おおたにしんき

キリストを、平和を、愛を、希望を、日々のあんなコトやこんなヒトとの出会いの中で探していく・・・

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理念に向かっていると思いつつ逆に向かうことを繰り返す僕ら

2016年02月01日 | 聖書を読んでみました
主イエスの言葉や行為に学ぶゆえに、
平和を願いながら、
しかし戦争を起こす。

主イエスの言葉や行為に学ぶゆえに、
隣人愛による共同体を願いながら、
悪しき個人主義を生む。

主イエスの言葉や行為に学ぶゆえに、
分かち合い助け合い生きることを願いながら、
奪い合い独占する。

ウェーバーは、実は、こうなっていく社会を、その精神構造から解き明かしてくれたのだと、改めて思い起こす。

あらゆる共同体には、優れた理念があるが、
優れた理念に向けた言葉と行為が、
いつしか偽神(魔術)となって、
優れた理念をかかげ、それに向かっているように思い込みつつ、
しかし、
それとは逆に向かうということが、隠されつつ(意識される事なく)起こることを、
歴史が繰り返していると、ウェーバーは暴いてくれた。

ウェーバーは、崇高な理念からの行為が偽神になっている形態を、伝統や慣習、さらに価値に見る。

そういう中で、常に、新たに、理念と現状を対話させつつ、歩むということを、合理性と言ったのだろうと思う。

つまり、昨日と今日、今日と明日では、理念に向かう手段は、対話の中で、変わってくるものなのだ。


崇高な理念があるゆえに、そこに向かうためのそれぞれのスパンにおける目的と手段は、状況のなかで、対話のなかで、どんどん変化しながら、理念に向かっていくというのが、合理性なのだ。

ここで大事なのは、それぞれの時空の隅々まで行き届くところの愛と想像力と対話であり、同時に隅々にまで行き届かせるために、いちいち自らの持つ計画や概念を壊す勇気と技術とであることまで、ウェーバーは語っていると思う。

この大事なものをいちいち獲得するために、崇高な理念にいちいち帰るために、わたしたちは祈る。また礼拝する。

目的と手段が壊されないところで、崇高な理念は偽神へと変化する。
しかし、偽神は神と思われるゆえに隠される。

まさにわたしたちは罪人。

ウェーバーは資本主義を崇高な理念とはそぐわないものにもかかわらず、崇高な理念(キリスト者の精神)から意図せず生み出されてしまったものとして暴きだしたのだ。

キリスト者の精神から生み出された優れたものが資本主義である、ということではないのだ。

と、二十数年前に考えていたことを思い出したのでメモメモ。

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光と存在と生

2016年01月13日 | 「生きる」こと
「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」。(創世記)
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。(ヨハネ伝)

昨日、とある方のご自宅を訪ねた際、コーヒーをごちそうになった。
コーヒーに凝っておられる方。
豆の保管方法、挽き方、コーヒーの淹れ方、使う水、湯温など、なかなかのこだわり。
以前は昼間から酒を飲んではいろいろシデカしていたが、それにより、酒への欲求がおさまってもいる。

しかも、二種類の淹れ方をされ、飲み比べできるようにしてくださった。
同じ豆なのに、一方はふくよかなコクを味わうものとなり、一方はさわやかな酸味を味わうものとなった。

それぞれにあうクッキーまで用意してくださいまして。

いやあ、うまかったです。

その方がこんなことを言われました。

「年々時間が過ぎるのが早くなってくる。光の速度に人生の速度が近づいているように感じる。そして、光の速度を抜いたときに死ぬんだろうなあ」。

なんとも豊かな言葉でありまして。
いろいろと解釈もできる言葉でありまして。

人は幼子のようなとき、光による世界のひとつひとつを丁寧に受容するゆえに時間がそれこそ過ぎ去らないのだろうなあ。

でも、人生経験を重ねるにつれ、光に近づいたと錯覚し、それにより時間は過ぎ去るものなり、さらには、自分こそ光だと感じることに快感を覚えたりして、そのときに、実は死を迎えている、というような。


わたしたちめいめいは、神の命という光に照らされてこその、わたしたちめいめいである。

そもそも光に照らされねば何も見えない。
光によりもろもろが見える。

しかし!
その光があっても、私は私を見る事は出来ない。すくなくとも顔を見る事は出来ない。

でも!
神の命である光が私を照らすことで私は私を認識する。

どのように!
そう、私は私の外に解放されるかたちで、外から私を認識する。

ここで、私は私であることを知る。

ここに、ひとつの解放がある。


しかし!
同時に!

私は、その光が照らし出すことによって実際に認識しているのは、私の外のもろもろである。
他者たちの顔であり、さまざまな事物である。

そこでわたしたちははっきりと知らねばならない。
わたしたちめいめいは、光によって、完全に、私として縛られていることを。

そして、そこでは、私は私を明確に認識する事が出来ない中で、逆に明確に認識する事が出来ている外のもろもろの中で生きる。

そして、この実際で生きるならば、
わたしたちは、認識が明確な外のもろもろの出来事を優先し、認識が明確ではない私は、優先された外に対して奉仕するものと、認識上成らざるを得ない。

言い方を変えるならば、存在しているなら、生きているなら、外側に奉仕する者となるしかない。


光とは実にすべての根源である。
そう、神なのだから。

その光により、
わたしたちは、外側を見ることしかできず、自分を見ることはできないのだが、
しかし、縛られている自分から脱出し、外から光に照らされている自分を見ることもできると信じることができる。

存在とは?実存とは?という議論はこのふたつを説明しようという試みなのかもしれない。

さてさて、
光はわたしたちを照らす事により、わたしたちに何を求めておられるのか。

私は、自分で自分の顔は見る事が出来ず、見ている外のために自分が投げ出されるということそのものに救いを見るものの、

しかし、このかん、その縛られた自分が外に解放されるという出来事にも救いを見る。

ただ、自分で自分を見て自分に満足するということが行き過ぎているとも思われる今は、

自分で自分は見る事が出来ず、端的に光に照らされ見る事の出来る外に自分を投げ出して生きるということが、より必要だなあ、とは、思うわけでして。

昨日はなかなか面白い言葉を、頂戴したのでした。

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信仰の通奏低音

2015年12月30日 | 「生きる」こと
「神の名をみだりに唱えてはならない」
この戒めは十戒の土台なる禁止条項であり信仰の通奏低音。

神の名を唱えてはならないのは、神の名を唱える時に神は神ではなくなるから。
だから「ヤーウェ」を命がけで「アドナイ」と呼び変える。
否、命がけで「ヤーウェ」とは唱えない。
命がけで神の名は唱えない。

