syuの日記・気まま旅

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新庄 芭蕉と最上川

2013-12-30 | 気まま旅

東北南西部の山形県に、奥羽山脈を境に宮城県と接し、丁岳山地・神室山地を隔て秋田県に、南は吾妻連峰と飯豊山地を挟んで福島県、南西は
新潟県、北西が日本海に海と山に囲まれた山形。
その、北部、最上地方中央部で、地名も新・城に由来していると云う。
羽州街道の宿場と城下町で栄え、1614年最上氏家臣の「日野将監」が新城・居館を構えた。
最上氏改易後は、戸沢氏が城下町を整備している。最上地方の政治・経済・文化の中心となっている。最上川右岸の本合海は最も近い河港。
明治に入り、庄内磐根新道の改修・整備され、奥羽本線1903年開通などで交通の要地となった。
最上川左岸丘陵地に新庄温泉が湧出している。

夏の「新庄祭り」山車40万人に人出で活気あふれる約250年の伝統を


「新庄祭り」8月下旬頃、山車パレード、人気歌舞伎や歴史上の人物などを飾り付け約20台の山車が市内を練り歩く。

東日本JR新庄駅は、奥羽本線に、新庄―鶴岡・酒田の陸羽西線、終点とする陸羽東線を加えた3路線である。
奥羽本線上を走るミニ新幹線である山形新幹線の終着駅となっている。
新幹線の始終着駅としては全国で唯一、非都府県庁所在地に位置し、新幹線車両が走行できるようにするため、奥羽本線の福島駅 - 当駅間は新幹線と同じ軌間1,435mmの標準軌に改軌され、このため、1,067mmの狭軌のままとなっている奥羽本線秋田駅方面、および他路線との直通運転は不可能となっていると云う。
標準軌化された奥羽本線山形駅方面には、在来線としての愛称として「山形線」が設定。

山形新幹線直通、東日本JR 新庄駅

                          
「新庄節」ハアー来タサ 花が咲いたと 都の便り キタサ こちら雪だと 返す文 キタサ、、、、、。

西田忠次郎ーふるだけの 雪を降らせて 軽がるし 新庄盆地の 空の薄曇り

                     斉藤茂吉ー新庄に汽車とまるまも なつかしき 此国びとの おほどかのこゑ

錦子ー新庄の平野 うつくしあふぎみる 大空の色も 人の心も

冨樫義博氏の新庄市イメージキャラクター神空の天狗「かむてん」


俳人・松尾芭蕉は、山寺(立石寺)から大石田を通って新庄に立ち寄り、本合海の河港から、舟で庄内へと向かった。
最上川の急流に驚いて、大石田でしたためた
            「五月雨を集めて涼し最上川」の句を「集めてはやし」に書き換えたと言われている。

市内には、芭蕉が句会を催し、「水の奥氷室尋ぬる柳哉」の句を詠んだ「柳の清水跡」

本合海地区に、芭蕉に魅せられて訪れている。

「こぶとり爺さま通り」が あった。由来を聞くと、昔その辺に語り部が多くいたとのこと。

芭蕉乗船の地、最上川本合海水辺は、国道47号線を酒田方面に
    

新庄地方は、一万年前の人々は住んでおり、東山遺跡・南野遺跡出土遺物で解って居る。人々は平野中央に村をつくっている。
奈良、平安、本合海付近に大きな集落が、鎌倉・室町には、各地に有力土豪が現れとぃる、鳥越・萩野片平・角沢・海藤楯 はこの時代のものであろう。戦国時代末期に、山形最上義光の支配下に入る。
日野右京武将が、後の沼田城付近に城をかまえている。
新庄を支配したのは1614年、清水氏が滅び、日野将監が沼田城居城としてからである。新城(庄)大いに発展している。
1622年最上家改易後戸沢政盛(6万石から6.82石)で、城完成以来243年間藩政の中心であり、明治まで続いていく。

かむてん公園・最上公園・新庄城跡
    

明治戊辰戦争では、幕府側の庄内勢に攻められ、新庄の街は灰尽に帰している。

新政府軍、新庄兵は仁間村付近を援軍を送り、佐賀藩、長州藩の半分も援軍に向かうが、薩摩藩と残りの長州藩は城下に引き上げる。
2時間の激戦の後、新政府軍は敗走を初め、庄内藩軍は城下に一気に攻め込んだ。
庄内軍が新庄城下に入ると、西軍はほとんどいなかったので、城下3000戸を焼討ち、新庄城下は折からの烈風を受けて大半が消失した。

藩主戸沢正実は篭城討死を考えたが、川部伊織の説得を受けて、開城亡命に同意した、藩主一族は新庄兵と共に秋田に逃亡していた。
二番大隊の酒井吉之丞が采配ととって新庄城に攻め入ると、大手門は硬く閉ざされて、「開城」と書いた紙が張ってあったと云う。

「新庄の戦い」は、午後5時に戦いは終了して、庄内藩は福田・仁間村に野営した。
新庄は9月の新政府軍の奪還まで、庄内軍の管理下に置かれ、酒井吉之丞は、降伏人の生命を保証して、年貢半減などを打ち出して、領内の安全は保たれたという。



「日野将監」は、出羽国最上地方の豪族。
日野宣加と称したが、実名か出家号かは不詳。1581年、出羽国山形城主の「最上義光」が尾花沢で馬揃え(観兵式)を行って近隣に
武威を示したとき、これに参じていると云う。
天童氏の滅亡後に最上氏に臣従した。仙北の小野寺氏、庄内の武藤氏(大宝寺氏)、村山の最上氏らの狭間にあって絶えず周囲の脅威に晒されており、1590年の太閤検地のときに最上氏と和解したいる。
最上氏が仙北に進出するときなど先鋒となって戦功を挙げ、新庄城主となり、最上氏蔵入3万石の代官に。
1614年、最上家親の命により清水義親を討ち、その遺領の管理。

