syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

幸田露伴と向島~台東区三ノ輪

2013-11-30 | syu散歩
「幸田露伴」は、「五重塔」を書いた明治24、5年は、20代前半、独身で、谷中の天王寺・五重塔のよく見える借家に住んでいた。
その後何度も居を変えたが、一番長く住んだのは、ここ向島の蝸牛庵だった。
後に作家となった娘の幸田文は、この家で生まれている。
蝸牛庵の建物は現在、犬山市の明治村に移築保存されているが、同じように移築・保存されている啄木の住んだ「本郷喜之床」、「小泉八雲避暑の家」、「森鴎外・夏目漱石住宅」に比べても格段に構えは大きく立派。
蝸牛庵跡地、露伴の名の付いた児童公園に、文学碑が片隅に建っていた。

幸田露伴 1867-1947 第一回文化勲章受章小説家。東京下谷生まれ、中学半ばにして電信技師に、北海道に渡る。
1889年「風流仏」で文壇に、「五重塔」など男性的理想主義的なロマンチシズムに溢れた特異的な作品を発表している。
尾崎紅葉と文壇を二分する勢力示している。「頼朝」「運命」「芭蕉七部集」、評論で「一国の首都」、随筆「長語」文学博士に。

「運命」
明の始祖・光武帝の長男がなくなったのが運命の始まり。はじめは光武帝も自分の息子のうちで才能豊か燕王を帝位につけようと思っていた。しかし結局は亡くなってしまった長男の子、光武帝にとっては直系の孫である後の建文帝を皇太子に決める。
脆弱な孫のために光武帝は有能な部下たちを次々に粛清までして。しかしそうまでして皇位につけた建文帝は皇帝たる素質にかけていた。
これが運命。
始めから燕王を帝位につけていたら、後に大乱はなく、多くの人が死なずにすんだ。建文帝も、一王として平和に暮らせたかもしれない。
しかし、運命はそれを許さない。

幸田露伴「蝸牛庵」跡地                 今は、露伴児童公園に
    

「向島百花園」隅田川七福神の「福禄寿」

仙台出身の骨董商、佐原鞠塢がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、1805年に開園。
360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年頃より
百花園と呼ばれるようになった。
江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。
園主や文人たちの構想で詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培した。
園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、秋の草花の美しさで知られ、池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名。

向島百花園正面                        入り口に東京市碑が
    

「向島白鬚神社」隅田川七福神の寿老神

と垂仁天皇の25年、「倭姫命」により社殿を創建したのに始まると云う古い神社。
674年、天武天皇の勅旨により比良明神の号を賜っている。
「延喜式神名帳」には記載されていないが、「日本三代実録」の、865年、正月18日条に比良神が従四位下の神階を受けたとの記述がある国史見在社である。

本殿・若宮社・伊勢両宮及び八幡三社は、豊臣秀吉の遺命を受け、豊臣秀頼が片桐且元を奉行に命じ、播磨の大工の手によって造営されたものと云う。

白鬚神社 墨東の先陣を切る夏祭り                寿老神               石鳥居
    

隅田川の東岸・墨東地区最初の夏祭りで、3年に一度、1848年に作られた 神社神輿が巡行する。
戦前は周辺三神社に計13基の神輿があり、最も大きい白鬚神社の神輿が「十三番」の番札をつけたことから、「十三番神輿渡御」とも呼ばれ、
見ごたえあり。

神輿は約80人で担ぎ、交替要員を含めると250~300人の人手が、神輿の指揮をする年番頭、拍子木を叩いて「進め」「停まれ」などを指示し、神輿を担ぐときの掛け声は「セイヤ セイヤ」と小刻みで軽快で、お囃子も軽快なリズムで渡御を盛り立てる。

隅田川七福神                     方災厄除けの神       東向島
    

「台東区三ノ輪(荒川区隣接)江戸時代蓑里と呼ばれていた。大名の下屋敷が多い、今は明治通りが二分させ、昭和通りと交差で万年渋滞地域
都電荒川線の終点地で荒川区南千住に位置している。
岡本綺堂の小説「箕輪の心中」の舞台でもある。