「私は有って有る者」
神はご自身をこう表現される。
英語では「I am that I am.」
神の自己紹介でもわかるのは、「名」が出てこないということ。
神は名乗っておられない。
神は「名」を持たない。
神は「名」を持つ事が出来ない。

つまり、「名」は、神を最も我々から遠ざけるものであり、
神の創造の本来を最も変質させるものだから。

でも!
人は「名」なしには聞く事も語る事も知る事も教えることもできない。
「名」なしに言葉も成立しない。

「名」により、わたしはわたしとなり、あなたはあなたとなる。
「名」により、ものごとはものごととなり、歴史は歴史となり、夢は夢となる。
と、私は考えるしかないだろう。
それ以外の認識方法をおそらく持たない。

なるほど、「名」から認識するほかない存在であるから、人はまさに罪人。

しかし!
それに依存するしかない我々であるにもかかわらず、そうではないところの、「名」を経由しない認識がある!
と、聖書を通して知る事が出来る。
それが信仰なのだろう。

我々には不可能であるにもかかわらず、しかし有って有るところの信仰がある。
だから、信仰は、強烈な緊張関係を我々に要求する。

我々は信仰ではなく「名」を土台にするしかない。
しかし神は「名」ではなく信仰を土台とすることを要求する。

「名」はイメージ。
我々は人名からその人をイメージする。
商品名から商品をイメージする。
しかも、一瞬にして認知するという業をこなす。
つまり「名」がアイデンティティとしてイメージされるということだ。
そしてこれが偶像の土台であろう。

わたしは「わたし」というアイデンティティで生きるしかないけど、
しかし、それをわたしの土台とするならば、
そのときにはわたしは偶像崇拝を証言しており、神を排除している。

わたしは「わたし」というアイデンティティで生きるしかない。
しかし!その罪を告白し続ける中で、「名」に抗いつつも生きる。
この緊張関係が備えられるなかで生きることがゆるされるのが、
信仰なのだろう。

あらゆる出来事も、あらゆる他者をも、
我々はイメージで認識することしかできないが、
そのイメージを土台としたときは、
同時に偶像崇拝をどうどうと証ししているときであり、神を排除しているときである。

我々はイメージで生きるしかない。
しかし!その罪を告白し続ける中で、「名」に抗いつつも生きる。
ここに信仰が備えられる。

信仰の緊張関係。
それは「名」というアイデンティティ、イメージ=偶像と、「名」を超越した神とのたたかいであり、それに我々が参与するよう要求される関係なのだろう。

もし、私がなんらかの共同体を理想とイメージするなら、
その共同体はすでに信仰共同体ではないのだろう。

もし、かつてと今を比較して、今に求めていたものがあると認識したとき、
それは今の状況を偶像崇拝しているのだろう。

もし、今の苦難がいつかは消えると、いつかに期待するならば、
それはいつかを偶像崇拝しているのだろう。

今の「名」のために過去を修正したり、状況を修正したりすることできる、
言い換えるならば、人間的に、極めて!人間的にいいイメージを持ちたい、持ってほしいときには、そのようなイメージづくり、イメージ操作を行うことができる。

目標設定は偶像設定と言って過言ではないだろう。
目標設定するときには、あの緊張関係を忘れないことは不可欠に違いない。

結果が出たという認識もまた偶像崇拝であろう。
神はその結果の前で、あの緊張関係のただ中で沈黙することを私に要求するのだろう。

「名」は嘘を生む
「名」は憎しみを生む
「名」は殺しを生む
「名」が偽証を生む
「名」はむさぼりを生む

一方
「名」からの超越は愛を生む

「名」を「アイデンティティ」「イメージ」と言い換えてもいいと思う。
このときの「名」は神抜きの存在となる。
「名」を「目標」「結果」と言い換えてもいい。
このときの「名」は神抜きの時間となる。

にもかかわらず!!!
「名」を超越した存在と時間に我々は生きる事がゆるされる。
我々は「名」を超越する可能性がないにもかかわらず!である!
これが信仰なのだろう。

あんなにも、聖書を書いた信仰の先輩をはじめ、いまでも多くの信仰者が命がけで神の名を唱えないのは、
偶像がどこかで崇拝されるとき、
それは一事が万事と、すでに!なっているときであるからだろう。

あの緊張関係抜きのちょっとした目標や結果崇拝があるところでは、
人への崇拝、カリスマ崇拝がすでにあり、神殺しが起こっているのだろう。


いま、ここ、という永遠の
その中心である主の十字架に
端的に集中する。
「名」は十字架にかかる。
言葉の音数少なく表現できるこの出来事は、
しかし、あらゆる言葉を尽くしても表現できるはずのない究極の出来事であり、
私はここで「名」を失い、つまり言葉を失い、沈黙するしかない。

ただただ「重みに耐えよ」という神からの要求のまえで忍耐する。

時間は計画でも目標でもない。
時間は忍耐なのだ。ここに永遠の介入がある。
存在はアイデンティティではない。
存在は罪の想起であり十字架なのだ。ここに名を超越された方の介入がある。

私は神を唱えてはならない事を知りつつ
この場でも神と何度も唱えるしかない。
神を唱えないという不可能な事柄に、
しかし、不可能だからとあきらめず、冷笑せず、命がけで取り組む。

あぁぁぁ
そろそろ終わりにしないとずっと書き続けてしまう・・・

という年末恒例の一年の想起の今年なりの抽象化なのでした。

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クリスマスを味わう!「生」の変革を受ける救い!

2015年12月24日 | 「生きる」こと
今年もクリスマスが来る。
キリストの降誕を味わうことがゆるされる。

キリストは生まれた。
しかし、その「生」の根拠はない。

マリアは男性と関係を持たぬまま身ごもった。
それは、キリストの「生」には我々の知る根拠がない!ことを意味する。

キリストの誕生において、
まず明らかにされるべきは、
キリストの「生」には我々の知る「生」の根拠が通用しないということだ。

「生」の根拠がない!ということは、「生」は因果関係では語られないということだ。
過去のある二人の関係があったから「生」がある!ことを、クリスマスの恵みは超えており、その因果関係を無意味なもとさえする。

それは、時間軸の出来事を因果や目的手段で理解する我々に永遠が放り込まれるという恵みである。

そこでは「生」が目的や達成感で意味付けされるのではなく、永遠に激突され今ここにある!ことで意味付けされることが起こされる。

キリストの誕生は「生」そのものを変革する。

キリストの「生」により我々の「生」は最底辺からひっくり返される。

「生」は過去、現在、未来を生きるではなく、端的に永遠を生きるものとなる。

「生」はしたがって今ここで端的に異質なものと接触することで、その異質なものにより「生」とされる。
そこでは将来の目標は無意味なものとされる。
ただただ端的に異質なものに激突され、「生」が生まれることに集約される。
キリストの誕生は我々の「生」を異質との接触たる「生」とする。
我々の「生」は、接触した異質なものを受けることでのみ「生」となり、そのことで不安定を獲得し、不安を得、それが解消することなく、次の異質なものとの接触を受け、さらに「生」が「生」とされるなかで「生」となる。

よってキリストの誕生によって我々の「生」は、
将来の目標に向かう時間を歩むのではなく、
流れ来る時間が異質との接触における受難、受苦として端的に忍耐であるところの時間を歩む。

これはどんなにか我々のすべてを超えた救いであろうか!!!

