きぼう屋

生きているから生きている

5.3憲法集会準備会

2008年01月31日 | 守ろう憲法と平和きょうとネットのお知らせ
5 . 3 憲 法 集 会 の 準 備 会

          を

       開 催 し ま す


本日(1月31日)夜7時から

日本バプテスト京都教会にて
(北側の部屋)


どしどしご参加くださいませ


****************


この前の週報巻頭言は


たまたま憲法の意義にも触れています




信仰と憲法

2008年01月31日 | 教会のこと
この前の週報の巻頭言です


*************************

「信仰と憲法」

昨今の著名な思想家が言うことで、
強く賛同できることを
最初に私なりに要約して紹介します。

それは
「道徳は終末の希望において見出される」
というものです。
難しいので、少し噛み砕くと
「人間の理想の生き様は、
それ自体手の届かない超越した事柄であり、
だからこそ人間は常に
それを目指し、それを渇望し、祈る」
とも言えるでしょうか。

そもそも聖書から知る
十戒をはじめとする律法も、
主イエスによる
山上の説教を始めとする隣人愛の実践要請も、
いずれも超越した希望の事柄であり、
私たちは
それを目指し、渇望し、
ゆえに祈るわけです。

そして、
してはならないのは、
この超越の事柄を、
現実世界で説明できるものとして、
「現実的でないから、変えてしまおう」

することでしょう。

例えばそれは
「戦争放棄を謳う日本国憲法第九条は、
現実のところ、
丸腰で他国に攻撃されることが起こるから、
それを変えてしまおう」
という、
昨今の私たちの国で
度々言われる言葉として表れます。

また私たちキリスト者も、
「聖書にはそう書いてあるけれども、
現実の生活はこうだから」
と、
あっけらかんと、
信仰を知らず知らずに捨てたりします。

でも、昨今の思想的発見でいうならば、
人が考えるということは、
「現実はこうだけど、
しかしわたしは憲法九条を生きる」
ということでしょうし、
信仰とは、
「現実はこうだけど、
しかしわたしは聖書で生きる」
ということでありましょう。

現実を正当化する誘惑に、
私たちは
極めて注意していい時代にいる
と思います。

マタイ4章で、
イエスさまがサタンに試されたのは、
この現実正当化という甘い誘惑でした。

しかしイエスさまは言ってくれました。
「サタンよ!退け!」
これは、
今の私たちを誘惑する
現実正当化に対しての
イエスさまの宣言でもあります。

聖書で生きるという超越した希望を、
神様は
今日も
与えてくれます。

同時に、
憲法九条も同じレベルの話だと
考えてもいいと思います。

ということを、
私は先週金曜日の、
連盟憲法共同アクションの会議に出席して、
考えました。

私たちには希望があります!

**********************


というものですが
「聖書はこうなん言うけど
 現実はこうだから
 ではなく
 現実はこんなんだけど
 聖書はこう言う
 というところで生きるのだ」
という
ロマンスグレーのF牧師が
一貫して言っていることに
ちょっと味付けして
書かせていただいたというもの

ほんとに
そうだよなあ

10%で100%

2008年01月30日 | 「生きる」こと
先週土曜日のことですが

6歳になったばかりの
第3子の添くん
若菜さんと一緒に買い物へ

お兄ちゃんたちは宿題があるので
家で留守番

このお兄ちゃんたち
これまで
「宿題終わったー」

嘘ついていたことが判明して約半月
宿題のプリントは
問題集数冊分も放ってあって

「それが終わるまでは
 友だちと遊ぶのも
 テレビを見るのも
 禁止」

という厳しい言い渡しを受けてまして

宿題を黙々とこなしています


そこで

「夕食後になんかデザート食べたいねえ」
と若菜さんが言ったら

「いちごにしよう」
と添くんが言ったそうです

実は
我が家6人の中で
5人はいちごがめちゃくちゃ好きです

でも
ひとり
いちごがめちゃくちゃ嫌いです


そのひとりが
添くんです

なのに
「いちごー」
と叫び
いちご売り場に行って
「これがおいしそうだな」

買ういちごも選んでくれて

さらに家に帰ったら
「おれが洗うー」

いちごを洗ってもくれて

「空と共 がんばってるもんな」
なんて
粋なことをしてくれまして・・・

もちろん本人は食べなかったのですが・・・

子どもって急にこんなことしてくれるので
ちょっとたまらないものがあります


添くんの
残りの99%の活動は
もちろん
自分の
食べたいもの
やりたいこと
のためのものなのですが

でも
人間ってのは
実質1%くらいしかない
隣人のために全力を尽くす活動が
しかし
生全体においては
もしかしたら数十%にもおよぶ
影響力を持つのかもしれないなあ

考えたりします


それが
なんとか10%になんないかねえ
というのが
キリスト教会が
すべての時代と地域で
言ってきていることでもあり
これが
スチュワードシップってやつかもしれません
すると
生全体においては
100%という感触を与えられるような気もします