堀                                          土塁
    

「戸沢政盛」は、1585年、盛安の長男。生母は、盛安が鷹狩に出た際に見初めた小古女沢の百姓・源左衛門の娘と云う。
身分の低い母を持つ庶子で、家督を継ぐ資格がなく、この女性は、後に東光坊という山伏に嫁いだため、政盛は百姓の子として育った。
父・盛安が、1590年に死去、、その跡を継いだ叔父の戸沢光盛も、1592年に死去、光盛には継嗣がなかったため、戸沢家は断絶の危機に見舞われ、家臣団は、東光坊を斬って盛安の遺児・政盛を奪い取り、大坂に上坂させて豊臣秀吉に謁見させ、家督を相続させたと云う。
1600年の「関ヶ原の戦い」では、東軍に与して上杉景勝の東禅寺城を攻略し、その功により、1602年、常陸多賀郡、茨城郡などに4万石を与えられ、松岡藩主となる。
1614年の「大坂冬の陣」では小田原城、1615年の「大坂夏の陣」では江戸城に詰めて守衛を果たし、徳川家に。
1622年、出羽山形藩の最上家が幕府の命により改易されると、最上家の旧領である最上郡と村山郡に2万石を加増されて新庄に移封された。
新庄藩6万石の藩主となり、故郷出羽国への復帰を果たした。その後は藩政確立に尽力した。1648年に死去、享年64歳。跡を子の正誠が継いだ。

城跡中央に「心字池」                   あじさい園が
    

「護国神社」は、戊辰戦争以来の戦死者を祀っている。
神社は、明治2年、新庄藩主正実が、前年の戊辰戦争の戦死者56名を祀る神社として、太田の瑞雲院境内に建てたのが始まりと云う。
その後、明治16年、遺族などの希望によって吉川町に移され、明治24年、公園の現在地に移されている。

新庄社護国神社
    

「天満神社」(県指定建造物)は、 新庄城址本丸跡の南西隅にある神社、
戸沢家の氏神として、旧領秋田県角館時代から尊崇された神社と云う。
棟札に新庄築城の3年後にあたる1628年に初代藩主政盛が建立し、別の棟札に、1668年に二代藩主正誠が再興したと記されている。

表御門跡、石垣                    平城であったであろう
    

「戸沢神社」は、明治26年創建27年に完成。
 祭神は、戸沢家始祖衡盛と藩祖政盛、十一代正実を祀っている。
 衡盛は、「保元の乱」に敗れて斬られた平忠正の子平九郎通正の忘れ遺子で、木曾義仲に従い、源頼朝に仕え、やがて岩手県雫石に落ち着き、姓は地名をとって「戸沢」と称したといわれている。
藩祖政盛は、秋田県角館の城主戸沢盛安の子で、長じて徳川家康に従い、数々の功を認められて茨城県松岡四万石に封じられ、鳥居忠政の妹を嫁にとり、幕府の信頼を一層深めたと云う。新庄藩主戸沢家菩提寺は「瑞雲寺11代が・二代目正誠のみ柱嶽寺)

公園外に、                 二の丸跡                  大手門跡
    

新庄市内には、指首野川と升形川の間の街で、新庄駅裏手に国道13号線(福島ー秋田)が表中央通り突き当りに「最上公園」に出る。
47号線で酒田・古川方面で街を横切るように中の川流れ、最上川に流入している。

「本合海」
日本国が編纂した六つの国史(古事記、日本書紀、続日本紀・・・・)のひとつである「三代実録」に、「本合海」の土地が登場しており、
正統な史実からも判明できようである。
874年に、当時の政府朝廷は矢向神に従五位下の官位を授けた。矢向神の御祭神は「日本武尊」であり、出羽の国においてのこの神様鎮座は
「本合海」の地が最初だと考えられる。
今から一千二百~三百年前には、祖先である「合河乃津」の人々は大いに活躍し、 中央との交流が活発だったのであろう。
遠い遠い昔から各地を結ぶ出入り口の役目を果たしていたにようだ。
 
松尾芭蕉ー五月雨を 集めて早し 最上川

正岡子規歌碑ー草枕 夢路かさねて最上川 ゆくへもしらず 秋立ちにけり 1893年に松尾芭蕉の足跡を訪ねる旅に出て本合海にて、
                                  積雲寺に歌碑を建立。  
時間の関係で寄れていません。

新庄市内市役所、歴史センター 市民会館 時の鐘 寺院 商店街   中の川などが
    

「善正寺」真宗大谷派の寺

新庄藩4名墓あり。
源七・・・兵夫。明治元年新庄角沢村で戦死35歳。田口泰助・・・銃士。新庄城外指井村で戦死21歳。津田求馬・・・使役。新庄城外で戦死39歳。
林 順太郎・・・銃士。新庄城外で戦死25歳など。

市内の善正寺
    

「ふるさと歴史センター」

祭りの山車が、いろいろ祭りの紹介、ホール、特産品、2階には文化遺産・民俗資料・地元の生活民具類が展示されいる。

センター                       館内
    

義経・弁慶の亀割峠は、東方面へ。

新庄市と最上町の境、亀割山を越える亀割 峠は、源義経の東下りの故地である。
この峠を越える途中で、義経の奥方、北の方が急 に産気づき、男の子を出産した。武蔵坊弁慶は、赤ん坊の産湯を探して小国川へ、、、、。