過去が破壊された、破滅した者たちにとって、
将来が見えないどころか、将来さえ破壊されている者たちにとって、

そういう過去、将来が、キリストの誕生による「生」の変革で無意味とされるところから始まる今ここの永遠の「生」=異質が私に入り込むことの繰り返しによる「生」、その異質の中心こそがキリストである「生」、そしてそれこそ、時間が受苦として、キリストの十字架の受苦として私の「生」に入り込むという「生」こそ!!!!!!!!!!!

クリスマスの恵みであり救いなのだ!!

このクリスマスを味わう!ことがゆるされる!

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民主主義ってなんだ?心理的一側面 の、冒頭部分書きかけ、だけどたぶん続きは書かなそう、なもの、

2015年09月02日 | 聖書を読んでみました
民主主義ってなんだ? 心理的一断面
として、二ヶ月前の土曜勤務日に時間が空いたときにざっと書き始めたもの。
でもその後、こんなのを書き始めたことを忘れてました。
今朝、ファイルを整理していたら出てきました。
で、もはや、そのときに何を思いついたのか、どういう論理展開をしようとしていたのか、ちょっとあやふやなので、たぶん、続きは書かないだろうというものですが、
その書き出し部分を。


民主主義ってなんだ?

一人、あるいは超少数で決まったことで世界が動くことが、人の心身を死の方向へ導くことに気付いた先人たちがいました。彼らは、死ではなく「生きる」ことを選びました。そこで彼らは、みんなで決めてみんなで世界を担うことを選び獲得しました。それが民主主義です。これは、今に至るまでたたかわれつつ、引き継がれています。

ですから、民主主義にとって最も大事なことは「生きる」ことです。

では、「生きる」とは何でしょう?

全ての時代地域において、いのちは「私」一人のみで存在してはなく、少し足を動かせば、いやいや、少し目、耳を動かせば、他者がいることが確認でき、その他者と同時代同地域で生きていることを端的に、明確に知ることになります。

よって、
他者と共に生きるということが「生きる」ということです。

もっと言いますと、
他者が「私」に接触する感触が生々しいという状態を獲得するというところから始まるものが「生きる」ということであり、
他者の喜怒哀楽が「私」の喜怒哀楽になるということ、他者の十字架が「私」の十字架になるということが起こって初めて「生きる」のであり、
「私」にとって、「私」が「私」であるのか「他者」であるのかという境界線が消えることさえ起こるのが「生きる」ことであり、
ということは、だからこそ、「私」が「私」であるという明確な感触を、他者と接触するところから知る他者との違いから知るところの「私」として、繰り返し繰り返し知るということが「生きる」ということであり・・・。
そのように知る「私」であるから、つまり他者と異質であるということから知る「私」であって、自分でいいようにイメージする「私」、人からいいようにイメージしてもらうよう振舞う「私」ではないから、そこで知る「私」は、格好悪く、汚く、醜く、糞のような側面を持つことを隠すことができないところの「私」であり、
そういう知りたくもない面を多々持つ「私」でありながら、しかし、その「私」として、私は、「生きる」のです。

で、まさにそうして「生きる」ために、民主主義が選ばれています。

となると、逆に、他者との接触がないとき、「私」が実は他者との接触から知り得た異質性に基づくのではなく、勝手に気持ちいいようにイメージした「私」であるとき、
そのとき、「私」の向いている方向は、実は、死であるわけです。

ここでわかるのは、「私」にはふたつあるということです。
ひとつは「生きる」方向を向く「私」。
もうひとつは「死ぬ」方向を向く「私」。

この中で、民主主義で獲得したいのは「生きる」方向を向く「私」です。

でも、実は残念ながら、民主主義というシステムで「死ぬ」方向を向く「私」を獲得しようという動きも多々あります。
といいますか、そういう動きのほうが圧倒的に多いと言っていいかもしれません。
この場合は、そういう「私」を獲得するために、民主主義のシステムを利用すると言うべきでしょうか。
他者と接触しない「私」は、他者と接触しないゆえに、他者を生かすことをしません。するとそれにより他者が死に向かいます。また本来「私」は他者との接触ゆえに知られる存在ですから、実はそのときに私に「私」が知られることもなく、「私」も死に向かいます。

でもなぜか「私」が死に向かうという認識に至ることなく、「私」が私のイメージのままに存在するために、他者を利用することが起こります。「私」が私のイメージどおりになることをアイデンティティと呼び、その獲得を奨励することが多いゆえに、他者を利用することを隠す場合も多々あります。

たとえば、「私」のアイデンティティのために国家のアイデンティティが求められる時代には、国家のために命を落とした英雄、英霊として、「私」のために利用された他者が、利用されたことを隠され、逆に意味づけされることが当たり前になっています。

「私」のために殺される他者を必要とするなかで「私」が生きるということが(本当はそのときに「私」は死を向いているのですが)、当たり前に起こります。

そして、そういう「私」が尊重されるために、民主主義というシステムも利用されます。他者を利用できるのだから、システムを利用することも難しくはありません。

また、この場合に他者が殺されるということが起こるゆえに、実は民主主義も殺されるということが起こります。

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強行採決体質と戦争

2015年07月14日 | 平和のこと
安保法案が強行採決されようとしています。

とても嫌です。
気持ち悪いです。

安保法案の中身と精神がそもそも嫌で気持ち悪いけれども、
強行採決をするという体質も同じだけ気持ち悪いです。
そもそも、強行採決体質だから安保法案も生まれるだろうと思っています。

強制採決体質とは、
つまり
はじめに答えありき!体質だと思います。

こういう体質が嫌で気持ち悪いです。

いくら民主制、会衆制と叫んでみても、「はじめに答えありき」であるうちは、実は民主制で会衆制でもないことを再確認せねば!とあせっています。

制度的に民主制である場合の「はじめに答えありき」が一番面倒くさいです。
その答えで進むことしか考えていないのに、それを通すために、民主制を利用するもんだから、その答えがよろしくなくても、「みんなで決めた」という理由が成立してしまうから。