「岡本綺堂」1872-1939 半七捕物帳で知られている小説家。新歌舞伎作家でもある。

「目黄不動の永久寺」
目黄不動は、江戸五色不動の1つとして知られている。
江戸五色不動とは、目白・目赤・目黒・目青・目黄の各不動尊のことで、1624-43年の中頃、 徳川三代将軍家光が寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、江戸府内の名ある不動尊を指定したと伝える。
不動明王は、密教ではその中心仏とされる大日如来が、悪を断じ、衆生を教化するため、外には忿怒の形相、内には大慈悲心を有する民衆救済の具現者として現れたとされている。 また、宇宙のすべての現象は、地・水・火・風・空の五つからなるとする宇宙観があり、これらを色彩で表現したものが五色といわれる。
不動尊信仰は、密教がさかんになった平安時代初期の頃から広まり、不動尊を身体ないしは目の色で描きわけることは、平安時代すでに存在したという。

永久寺                  拝殿               石塔
    

「音無川と日本堤」
音無川は、王子で石神井川からわかれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ、三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、ここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。
明治のおわりまで灌漑用水として使われていた。
音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草7丁目)まで続く土手を「日本堤(吉原土手)」といった。
安藤広重の「名所江戸百景」に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。
浄閑寺前の三叉路の最も南寄りの道路がその名残であると云う。

昔は音無川が                         浅草日本堤へ
    

「浄閑寺」は、山号ー栄法山、浄土宗の寺、本尊ー阿弥陀如来、創建年ー1655年、開山ー源空、正式名ー栄法山清光院浄閑寺(投げ込み寺)

吉原遊廓の誕生(1657年)よりも2年早い。
寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによる。
病気などで死んだ遊女は吉原遊廓の場合、浄閑寺に「~売女」という戒名で文字通り投込まれた」という説もあるが、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが最近の研究で明らかになった。

史跡は、新吉原総霊塔 - 関東大震災や東京大空襲で死んだ遊女も祀られている。 永井荷風文学碑・筆塚等がある。

浄閑寺                                         本堂
  

次回は、芭蕉と千住、素盞雄神社方面へ。

向島三囲神社・長命寺

2013-11-28 | syu散歩

「隅田川七福神」は、「向島百花園」福禄寿・言問橋東詰の「三囲神社」恵比寿、大黒天・長命寺の弁財天・弘福寺の布袋尊
白鬚神社の寿老人・多聞寺の毘沙門天。
隅田の七福神周りは、「吉原通いの時間つぶし」として利用したもいう。

浅草から吾妻橋を登ると北十間川に沿て東武伊勢崎線、隅田公園、牛嶋神社、常泉寺・圓通寺、その間に言問橋、三囲神社、桜橋、に出ると
弘福寺・長命寺・桜餅、言問団子、王貞治が少年野球で練習していた球場、永井荷風の墨東奇談の玉ノ井、向島百花園、白髭橋と進んだ。

「三囲神社」は、鍵番通りにある神社、1596-1615年に移築した神社。
昔、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して、神社を建てる時、土の中から壷が出てきたので中を開けてみると、老翁の神像が入っていた。
その時狐が現れて、像の周りを三度回ったので、三囲神社となっといわれている。
隅田七福神 恵比寿神。



三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。
理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたため。
社域の一角には没後100年を経た三井家当主たちを祀った「顕名霊社」がある。三井グループ各社の総務部によって三囲会が組織されており、年に4回代表が一堂に会し祭典を催している。
閉店した池袋三越前にあったライオン像も寄贈されたもの。

    

祭神ー宇迦之御魂之命、宇迦御魂之命。丹後神社の祭神も、宇迦御魂之命である。
三囲神社の三つ穴灯篭、神社の境内には、隅田川七福神のうち「恵比寿」・「大国神」が祀られ、木嶋神社と同様の石造りの三柱鳥居がある。

三井高利1622-94三井財閥の始祖、越後屋呉服店開業豪商、薄利多売・現銀掛け値なし・正札販売で常識を覆す。
    

境内には、花柳界(三業)の地である向島にふさわしく、江戸時代から現代に至るまでの文人、役者やの句碑や歌碑が数多くあります
「和らかくかたく持ちたし人心」、向島という土地柄か料理関連の包丁塚もあります。 三角鳥居を対には、三本足の柱を持つ屋根ついた手水鉢が置かれていた。