次回は、山形市内に。

横手城とかまくら

2013-12-29 | 気まま旅

「横手市」、県南東部で横手盆地の中央に位置している。市名は中世以来で、中世期「小野寺氏」の城下町として栄えた。近世に佐竹氏の城下町で羽州街道の宿場町として発展している。
横手盆地の肥沃な土壌で米づくりが行われ、東部方面の丘陵地帯に果樹園に、横手川に沿って市街地に、「鳥海山」を望む景観は、素晴らしい。上内町には、黒板塀や生け垣に囲まれた武家屋敷街が残っている。
幸町には、横手市ゆかりの作家「石坂洋次郎記念館」がある。
横手と云えば「かまくら」2月中旬伝統行事の祭りが催される。

市内かまくら館で、体験できる


どんどん変わる東北。
「東日本JR横手駅」は、平成9年 -秋田新幹線開業、「秋田リレー」運行終了。 秋田新幹線開業に伴い「あけぼの」の経由線区が変更。
当駅から首都圏に直通する定期優等列車が無くなる。
平成11年 山形新幹線が新庄駅まで延伸されたことにより特急「こまくさ」は快速列車に格下げ、定期特急・急行列車が消滅。
平成17年 - 開業100周年。平成18年 - JR貨物横手オフレールステーション開設。平成23年- 橋上駅舎使用開始している。
発車メロディが地元ゆかりの作家石坂洋次郎原作で知られる映画「青い山脈」の主題曲に。

夕方の横手駅
  

「九品寺」は、聖武天皇の在位していた頃に行基によって開かれ、その後しばらく荒れ寺になっていたところを空海によって再興されたと伝えられている。

その後、南北朝時代にこの地を支配していた豪族、楢原氏が南朝方について北朝側と戦ったとき、地元の人たちによって、味方の身代わりとして多くの石仏が奉納され、そのことからそこにある石仏は「身代わり石仏」とも呼ばれていると云う。
その数は1600体とも1700体といわれていますが、現在も出土しておりその数は定かではないと云う。
空海が再興した頃は真言宗の寺でしたが、その後戦国時代末期になってから浄土宗に改宗している。
本尊は平安時代に作られた阿弥陀如来像が祀られている。

市内の九品寺
    

「横手川」長さ43.7km、雄物川に合流
市山内三又を水源とし、南郷・筏・平野沢地区を秋田県道40号横手東成瀬線にほぼ並行する形で下り、相野々地区で黒沢川と合流し、以降は国道107号やJR北上線に沿って土渕・大沢地区を流れる。
さらに横手市の中心市街地から横手盆地内を下る。なお、横手川は、県道267号金沢吉田柳田線付近より下流では横手市と美郷町との境界線、さらに下流では大仙市と美郷町との境界線となっている。大仙市角間川・藤木地区付近で雄物川に合流する。

横手川大橋
  

市街地とその周辺では横手川が大きく蛇行し、川幅が狭いうえに十分な治水対策が取られていなかった。
そのため1965年(昭和40年)をはじめ、再三にわたり洪水の被害に見舞われている。
このため県では広域河川改修事業を行い、黒沢川支流の松川には、洪水防止などの目的から大松川ダムが造られ、平成11年に完成。

横手川の蛇行、観音寺鐘楼と横手公園と城が


戊辰戦争 鳥羽・伏見 - 阿波沖 - 甲州勝沼 - 宇都宮城 - 今市 - 市川・船橋 - 五井 - 上野 - 北越戦争 - 八丁沖 - 寺泊沖 - 会津戦争 -
     白河口 - 磐城 - 二本松 - 母成峠 - 旗巻峠 - 秋田戦争 -横手城の戦い1868年砲火で炎上し落城する。箱館戦争 - 箱館湾

庄内藩一番大隊は、横手兵21体の戦死者を集めて、「龍昌院」に葬った。
付近の寺から、僧侶14名を集めて、黄金を与えて盛大に読経回向を行ったと云う。

川を渡ると龍昌寺入口
    

「龍昌院」は、横手市の中心部から羽州街道沿いに北上した城西町にある。
開基は佐竹一族である戸村氏で、佐竹氏が関ヶ原の合戦で東西の中立を図った為、秋田へ移封となり、それに従って秋田へ。
横手城代は須田美濃守盛秀でしたが、後、1686年に戸村氏が城代となり龍昌院も横手へ移っている。
  
本堂                                 古い石仏が
  

その後何度か火災になり、その度再建してきましたが、戊辰戦争の際、兵火で堂宇を焼かれ、現在の本堂は明治44年に再建されたもの。
平成6年に戸村氏の御霊屋が再建され内部に戸村義国の位牌と木像が安置され、肖像画や古地図などが寺宝として保管されている。
境内は山門などはありませんが杉の木立が鬱蒼と繁りなかなか雰囲気があり、戊辰戦争の戦没者墓や石碑などが数多くある。
 
境内に横手城二の丸跡                十三仏碑                 石仏
    

横手公園入口あたりにある「戊申の役」の墓地が、

立札には、1868年戊申の役・死者の墓。戸村組下13名同家人・6名とある。

公園入口
    

「横手公園」駅より北東約1.5km朝倉山に位置する。
中世、小野寺氏により築城され、近世は、佐竹氏の重臣が城代を務めた。
戊辰戦争の際は、戦場となり、庄内軍により落城している。