民主制というのは、
みんなであつまってわいわいと議論するなかで、
その場でいろんな意見がでるゆえに、中身が自由に変わっていくという奇跡的な出来事があるものだと思っています。
さらに、そういう中で新しいものが生まれてくるということに、期待するゆえにわくわくして、その議論にますます加わりたくなるというものだろうと思っています。

そういう民主精神ならば、
そもそも安保法案のような中身は生まれないだろうと思います。
というのは、
安保法案は根本に現状を守りきるという精神があるからです。
でも民主制は、現状が自由に変化し新しく生まれ変わるところに期待するという精神で、つまり安保法案とは逆を向いていると思うからです。

で、
みんなでよってたかってわいわいする中で新しいものが芽生えていくというのが
実はあまりに高度な精神性を要求するものであるからして、
なかなかむずかしいから、
二大政党で意見を戦わせるということで、
少しでも民主制を獲得しようと言う感じなんだろうと思っております。

で、
しかし、

これが家族とか地域とか教会とか自分が歩いていくことの出来る距離でもってかかわる共同体性を帯びるところでは、
よってたかってわいわいというなかで新しいものが芽生えることに期待して、その新しいものに信頼し期待し生きるということが、
その集まり、交わりの精神性の健康を保つし、保つ故に戦争の方向とが逆の方向で新しいものが芽生えるに違いないと思っています。

はじめに答えありき!のうちは、
民主制を取っているとしても、そのシステムという衣服でもって中身が見えない故に、
衣服を見る限りは、うまくその集まり、交わりが整っているように見えるのだけれども、
しかし、衣類の下の身は傷だらけであったりするだろうと思います。

はじめに答えありき!のうちは、
本当はその答えをつくる数人がいればいいわけで、
民主制といいながら、カルトである場合も実は多々あるわけです。

なんか、そういう気持ち悪さを、強行採決体質から覚えています。

もう本当に嫌なんだなあ。

戦争は当然嫌!
同じくして
はじめに答えありきはとても嫌!

だからたたかう。
安保法案に反対する!
と同時に
まず家族の交わりを、今後も、みんなでよってたかってわいわいと新しいものを生み出すものにする!

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101

2015年07月10日 | 聖書を読んでみました
今週の日曜日。
次男君のサッカー部が区内大会で優勝して家族で盛り上がって、
みんなでウキウキしながら眠りについた夜中。

祖父が召されたという連絡が入る。
101歳。

わたしにとって、おじいちゃんであると同時に、人生の先生だった人。

朝日新聞で記者として活躍し、
引退後は鹿児島にテレビ局をつくった人。

高校時代、我が家から徒歩5分のところに引退したおじいちゃんは住んでいた。
学校から家には帰らずにおじいちゃん家に帰り、いろんな話をさせていただいた。

とにかくスポーツ好きな人だったから、その手の話は盛り上がった。
政治の話、経済の話、俗な話、なんでもピンピンとはじけながら会話が進むのが楽しかった。
なにしろいいときの朝日新聞の人だから、
私の立ち位置がそこで決まったと言っても過言ではない。


でも、困ったときに親身になってくれるのがなによりありがたかった。
あの時間でだいぶ救われた。

わたしの今の子たちとの向き合い方は、なんかおじいちゃんに似ているなあと思っている。

参考書代をもらったっけ。
友人や彼女と遊びにいくお金も助けてもらったなあ。

おばあちゃんの葬儀のあとに聞いた思い出話に、ひとつひとつ意味が込められていて感動した。
私が司式をしたもんだから、式の前にそこまで話してもらいたかったよ、なんて言った記憶が。

心基、わしの葬儀も頼むぞ、と言われて、もちろん!と、固く握手をかわした。
のに、
その約束を果たせなかったのは申し訳ない。

月曜日
長男くんが修学旅行に出かける日。
早朝にひいじいじが召されたと伝える。
彼は静かに涙を流しつつ旅行に出かけた。

長男はいないし次男は市内大会に向けた練習があり、
わたしは、仕事で、この2、3日でどうにかしないと家を失うという人とかかわっており、
かけつけることは断念する。

いつか子たちと丁寧に墓参りをして、ひいじいじのことをいっぱい伝えよう。

この間はどうしても当時のピンピンにはねるじいさんではなくて、
なんでもいい感じで忘れるじいさんだったから、
相談したくてもできなかったけど、
本当は相談したいことだらけだったんだよなあ。

そのあたりは天国で、ということで。

おじいちゃん、ありがとう。。。またね。









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沖縄慰霊の日 犠牲の連鎖がなお強くなる中で 罪人たちが生きる

2015年06月24日 | 「生きる」こと
昨日は沖縄慰霊の日

安倍総理の言葉に気が萎えます。無力感を覚えます。
悲しい。

「悲しい」では正確に表現できない身体の覚える感触が、
身体を支配してします。
怒るのだけれど、「怒る」では正確に表現できない身体からわき上がるものに、
身体が押しつぶされそうな感じです。

沖縄地上戦での死者のおかげで今の日本の繁栄があるという、
「美化」なる歴史の解釈、修正が今回も国のトップから語られました。

絶対に違います。

戦争で自分は死にたくないし、自分の財産は守りたいから、他の人に死んでもらうという、
そういう犠牲者を差し出す行為から、
戦死者が生まれるわけです。

歴史の中のほんの5年スパンほどで考えられるところの、
いわば時の流れに身を任せるかたちで、
決して歴史全体から結論を出すというものではなくて、
繰り返してしまうけど、ほんの5年くらいのスパンで自分が守られるということを考えるところの、
不思議な「平和」は、
必ず犠牲者を生みます。

そして、時が経つと、
犠牲者のおかげで今があるとして、
犠牲者を誉め称えます。

犠牲の連鎖による不思議な「平和」

国レベルで原発政策、安保体制、福島、沖縄。

そして個々人レベル、小さな共同体レベルでも、
犠牲の連鎖による、歴史なき不思議な「平和」が生活の本質になっていることは、
とても多いというか、そういう体質になっていると、
反省せざるを得ないと思っているところでして、
そのあたりが表現できない身体作用となっている気がします。