    

「雨乞いの碑」、1693年の夏、「夕立や田をみめぐりの神ならば」の句を詠むとあくる日雨が降ったという逸話。

  

江戸中期、付近に隅田川御殿という徳川将軍の休憩所があり、その北西にかつて隅田川に向かって流れていた内川(古隅田川)が隣接していたため、その対岸となる北西の島部を「将軍の向島」と呼んだことに由来するといわれる。
しかし、隅田川東岸には「牛島」「柳島」「寺島」などといった地が点在しており、西岸地域に住む庶民がこれらを「川向こうの島」という意味で単に「向島」と総称したとも考えられと云う。
「向島」の名前が正式な行政地名としてつかわれるようになったのは1891年(明治24年)に向島小梅町、向島須崎町、向島中ノ郷町、向島請地町、向島押上町などといった町名が成立してから、花柳界、「向島 (花街)」は、現在、芸妓数は100名以上で、伝統文化を守り積極的に活躍していると云う。

    

「弘福寺」は、山号ー牛頭山・宗派ー黄檗宗・本尊ー釈迦如来。札所ー隅田川七福神(布袋尊)

1673年、黄檗宗の僧鉄牛道機の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院。
江戸時代には、鳥取藩池田氏の菩提寺であった。関東大震災で罹災したが、1933年に再建。

    

黄檗宗は、禅宗の中でも中國色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置された。

布袋尊は、唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は盡きることがなかった。その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭したうと有徳として、世人の尊崇を受け、七福神としても敬われた。
                         本堂
 

「淡島寒月」、日本橋馬喰町生まれ、淡島家の家業は、軽焼きの名店淡島屋、裕福であった。
父親の椿岳には160人の愛妾がいたという。
1870年、福澤諭吉を読んで西洋文化に興味を持つようになり、英語を勉強し洋間に住んだ。頭髪に灰汁をかけて染髪までしていた。寒月は西洋文明への憧れのあまり、アメリカに帰化しようと願う。向こうで日本のことを聞かれると思い、日本文化を研究し始め、1880年、湯島聖堂の図書館に通い、草双紙を毎日写本する。このとき山東京伝を読んで西鶴のことを知る。
1887年頃、文学者の露伴や紅葉らと知り合い、西鶴を紹介、このことが明治における西鶴再評価に繋がった。
1893年、前々年から雑誌や新聞への寄稿を止め、向島の梵雲庵で隠居生活に入る。
1923年9月、関東大震災により、梵雲庵全焼。収集物を全て失う。12月、梵雲庵再建。1926年2月、66歳で死去。駒込の染井霊園に葬られた。

    

「長命寺」は、天台宗の寺、山号ー宝寿山、開基創建不詳。

三代将軍徳川家光鷹狩りのおりに腹痛を起こし、長命寺に駆け込み「般若水」で薬を服用し快癒したと云う。

  

長命寺と芭蕉の句碑

「いざさらば 雪見にころぶところまで」、と刻まれたこの「雪見の句碑」は,最も優れた一つといわれている。
松尾芭蕉の門人、祗空は、この地に庵をつくり、その後、祗空の門人「自在庵祗徳」は、庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂とした。
三世自在庵祗徳が、1858年に庵を再興し、句碑建立。

    

「日本のレガッタ」は隅田川から。
日本でのボート競争は、1883年、明治16年に隅田川の枕橋~言間間で開催された。
海軍競漕大会には明治天皇も隅田川べりへ、、東京中か沸きかえったと云う。
当時のスポーツといえば柔道、馬術、相撲などか主なものであり、外国から直輸入された近代的なスポーツとして、物珍しさもありレガッタは大変人気。
特に大学対抗レースは応援合戦も自熟し、あの文豪、夏目漱石も学生の頃レガッタの練習に熟を上げすぎて、進級できなかったというエピソードかある。

    

長命寺の土手側に「野口雨情」の文学碑が。
                   立札「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」。

