「蔵堂」
村屋神社を抱えるこの地域は古代から古い伝統を受け継ぐ長い歴史を持つ地域です。
万葉集にも
「大和の 室原の毛桃 本繁く 言ひてしものを 成らずはやまじ (巻11、二八三四)」
※「室原(むろふ)」 田原本町蔵堂~唐古あたりを指す
と詠まれ 上三句は「繁く 言ひてしものを」を言わんがための序詞、
万葉の序詞は実景に触発されたものが多く、この歌の「室原の毛桃」も眼前の風景と考えられています。
この一帯に桃が沢山植えられていた事はこの一帯から桃の花粉が遺構から発見された事でも立証されて居ます。
又、「本朝神社考」に
「むかし大和の洪水の折、初瀬川大いに漲り、大きな甕(壷)が流れきたり、 ~後にまた小舟に乗って播磨に着し、大荒明神となった」という社伝があり。
柳田國男は、これが文献に見られる一番古い桃太郎のモティーフである可能性を指摘しています。
又、この地域の蔵堂、為川、遠田の3集落で、この壺と言われる壺を当番制で守る「スコンドウ」という行事が行われて居ます。
「融通念仏宗東源山浄福寺」
村屋神社より大和川を挟んで更に東、同じ蔵堂地区の大和川東岸に下層方形上層六角のひときわ目立つ御堂が建って居ます。
浄福寺 の本堂です。
寺伝によるは元亀二年(1571年)の開基で、僧快運の中興と有り、慶応二年(1866年)6月24日の棟札があります。
本尊は、阿弥陀如来座像で鎌倉時代後期の作。
浄福寺は、本来は「東浄福寺」「西浄福寺」の二寺があり、本寺は「東浄福寺」。
なお、京都府和束町石寺の青蓮寺跡に残されている古鐘(永享十年(1438年))に「大和州城下郡常福寺」の銘が刻んでおり、もと本寺に伝来していたものという。
元は新薬師寺の草庵で有ったのが途絶え、元亀二年に再興された物だと思われます。
大和川(初瀬川)は古来より良く暴れ、川筋を幾度も変えた形跡があり、蔵堂から川下の井上、法貴寺などの集落は、河を挟んで東西に分断されて居ます。
古代には、唐古鍵遺跡の近くを流れていた記録が有る事から見て、その流れを東に振り、集落を分断する形で現代に至った物と考えられます。
村屋神社を抱えるこの地域は古代から古い伝統を受け継ぐ長い歴史を持つ地域です。
万葉集にも
「大和の 室原の毛桃 本繁く 言ひてしものを 成らずはやまじ (巻11、二八三四)」
※「室原(むろふ)」 田原本町蔵堂~唐古あたりを指す
と詠まれ 上三句は「繁く 言ひてしものを」を言わんがための序詞、
万葉の序詞は実景に触発されたものが多く、この歌の「室原の毛桃」も眼前の風景と考えられています。
この一帯に桃が沢山植えられていた事はこの一帯から桃の花粉が遺構から発見された事でも立証されて居ます。
又、「本朝神社考」に
「むかし大和の洪水の折、初瀬川大いに漲り、大きな甕(壷)が流れきたり、 ~後にまた小舟に乗って播磨に着し、大荒明神となった」という社伝があり。
柳田國男は、これが文献に見られる一番古い桃太郎のモティーフである可能性を指摘しています。
又、この地域の蔵堂、為川、遠田の3集落で、この壺と言われる壺を当番制で守る「スコンドウ」という行事が行われて居ます。
「融通念仏宗東源山浄福寺」
村屋神社より大和川を挟んで更に東、同じ蔵堂地区の大和川東岸に下層方形上層六角のひときわ目立つ御堂が建って居ます。
浄福寺 の本堂です。
寺伝によるは元亀二年(1571年)の開基で、僧快運の中興と有り、慶応二年(1866年)6月24日の棟札があります。
本尊は、阿弥陀如来座像で鎌倉時代後期の作。
浄福寺は、本来は「東浄福寺」「西浄福寺」の二寺があり、本寺は「東浄福寺」。
なお、京都府和束町石寺の青蓮寺跡に残されている古鐘(永享十年(1438年))に「大和州城下郡常福寺」の銘が刻んでおり、もと本寺に伝来していたものという。
元は新薬師寺の草庵で有ったのが途絶え、元亀二年に再興された物だと思われます。
大和川(初瀬川)は古来より良く暴れ、川筋を幾度も変えた形跡があり、蔵堂から川下の井上、法貴寺などの集落は、河を挟んで東西に分断されて居ます。
古代には、唐古鍵遺跡の近くを流れていた記録が有る事から見て、その流れを東に振り、集落を分断する形で現代に至った物と考えられます。