そして、前回の投稿で長くつぶやかせて頂いたことですが、
積極的に生きるという自己暗示も、
犠牲を隠すためのひとつの修正手段だろうと思っています。

不思議な「平和」は実は犠牲の連鎖のこと。
だからたぶん、本当の平和は、その逆の連鎖に生きることなのだろう。

アメリカで白人の少年が学校で黒人少年を無差別に銃で殺した事件。
そこで子を殺された親が殺した少年をゆるすと語ったとのこと。

すごいと思いました。

犠牲の連鎖を止めるのはゆるしなのだ。
そしてそこからゆるしの連鎖、愛の連鎖がはじまるのだ。
と、単純に思ったりもします。

単純には本当にそうだと思います。

10年くらい前はそういう方向転換をしたいと、がんばって訴えている私がいました。

でも、ゆるしは、わたしに本当に出来ることなのか、
人間はゆるすことができるのか、

今はそういう問いの前にいます。

ほんとうは赦すことができるのは神のみではないか。

神の赦しの前で、
十字架上であの表現できないものをすべて受け止めるゆえに苦しみきり悲しみきり殺されきり死なれたもうキリストの前で、

わたしは、ただただ、自らの罪と、
向かいきることができない、
にもかかわらず、
向かい合うことしかできないのではないか。

犠牲の連鎖の世界に生きる者として
犠牲を前にして、
その世界に堕ちきっている罪人の私をキリストの十字架の前に差し出すしかできないのでは・・・・・・・。


戦争や原発という重大問題と向き合うときに、
命の保全、自然の保全という観点から、
つまり、創造論から丁寧に考えることと同時に、

いやそれ以上に、

私たちひとりひとりの、
私たちの生活する世界の、
実は堕落した様を、そういう罪を、
そして、私たちは罪人であり、世界は罪世界であることを、
隠さず、
解釈で修正もせず、
そのままあからさまにして、
それらと向かいあうことを

わたしは、神から問われていると、強く、強く、感じ取っています。

こういうのは消極的と言われるのかもしれません。
行動的ではなく静的なものでもあります。

でも、表現できない身体の感触と身体から湧き出るものを受けつつ、
罪人である私を十字架の前に差し出すことへの挑戦へ
招かれているのではないか、
と、
問われているところです。

祈りをささげつつ。















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戦争と嘘と積極性と憲法

2015年06月05日 | 平和のこと
変なタイトルでごめんなさい。

で、

安保関連法案は違憲。
と、憲法審査会に呼ばれた専門家全員が言いまして。

至極全うでありまして。

でも全うが全うとならない行為が、逆に全うとされるような政府があるので、
全うなことが全うとされないような雰囲気がなお醸し出されてもおりまして、
なんとも変な感じなのでありますが、

しかし、政府に限らず、
全うであるものから批判を受けつつ生きるのではなくて、
欲しているものが全うであると言い切って生きることは、
人の世では常にはびこることなのだろうと反省しているところでもあります。

だから、安保関連法案が合憲であると言い切ることは
嘘であるけれども嘘であるという感覚すらなくなるくらい、全うなことだと言い切ることの出来る精神が既にあるだろうと思っています。

自らの欲するものを手に入れるために、それが正しく全うであると自分に言い聞かせるばかりでなく、それを他者にも説明でき、さらに他者もそれに同意してしまうくらいの、
それくらい、今のわれわれが、自分の欲するものを実現したいということに夢中になっているという、そういう精神が既にあるのだろうと思っています。

自分の目標を達成するための諸々
自分が気分良くなるための刺激、興奮
自己実現

これらはもはや精神として、かなりもてはやされつつ存在しているのだろうと思います。

そしてこの精神の基準は、自分ではかることの出来るものであり、
それもおそらく、かなりわかりやすくはかることのできることであり、
おそらく、いや、間違いなく、快感、刺激、満足感と呼ばれるようなものたちだと思います。


そして、この精神は、必ず、
嘘や隠し事と肩を組むしかないものでもあるに違いないと思います。

目的を達成する快感、気分が良くなるための刺激は、何かを隠し、事実を曲げてでも、獲得されるものとなっているようであります。
このように獲得することを積極性と呼び、
それがポジティヴシンキングと呼ばれることも多いと感じています。

ナチスが戦争に賛成するキリスト者を積極的キリスト者と呼んだり、
安倍さんが、戦争の出来る状態を積極的平和主義と言ったりするのは、
偶然ではなく、この精神が横たわっているゆえと思ったりします。

そこでは、
過去の、都合の悪い事柄は隠され、
欲するものを手に入れるために、逆に過去が修正され、美化され、
そのためには、嘘がつかれる、
けれども、
その隠すこと、嘘をつくことにも気づくことが出来ないという、
また隠されていること、嘘をつかれていることにも気づくことが出来ないという、
そういう精神が、強固に、横たわっているのだと思います。

積極的に生きるという名の刺激と快感と自己実現は、
戦争と肩を組むしかなく、
嘘と隠し事と肩を組むしかなく、

そうなると、

違憲も合憲ということになっていくのだろうと、、、。

だから
欲するものを手に入れるための精神は、
単純な刺激や快感や自己実現が、全うなものを覆い隠すゆえに、

逆に、
全うなものから常に批判されつつ歩むところに、
平和を見たいと願うのありまして。

憲法はそのための全うなものとしてあるだろうなあと。

私の場合は、十字架のキリストから、全うなる十字架のキリストから、批判されつつ歩みたいわけでありまして。










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修学旅行で故郷へ

2015年06月04日 | 「生きる」こと
次男君。10日前まで修学旅行でした。
京都、奈良、大阪。

で、なんと、
バスで御池通、河原町通を通ったそうで、

「ここが行ってた中学校」「ここ入ったところに住んでた」「ここのラーメンうまい」とか、
ちょっと興奮してみんなにしゃべってたとのこと。

廃校になった春日小学校にプレハブが建っていたとのことで、もしかして復活?とも言っておりました。どうなんでしょう?。

サッカーに夢中な次男くん。
とても独特な技術とリズムでサッカーをします。

クラブでサッカーを教わってきて人たちとは動き方がまったく異なるから面白いです。

これは、まさに鴨川サッカーで養ったものだなあ。

鴨川でウチの兄弟がサッカーを毎日しておりましたら、
そこにご近所の子たちが交ざりだし、
鴨川を散歩しているお兄さんたちも交ざりだし、
さらには親御さんも交ざりだし、
いつの間にか、
いろんな年齢層が集まってサッカーをするようになってました。

狭い河原で、当時小学生の次男君は大きなお兄ちゃんを抜くために、
また、パスやトラップでミスすると鴨川にボールが落ちてびしょびしょになって取りにいくというわけだから、
そうならないパスやトラップをするために、
独特の技術、リズムを発見していったのだと思います。

彼は今でもシュートを強く打たなかったりします。
さっとコースを見つけてさらぁーと流し込む感じです。

鴨川を久しぶりに眺めた次男くん。
いい顔してます。

実は長男君が、
今、小倉南の友人宅近くの公園で、
高校の友人たちと
あの鴨川サッカーのようなことをしています。
月に二回ほどやっているのですが、
いろんな人が加わっていくそうです。