都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆者、「野口雨情」氏が、昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたもの。
昭和63年、隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、区が記念碑に刻し、永遠に保存。

    

創業江戸末期の老舗「長命寺さくら餅」と「言問団子」が知られている。

    

「大倉 喜八郎」1837年 -1928年は、明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本の実業家、中堅財閥である大倉財閥の設立者。
渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。
従三位男爵。号は鶴彦。90歳没

箱田道中の向島墨堤に、喜八郎の別邸跡がある。現在倉庫跡(案内板のみ)
道を挟んで向かい側が、永井荷風、墨東奇談の鳩ノ巣・玉ノ井になる。

  

「向島子育地蔵尊」
植木屋平作の雇用人某夫婦が堤外の田地にて殺害されし時、地蔵尊この中の児童によりて犯人を御告げありければ、尊崇やむことなく御尊体を当所に安置し朝夕供養し奉りけり。
その後平作の家運に繁盛におもむきしが天保三年四月時の十二代将軍徳川家斎公当地に御鷹狩ありし時、平作の家に御少憩あり庭内に唐楓を御手継ぎあり。「この樹は今堂畔の邸内にあり、大正四年東京府より天然記念物にされた」その折地蔵尊の由来を聞召され御帰城の時参拝遊ばせけり。平作は之を記念せん為始めて御堂を建立せしかば、郷人等も皆競いて敬仰信奉し、毎月四の日には念仏供養をなし、おのが子女をば必ず地蔵尊の御弟子となすこととはなせり。その後、霊験いよいよあらたかにで川に溺れし者を堂前にかつぎ来れば蘇生し出産眼病その他諸病の平癒又は開運を祈れば霊験たちどころに現れければ、遠近伝え聞いて来り拝するもの日に多く。尊前には香華盛塩の絶ゆる間なかりけり。さらば当時俗間に子育地蔵戒いは塩地蔵又は平作地蔵とも称え奉るに至りぬ。
始め御堂は堤の坂の中腹にありしが明治四十四年堤防修築際土盛修繕して縁日を始め、その頃よりこの坂も地蔵坂とは、、、。とある。



次回は、向島幸田露伴旧宅跡方面へ。

吉原神社~鷲神社~牛島神社

2013-11-26 | syu散歩

「千束」は、台東区北部浅草の北隣「明暦の大火」1657年後日本橋から吉原遊郭が移転し、花街として栄えた。
昔は、浅草寺近くから日本堤までの地域であったと云う。今は、残っているのが吉原大門の地名と吉原神社。

「吉原神社」は、新吉原遊郭の四隅に祀られていた四稲荷社と、地主神である玄徳稲荷社を合祀して明治5年に創建、
昭和10年吉原弁財天を合祀したといい、浅草七福神の弁財天となっている。

                        吉原神社
    

江戸時代初期までこの附近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移され、以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった地域。

                       吉原神社弁財天
    

遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。
弁天祠附近の築山に建つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。
昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなったと云う。 

吉原の花魁道中               関東大震災後の吉原          東京大空襲で下町は大火災に
    

「鷲神社」は、吉原神社に隣接千束に鎮座。
祭神は、天日鷲命、元は長国寺で足立区の大鷲神社を勧請したと伝えられている。開運の神として信仰され、お酉さまの名で親しまれている。
「酉の市」幸福と商売繁盛を願い熊手を求めて賑わう。

                     酉の市では大賑わいの「鷲神社」 
    

境内の「樋口一葉玉梓乃碑」 師半井桃水に宛てた未発表の書簡文。
鷲神社。「たけくらべ」の後半はこの社の祭礼を軸 に展開する。
その他にも、俳人其角の句碑 「春をまつことのはじめや酉の市」
正岡子規の句碑 没後100年を偲び 平成12年建立の「雑閙や熊手押あふ酉の市」等があった。

一葉1872-96多くの名作を残した作家「闇桜」処女作、にごりえ・たけくらべ・十三夜など24歳没


「浅草花やしき」

浅草五区の花やしき通りは、1853年に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園。
当時の敷地面積は約80000m2、江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女性らの憩いの場として利用され、ブランコが唯一の遊具だったと云う。

