形に縛られている人はめんどくさい。
形は利用するものであり、縛られるものではないと思う。
ひどく利用しにくいと思ったら、形を破るくらいのことはしてもよいと思う。
仕事をしていて最近よく思う。
仕組みは仕事をしやすくするためにあるものなのだから、仕組みは利用してやるものであってそこに縛られるものではない。
仕組みに縛られていてグダグダと言っている人を見ると虫唾が走る。
仕組みを利用しているからこそ、仕事の質を見失わないと思う。
仕組みに縛られていると、仕組みに当てはめることが仕事になってしまい、仕事の質が高まらないのではないかと感じている。
転職して5年。
ひとつの仕事を通じて自分なりの仕事のやり方が見えてくると、これおかしいんじゃねぇの?と思うことが多々見えてくる。
そのひとつが、
PDCAサイクルというモノ。
言いたいことはわかる。
それを否定するつもりはない。
が、そこに留まってしまっていて、PDCAサイクルが回っていればOKという考えが広まっているんじゃないかと感じつつある。
わかりやすく言えば、「PDCAサイクルが回っていさえすればOK」ということであり、「その中身の質は不問」のような雰囲気を感じることがある。
「計画」と「報告書」さえあれば、そしてその中身の辻褄が合っていればOKということだ。
研究開発者にとって重要なのは、形にはめることではなく、質の高い成果をいかに出すか、いかに質の高い成果に繋げるか、だと思う。
形だけのPDCAサイクルが質を低下させるなら、いっそそんな枠組みなんて教えないほうが良いのではないかとさえ思えてくる。
そうすれば、形にはめることを考えなくなり、個々の研究開発者が研究対象をしっかり見つめ、より質の高い成果を出してくれるのではないかとさえ思えてくる。
(上がしっかり導きながら考えさせることができれば、それで十分進むと思う。大学の研究はそれに近いような気もする)
私にとって、研究開発者のPDCAサイクルは「触る・感じる・考える」だと思っている。
自分の手であれこれやってみて、そこから何かを感じ取り、考える・・・そうすることでまた次にやることが見えてきて・・・と繰り返されることで先に進んでいくものではないだろうか。
そこに個々の研究開発者の個性が入り込むからこそ、面白い成果が生まれてくるのではないだろうか。
PDCAサイクルに形をはめることは研究開発者の仕事ではないと思う。
(普通に研究開発の仕事をしていれば、その形に自然とはまっていくのではないだろうか)
その形にしっかり則っているかを判断するのは上の仕事だと思う。
もしくは、個々の研究開発者が振り返って確認するものであり、報告書をその形に当てはめることが仕事だとは思えない。
研究開発そのものの質を上げなければ、いくらPDCAサイクルを回したって目覚しい成果なんて生まれてこないんじゃないかと思う。
もっと触れよとか、何も感じなかったのかよとか、どんだけ考えたっていうんだよとか思うことが多い。
感じ方は人それぞれだと思うが、今の私のおかれた状況では、私はそのように感じてしまう。