ときどき小4の四男くんを連れて行ってくれたりもします。

私もときどきお兄ちゃんたちとボールを蹴りますが、
先日、無回転のボールを蹴る練習をしていましたら、股関節を痛めまして、太もも内側が内出血しましたので、たぶんじん帯をすこしばかり損傷したみたいなのですが、
もう数年はボールを蹴りたいので、シェイプアップしようかと思っているところです。
と思って坂道ダッシュをしたら、再び股関節を痛めました。
でも、内出血はようやくおさまってまいりましたから
そろそろ、のんびりと、はじめようかと思っております。

修学旅行の話と言うか、サッカーの話になってしましまして。。。


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運動会でした。

2015年06月02日 | 「生きる」こと
この前の日曜日は我が家の小学生たちの運動会でした。

でも私の中では、運動会は、体操服の胸に紅白の名札をまつり縫いするところから、すでに始まっておりましたよ。

裁縫も楽しい。料理をはじめとしてあらゆる家事は私のリラックスポイントになっております。


がんがん雨の予報だったけど、末娘のてるてる坊主のおかげでしょうか、見事に晴れました。暑すぎて困るほど。

みんなで弁当のメニューを考えて、当日は4時起きで作ります。
ハンバーグ、若鶏のチューリップの唐揚げ、ステーキ、かぼちゃの煮物、フライドポテト、出し巻き卵、枝豆、グラタン、フルーツ
卵とポテトがちょっと塩が強かったかなあ。でも炎天下でがんばる子たちにはちょうどよかったようでもありまして。

ほんとは、おやじの会が6時45分に集合して、場所取りなどのリードをするので、そこから参加したかったのですが、
弁当が間に合わず、ごめんなさい。
ということで、8時にようやく中学生以上のお兄ちゃんたちと小学校に着いたら、
すでに校庭はキャンプ場。
テントが張り巡らされて場所がありません。
が、
うまいこと、旗のポール下が空いてまして、
しかもそこはちょうどベンチにようにもなっていまして、
そこを我が家の空間といたしました。

で、

開会直前に、なんと、

先生たちが円陣を組んで気合いを入れてまして。

末娘の入学式のときから感じてはいましたが、先生たちにチーム感があってなかなか好きです。

ウチはなぜかみんな足が速くて、兄弟みんながリレーの選手に選ばれるのですが、
一年生の末娘も、選ばれました。
でも、練習で一回も勝てない人がいるということで、運動会前は、本人かなりショックを受けておりました。
保育園時代はかけっこも跳び箱も鉄棒も誰よりも出来ていたから、そういうものと思っていたみたいです。

で、リレーの一番手として走りますが、
彼女としてははじめて経験する最下位でバトンを渡しました。

が、本人は本番ではもはやすっきりしていまして、
来年はもっと早くなるために、長男くんから走り方を教えてもらうと言っております。

で、

そんなさわやかな末娘とは対照的に

わたしは、

彼女のは知る姿を見て号泣。

もうこんなに大きくなったんだなあと、こみあげてきてしまいました。
お兄ちゃんたちは、こんな私に慣れているので、またか、という感じでしたが・・・。

閉会してからは、お兄ちゃんたちとテントの片付けまで残りまして、
先生たちと残られた親御さんたちとお茶で乾杯して、

帰りました。

またまた日焼けしました。

このかん、釣りや次男くんのサッカー応援ですでに焼けているのですが、さらに。

で、
実は
四男くんはリレーに出ませんでした。

これまでは、有無を言わさず、先生が、速い人順でリレーの選手を選んでいたのですが、
今年の担任は、まず、リレーに出たい人を募集したそうです。
で、
四男くん、
「もういいかなあと思ったんだよね」
と、手を挙げなかったとのことで。

なんか彼らしいのでした。

彼のダンス、その中での側転、かっこよかったです。

彼も末娘も、ずっと笑顔で、すてきでした。

お兄ちゃんたちも、カメラにビデオを手に走り回ってくれまして、ありがたいかぎりでございました。

小学校の運動会はあと5回もあります。へへ、いいでしょう!。






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出会いを目指して

2012年11月09日 | 聖書を読んでみました
第二コリントの1:15~2:11を読んでみます。
少し長いですが。

パウロの仲間たちが、コリントにて、コリントの仲間たちと会う約束をしているけれども、
なかなかそれが実現しない、という状況のようです。

そしてコリントの仲間たちからパウロへ文句が出ているようでもあります。
「コリントに来るなんて調子のいいこといいやがって。その気なんかなかったんじゃないの?」
「コリントが大変だってわかっているから、うまいこと教会の立て直しができない感じがするから、逃げてるんじゃないの?」
まあ、こんな感じでしょうか。

それに対してパウロは、
コリントにてコリントの教会の仲間と出会う計画は、
「軽はずみ」ではなく、「人間的考え」でもなく、
必ず実現することであり(「然り、然り」)、
実現しないことはない(「否、否」)のだ!と応えます。

また、どうも二つの仲間の間に具体的な事件もあったようで、
その事件でパウロの仲間たちもコリントの教会の仲間たちも傷つき悲しんだ様子がうかがえます。
その原因になった者は、パウロとコリントの誰かのようです。
そして、コリントの誰かは、コリントの教会内でも、だいぶ非難された様子がうかがえます。

つまり、これから出会うという出来事を前にして、
しかし出会いを妨げるものがある状況でして、

実は、私たちもこういうことは繰り返し経験しているのだと思います。

それまでの経験から、あるいは噂などから、
出会う前に、出会うことを避けてしまうことがあると思います。

あるいは、こちら側の気分や体調の問題で、
つまり、自分が苦しくなることを避けるために、
出会う前に、それを拒否することがあると思います。

もちろん、出会いを拒否するだけの十分な理由が過去にあるわけです。

でも、パウロは、出会うという希望を捨てませんでした。
コリントの教会と必ず出会う!(然り)と言い切ります。
しかも、主イエス・キリストが「必ず出会う」という出来事しか持っていないと言います。
神さまが、出会うべき両者を「キリストに固く結びつけ」、「油を注いでくださる」と言います。

つまり、両者は、
人間的には、出会うことが難しくても、
神さまがその両者を特別な者(油そそがれた者)とすることで、
必ず出会いを与える!
と、パウロさんは言うわけです。

しかも、出会うという出来事のために、
すでに頭金(「保証」)である聖霊が与えられているといいます。
聖霊がおられる以上、すでに出会いは始まっているということです。

どんなに出会いたくなくても、出会うのが難しくても、
主イエスにより、
私たちは、すでに出会いに向けて出発しており、
出会うことを目標とかかげることがゆるされ、
それを目標とすべきであり、
それ以外の目標はないということを、
パウロはここで語ります。