160周年の花やしきと商店街通り                 水上バス乗り場・吾妻橋から見たツリー
    

「隅田川」は、入間川の下流部。1622年-1643年までは下総国と武蔵国の国境であった。
1629年の荒川瀬替えにより荒川の本流となったが、洪水を防ぐ為に明治末期から昭和初期にかけて岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設され、こちらが現在「荒川」と呼ばれている。
1965年に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流は「隅田川」に改称された。
古くは、835年の太政官符に「住田河」として記されており、「宮戸川」などとも呼称されていた、江戸時代に入ると、吾妻橋周辺より下流は大川とも呼ばれ、大川右岸、特に吾妻橋周辺から佃周辺までを大川端と云う。

水上バス乗り場のある方が台東区浅草雷門、吾妻橋を渡ると、アサヒビール本社の墨田区になる。住宅の間からツリーが
    

「墨田区」墨堤(隅田川の堤)本所・向島の2区で海底の起と荒川・利根川の土砂で陸地化、デルタ地帯。
墨堤の桜や向島百花園などで文人墨客の遊覧後で賑わった。
関東大震災1923年で95%・太平洋戦争で90%が焼失された。

勝海舟1823-99江戸無血開城に尽くした幕臣、神戸の地は、早晩繁華の場と進言していた。本所亀沢町で生まれた。
    

「隅田公園」は、江戸時代から「墨堤の桜」として名を馳せてきました。
これは江戸幕府八代将軍、徳川吉宗が民衆にも花見を楽しんでもらいたいと、水戸家の庭園を開放したことから名所として広まった。
その名所に相応しく、桜の季節には隅田川の吾妻橋から桜橋の約1kmに渡って、様々な品種の桜、335本余りが咲き乱れる。

その公園内にある「牛嶋神社」の祭神、須佐之男命・天之穂日命・貞辰親王命。
祭例ー9月15日、860年、慈覚大師の御神託により創建。
五年に一度の大祭では、鳳輦(牛車)を中心とする古式豊かな行列が氏子五十町安泰祈願巡行する。

                 墨田区の公園と牛嶋神社正面(隅田川に沿っている)
    

慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会った際に「わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」とのお告げにより建立されたと伝わるため、牛御前社と呼ばれた。
撫牛とは、自分の悪いところを、治したい所を撫でるという撫で地蔵と同じ様な風習であるが牛嶋神社の撫牛は心にもご利益があると云う。

                 文人たちがここで何を
    

言問橋の東詰、隅田公園内にある。本所の総鎮座、社殿前に「撫牛」がいる。

                      境内の狛犬
    

                          社殿


次回は、三井財閥・三越デパートゆかりの三囲神社方面へ。

矢先稲荷~浅草寺・神社

2013-11-24 | syu散歩

三代将軍家光公が、1642年に浅草に建立した三十三間堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど的の先に当たっていたので「矢先稲荷」と名付けられたといわれている。

拝殿の格天井には、神武天皇の御世からの「日本馬乗史」を描いた100枚の絵が奉納されて、馬にまつわる歴史が理解できると云う。

                        矢先神社

祭神は倉稲魂命で浅草七福神のひとつ、「福禄寿」を祀っている。

福禄寿は、道教で強く希求される3種の願い、幸福(血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものである。
宋の道士・天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、七福神の寿老人と同体、異名の神とされることもある。

    

台東区松が谷「本覚寺」は、日蓮宗、龍嶋山と号し、京都本圀寺末で1591年の起立。
江戸十祖師の一つ日限祖師として知られている。
                            本覚寺山門


天正19年に円了院成身日満が開基、上行院日覚が開山となり創建したと伝えられ、「明暦3年の大火」の後、
馬喰町より当地へ移転しいる。

本堂、祖師堂、福徳稲荷大明神、鬼子母神堂等が
    

昔、「菊水会館」(菊水道場)という生モツ専門店で結婚式場もあったが今は無い、
浄土真宗・本山 東本願寺の裏通りで、周りには小さな居酒屋、お好み焼が並ぶ。

戦後の食糧難時「モツ肉」を求めて菊水に
    

「浄土真宗東本願寺」は、宗祖、親鸞聖人/見真大師・開基、東本願寺 教如上人(第十二世)、本尊 阿弥陀如来。
教典、仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経。