****************


話がかわりますが

2歳の憐くんは歌をよく歌います
それも音程が合うのでびっくりしますが

クリスマスをこれだけ過ぎても

第一子の空くんを
だれかが
「そら」
って呼ぶと
その音に反応して

「そらにひびっくかねがあ
 かみのみこっのしっらせー」

と歌い始めます

ほがらかになります

感謝感謝


***************


本日

その空くんは
小学校の雪山教室です

だから
そういう格好をしてくるように

学校から言われますが

しかし
そういうウェアなどというものを
空くんは持っていません

そこで
いろんな服を出してきては
代用できそうなものを
探していました

そして
いっぱい中に着込んで
ナイロンのジャージ上下を着てしまおう
というふうに決定していました

長靴と手袋は
セール品を見つけてきました
毛糸の帽子は僕のを持っていくことにしました

でも
若菜さんは長靴と手袋を買いにいったとき
スキーウェアをじっくりと見ておりました
でも
なかなか高価なもので
買うのはあきらめていたのですが

空くんのとある友人のお母さんが
「空くんが着られそうなスキーウェアがあるけど使う」
と持ってきてくれまして

その3秒後には
空くんは
そのウェアを試着し始めていました

ウェアを着た瞬間の
空くんの笑顔は
最高でした


それを着て
今日は朝6時半に
まだ暗いけど
すんごいニコニコして
出発しました

ほんとうに
ありがとう


****************


なんか
パワーをもらいつつ


シャバに戻った
ずっとかかわっている人の
新しい人生を
今日も一緒に考えることになっております


その前に
今から
近隣の方でちょっとしんどい方との
面談があります

というわけで

本日も一日
互いに
ぼちぼちいきましょう

というか
これを読んでくれているときは

今日も一日
お疲れさまでした
というところでしょうか

ではまた明日


故郷

2008年01月29日 | 「生きる」こと
故郷が消える

わたしが育った横浜で生活していた
両親と母方の祖父が
父親の引退を機会に
先週
鹿児島へ引っ越しました

これでわたしは
育った地に帰ることが
おそらくなくなるという状況になりました

わたしの故郷感覚は不思議なもので
それは
わたしのアイデンティティづくりに寄与するどころか
常にそれをばらばらにするものでした

ひとつは育った横浜
もうひとつは
毎週通っていた教会のある東京の大井町

大井町の教会は
父方の祖父
大谷賢二が開拓し
その後日本で有数の大教会となりました

わたしは祖父と面とむかって
しっかりと話したことはないだろうと思います
わたしが話したいと思ったころには
もう弱りきっていました

しかし
祖父に関する資料は
けっこう読んでいたりします

彼に導かれてキリスト者になった人数が膨大で
その中にはまさに
政治、官僚、企業で日本をリードする人物もあり
いったい彼のなにが響いたのか
わたしの大きなテーマでもあるからです

そしていくつか考えていることは

まず彼は見事な政治家であるということです
もともと政治家一家で生まれ育ち
その後聖書に触れて
キリスト者になって
縁を切られたわけですが

政治家の活動技量が
あたりまえのように身についていて
周りの人間を
うまいことほめたりしかったりしつつ
でも支配するのではなく
個々人が最良の結果を残せるように
かかわることのできる人物でした

そのまま政治家になっても
大物になっていただろうと思います

そして彼の残した文章からわかるのは
彼とパートナーになるのか
それとも
彼に依存するのかを
かぎわけているということです

依存、洗脳を嫌っている人でした

しかし
なにか事を動かそうというときは
洗脳的な言葉を連発もしているし
どうもそういう時は依存してくる者をうまいこと動かしているようなので
やはりなかなかの政治家だったのだと思います

また彼の神学は
わたしが分析するところ
カントから学んでいるのではないかと思います

聖霊をア・プリオリとしてとらえていたようです
そういう構造の説教原稿、週報巻頭言などが多々あります
カントからの引用はノートにたびたび出てきます
公の文章では
そういうネタは隠していたようです

カントだったから
熱狂的な教会をつくる方向には
走らなかったのかもしれません

また

幼児教育に力を入れて
やはり相当の幼稚園を作り上げたのも
カントゆえかもしれません

でもそういうあたりは
大谷賢二さんを慕っている
多くの方々に任せるべきでもありましょう




そういう教会があったものだから
横浜にいながら
大井町に毎週通うということが起こりました

しかも
わたしの父はもちろん
賢二牧師の息子なわけですから
わたしの父にとっては
その父賢二の成功した拠点がふるさとであり
アイデンティティであることは
わたしが中学生くらいに発見していたことでした
(そのことで父親に議論をふっかけると
 怒鳴られてましたから
 まさにそうであったのだと思います)

だから父は
横浜で生活しつつも
そこは仮の家で
大井町が居場所だったのだろうと思います

そうすると
アイデンティティが定まらない人間がでてきます
それが
子どもたちです

しかし
そういう危機感のなかで
わたしも高校卒業と共に
大井町に戻りました
叔父の家へのいそうろう一年
その後は一人暮らし

しかし
それはアイデンティティ確立には
功を奏しませんでした

つまりわたしは
大井町の人間ではないことを
そこで生まれ育った人たちとかかわる中で
よくよくわかってくるわけです

そして
そこからぼくの冒険が始まっています

キルケゴールで
キリスト者であることを探す旅がスタートし
ウェーバーでもって
キリスト世界を探す旅をはじめ
フッサールで人間探しをし
フロイトで人間探しをし

結局キルケゴールでもって
ほかの思想を批判するケースが多いことに気づき
その後神学を学ぶなかで
ボンヘッファーなどで
その批判を肉付けし

レヴィナスやデリダなどから
その後多くを学び



アイデンティティ

戦争と同じ意味であることを知るにいたったわけです




これはアイデンティティ確立を
生まれながらに阻まれている者が
実感と共に知るのかもしれないと
思っているところで・・・

ならば
やはり
パレスチナという現場が
あまりに複雑で深い事柄を
世界に発信していることの中に
ぼくよりも
何万倍も深く重く実感されたものがあることは
疑えないわけです

そして
こういう現場は
あちこちに落ちています

そこが
十字架

そして
そういう
十字架で
アイデンティティについては
はじめて
語る資格が与えられるに違いありません



わたしは
わたしのアイデンティティ確立を
させてくれなかった
故郷の地のひとつを
今後
踏むことが
きっとないだろう

という
ひとつの区切りを迎えました

一方
大井町に関しては
高校卒業後に抱いていた
そのアイデンティティ幻想が
ぼくを
それ以上に父親を
さまよわせることにもなっているわけで
(気づこうが気づくまいが)
そこからの解放はテーマであり
それはすでに10年以上にわたり
ぼくなりに実践しているわけです

すると
ぼくの故郷は
どこなのか

たとえば
わたしとほぼ同じ境遇であった妹は
連れ合いの故郷鹿児島に春から行き
さらにそこに両親と母方の祖父もくるわけで
そこで
ひとつのアイデンティティを見つけることになるでしょうし
無意識にも
そういうものが働いていると考えるのが自然なので
そういうのも作用し
そういう選択になっているわけだろうなあと
勝手ながら想像しつつ・・・