敷地面積は24万平方メートルあり、秋田県内最大級の公園である。


横手城からの展望台( 横手公園のシンボルとなっている模擬天守)、内部は郷土資料館と展望。 秋田神社は、 秋田藩祖佐竹義宣を祀る神社戊辰戦争で戦死した22人の霊を慰めるために1879年(明治12年)秋田市の千秋公園にある八幡秋田神社を分社して建立されたと云う。
旧横手城の資材を再利用して建てられており、柱に戊辰戦争の際の弾痕が残っている。
境内に妹尾兼忠の石碑がある。 本多上野介正純墓碑、 宇都宮城釣天井事件を受けて横手へ配流、当地で死去した本多正純の墓碑。

公園内                        城展望台                    展示品
    

横手城は、その昔朝倉城といい、1554年頃、小野寺輝道によって築かれた。
城の普請は、石畳を用いないで土居削崖とし土くずれを防ぐ土止めと、敵が這い登ることができないように韮(にら)を植えた築城だったので韮城の名がある。
城主小野寺義道は関ヶ原の合戦後、徳川氏に石田方とみられ、1601年、所領没収、石見国へ流されている。
翌年、水戸から秋田へ左遷された佐竹義宣は、久保田城を本城として築き、朝倉城を支城として築城替えをし城代(伊達氏)をおき、朝倉城下に家臣を配置するために屋敷町を割り、町内をつくり攻守に備え、横手川を外濠としている。

                      近世の横手町地図
  

公園内には、牛沼、熊ノ堂沼、明水沼、運動場、スキー場、石坂洋次郎文学館、滝ノ沢霊場33観音などがある広い。
  

「本多上野介正純墓碑」がある。徳川幕府創業の権臣だった本多上野介正純、出羽守正勝父子は、秀忠暗殺の企てがあると陥れられ佐竹氏へ御預りになり、佐竹氏は父子を横手城代須田美濃守盛秀に預け、上野介父子は横手城三の丸の居館で悲嘆の生活を送る。
正勝は、1630年 37歳で、正純は、1637年 73歳で病没。居館の近くの山裾に一基の墓碑が建っている。

本多正純 1565-1637  宇都宮藩主、本多正信の長男、父と共に家康の側近、老中として権威を誇った。策略で改易処分。
(家光謀刹客殿釣り天井説)

時間の関係で、碑を探す事が出来なかった。

菊まつり10月・ぼんてん2月・桜祭り4月・送り盆祭り8月、、。祭りが多い。
  

横手城展望台から市内を


秋田県の酒、秋田酒類「高清水」。秋田清酒「出羽鶴」。秋田銘醸「爛漫」。新政酒造「新政」。小玉醸造「太平山」北鹿「北鹿」
      等で、蔵元数50・銘柄数115種。参考に山形蔵元57・マイ柄115種(平成10年頃)。

次回は、山形県新庄へ。

六郷  湧水と「春霞」

2013-12-27 | 気まま旅

秋田県仙北郡六郷町は、県南東部、横手盆地東部にいちしている。アイヌ語のルココツイ(清い水溜まる場所)による説、鎌倉時代にこの地に入った「二階堂氏」が関東の六郷の地名を移したとも云う説、又、六つの郷の集合説がある。
羽州街道の宿場町として栄え、西部の扇状地に集落や水田が立地している。
特にここは、湧水が豊富で、清水の町として知られている。
町の所々に湧いており町の生活やお酒の醸造仕込み水に利用されている。
また、寺町とも云われ各宗派の寺院が集中している。お祭りに「六郷のカマクラ」行事が有名で、竹打ちは、若者が南北に別れて青竹
を打ち合う勇壮なお祭りである(重要無形民俗文化財)

六郷湧水清水


竹打ちは、2月15日の夜で、その勝敗で1年の豊凶を占うと云う。
の町がはっきり歴史に残っているのは、1190年~建久年間。
熊野神社にある記録によれば、平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝の命を受けた二階堂氏がこの地を領して住みつき、二階堂氏の孫が関東の地名〈六郷〉をここに移して、代々六郷兵庫頭を名のったという。
およそ四百年続いた六郷家の政策により、板碑が語る諸社寺が建設され、末期は六郷城を西にして城下町が形成された。
1602年、佐竹氏の入部とともに六郷は近世、江戸時代に入る。
この時期に、六郷は二十六カ寺を擁する宗教都市として発達し、そのうえ、羽州街道(今の国道13号)の宿駅として、定期市を持つ仙北の中心地として栄えた。各地より富農の移住があったのもこのころと云う。

中世仏教の遺産である板碑が、二十三基と県内一多く現存しているほか、由緒のある寺院もあり、当時をしのばせ、文化財も数多く六郷である。

馬洗い清水・鷹匠清水・御台所清水・神清水・諏訪清水、、、、、、遊歩百選に認定されている


「秋田諏訪宮」は、祭神ー建御名方富命、八坂刀女命。県社、創建ー伝802年(延暦21年)、

秋田諏訪宮の石鳥居


社伝
802年 伝坂上田村麻呂創建と云われている。 1087年 - 後三年の役に参戦した信濃國諏訪大祝為仲が在陣中に当宮で祭祀を行うと伝わる。
凱旋に際して殿内に大祝像を祀り、また一男子を残して祀職となし、以後代々「諏訪(諏方)祝子」を称して宮司家となったと伝わる。
1192年 - 社殿の改築の記録が残る。 1385年頃 - 二階堂道晴が近隣数十村の総鎮守とする。
相模國鎌倉の諏訪家から諏訪宗治が下向して11代祝子(宮司)となったと伝わる。 1604年 - 佐竹義重により社殿等の造営(棟札現存)。
1723年 - 現本殿を造営。 1810年 - 横手城代戸村義通筆の「諏訪宮」の額を掲げられている。、、、。

