syuの日記・気まま旅

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隅田川を下り佃島 syu散歩

2017-04-23 | syu散歩

八丁堀を隅田川に沿って下ると、中央区鉄砲洲・明石町。
鉄砲洲・明石は、区の東部で隅田川河口の西岸(明石町)で、地名の鉄砲洲、1624年頃幕府が鉄砲方が試射した事にちなむというが、洲が鉄砲に似ていることと云う諸説がおる。
江戸時代は、諸国の船が集まる港で、賑わったと云う。
区の南部の明石町、隅田川の最下流右岸に位置で、佃大橋に向かい左が鉄砲洲・右が明石町に、江戸期は豊前中津藩奥平氏の中屋敷で、藩医に、杉田
玄白・前野良沢らがオランダ解剖学を翻訳し「解体新書」を著し発祥地・明治時代は、築地外人居留地・1874年の明治7年アメリカ公使館が。
現在、聖路加国際病院(明治33年宣教師創設)
                          鉄砲洲通り


安藤広重時代は、鉄砲洲から芝浦までが「江戸湊」と呼んでいる。
京橋川が隅田川に合流する河口から南の方へ細長く洲をー鉄砲洲。

鉄砲洲はー築地の内海寄の方なり。寛永の頃、井上、稲富両家大筒の町見を試し所なり。されど此の地は金城に遠からずとて、後に鎌倉由比ヶ濱にて稽古ありし也。それによりて、かく地名とせし。此の地は、南北凡そ八丁ありしという。(續江戸砂子)江戸鹿子名所大全に、此辺昔し洲崎なりし時の形、鐵砲に似たるより名付といへるは誤なり、とある。

「鉄砲洲稲荷神社」
                祭神ー雅産霊神・豊受比売神・宇迦え御魂神


徳川幕府が開かれいよいよ埋立てが進み、寛永元年の1624年、
氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を御遷座申し上げ、それまであった八幡神社を摂社として今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築く。
たび重なる海側への御遷座は、そもそも御鎮座の地に湊があったからと云う。
江戸時代に至っては、米・塩・酒・薪・炭を初めほとんどの消費物資は鐵砲洲の湊へ入ってきたため、鐵砲洲生成太神の名は船乗人の海上守護の神として全国に広まり、今なお「冬至開運祈願祭」に授与する「金銀富貴」の神礼は日本中の人々から拝戴されていると云う。

                    社殿(工事中でした)


「佃大橋」
東京湾ー浜離宮庭園ー築地川ー水門ー東京中央卸売市場ー清澄通りー左明石町ー右月島ー左鉄砲洲「湊」-「佃大橋」を渡。
右中央区佃ー相生橋ー江東区永代・門仲へ

佃島対岸の湊町・明石町は、江戸下町の中心の一つで、諸大名屋敷や蔵屋敷調練場などがあり、また江戸の港のあったところでもある。
維新後は外国人たちの住む居留地になった時期もあるところで、クリスマスなども最初にここでおこなわれたといわれている。また洋学・ミッションスクール発祥の地でもある。
昭和39年の1964年、大橋が完成したが、それまではここに

”佃の渡し”があった。隅田川では最後まで残った渡し(都営)であった。ー 東京都


                     汐見地蔵尊堂


             東京に最後まで残った「佃島船場・渡し船」跡


                    水上遊覧バスが。


            あさりの佃煮で知られた佃煮屋(現在は、2軒のみに)


                    住吉神社の八角千貫神輿


「佃島の江戸期」、隅田川の河口部に位置していた島(文亀[1501-04]古図にも見られ、森島、鎧島などと呼称されていた)。
1626年、旗本「石川八左衛門重次」が徳川家光から拝領し、その屋敷を構えたことから、その島が「石川島」と呼称。
徳川家康と同時期に江戸に移住した摂津国の漁夫たちが、1645年、石川島近くの砂州に築島して定住。島を佃村で「佃島」と命名とある。
江戸(現在の東京)の佃島の漁民の故郷は関西の佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)。
本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢とともに大坂、堺にいた。
家康は決死の覚悟で本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟が無く進めなくなった。
そこに救世主のごとく現れたのが近くの佃村の庄屋「森孫右衛門」と彼が率いる漁民たちで、彼らが家康らに漁船を提供。
その結果、家康らは生きて岡崎に戻ることができたと云う。
後に家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えた。



明治期、水戸藩により創設された「石川島造船所(現在のIHI(旧・石川島播磨重工業)の前身)が、1876年の明治9年、民間に払い下げられ、それが
昭和54年、操業停止するまで、旧来の佃島の部分を除き現在の佃の多くの部分はその敷地。

昭和61年、から、都心回帰の促進を図る目的で、8棟の超高層マンションを中心とする住宅群「大川端リバーシティ21」の整備。


「住吉神社」ー有栖川宮幟仁親王の筆によるー

             西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神


1590年、徳川家康が関東に下降(江戸城に公式入城する)し、佃村と大和田村の漁夫33人と住吉神社の神主・平岡権大夫好次も江戸に入る。
1624 - 1645年)、江戸鉄砲洲向かいにある百間四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し始める。
1645年、築島が成り、「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と名付けて定住。
1646年、佃嶋の築島者たちが、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、住吉三神とともに祀るべく、
「住吉神社」を創建。
1858年頃、歌川広重が名所絵揃物「名所江戸百景」の一図「佃しま住吉乃祭」として、住吉神社例大祭の様子を描く。
昭和37年、東京湾の汚染が進むなか、神輿の海中渡御と船渡御が廃止される。平成2年、東京湾の汚染状況が改善されて久しく、28年ぶりに
船渡御の復活が成る。平成17年、8月5 - 8日:平成17年例大祭を「住吉神社鎮座360年記念例大祭とし、東京湾上での海上祭と合わせて執行。

                         狛犬


                         拝殿


                       佃大橋全景


                        佃島水門


                        住吉水門


                        佃島地図


                      隅田川遊歩道                


                 大川端リバー子ー21-高層マンション


                  中央区から江東区へ 相生橋