そして、この目標に生きることができるのは、信仰に両者が立っているからだ、とも言います。

さて、どうもパウロとコリントの誰かが、両者を悲しませたようで、
多くの人は、ふたりのせいで、パウロの仲間とコリントの教会の仲間が出会うことができないと思っているような感じですが、

パウロは、そのことをひっくり返します。

つまり、
パウロが喜ぶとするならば、それは、パウロが悲しませた人と出会うことによってだ!と言います。
そして、出会うことで、悲しませた人たちが喜ぶときに、パウロも喜ぶと言います。
さらに、
この共に喜ぶことを目指すために、
パウロは「涙ながらに手紙を書いた」ことを告白します。
愛しているからそうしたとも言います。

さらに、コリントの誰かに関しては、
「その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべき」であり、
「その人を愛するようにしてください」とパウロは懇願します。

そして、
誰かが赦したとすれば、それはキリストが赦したことであり、みんな赦すことである、
という、パウロ流の黄金律が語られます。

そして、この赦しこそが、最強の行為であり、赦しによりサタンにつけ込まれない!とパウロは宣言します。

サタンは赦しのないところにつけ込みます。
つまり、人が人をさばくときは、サタンがそこの交わりに入る最大のチャンスであり、
その交わりはキリストの交わりと思いつつも、サタンの交わりになっているかもしれないわけです。
それが「サタンのやり口」とのことです。

赦し!

赦して、出会うことを目指す!
それができるのはキリストがそれしかしない方であり、
神が出会う者たちを特別に出会う者として立ててくださり、
また、実は出会いを目指した時点で聖霊により出会いは始まっているから!!!。

これが、三位一体の神によるキリスト者の歩み。
これがキリストの業。

というところでおしまい。

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救い主に逆らっても損なんだけど・・・。

2012年11月03日 | 聖書を読んでみました
なんとなく眠れない夜。
聖書を読むことにしまして。
マタイ福音書2:1~12

救い主イエスがユダヤ人の王としてお生まれになったことを占星術の学者たちが知りました。
星が昇るのを見たことで、救い主であり王である主の誕生を知ったとのことです。
占星術の学者を、星占い師と理解することもできますが、
私は、もっと信頼され尊敬され社会的地位があり、影響力があった人たちと考えています。

つまり、現代でいうならば、あらゆる科学技術に精通した有名な学者たち、ということではないかと思っています。
そして、星が昇るということでもって救い主の誕生を知ったということは、星が昇ることが誕生の原因、条件であるということで、現代で言うならば、あらゆる科学技術を駆使して因果関係を明確にし、何が起こったのかをはじき出すということが起こったということだと思うわけです。

今も暗い時代です。
もしかしたら人類の歴史はずっと暗いのかもしれないなあとも考えます。
そしてその暗い時代にはいつでも、それを突破する出来事が求められ、あらゆる人がさまざまに突破する希望を語ります。
当時も、暗い時代に救い主の誕生を、精密な因果関係を証拠としてあげつつ、はじき出したのだと思います。

救いの出来事はしかし、歓迎されるばかりではありません。
たとえば昨今の脱原発による経済復興的な希望は、歓迎されないところではまったく歓迎されません。
当時の王様は、救い主の誕生を聞いてとても動揺したことが聖書に描かれます。
それはユダヤの王の新たな誕生であり、単純に言うならば、王の地位が脅かされるからとも考えられます。
脱原発もまた、地位を奪われること、それに準ずることが起こるために、歓迎できない人はたくさんいるわけです。

だいたい歓迎できない人は、暗い世界の中なのに十分に満足している人でもあるようです。

しかし、それは偉い人だけの話でもなく、
わたしたちみんな、小さな世界でも、自分の小さな利益を守るために、新しいことを歓迎しないケースは多々あります。
別に新しいことがなくても、利益を守るためにつまらない行動をとることは多々あります。
誰でも経験していることでしょうが、ほんの小さなプライドを守るために、小さな嘘をついてしまったりします。

そのような、実は自分自身の現在のスタイル、所有物、アイデンティティなどを守るというある意味生存維持のための本能的行動は、ヘロデ王と同じように、救い主の誕生を拒むことになるのだろうと思います。

私たちは、救い主の誕生を受けるとき、同時に、自らが砕かれるということをも経験することを知らされます。
救い主の誕生は、私たちを救うために、私たち一人ひとりをいったん破壊することでもあるはずです。
そこでは、私たちは、古い自分が一度死ぬという経験をし、救い主と共なる新しい自分が与えられることに期待することがゆるされるのでしょう。

もちろん、この救い主による破壊は、私たちにとっては恐ろしいことであり、ゆえに、救い主に逆らってでも、自らが壊れない選択をしてしまうことが多いわけですが、まさにこれが罪なわけです。

私たちは、神を信じ愛しますが、同時に、本気で、神を怖れる必要があるわけです。


動揺したヘロデ王は、占星術の学者、つまり、当時の科学技術のブレーンと、大祭司、祭司長、律法学者、つまり、閣僚議員と与党議員と野党議員をみんな集めて、救い主がどこに生まれるのかを聞き出します。もはや総動員です。
建前上は、救い主を拝みたいということになっています。社会を救う新しい改革を歓迎すると言います。でも本音としては、その新しいかたち=救い主と、総動員で戦うということが起こっています。

そして、その後の聖書箇所で、ヘロデ王は救い主との全面戦争、つまり殺害計画を実行するわけです。

私たちも、とりわけ苦しいときほど自分の現状維持という生命維持機能が働き、本当は自分を壊してくれて新しくしてくれてハッピーにしてくれる救い主であるのに、その救い主と、自らのあらゆる知識と経験と言い訳を持ち出して、実は決闘するということが、少なからず、いや、ほとんどの場面で起こっているわけです。

だから今なお、主イエスは十字架につけられるのです。わたしによって。私たちによって。

クリスマスは、喜びの知らせを聞くけれども、それは決して心地よいばかりでなく、私が壊され変化させられるという、苦難と不安をも覚える出来事です。
しかし、その苦難と不安をも包み込む、救い主の誕生の出来事がクリスマスでもあります。

クリスマス。
救い主の誕生の出来事に身を委ねたいと思います。






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救いであるところの誇り

2012年11月02日 | 聖書を読んでみました
本日は第二コリントの1:12~14を読んでみました。

パウロさんはここでパウロの仲間たちの「誇り」について語ります。
誇りは、人の支えになります。
誇りがアイデンティティとされることは珍しくありません。
そのとき、人は、誇りが汚されると同時に、自らのすべてを否定されたと思うことにもなります。
誇りはまた、自慢になり、また思い上がりにもなりやすいものです。
そのとき、人は、誇りゆえに、他者を受容できなくなったり、他者を傷つけることも多々あります。