ならば
わたしも
若菜さんの故郷
わたしがかなり好きな東京の下町を
自分と家族の故郷とすることに向けて
歩みだすべきなのでしょうか

もし
わたしが今の道を選んでいなかったら
そういう道を本気でつくっていくでしょう

しかし
ありがたいことに

わたしは
教会人です

しかも
バプテスト教会人です

さらに
日本バプテスト連盟という現場における
バプテスト教会人です

この間
バプテストの関係性において
歩むことがゆるされています

すると
こう言っても
いいと思います

バプテストにおける関係性が
わたしの故郷を
築いてくれる
と。。。

おそらく
北海道に行っても
沖縄に行っても
このふるさとは
開かれています

でも
これは
決してあたりまえのことではありません

日本バプテスト連盟は
結構すごいことを
(これまた気づこうと気づくまいと)
本質において獲得してきていると思います

あれだけ
言い合いもするし
けなしあいもするけど

でもつながっていることを
信じているというのは
丁寧に歴史を歩んでいるからこそ
と思います

もちろん
バプテストが故郷なんてあるかいな
という批判もあろうと思いますが

それも
なんかいつもバプテスト連盟の動きに
いらだっている人とか
その議論に加わらない人とか
はすに構える人とか
距離を置く人から
批判がでそうな感じが
これまた勝手ながら
しますが

そういう批判があるならば
実は
さらに
やはり
バプテストの関係性が
故郷たり得るという
論を強固にするわけでもあり・・・

というわけで

わたしのふるさとは
バプテストであると
本日は結論づけたいと思います

あ!

そうそう

これを

ふるさとは
キリストだ!!!!!!!!!



超飛躍ですが

しかし

言い換えることもできると
本気で思います


だから
京都教会のみなさま
08年度の「バプテスト誌」を
ぜひご購読くださいね


というところで
おしまい。。。


昨日の記事
門田さんのあたたかいご指摘を受けて
一部書き換えています


よってたかって

2008年01月28日 | 教会のこと
すばらしい主の日でした

子どもメッセージの取り組みは
大成功しています

まずは先週
初めてメッセージを担ったKさん
子どもに自らの信仰史を語られつつ
「なぜ教会に行くの?
 神さまの言葉が聞けるから!」
という
これ以上ないほどの
もっとも大切な宣言をしてくれました

すごいよなあ
身体がふるえますよ
ああいう宣言の瞬間は

そして昨日
こちらも初登場のヒロコおねえさん
賜物を分かち合うというテーマを
大きな大きな手作りのギフトボックスを用いて
当教会の現場を踏まえた
いろんな賜物がまさにギフトとして
でてくるでてくる

なぜか
涙腺がゆるんで
でてくるでてくる
わたしの涙


京都教会に来て10年
「神と具体的な隣人を思い
 よってたかって
 あれやこれやと
 言い合って
 作りあって
 笑いあって
 泣きあって
 教会の活動は
 教会の活動となるのだ」

言い続けてきたわけですが

それが
はっきりとよくわかるかたちで
それも
誰にでも分かるかたちで

子どもメッセージであらわれたことに
衝撃を受けたのだと思います

こうなれば
伝わらないわけがない!!
ヒロコお姉さんと
一緒にメッセージづくりと
視聴覚教材をつくりに
取り組んだ仲間たちの
全人格が・・・・・

もちろん
子どもたちの集中度は
2歳の子どもでさえ
最高度をキープし続けていました

感謝


お昼ごはん
礼拝中に台所から
トマトピラフのいい香りがしてきまして
たまらないものがあったのですが
しかし
なぜか
ガス釜の安全装置が働いてしまって
生煮えになりました

そこで
スープと
急遽用意されたパンとなったのですが

でもでも
その生煮えのを蒸しなおして
30分後には
トマトピラフも
アルデンテで
復活

それがうまいうまい

たまに
ハプニングがあると
実は
逆に
人間が人間らしくなれるのです

だから
最高の昼食でした


そして
教会学校は
赤ちゃんからおとなまで合同で

ツバルという島国の生活から
いろいろと考えました

ツバルでしばらく生活していた
門田奈津代さんが来てくれまして
現地の様子のビデオを見ながら
互いに言葉を交わしました

とりわけ
葬儀の場面は
教会に深い衝撃を与えてくれました
ツバルはキリスト教徒がほとんどなので
キリスト教会での葬儀なのですが

死をその身体で表現する様は
信仰の表現であり証だなあと思いました

また
遺された者たちが
賛美する
そのタイミングや
声のだし方など
態度全般からは
生と死と賛美の本質が見事に交わることを知り

日本の教会の貧しさを反省しました


さらに
ツバルといえば
わたしはメディアを通じて
地球温暖化における海面上昇で
沈みそうな国
とインプットしていたわけですが

脳みそがひっくり返りました

わたしが見ていた洪水の映像は
海面上昇によるものではなく
戦争中に米軍が
滑走路をつくるために
島のあちこちから土を集めて
島がでこぼこになり
島全体が珊瑚の地盤だから
海水が珊瑚を通り
でこぼこから染み出してきているそうで

満潮のときは
その池が増水するというわけだそうです
戦後ずっと・・・

地球温暖化というより
戦争の傷跡ではないですか

さらに
海水上昇のためにけずられていく
と報道されている崖の映像は
道路建設のために海岸線の珊瑚を使ったためとのこと
いわゆる近代化による傷跡


さらに
海面上昇で木々が枯れていくという映像は
実は
その枯れていく浜辺の反対側では木々が増えていて
それを歴史的に繰り返しているとのこと

現地の人はそれをメディアからのインタビューのときに説明するけど
カットされるのだそうです

またツバルの人たちは
互いに話をあわせていくという
ヨーロッパから生まれた
言葉の絡ませ方とは
正反対と言っていいような
しかしそういう科学仕込みによる言葉から解放されるなら
どっちが真理で正義か実はわからないところの
そういう言葉の重ねあいをしているようで
海外のメディアが彼らの思っていることを言えば
それに普通に話をあわせることも起こるようで