1591年、教如上人は江戸神田に江戸御坊光瑞寺を開創。
江戸における本願寺の録所(教務所・出張所)となる。一説には1603年の開創ともいわれる。

東本願寺裏通り
  

「雷門」、風雷神門といい、左右に風神・雷神安置、潜ると仁王門、歌川広重は、五重塔を右の描いている、太平洋戦争で焼失し左に
仁王門までを仲見世と云っているが、昔は、20軒茶屋で、必ず、看板娘の茶汲み娘がいた。
1765年頃の「蔦屋」の三人美人で中でも「お芳」はもてはやされたという。
錦絵モデルになったのが、谷中「鍵屋」笠森お仙・観音裏の「柳屋」お藤と20軒茶屋のお芳が選ばれていると云う。

「吾妻鏡」にも寺の名が出てくる。源頼朝・足利尊氏帰依している。(坂東33観音札所の13番寺)

上野寛永寺開祖「天海僧正」進言で、徳川家の祈願所にもなっている。
本堂右手に「三社権現・浅草神社」三社様がある。氏子18か町から山車・神輿三基が出される。神輿は船で駒形で陸に上げまた本堂まで戻るコースになっている。
参拝客は、神社裏から馬車通り、待乳山聖天、山谷堀通り、吉原大門、のコースで賑わったという。

                  浅草寺に参拝し、隣の浅草神社へ
    

新門辰五郎と徳川慶喜、最後の将軍の関係、

「徳川慶喜」1837-1913 徳川幕府最後の将軍 15代将軍 水戸藩主徳川斉昭の七男、一橋家相続、幕政改革促進した。大政奉還。
謹慎後公爵・貴族院議員、長い晩年を送っている。

浅草神社                末社浅間神社
    

「新門辰五郎」1800-1875 徳川慶喜を助けた江戸町火消で侠客、下谷山崎町生まれ、江戸町火消「を」組頭取、娘が慶喜の妾となり
慶喜の配下として働く、文久3年上洛には、200人随行している。
慶喜は、「鳥羽・伏見の戦い」で敗れ大阪城に「家康の金扇の馬印」を置き忘れ、辰五郎は、江戸まで届けている。
慶喜謹慎時、御用金2万両を護送している、明治8年自宅で没した。

浅草神社内「被官稲荷神社」は、 安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、山城・伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快。
同二年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請し、小社を創建「被官稲荷神社」と名付けられ、現在浅草神社の末社としてその境内に祀られている。
名称の由来は不明ですが、被官とは官を被る、ということで、就職・出世の神社。
被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されもの。

               新門辰五郎、被官稲荷神社
    

次回は、新吉原・向島牛嶋神社方面へ。

湯島天神~下谷神社

2013-11-23 | syu散歩

「清水坂」
明治時代、神田明神下のこの坂一帯は清水精機会社の所有地で、大正時代に入って清水精機社は土地を町に提供し、坂道を整備した。
このため「清水坂」と名付けられた。
その昔、神田明神下は海の波が削って出来た海食崖であった。そしてこの辺りは神様にささげる米をつくる田んぼだったという。
緩斜面のため水がうまく調整出来地形。

昔、名僧「大超和尚」の開いた広大な霊山寺があった。


「妻恋神社」
日本武尊は、走水の海(浦賀水道)を渡るときに海神を侮って起こらせたため、暴風雨に見舞われた。
妃の弟橘媛が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救ったと云う。
その後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在した際に、郷民は尊の妃を慕われる心をあわれんで尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝えられている。
稲荷明神(倉稲魂命)が合祀され妻恋稲荷と称するようになり、江戸時代には関東惣社と名乗り、王子稲荷神社と並んで参詣人が多かったと云う。 また、正月2日の晩に枕の下に敷いて寝るとよい夢をみるという縁起物の木版刷りの「福寿鶴亀」と「七福神の乗合宝船」の二枚の夢枕が
1658~61年頃に売り出されたと云う。
妻恋坂は、坂の北側に「妻恋神社」が旧湯島天神町から移ってきてからと云う。