羽州街道へ、上町


秋田諏訪宮は、802年、信濃國の諏訪大神を奉じて征夷中の征夷大将軍坂上田村麻呂により「拂田柵」の真南に柵と同時期に創建された、と伝えられ、秋田県内の多くの神社が田村麻呂将軍による創建を伝えている。
田村麻呂自身は秋田県内に足を踏み入れていない、というのが定説となって、陸奥・出羽両國間で経営の拠点となる城柵造営政策を同時に実施したもので、陸奥國では将軍田村麻呂が胆沢城と志波城を、これと並行して出羽國では副将軍文室綿麻呂が「拂田柵」を造営したと考えられいる。
後世には陸奥・出羽両國の全ての事績が偉大なる田村麻呂将軍のものと伝わったと思われ、 諏訪宮は拂田柵の真南に位置。
 
静かな街並み、清水とお寺の町


「六郷湧水群」
美郷町の六郷地区に点在する60カ所以上の湧水。
年間を通して水温12~15度の水が湧き、清水の里として知られる六郷。
湧水のなかにはユニークな名前のスポットも多い。
かつて鷹狩りに訪れた佐竹の殿様が、料理水に使ったことから名付けられた「御台所清水」や、近くに久米という家があり、自家の水屋のように使っていたことからその名が付いた「久米清水」などがある。

清水の脇に、干し柿が自然


六郷町字宝門清水に、この町でただ一つの臨済の寺「太桂寺」がある。
臨済宗の寺は県南地方においてはここ一カ寺だけで、県内にもわずか十九寺を数えるのみである。

新州祖霊和尚の開山。1596~1614年、高輪東禅寺から臨済宗の寺を建てるために、新州和尚がたくはつをしながら六郷まで来られ、
西鳥羽庄右衛門という人の門前でお経をあげたことから始まり、と寺に伝わる。

六郷氏・佐竹氏は、積極的に寺を招致した、台蓮寺・照楽寺・善応寺、、、、、、。


佐竹義重公(義宜の父)が、1602年、六郷城へ入城し、1612年この城で没すまでの十一年間は、六郷氏の政策を受けついで、今の六郷町の基本型を確定した時代であるといわれている。
各地から富農の移住がみられ、義重公が入城した翌1603年からその後にかけて、紀州、京、越前など上方から七氏が移住している。

庄右衛門は京都西鳥羽の出身。仙北米を江戸や京都まで売る当時の貿易商で、蔵を十二持ち、また、他人の地所を踏まずに角館まで行けるだけの土地を持つ大長者であったという

国道13号線・角舘六郷県道11号線に沿って神社仏閣、


「熊野神社」 祭神ー 伊邪那岐命、邪那美命、事解男命、速玉男命。
末社ー 金比羅神社、山王稲荷社(修行院)、八色神社(雷神社)、三吉神社。

かけ唄奉納祭(8月23日)。 文治3年武蔵坊弁慶が再建し、建久3年鎌倉右大将源頼朝が宣家を使士としてこの六郷につかわし、
義経と弁慶慰霊の為社内に三十二神を配祀したとある。

熊野神社、


神社は、807年、坂上田村麻呂が創建したと云われ、奥羽28社の一つ。
中世は二階堂氏、江戸時代は久保田藩12社に数えられ佐竹公からも代々崇敬され、社殿の修復などしている。
現在の社殿は、明治19年に火事で消失した後。
参道は旧羽州街道沿いにあり、大き目の鳥居がある。
境内はかなり広く境内社や石碑など多く信仰の厚かったことを示している。

熊谷松陰の塾跡


かけ唄は、正調「仙北荷方節」の節回しによって二人の歌い手が即興の歌詞のやり取りをするものです。
決まった歌詞はない、三味線などの伴奏もない、相手が歌っている僅か数十秒の間にその歌詞に応え、しかもそれに負けないような即興詩を考え出して歌い競う、歌詞は七七七五調です。

おらえの~ わらし~♪
3人いるど~♪
みんな~素直で♪
めんこいよ~♪

おらえも~同じ~♪
3人いるど~♪
おめえさ~負げねぇ♪
ええわらし~♪                こんな感じで、かけあいながら勝敗を競う。

「熊谷松陰家塾交文舎跡」の標柱が立っている。熊谷家は代々学者 の家でこの地で私塾を開いていたという。


「六郷宿」
羽州街道とは江戸時代の街道で、奥州街道と並ぶ東北の二大街道のひとつ。
福島県 桑折町で奥州街道より分岐し、 その「どまん中」の宿場が六郷宿・美郷町になると云う。
観光協会が、標柱を建立。



「清酒 春霞 酒造元 名)栗林酒造店」
明治7年(1874年)創業。
創業者は五代目栗林直治。仙北平野の良質の米と、六郷町の豊富な地下水に恵まれ、育まれている。
現在の当主は栗林啓亮氏、酒屋を始めてから六代目。

銘柄・春霞は、謡曲「羽衣」の一節、「春霞たなびきにけり久方の~」から取ったという。
「霞」が古くは酒の異名であったことにちなんだ、とも言われている。
蔵の所在地である美郷町は秋田の中でも酒造りが盛んな地域であり、江戸時代には二十の酒蔵があったと云う。
この地域は、昔から、酒造りを行う条件に恵まれている。

うまそうな「春霞」


「純米酒」、純米・純粋の純の文字を表示できるのは、アルコールを使わない清酒に限られています。
米・米麹・水以外一切使わずに醸造された清酒で濃醇でまろやかな風味を持っています。