すると
海外メディアは
そういう他者である文化と出会うことはないから
まさに消費するだけだから
ツバルの人たちの言葉を
どうにも仕方なく
あまりに当然に
自分たちの土壌における言葉に
摩り替えてしますので

メディアの予想通りだということの
証拠として
現地の人の言葉を採用してしまうことに
なっているようで・・・


海面上昇は
1年に1.7mmから大きくても5.8mmとのこと
確かに温暖化の影響はあるけれども
海面上昇よりも
異常気象とりわけ大きな嵐が世界各地で起こることのほうが
深刻だなあと思いつつ・・・


ツバルに関する情報操作って
何のため????


門田さんがステキ

小さな子どももつれて
言葉もわからないところに飛び込んで生活してしまう

わたしは
いわゆる海外旅行が嫌いです

レヴィ=ストロースという哲学者が
「悲しき熱帯」という有名な論文で
「旅とか旅行家は嫌い」
と述べているのを読み
その理由をその論文から知るにいたり
海外旅行は
ただの消費で
出会いではないことを
自分のしてきた旅行も振り返りつつ
知ったわけです

あるいは
せっかく海外で学んできた人たちが
なんら
東京で学んでいる人と
かわらないことしか言わない
というケースを
多々
あまりに多々
経験し

しらけてもいました

しかし
門田さんは
それらとは
異質で
あまりに本質だと思いました



すごいから

従来1時半までの教会学校が
2時40分までとなりました

スタートも
昼食の楽しいハプニングがあったので
かなり遅れたのですが

こういうところは
消費時間で動くのではなく
本質時間で動くべきだから

どんなに伸びてもいいのです



全体懇談会までみんな残ってくれて
そこでの
昼食や清掃や庭に関する意見交換も
活発で
これまた
門田さん効果かもしれないなあと思いつつ

3時半になって解散

でも青年会はイースターに向けて話し合いをはじめてくれて

なんか

よってたかって
言いあって
作りあって



当然となってきつつあり

だから
なんとも
すばらしい主の日でありました

感謝感謝







賜物を分かち合う

2008年01月26日 | 教会のこと
先週1月20日の週報巻頭言です。

***************

キリストの体である教会は、
それぞれの賜物の集合として
認識されているのだと思います。
私たちは、
それ以外に
キリストの体の認識方法を
知らないかもしれません。

だから
賜物を各自徹底的に大切にすることは欠かせません。

さて、しかし
私たちは、
賜物をそれぞれの得意な専門的技術や才能と
理解してはいないでしょうか。
確かに
パウロさんが預言の賜物のある人は預言し、
奉仕の賜物がある人は奉仕をしよう、
と言ってはいますが、
でもこの彼の言葉から、
賜物を各自の専門性ととらえておしまいにするのは大きな間違いです。

それはまず、
そうとらえるときには必ずと言っていいほど、
私たちは現代社会の社会的役割の分業体制を
イメージするだろうからです。
今の私たちが
人の集まる場所で生きるためには、
それ以外の方法をとることは困難だから
なおさらです。

しかし!
ここが大事ですが!
私たちがイメージできた時点で、
すでに賜物は
ある意味で偽物としてイメージされます。
神さまの与える物事が
そんな簡単にイメージできたら大変です!
神が人間のイメージレベルでおさまるということですから。

賜物をこのイメージでとらえると、
教会も他の人間の集まりと同じくして、
そういう高価な言葉を
人間の都合で用いるようになります。

たとえば
「私にはその賜物がないので、できません、かかわれません」
という消極的な使用法は
長くキリスト者として歩む中で
誰でも経験したことがあると思います。

だから、
私たちは今一度、
聖書の次の三つの言葉から賜物について考えます。

聖書は、
「神の賜物」「聖霊の賜物」「イエス・キリストの恵みの賜物」
というふうに、
実は賜物の所有者を明確に教えてくれます。

そう!
賜物は
「私の」技術や得意分野という所有できるものではなく、
端的に神さまのものであって、
それを私たちは奇跡的にも受けるのです。

ということは、
もうお気づきでしょう。
京都教会で繰り返し分かち合われていることですが、

賜物は、
わたしとあなたの間にはたらき、
わたしとあなたをつなげる
主イエスの所有物、
つまり愛なのですよ。

だから
今日からは、
自分の、ではなく
神の所有する賜物を
分かち合っていきたいと願います。

********************


という風に書いてみましたが
しかし
聖書には
実は
賜物を人間が所有していることも
はっきり書かれているんですねえ

だからこの巻頭言は
まだ途中なのです

神の所有と人間の所有との
その間を
どのように受けて考えて生きるのか

実はココがすべての中心点でしょうねえ

これが
明日の説教のテーマです


*********************


明日の礼拝における子どもメッセージは
初登場
ヒロコ姉さんです

と言っても
これまでも手作り視聴覚教材でメッセンジャーを助けているお姉さんです

しかも
ヒロコ姉さんは誕生日も迎えます

おめでとう!!!

だから明日も
とてもいい日になるのです

感謝


キムチなのだ

2008年01月25日 | 「生きる」こと
驚愕の旨さ!
びびった!
久々に!