文京区は、坂の町である。
    

「湯島天神」

雄略天皇の勅命により天之手力雄命を祀る神社として創建されたと伝えられている。
南北朝時代の1355年、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。

徳川家康が江戸城に入ってから徳川家の崇敬を受けた。
江戸時代には多くの学者・文人が訪れ崇敬を集める一方、享保期には富籤の興行が盛ん(江戸の三富の1つ)になり庶民に親しまれた。

新派「婦系図」の舞台、湯島天神
    

泉鏡花小説「婦系図」・映画「湯島の白梅」から。
・・・・夜店ですりが捕まり、お蔦の帯の間にその紙入れがはさまれていたことから彼女も仲間として大きく新聞に書かれ酒井の耳にも入るところとなった。
それと知らない主税はお蔦との結婚の許しを得ようと酒井に会ったが反って女と別れるように言渡され、義理と愛情の間に立った主税はお蔦を湯島の境内に連れ出し別れて呉れと頼むのだった。
その言葉に驚ろいたお蔦もそれが酒井の厳命とあっては返す言葉もなかった。
主税は仕事の為静岡へ行き一人残されたお蔦も日夜主税を想うあまり病の床に伏す様になった。
二人の仲を裂いた酒井はかつて芸者との間に子までなしながら学問のため女を捨てた身でありお蔦の心情を察し断腸の思いだった。
重態になったお蔦の病床を見舞った酒井は“お蔦、早瀬が来た。
ここにいる”とはげまし微笑しながら息を引きとって行く彼女を見守るのだった。
主税がかけつけたときはすでにおそくお蔦はこの世の人ではなかった。

境内に手水舎                 拝殿                新派の碑が
    

台東区の天王寺・目黒不動と、ここ湯島天神は、江戸三富(富くじ)の一つであった。
境内には、泉鏡花の筆塚・江戸時代の知らせの奇縁氷人石がある。

新橋演舞場の新派の碑(明治21年) 講談高座発祥の地の碑      上野公園方面に
    

「上野広小路」は、上野3・4丁目交差点、中央に春日通りで角に松坂屋、商店街にでる。江戸時代の明暦の大火(1657)後、火除けのため
広げ、名も広小路と呼ばれた。
その手前が「上野恩賜公園・不忍池」で、池の中央に不忍弁天堂、京成上野駅、西郷隆盛像、上野の森美術館、文化会館、、と続く。



不忍池の大きい蓮の花が、奥が弁天堂


東京湾の名残といわれる不忍池と蓮・上野動物園水族館と隣接
    

公園入口通り          西郷像は階段上                 JR上野駅構内
    

JR上野駅正面(昭和通りから)                                    下谷神社の大鳥居
  

「下谷神社」は、上野公園に鎮座していた。
730年、峡田の稲置らが建立したとも、行基が伏見稲荷大社を勧請したとも伝えられる。939年、平将門による天慶の乱追討祈願のため、
藤原秀郷が社殿を新造したという。
寛永年間、境内が寛永寺山内となるにあたり、1627年、別当正法院と共に下谷屏風坂下に移転したが、126坪余と手狭だったため、1680年、
下谷広徳寺前にあった谷中天眼寺先住少林庵抱地525坪余と土地を交換したと云う。

下谷神社石鳥居


浅草通り沿いに建っている。大年神と日本武尊を祭っている。
古くは下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と呼ばれていた。
名を残す旧町名の稲荷町は、この神社があったことからついた町名。
例大祭で近隣町内を渡御する本社神輿は台輪幅4尺1寸の千貫神輿といわれ、鳥越神社と共に大きな威容を誇る。

時代を感じる楼門


社殿の天井画は横山大観の作。また、1798年に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれた。このため、本神社には「寄席発祥の地」の石碑がある。
                            
                           拝殿


「永見寺」は、曹洞宗、山号 桃雲山と号し、江戸駒込吉祥寺末。



境内拝領地600坪で、八丁堀地所拝領仕の寺。
開山吉祥寺5世用山元照大和尚、慶長3年、開基桃雲氷見和尚とある。

本堂                     境内の石塔
    

次回は、台東区入谷松が谷~浅草へ。