玄関先に湧水


「東光山 本覚寺」浄土宗のお寺。
1603年、佐竹義重が旧千畑町より旧六郷町へ移したお寺、千畑町と六郷町は合併により美郷町となっている。
佐竹氏は六郷地域の一揆を防ぐことを目的にして、この地に26の寺社を配置したと云う。戦いの拠点として寺社が重用された時代。

本覚寺                  参道                     鐘楼


本覚寺は本堂城主・伊賀守吉高の菩提寺でもある。
旧千畑町を佐竹義重の 命により1603年に六郷に移された。 寺院の多い六郷地区で楼門を もったものはここだけ。
「貞観の写経」、「白雲上人画像」など、県指定有形文化財 。

                         本堂


次回は、横手市方面へ。

大曲の花火~六郷城跡

2013-12-25 | 気まま旅

「大曲市」は、県南部、横手盆地の中央部で、雄物川に玉川と丸子川が合流する位置の市、市名は中世の郷村名からで、雄物川の曲流部の
意と、大麻を刈る畑地の意等の説がある。
大曲・仙北地方は、商業・農業の中心地で、文化活動に力を入れて、市民音楽活動が盛んな市で知られている。
特産品に、モロヘイヤを原料にしたお菓子、麺、こんにゃくなどがある。
また、大曲と云えば、毎年8月雄物川河川敷の全国花火競技大会は、技術・規模ともに日本一と云われている。

大曲は花火の街


大曲にある諏訪神社祭典の余興花火として1910年 明治43年に「第一回奥羽六県煙火共進会」が開催。
1915年によりレベルの高いものを目指し全国花火競技大会と名前を変え規模を全国に広げている。
創造花火が生み出され、第二次世界大戦後すぐに大会は復活したが、戦後の物資不足と混乱より観光客の数は激減。
その後も水害や競技大会という特殊な開催方法がなかなか観光には馴染まず観客は少なかったと云う。
昭和57年の第56回大会の観客は10万人と発表、しかしその後、過疎化が進む市の「町おこしイベント」として利用したい自治体が
諏訪神社祭典とは独立した行事としてPRを開始したが、公金での宗教団体イベントのPRが憲法の政教分離原則に抵触するおそれがあるため。
祭典は1週間前に分離開催となる。
東北6県では有数の花火大会となり、1990年観客動員数が40万人を越えた(当時の大曲市人口の15倍以上)。
平成9年に秋田新幹線が開通し大曲駅に乗り入れるようになると、旅行業者、鉄道会社らが県外で競って大曲花火ツアーを企画。
またNHKでこの大会が全国放送されるようになるとさらに知名度があがり、
平成19年の第81回大会では過去最高の約76万人を記録したと云う。

駅構内に、川を渡る梵天


「六郷城跡」
歴史を見ると、平安時代には、 鎧ヶ崎城(荒川城)が建設されるている。 1190年頃 に、「六郷城」が建設され、 1549年 六郷城が移転。
1602年「六郷一揆」が発生するが、間もなく鎮圧されたが、 1700年頃ー1850年頃に、 大火災、大飢饉が頻発している。
 
六郷城外濠跡、平城で平地


城の 形態 平城で、1559年に六郷弾正道行によって築かれたと云われる。
六郷氏は藤原南家二階堂行光の後裔と伝えられ、戦国時代周囲には戸沢、小野寺、安東、武藤といった勢力の中、小さいながらも国人として独自の勢力を持ち、六郷衆と呼ばれる勢力を形成していた。
1590年 豊臣秀吉に従って検地をうけ、4518石を安堵されている。
1600年 関ヶ原合戦では徳川家康の命に従って山形城主、「最上義光」の軍勢に加わった。
関ヶ原合戦が終結すると上杉氏は最上領から引き上げ、孤立した小野寺氏に最上氏とともに攻め入った。
六郷正乗は、1602年 関ヶ原合戦の功によって常陸国府中一万石で転封となると、出羽国秋田へ入部した佐竹氏の所領となり、佐竹義宣の父義重の隠居城となる。1604年長男義宣は、秋田市久保田城築城している。
1612年 佐竹義重は鷹狩りの最中落馬して死去したと伝えられ、その後廃城となったと云う。

城跡と感じられない、現在駐車場に


城は南に大曲街道、東に坪楯街道が通る交通の要衝に築かれている。
三角形状の丘陵に周囲に二重の濠が巡っていたといい、 北に稲荷神社・熱海神社、本丸の南東に二の丸が配されていた。
現在は本丸に田岡神社が祀られており石碑が建っている。
周囲には堀跡のような窪地がある。この周辺に二の丸、内濠、外濠などの標柱が建てられていた。

案内板があるが
  

国道13号線と県道116号線の交差点に案内板が建っていた。

「六郷氏・佐竹義重」(十八代当主、生涯-家督相続-勢力拡大-伊達政宗との抗争)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
秋田、 久保田移転後は相次ぐ反佐竹一揆に対応するため、義宣とは別に六郷城に居を構え 所領南部の見張りを行っていたが、
慶長17年、1612年、狩猟中に落馬 死去している。