日本もそうですが、世界の潮流として、国家の誇りが大切にされている時代です。
それは、国家という存在のアイデンティティを何で保つべきかが、もはやよくわからなくなっているからだと思います。
人は国家間を自由に行き来できるし、経済にしろ物資にしろ、国家間を自由に出入りします。
今住んでいる国家以外では生きていくことができない!という時代でもなく、
人は生きる国家をある程度選択もできます。

生活様式、伝統、慣習、宗教で保つことのできた国家のアイデンティティは、今やそれでは持たず、
誇りを必要としているようです。

そして、誇りで国家を支えると同時に、誇りで、隣国を傷つけます。

誇りはなかなか繊細で扱いのむずかしいものです。

でもパウロの仲間たちは、誇りを大切にします。

その誇りは、「神から受けた純真と誠実」であると語ります。
同時に、「人間の知恵」は誇りではないことも語ります。

誇りの中身が、人間に属するものではなく、神に属するものである限りにおいて、
誇りはとても大切になることがわかります。

しかし、現代でも、神の名を誇りとする国家は、最大国を含めて多々あります。
しかし、そこでは神の名を騙った人間の知恵が誇りとされていることを、私たちは見抜かねばなりません。

そうではなく、神の領域のみが誇りであるというところに立ち続けることが、パウロの仲間たちの使命であるわけです。

そして、誇りは単に精神ではななく、「行動」であることがうかがえます。
「神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは<省略>わたしたちの誇りです。」

神の領域を誇りとする行動、振る舞いであるかどうかが、私たちは問われます。
そのときに、自分のアイデンティティ確保のために誇りが重要な役割を持つゆえに、
誇るゆえに、逆に神を見失い、心では、頭では、神を求めつつも、自分の保守のためにまさに誇り、そのために行動し、それゆえに他者を傷つけたり、関係を壊すことが起こります。

行動、振る舞いが、誇りを大切にするときには問われます。
問われるからこそ、神を誇りとしているか、自らを誇りとしているか、が見えてくるのだろうと思います。

そして、神を誇りとするところからの行動は、みんなが理解できると書かれていきます。

人の知恵、人の誇りは、たくさんの説明が必要です。
哲学的、心理学的、社会学的、政治学的、経済学的な説明が必要です。
だから、理解できないケースがとても多いです。


でも、神を誇りとするところのものは、人の全身全霊に届きます。
筋肉と神経、脳と内臓、心と魂に響き渡ります。
髪の毛の先から足の爪の先までを震わします。

だから、誰でも「これだ!」と理解できます。
神を誇りとする行動との出会いは人を癒し、救います。
和解を起こします。

さらに、パウロの仲間にとってはコリントの仲間が誇りであり、
コリントの仲間にとってはパウロの仲間が誇りであるとまで書かれています。

異質な相手が誇りである!
ここに神の業があります。
異質な者たちが神によって出会い、異質なまま互いを誇りとする。
これはつまり、互いが互いに神による仲間たちであることを尊敬することであり、
神による仲間と神により出会ったということが誇りであるわけです。

すると、
目の前の異質な他者が
私の全身全霊に届き、
筋肉と神経、脳と内臓、心と魂に響き、
髪の毛の先から足の爪の先まで震わせることとなります。

パウロは、このことを「十分に理解してもらいたい」とコリントに人たちに呼びかけ、
また、私たちに呼びかけているのだと思います。

というところで、おしまい。

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希望!あらゆる苦難は慰められる!

2012年11月01日 | 聖書を読んでみました
今日は第二コリント1:3~11を読んでみました。

私たちの神は「慈愛に満ち」「慰めを豊かに下さる」神ということを、この言葉のまま信じることができてうれしいです。信じるべきだし、信じるしかないし、信じないなんてもったいない!。

この神は、「あらゆる苦難に際してわたしたちを慰め」てくださるからありがたい。あらゆる苦難!。

神が慰めてくれる苦難と慰めてくれない苦難があるわけではないからこれまた感謝。

人は、実は苦難を分けます。助けるべき苦難と助けない苦難を分けます。
それは、人の判断による加害と被害というかたちで分けることが多いと思います。
被害者の苦難は慰めるけど、加害者の苦難は覚えることなく、裁きのみ行われたりします。

聖書は、裁くのは神のみと言います。そこでは人は裁く必要がなくなります。

その裁く神は、しかし、同時に、いや、裁く以前に、慰める神です。
慰める神だから裁くことができるわけです。
神はまず慰め、赦すから、裁くわけです。
慰め、赦された者は、裁きを聞き入れることができるようになり、新しく生まれ変わることができるに違いないわけです。

まず、すべての人のすべての苦難は神に慰さめられます。
そして、神に慰められた人は、「神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるようになります」。

そして、慰められた者に対して、神のみが、必要なときに裁きます。
人が裁くとき、そのときは、慰めることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、神の慰めをしることができなくなります。
人が裁くとき、そのときは、その人が苦難から抜け出せないことを意味するのだろうと思います。

裁きは主にゆだね、その主の慰めにすべてを委ねることができるから、
私たちは命あふれて生きることができます。

私たちに満ちる神の慰めは、直接届くのではないようです。
「キリストによって」届くようです。

そして、キリストを仲介して届く本物の慰めとは、
私たちに満ち溢れている「キリストの苦しみ」と同時に届くことが明確に書かれます。
私たちが慰めに満ち溢れるということは、キリストの苦しみに満ち溢れるということです。
だからこの慰めを受けた者は悩み苦しむことができるようになります。
さらに、慰めを受けた者が悩み苦しむとき、それが、他者への慰めと救いとまでされていきます。

苦難にある私たちは、神の慰めを受け、同時にキリストの苦しみを受け、キリストの苦しみに比するならば軽いところの自らの苦難を悩み苦しむことができ、悩み苦しむことが、実は他者への慰めと救いになる。

さらに、慰められた者は、共に同じ苦しみを苦しみ、それに耐えることさえできるとまで書かれていきます。

この共なる苦しみと共なる慰めがあるとき、
私たちの「希望は揺るぎません」。

私は、共に苦しんでくれる仲間がいてくれて、共に慰めあう仲間がいてくれるから、
絶対に希望を捨てない!と、今の状況だからこそ宣言します。

「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。

アーメン。

自分を頼りにするのではなく、人の経験や知識や技術を頼りにするのではなく、
死者を復活させてくださる神を頼りにするから、
私は希望を捨てません。

「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。

アーメン。アーメン。

おしまい。

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