若菜さんがNPOを通して出会ったおばちゃんから頂いた
手作りキムチ

鯛の塩辛を自分でつくって
それを使ってつけた
という
こだわりぬいた味

伝え聞くところによると
鯛の塩辛をつくっている最中は
隣近所がびっくりする香りを放ち続けるという

でも
そんな臭さが
こんな旨みとなって
復活するというのは

なんとも
哲学ではないですか

いやいや
信仰ではないですか

ちょっとこのごろ
腐っていると
自分で判断しているなら
喜んで前をむいて
驚愕の味わいを醸し出せるときが来ることを
待ち望みたいではないですか

なんて
ちょっと無理やり
でも
真面目に
語りたくもなります

臭いと旨い
あるいは
腐いと旨いは
紙一重というより
同じ本質なのではないかなあと
思います

そのキムチを頂きつつ
同時に納豆も食べていた息子たちが

納豆はやっぱうめー
と何度も叫びつつ
納豆キライな人ってもったいねー
と何度も訴えておりましたが

納豆の旨みって
世界三大珍味の旨みに
勝っている

わたしは本気で思ったりもしています

人間でだってそうなのさ

世界中からなんかすごい人間を探してきても

それぞれの土地の現場で
じっくりと熟成されている人の
つまり
深く歴史を繊細に大胆に丁寧にねばりづよく
生きてきた人の味わいには

かなわないと思うなあ

そして
そういう現場で丁寧に生きる人は
必ず
一度といわず
結構何度も

腐っているわけですもんねえ


ふと
復活するということも
経験しているわけで・・・

うーん
キムチに納豆は
十字架の神学だったのか???

まあそんなんは置いといて・・・

そうだ
キムチ人生!
納豆人生!

いやいや

キムチ納豆人生!!
アーメン

なのだ!


いうところで

本日はおしまい



冷たさの中で

2008年01月24日 | 「生きる」こと
東京は昨日大雪だったそうで・・・

京都も
冷たいです
雪が真横からぶつかってきます
でも
積もるほどではありません

冷たいです

この時期は
その冷たさが体の内部に染み込みます
自分の持つ
他者へ行き届かない
どこかにかくれている冷たさとこの時期の冷たさが
響きあっているようで・・・


Nさんはこの時期に心臓が止まったのだろうと思います
独りで
静かに・・・

彼を見つけることが出来たのはそれから2週間後


5年にわたって
難しい病とたたかってきていたNさんと
言葉をかわし食事をし・・・

しかし
彼を独りにしてしまった・・・

祈り謝るしかなく
しかし謝ってなお彼を苦しめるのかと
責められつつ


おそらく
この出来事で
私は
キリストを信じる

全身全霊で言うようになっただろうと思います

キリストが
Nさんを知っていて
今、共にいてくれないと
困るから・・・

深い困窮に押しつぶされそうになりながら
懸命にたかかいつつ生きてきた
若いいのちが
しかし
召されることになった出来事は
どんな言葉をもってしても
表現できない
深い深いなにものかへと
ぼくらを導きます

そのなにものが
明るいのか暗いのか
暖かいのか冷たいのか
希望なのか絶望なのか

まったくわからないけれど・・・

でも

その導かれるさなかにあって
自分の行き届かない冷たさを
外部から受けていることだけは
間違いないようです

Nさんは
ゆるしてくれるだろうか
キリストは
ゆるしてくれるだろうか

深い意味での
復活を
信じつつ・・・


******************


先日訴えさせていただいた
浜松における
冷たい事件

誰にも手をさし伸ばしてもらえず
消えたいのち


次のような署名の呼びかけが届いています
よろしければ・・・

***************************


昨年11月、
衰弱していた野宿の女性が
浜松市役所に運ばれたにもかかわらず、
アルファ化米を渡されるだけで放置され、
亡くなってしまったという事件があったことが
明らかになりました。

このようなことを二度と起こさせないために、
第三者機関に事件の検証を求める
請願署名が緊急に呼びかけられています。

・ 請願署名となっていますが、押印は必要ありません。
代表者が押印した請願用紙に、署名を添付する形とするそうです。

・他県であってもかまわないので、どなたでも署名をお願いしたいとのこと。

・ 2月8日までには提出したいとのことですので、
ご署名はお手数ですが2月6日までには届くよう、
署名用紙にあります送付先の
「生活保護支援ネットワーク静岡」にお送りください。

 よろしくお願いいたします。

署名用紙をこちらにUPいたしましたので、
ダウンロードしてお使いください。


また、署名呼びかけにあります
2月29日の反貧困集会については、
クリエート浜松で18:00から。
主催は署名呼びかけ団体でもある
「生活保護支援ネットワーク静岡」とのことです。

クリエート浜松

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ほじくりかえされた
週報巻頭言は
ひとつ下にあります
昨年末のものです


選び取る その壱

2008年01月24日 | 教会のこと
数日前に
2008年1月6日の京都教会週報巻頭言
「選び取る その弐」
を先にUPしました際に
その壱は後日と書いてしまいましたので

本日UPします
2007年12月30日
昨年末の週報から


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「選び取る」

今年も最後の主日となりました。
私たちはこの1年の一つ一つの出来事を想起し、
その罪を告白し、
主の赦しを受けることができます。

しかし、
罪を知ることは難しい事柄です。
キリスト教会は歴史の中で
今にいたるまで
罪を間違って把握することが多いことは
正直に告白せねばなりません。
それにより、
キリストの思いと真逆の道を進むことが多かったことも
よく言われますし
確かにあると思います。

ボンヘッファーは、
罪を間違えることが、
人々を救いから遠ざけるのみでなく、
大虐殺を起こすまでになることを
75年前のドイツという
戦争前夜といっていい状況の中で
予見しつつ
また言論が不自由な中で
暗に語ります。

だから彼は
罪の認識と告白を、
キリスト者の生活の第一歩と語りました。

彼によると、
最も大きな間違いは、
私たちが反省するときに、
自分個人の感覚、感触で、
罪を定めることだということになりましょう。

つまり、
1年を反省するときに、
自分を中心として想起するとき、
そこに罪は発見されないということです。

ならば、
どこで発見されるのか。

それは、
他者との間であり、
その間におられるキリストであり、
そのキリストのかたちが決定的に起こされる
教会の交わりのおいて発見されると、
ボンヘッファーは語ります。
(著書「キリストに従う」「共に生きる生活」「教会の本質」にて多くが語られています)。

だから今日、
私たちは、
神により結ばれた他者を想起し、
その間の愛にどれだけ立つことができたかを反省し、
その行き届かなさを
罪として知ることでしょう。

そういう意味では、
今年のとりわけ後半の活動において、
教会の交わりを常に覚え、
そのために驚くほどみんなで祈り、
また奉仕し、
それも細かいところに行き届くようになってきたことは、
キリストの体としての、
救いと解放を味わうことができる場面に
触れたゆえなのだろうと想像します。

と、同時に、
自分個人の感覚、感触で
救いを感じ取る癖がある場合は、
その感覚に合わない教会と
なってきたかもしれません。

しかし、
その合わなさの中にこそ、
本当の救いが隠されています。
つまり、
自分からキリストへと
解放される瞬間からです。

教会の交わり=キリストの体を選び取る!
ことが
罪を知る地平でもあるから
それがキリスト者の第一歩!!