県道を挟み本丸跡の小さな鳥居と                  その脇に石碑
    

「鬼佐竹」、(伊達政宗、北条氏政を震撼させた)猛将・佐竹義重の終焉の地である。
佐竹義重はこの城に10年居城。出羽の小大名、六郷道行が1559年に築城、以後、1602年、関ヶ原後、常陸府中に移るまでの43年間、
六郷氏の居城であったが、佐竹義宣が秋田に入る前、川合伊勢、矢田野安房守らがこの城を受け、六郷氏の移動や小野寺氏の改易で近辺の人心が落ち着かなかった。
このため、佐竹義重が人心の収攬を図るため、入城し、小野寺氏の旧臣を中心にした一揆1000人ほどがこの城を攻めている。
佐竹義重らは、領民を指揮して奮戦して撃退している。1612年、66歳で死去、廃城になった。

六郷城は広大な平城であったようだ。


城は、美郷町六郷の中心部の西側、国道13号を大曲方面に行った古館地区にあったが、完全な平城で、本郭だった場所が稲荷神社、熱田大神宮付近、その場所は微高地であり、周囲の水田が堀跡であったことを推定させる程度で、東南側に二郭が存在していたらしいが、工場や道路になって分からない。
堀跡の表示があったが、自動車道で解らなかった。

道路の交差点で車多い
    

「永泉寺」は、曹洞宗の寺院、六郷家の菩提寺
中世時代、二階堂氏(六郷氏)本荘藩主が支配していた。

永泉寺                                    楼門
    

永泉寺の創建は、1352~1356年と言われている。
中世にはこの周辺を支配していた二階堂(後の本荘藩主六郷氏)の菩提寺になり庇護されていましたが、関ヶ原の戦いで行賞を受け配置換えとなり、檀家が民衆主体となる。
現在の本堂は、1862年に再建したもので古刹らしい重厚な趣のある建物。
山門は平成の建物ですが周囲とは違和感なく溶け込んでいて参道から本堂へ向けている。
江戸時代初期には永泉寺手前に六郷城があり、城下に入る木戸付近にあったようだ。
そのことからも防御的にも重要な要地に配置されていたことになりる。
寺は秋田33観音霊場の第15番札所に数えられ、本堂左側にその位牌所があります。

鐘楼                   本殿                        湧水清水
    

「ニテコ名水庵」
ニテコとは、アイヌ語のニタイ(森林)、コツ(水たまり)から付いたと云う。
ニテコ清水を使ったおいしい料理が味わえる蔵造りの和風レストラン。 名水流しそうめん、鯉料理などがある。

湧子ちゃんは、手づくり工房、六郷町産の新鮮野菜・漬物及び加工品の直売コーナーと農産物加工品の製造部門が一体となった複合販売施設。
地産地消六郷町の「かあちゃん」たちががんばっていると云う。

ここから、古道・羽州街道街並みへ           手作りお菓子工房「湧子ちゃん」(おばあちゃん)
  

次回は、美郷町市内に入ります。

角舘 もう一つの武家屋敷

2013-12-23 | 気まま旅

古き、武家屋敷が街の通り沿いに建ち並ぶ。江戸時代の藩政時代の面影を色濃く残している角舘、今もゆっくりとした時がながれる。
角舘は、四季の祭りがある。春は、桜祭り。夏は、角舘送り盆行事の「ササラ舞い」、400年以上続いている2頭の牡獅子が1頭の牝獅子
を奪い合う舞とに道化が絡み笑いが出ると云う。
秋は、角舘の本祭り、飾山囃子や曳山が激しくぶっかり合う「やまぶっつけ」で知られ勇壮な祭りは、9月上旬。冬は、雪夜に浮かぶ
火の輪、小正月行事で炭俵に縄を付それに火を点し雪上で振り回す。雪と火灯利が幻想的な祭りが2月中旬。

ここで訂正があります。
男鹿半島で紹介した「菅江真澄」は、角舘で亡くなったと云いましたが、正しくは、神代村梅沢(仙北市田沢湖)で病の床につき亡くなっています。遺骨を角舘の人命者に移し死を公にしたとありました。菩提寺は、秋田市内の寺町。

「天寧寺」上新町にある曹洞宗の寺院。蘆名氏の菩提寺、山号萬松山、本尊ー釈迦牟尼仏、

山門は、角舘城のものを改修した物と云われている。

「天寧寺」の楼門
  

角舘の武家屋敷と文化の遺構と云える。寺宝蘆名系譜、平福百穂「出山釈迦図」がある。

阿弥陀如来坐像                                   本殿
    

百穂の筆塚があった。

「会津天寧寺」
現在福島県会津若松市に所在する会津天寧寺(近藤勇の墓でも知られる)は、1447年に蘆名盛信が大瞞行果禅師 南英謙宗のために陸奥国会津黒川東山に開いたといわれる。
勧請開山は傑堂能勝であった。かつては会津曹洞宗の僧録司を兼ね、末寺33カ寺、僧堂12を数えたとされる。
蘆名家中興の英主とされ、会津に大勢力を築いた蘆名盛氏が銭100貫文を寄進した記録があり、最盛期には雲水1,000名を擁する蘆名氏の菩提寺

石仏                   満松山と芦名藩       畑駒岳藩校漢学者家塾
    

会津を追われた蘆名義広は実兄佐竹義宣を頼って常陸国に逃れ、そののち、豊臣秀吉から常陸江戸崎4万5,000石を与えられ、名を蘆名盛重と改めた。なお会津は伊達政宗には与えられず、秀吉は配下の蒲生氏郷を封じた。
氏郷の死後は上杉景勝を越後国より加増のうえ転封した。
関ヶ原の戦いでは佐竹氏が西軍に加担したため慶長7年(1602年)徳川家康の命により国替えとなり、父義重、兄義宣とともに出羽国秋田領入りして1万6,000石を与えられた。
盛重は名を蘆名義勝と改め、元和年間に出羽国仙北郡角館を居住地に定めた。
角館に随従した蘆名家家臣は総勢200名程度であり、河原田家、岩橋家、青柳家、稲葉家などが知られている。
なお、青柳家、岩橋家、河原田家は佐竹北家入部後、北家に召し抱えられ、その屋敷は武家町の「仙北市角館伝統的建造物群保存地区」(国選定の重要伝統的建造物群保存地区)の一画に現存している。

