貞綱」などがいる。宇都宮氏は500年に渡り城主であったが、豊臣秀吉に滅ぼされ、
家康の側近「本多正純」が城下町として大改造を行った。将軍の日光社参の宿城でもあった。将軍暗殺釣天井説は創作と思われる。

本多正純 1565-1637 宇都宮城主 本多正信の長男、家康側近、二代将軍秀忠グループ策略により改易処分になる。
講談は、三代将軍家光謀殺を計画し、客殿に吊り天井を仕掛け圧殺しようとしたが露顕し、自刃をしたという。
正純は謀反の意志はなく罠に掛けられた二世政治家と云われている。


  


宇都宮城の戦いは、戊辰戦争の戦闘の一つで、1868年、宇都宮藩兵をはじめ野州世直しを鎮圧するために板橋から宇都宮に派兵された東山道総督府軍を
中心とする新政府軍と、下総市川の国府台から次期戦闘地日光廟へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする旧幕府軍の間で起きた戦役。
この戦いの結果、宇都宮城二ノ丸御殿や三ノ丸の藩士邸宅、二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失したという。

    

次回も宇都宮市の続きです。