ぜひ一緒に踏み出したいと願います。


そしてドライカレー

2008年01月23日 | 「生きる」こと
そして
昨晩はドライカレー

若菜さん
さすがです

我が家で一番大きなフライパンで
これでもかとたくさんつくって



と持つはずだったのですが

あれよあれよ
と減っていって


若菜さん
晩の食事を考えています

朝からえらい!!


確かに美味い!!


昨年の小学校運動会
今は
ぼくらの頃と違って
子どもたちはお弁当を教室で食べます
家族で校庭で食べるというのは
さまざまな事情でなくなっているそうです

わたしだったら
家族で校庭で食べるかたちのなかで
さまざまな事情を突破していくことを
考えますが
まあ
それはそれとして

その運動会の弁当
空くんと共くんは
ドライカレーがいい!!
ということで

ドライカレー弁当を持っていきました

運動会が終わった晩

「弁当うまかった?」

「うまかった」

「よかったよかった」

「でもな 変な弁当っていわれた」

「そんないうやつおるんか」

「茶色の弁当で変っていわれた」


こういう報告をわざわざするのだから
本当はもうちょっとはげしく言われたな?
と思いつつ

「そうか
 ほかのみんなの弁当は何色だった」

「赤と黄色とか緑とか」

「なるほどなるほど
 トマトにケチャップ赤ピーマンにえびとかかいな
 黄色いピーマンもあったかいな
 そして玉子焼きに
 みどりってなんやねん
 まあまあ
 そんなんよくある弁当やねえ
 そういう弁当がきれいでかっこいいです
 ってみんなが思い込んでいて
 かっこつけるために
 そういう弁当をつくるわけよ
 でもな
 おまえのかあさんはな
 ただただおまえが大好きなものを
 おまえのために作ってんねん
 つまりな
 よそのかあさんより
 一歩も二歩のすすんでんねん
 おまえ
 最先端の弁当を持ってったてわけよ
 よかったねえ」

なんて言ってみたら

「めっちゃうまかった
 来年もドライカレー」

と来たもんで
ちょっと安心した

なんていう出来事がありました

ドライカレー
最高!!!!






そうか!ステーキか!

2008年01月22日 | 「生きる」こと
昨日は
そうくんの誕生日
6歳
4月から小学生
はやすぎる!

あまりに
はやすぎる!

我が家では
誕生日を迎える者が
自分の好きな夕食とデザートを選ぶことが出来ます

そして選ばれたデザートに
無理やり
年の分のろうそくを立てます

ショートケーキを選ぶ場合もあるし
ゼリーなんて時もあります
ゼリーに関しては
好きなジュースでつくることができるので
CCレモンのゼリーとか
デカビタCのゼリーとか
これまでいろんなゼリーが登場しています

そこで
炭酸飲料でつくるゼリーはおいしい
ということを発見もしています

そして今回
そうくんは

夕食はドライカレーがいい

先週から言っていました

だから若菜さんはそのための準備をするわけですが
当日の夕方になって
突然
やっぱりステーキがいい!

と言いました

え!?


ひっくり返りそうになりながらも
そうくんが言うからには
そこで予定変更
ステーキとなります

なんでステーキがよくなったん?

えーとな
そらとともが
ドライカレーにしようやって言うからな
ドライカレーって言ったけどな
ほんとは
ステーキがよかってん

というわけで
上のお兄ちゃんふたりが
そうくんをまるめこんでいたのですが
直前で
そうくんはそこから脱出したようであります

おもろい



デザートは
ミスドのドーナツ!!
ということで

みんなで出町のミスドに行きました

そうくん
チョコレート博士といわれるだけあって
さすがです

えーと
チョコレートと
ダブルチョコレートと
ゴールデンチョコレートと
ポン・デ・ダブル・ショコラ!!!!


さっさと注文してしまいました

そして
そのポン・デ・・・・

ろうそくを立てました

これが
若菜さんの妹家族から
うまいこと
かわいいろうそくがそうくんのために送られてきまして

それは
お・め・で・と・う
というそれぞれの文字のろうそくと
毛糸の帽子をかぶったかわいい顔のろうそくで
ピッグで固定するタイプ

だからドーナツに立てる(というか挿す)にはぴったりでした

ほんとありがとう!!
ふうちゃん(いとこ)からの手紙はしびれました
感激感謝!!!