                       芦名氏墓石
  

江戸時代の角舘城主であった蘆名氏は、町割りの際に北部を「内町・武家町」、南部を「外町・町人町」としてそのきょうかいに土塁を築いている。高さ3mあるといい、防火地帯・火除けを設けている。
その周辺に寺社を配したようだ。
上新町が寺町であろう。

町の中に観音像                   寺町で街を囲んでいる
    

戊辰戦争では久保田藩は新政府側に立ったことから、奥羽越列藩同盟に参加した周辺諸藩の侵攻を受けることとなる。
1868年には列藩同盟側が角館の目前まで迫り、角館側は西国諸藩の応援を得て町の南を流れる玉川を盾に防戦し、二日間にわたる攻撃を凌いだ。その後も戦局は好転せず、周辺の久保田藩側の拠点も次々と奪われ角館は次第に孤立、武器弾薬や生活物資の不足もはなはだしく、角館の放棄も取りざたされるほどであったが、9月に入り、東北諸藩が続々と新政府に降伏していくのを見た列藩同盟側が久保田藩領からの撤退を開始、戊辰戦争では藩内各地が戦場となったが、角館は戦禍をまぬがれたと云う。

                  無人の稲荷社と石仏
    

「松庵寺」 曹洞宗の寺   仙北市角館町田町上丁にある。

曹洞宗の本尊は、釈迦牟尼仏・大本山永平寺・道元禅師。東北に多い寺院
  

「小田野直武」1749~80年は、 もともと分家である佐竹北家に仕えた武士。
北家当主は代々俳諧,短歌など文芸に優れ,当主佐竹義邦の子義躬も植物の絵を多く描いています。
このように文芸に理解のある当主によって直武の画才は伸びていったと考えら、その才能を認められます。

安永2年に秋田藩の招聘によって,「平賀源内」が鉱山開発のために秋田に来たと言われています。
その時の伝説,角館の五井孫左衛門宅に宿をとったとき,源内が宿舎にあった屏風絵に興味を抱き,作者である小田野直武を呼んだと言われている。源内が餅を上から見た図を描かせたところ,直武は○を2つ描いてそれらしく描いたが,源内は遠近法を用いて立体的に描いて,それに感動した直武がその場で弟子入りしたと言われる。

伝説にしても当時解体新書の翻訳を進めていた源内が腕の良い絵師を求めていたことは事実であり,曙山が源内に引き合わせたというのが本当であると思われ、直武は曙山の命を受け,江戸で源内のもとで学ぶことになる。

安永3年 1774年 刊行された「解体新書」では直武が挿し絵を担当している。

佐竹藩武士の、「秋田蘭画・小野田直武(解体新書の絵)と平賀源内」
    

安永8年、小田野直武は、無期限の自宅謹慎処分を言い渡された。
なぜこのような処分となったのか定かではないが、異例の出世をした直武に対する佐竹藩内部の反発が強まったことを伺わせる曙山の書状が発見された。
石黒家12代当主の石黒直次さんは小田野直武について、「非常に謎の多い人物で平賀源内との江戸での行き過ぎたことが藩主の逆鱗に触れたのかもしれない」とコメントしている。
その後平賀源内が獄死し、安永9年に謹慎処分がとけないまま小野田直武は謎の死をとげた。
享年32歳で、他殺など様々な死亡説がある。
秋田県仙北市角館の松庵寺には小田野直武の墓がある。刻まれた諡は「絶学源信信士」。養老孟司は解剖学の知識を得たことで直武の物を見る目が変わっただろうと話した。直武の突然の死は、秋田蘭画が向かうはずだった表現世界の未来を封印してしまった。しかし、直武らが切り開いた洋風画の系譜はその後の画人たちに受け継がれ、明治以降に発展する洋画の礎になったのである。
 
松庵寺                       本堂
  

「西宮家」のある田町は角館のもう一つの武家屋敷通り。
明治期から大正時代に建てられた五棟の蔵はレストランやギャラリー、古布や陶磁器、和紙等の販売、母屋の座敷では、軽食が、

田町武家屋敷は、主に、秋田藩主佐竹氏直臣の家臣団が住んでいたところ。現存する「西宮家」はその家臣団の一員。

西宮家(角舘には、武家屋敷が二個所ある)
  

西宮家の向かいには新潮社を創設した「佐藤義亮」の顕彰を目的に設けられた「新潮社記念文学館」が。

西宮家の屋敷と蔵、軽喫茶に
  

「新潮社記念文学館」は、新潮社を創設した佐藤義亮 1878~1951の顕彰を目的に設けられ平成12年にオープン。

初代社長の佐藤義亮は、仙北市角館町の岩瀬町出身。

明治37年、創設・新潮社の出版社の功績は大きく「郷土が誇る先人の一人」。大正9年、郷里角館町に図書館が設置されたのをきっかけに
「郷里の人々に、たくさんの本を読んでもらいたい」と自らの蔵書と社の出版物を寄贈、
昭和26年、義亮はこの世を去りましたが「出版物の寄贈」という遺志は、今なお引き継がれているという。
数は27,000点ほどになり、学習資料館全蔵書の約20パーセントを占めているという。

文学館
    

次回は、大曲方面に。