はぁぴっばぁあすでえとぅううゆうう

はちゃめちゃにうたわれたのは毎度のこと

そうくん
おめでとう!!!!!!!!!
愛してるよおおおおおおおおお



本日ほじくりかえした
過去の週報巻頭言は


あわせてどうぞ

目指せ100年 その弐

2008年01月22日 | 教会のこと
昨日100年ということを語ってみたりしましたが
9年前
わたしが赴任した年に
すでに
同じようなコトを週報巻頭言で書いてました

「三代目に期待する」
というタイトルで

・・・・・・・・・・・・・・・・


少しづつ週報巻頭言をブログにも載せましょう
と言ったものの
教会の週報なので
当然教会的なものが多いわけです


現代の教会のテーマとして共有できる可能性が多々ありますし

また
私が赴任した以降の教会の歴史を
とりわけ
ここ数年で京都教会に加わっている
とりわけ若い人たちが知るには
ブログが適しているだろうともおもいますので

教会的であるけれども
そうであるゆえに
ここに載せてみようとおもいます

ただ
大事なのは
相当に当時の状況との対話から
書いてはいますけれども
なんといっても
私の視点なので

ここから興味を持って
他の人の視点も知ると
歴史が生きてくるだろうと思います。

では
2000年1月16日の週報巻頭言を


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「3代目に期待する!」   

だいぶ前の話ではありますが
昨年の12月8日の朝日新聞で
10才代の若者50人に
「12月8日はなんの日か知っていますか?」
という質問をしている記事がありました。

でも正解者はいませんでした。

しかしながら、
12月8日が真珠湾攻撃の日であると知らされると、
若者達は
みんな自らの思っていることを
語り始めたのだそうです。
そしてなんと36人が、
この12月8日は決して忘れてはならず,
この日から始まった戦争の実体と悲惨さを
後世に語り継がねばならない
と言ったそうです。

私はこの記事を読んで、
戦争という事柄は
彼らのような3代目において、
本質的に議論される可能性があるのではないか
と希望を抱きました。

つまり、
彼らは、彼らの祖父母に当る戦争経験者から
話を聞く事もできるし、
しかし、その話を熱狂に任せて聞くのではなく,
ある程度の客観性を伴って聞く事が出来るからです。

そう、
わたしたちが
ある事柄に熱狂して
物事の本質を見失うときというのは、
細部にこだわるから、
たとえば日付を忘れることはないでしょう。
しかし、
落ち付いて見ることが出来る頃には、
日付などよりも,
その事柄それ自体の本質を
しっかりと見る事が出来るのかもしれません。

だから、
日付は覚えていなくとも,
語り継ぐべき本質について語り出した若者に
わたしは期待するのです。

教会もそうだと思います。
おそらく教会も創立してまだ若い時期は、
教会の暦や運営などの細かいところまで気にせねばならないし、
ある意味では律法的に振舞うことを求められますが、

しかし、3代目くらいになると、
細かいところよりも、
全体を総合的に,また相対的に視ながら、
教会のあちこちで起こっている
キリストの出来事に集中するということが
できる様になってくると思うのです。

そしてそのときには
細かいところは
そんなに大きな問題とはならないのかもしれません。

歴史は3代目で
バランスがとれてくると言えるのではないでしょうか。

そして京都教会はいま、
3代目である小、中、高生が若干ですがいます。
そしてわたくしは
彼らが具体的に教会財政や運営を担う頃には、
京都教会はさらに教会の本質を生きている
と期待するのです!

そうそう、
そういえば優れた福音書を残したマタイも
3代目なのですよ!

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なるほど
若さ丸出し文章ですが
歴史の見方としては学ばされます

「細かいところを気にしない」
という書き方は
今ではしないでしょうなあ

いまなら
「細かいところをやっぱり気にしないといけない」
と書くと思います

細かいところをホーリスティックな視点から
捉えなおすことすらできる

と言いたいところです


問題点はまだありまして

福音の中身はいったいどこに?
という
牧師失格の文章でもありますなあ

教会形成としては合格かもしれませんが・・・

さて
この頃の教会は子どもたちを受け入れる
精神、人材、プログラムなどがまだ貧しく
教会の3代目にあたる当時の子どもたちに
大変申し訳なかったと反省します。

今の京都教会だったら
教会学校がしっかりあって
分かち合われるべきことが分かち合われるようになってきているので
なんとかなったかもなあ
と思いますが

でも
そんな簡単な問題でもないかもしれません。


京都教会に集う子どもたち、小学生たちには
はっきり言いたいです
教会という多様な人間の集まる群れを
家族と言い切る現場は
決定的に
大切です
神なしに
愛なしに
言い切ることができないから
大切です

神を
愛を
求め続けるゆえに
大切です

他の現場ではチャレンジできない生の本質があります

目指せ100年!
いやいや
目指せ再臨のとき!
(こんなんいうと
 胡散臭さがあるのは
 今の時代の宗教観の
 欠点ですなあ)

主イエスよ!!!!!
来たりませ!!!!!


というところで
8年前の巻頭言に
福音の中身をプラスしました

ではまたあした

目指せ100年

2008年01月21日 | 教会のこと
本日の朝日新聞京都版の
35面いっぱいで掲載される「週間まちぶら」で
荒神口通が紹介されていまして
京都教会も紹介されました

私と共君の写真も載っています

さっそくその記事を読んだ地域の方々から
お電話もいただきました
感謝

今後ともよろしくおねがいいたします

荒神口通は古き良きものと
新しいものが混在する
とても刺激的なところです

わたしはここで生活して丸9年
まだまだまだまだ
街の人間とは認定されない者ですが
(前任の牧師は34年住んでいましたが
 いまだに九州の人と言われます 
 もちろんわたしも東京の人
 として認識されております)
それがなかなか面白く
きっと
この街で孫まで産まれるようなことになったら
荒神口の人間と
認識されるかなあという
深い歴史ゆえの
大きな希望を楽しんでいるところです

でもこういう歴史のスパンは
すごく大切で
100年なんてのはちょっと前のことという中で
あるいは
何か事をするならば
100年してやっと認められるという中で
生活するというのが
人間本来のリズムでペースのような気がします



この100年つなげるというのは
相当に深い哲学と作業と交流を必要とするわけです

100年あるからのんびり
なんて言っていたら
まず100年経たず消えるでしょうし

100年しかないからあわてて
なって言っても
消えるでしょう

なんてことが
そっくりそのまま
わが京都教会にも返ってくるわけですが

いま
深い哲学というか信仰と
作業と交流の
基礎づくりをしているところであり
正直
まだまだ未熟でありますが

ぜひぜひ
こちらのほうも
地域のみなさま
ご理解とご協力を



告発 命令 期待

2008年01月20日 | 平和のこと
昨日は
地元の京極・春日九条の会の新年会で
ちょっとばかしのおはなし

こんな感じ

********************

この街に来て丸9年

教会の隣の荒神橋で生活する
ホームレスと呼ばれる人たちと挨拶を交わし
いろいろとお話を聞き
個人的にかかわりはじめ
その後
寄り添いネットというホームレス支援団体になりましたが
そういう活動もはや9年

地域のみなさまに支えられ
活動を続けられていることに感謝するしかありません

この年末から
こんなことを考えています。

このホームレス支援にボランティアで来られる人たちが
教会においている憲法9条関連の活動のチラシを手に取り
9条は大切、守らなあかん
と言ってくれるのはなぜだろうということです。

彼らは
とくに憲法や平和に関する運動に
積極的に取り組んでいるわけではありません

でも9条の重大性はよくよく知っています

私どものホームレス支援の理念は
もはや全国的によく知られるものでもありますが

ホームがレスしていることからの回復
つまり、
家族や関係性が喪失している状態から
もう一度関係性、ホームを取り戻すという
そういう大きなものであります

簡単にいうと人はひとりでは生きていけない
ということだろうと思います

さらに言うと
人は共に覚えあい、分かち合って生きる仲間が
必要だということです

それは
もちろん
互いに殺さないし、武器を向けないという
そういう大前提にある仲間です

ひとりだと
殺すな
とか
武器を持つな
ということは
意味がなく
これは相手があるからこそのことです

この当たり前のことがとても大事だなあと
最近考えています

法律的に言うと
憲法9条を守ること
つまり
戦争しないこと、武器を持たないことは
誰が誰に期待し、命令するのかというと

それは
私たち市民が
国家、政府に期待し、命令するわけです

しかし
論座という雑誌で有名になった赤城論文というのがありまして
彼は学歴を持ちつつも
仕事がなく負け組とされているひとりと
位置づけられると
ご自身でおそらく言っている方ですが

彼が要約するとこんなことを言っています

今の凝り固まった世の中において
一度負け組とされた者は
もはやそこからぬけだせない
だから
もう一度社会を流動化する必要がある
その手段で考えられるのは
戦争だ
戦争が社会を流動化し
負け組にチャンスが訪れる

だから戦争を望むこともありうる


なるほどここから私たちは

市民は国家、政府に
戦争をしろ
9条をかえろ
と期待し、要求している場合も
あることがわかります

そこでわたしはここで何が問題なのか考えました


こんな風に思いました
私たちが国家に期待し要求するという線は
実はもうひとつの線とセットでしか
意味を成さないのではないか
ということです

つまり

国家に期待し命令できる私自身は
いったい誰に期待され、命令されるのか

ということが大事だと思います

他者から私という線と
私から国家という線を
セットにしてはじめて
憲法は語られるべきということです

数年前に
5.3の憲法集会で堤さんを招きました
彼女はニューヨークで働いていたときに
9.11を経験した人です

そして彼女は
ニューヨークで殺された怯える者
さらに
そこで殺気立った復讐の雰囲気
の只中に身を置く中で
日本の憲法9条しかない
と思ったわけです

それはつまり
ニューヨークで苦しみ悲しみ怒り
またその後アフガンでイラクで苦しみ悲しむ怒る
そういうひとりひとりから
それこそ強く告発され命令されている
自分自身を発見し
さらにそれを受けた自分自身が
日本という国家に
憲法9条を命令するのでありましょう

これは何千キロと離れた
銃を向けられた人たちから
告発されるのみならず
わたしは
荒神橋の下で
たとえば
実際に若者から暴力を受けているホームレスの人たちから
あるいは
明らかに死と隣り合わせにある生活状況を強いられている
ホームレスの人たちからも
告発され、命令され
さらに期待されているのだろうと思います

だから
ホームレス支援にたずさわる者たちが
9条に強く共鳴するのではないでしょうか


わたしたちが9条を守っていく運動をするときには
誰が私に9条を守れと告発し、命令し、期待するのか

耳を澄まして聞いていく必要があるだろうなあ
と思います

これからもぜひ
ご一緒に活動していきましょう


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今から
礼拝前の
祈祷のとき

わたしの好きな時間のひとつ



つながれ!ホーム!

2008年01月19日 | ホームレス支援のこと
昨日の夜は
市役所前炊き出しでした

また京都市による年末年始の宿泊サービスが続いているため
(一回70人弱が2週間宿泊するというのを3交代
つまり合計6週というもの)
集まった方はいつもの三分の二ほど

この間冷え込んでいるので
すごく心配していたけど
昨晩は多少あたたかくて
多少ほっとしましたが
やっぱりたくさん心配です

たまたま
いつものボランティアメンバーで
都合の悪い人が重なり
わたしが久しぶりに包丁をにぎり
台所にも入るという
ことがゆるされまして
(いつもはわたしが入ると邪魔になるだけなので)

結構大変なことを
いつもはあんなにスムーズに
うまいこと連携してやっているんだ

いまさらながらに
感動しました


市役所前に夜10時につくと
そこで2名のボランティアも合流
1名は初めて参加するKさん

全身から愛がにじみ出ている人でして・・・

心からありがとうございます

小三の空くんが
当事者のひとりひとりに
使い捨てカイロを手渡し
小一の共くんが
雑炊をおたまでおわんについでくれます

とりわけ共くんの作業は
大人の倍以上かかるのですが

当事者も
まわりのボランティアも
寒いのに
あたたかく見守ってくれていて
その雰囲気が
とてもステキなものとなりました
(わたしは共くんに
大人にかわりなさい
と言ったけど、
まわりの大人たちは
私よりも
その状況で
的確な判断をして、
共くんに
お願いし続けたわけです)

待ってくれたみなさん
ありがとうございました

炊き出しに来ることができた方は
まだ元気でなによりなわけですが

「いつも身近にいる人で
 今日来ることができないような
 しんどい人はいませんかぁ」

ということが大問題

つながれ
ホーム!!!


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