きぼう屋

生きているから生きている

汝の敵を愛せよ。同質と異質

2011年11月30日 | 「生きる」こと
この間の大きな出来事を通して感じたことを
ツイッターでこんな風につぶやいてみました。

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敵を想定しその敵にやられる!という恐怖と、
そいつのせいで不幸!という感情的原因と、
そいつをやっつける!という感情的目的でまとまることを求めること。
同時にそれは結局自分に対する評価ゆえにまとまるのでなく、
敵の敵は味方ということでまとまるということになっていること。

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すると
ツイッターで平川克美さんも
同じ出来事から同じテーマを覚えたらしく
連続してつぶやかれました。

そのとおりだなあ、と思いました。
ここに残しておきたいと思いました。

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敵対者を発見し、現状の停滞はすべてこの敵対者に原因するというロジックは、
一見わかり易く、それゆえ政治的にしばしば採用される。

このロジックの欠点は、
最初は外敵を打破するという手法で集められた同質集団が、
次にはその集団内部に敵を発見しなくてはならなくなるということです。
そうやって同質集団は縮小していく。
歴史上の同一党派に起きた粛清はそのことを示しています。

このようにして、最期はごく少数の独裁的な権力と多数の面従腹背者しか残らなくなる。
これを避けるためには、最初のロジックを見直す必要がある。
それは、敵対者のなかに、自分との同質性を発見するということ。

政治的成熟とは、
敵対者のなかに、自分と同じものを見出して、
なんだ同じじゃないかというかたちで協同するところに始まります。
そうすることによって、はじめて違いが何であったのかということが冷静に判断することができる。

同じものなど何一つないという方もおられるかもしれませんが、
それこそ幼児的な観念の特徴だろうと思います。
人間は同じところから出発して、成長するに従ってそれぞれ個性的にばらけていく。
成長期とは異質性を発見していくプロセスだからです。

しかし、成熟をむかえ、老いに向かって、
最期は皆同じようになって、誰にでも平等な死に至る。
ばらけていたものが、再び同質性へ向かって移行してゆく。
そのばらける力と、まとまる力が激しく拮抗することをわたしは「移行期的混乱」と呼びました。

人口が減少し、超高齢化して成熟国家となった日本にもとめられているのは、
個々の違いを際立たせる政治ではなく、
同じものを発見しネットワークしてゆくような成熟した政治だろうと思います。
地域共同体こそ、そのネットワークの基盤だとわたしは考えています。

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同質性の発見と違いの発見が同時的に起こるわけです。

ただ私の経験では、
個々の違いが当然のこととして互いに受容されている!
ということが起こっていることが条件でそれが成熟であるという言い方もしたいと思いました。

違いに耐えられない場合に、
違う者を敵とすることと同じくらい、
違いを強調し、同じことを非難するということも起こるので、
この後者も卒業することが条件。だとも思ったのでした。

全く違う者どうしという大前提のなかで
同じっぽいものを見出していく。

このあたりが意識しなくても身体にて行われたらとてもおもしろい。

と思うのでした。




世界に出かける

2011年11月27日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「世界に出かける」

今週は日本バプテスト連盟に加盟する教会・伝道所が一緒に世界伝道を覚える世界祈祷週間です。
現在、私たちはタイの神学校に日高宣教師夫妻、ルワンダに佐々木宣教師ご家族、そして新たにM宣教師ご夫妻をC国に派遣しています。
(シンガポールの大谷恵護・レニー夫妻は、現地教会から招聘されておりますが、連盟も支援しています)。
それぞれの働きが祝されるよう、今週はさらに祈って参りましょう。

先週の水曜日の夜、実は佐々木宣教師が当教会に宿泊しました。彼は京都のあちこちで講演をされている合間に訪ねてくれました。
そして感謝なことに、その晩に、時間を忘れて佐々木宣教師とじっくり話し込むことができました。

そして本日は、その会話の中で確認できたことを少しみなさんと分かち合いたいと願います。

佐々木さんとの会話の中で、私は重なり合う多くの部分があることを再確認しました。
つまり、ルワンダにおける他者の隣人となる行為と、京都のとりわけホームレス支援における他者の隣人となる行為におけるところの、
夢、理念、目標、祈り、施策、方法、苦難、限界性などなどが、いずれも重なり合うのです。
そしてさらに、そこから東北におけるキリスト者と教会の今後のかかわりについて、
とても詳細なイメージを築きつつ意見を交換することができました。

ここからわかることは、
他者の隣人となること、
つまり聖書から教えられ、キリストに導かれる、
唯一であり全てであるところの行為=本当の意味での愛にこだわるならば、
その行為は世界のどこででも通じるし、世界のどこもが必要としているということです。

私たち二人の会話は、
ただただ現地の苦難に端的に寄り添い、その苦難を共に責任を持って背負うことに集約されていきました。
そしてそこから生まれる施策案は、苦難にある者の隣に住んで、一緒に生きる、というものでした。
たとえば放射能汚染で苦しむ郡山教会の近くにアパートを借りて、連盟から派遣された者がそこに住み、
郡山教会の牧師や信徒、そして町の方々と共に重荷を背負うというような歩みです。

世界宣教の中身も、端的に他者の隣人となり共に生きることです。
そこから本当の(経済でも文化でもない)キリストによるつながりが生まれます。
そしてこの中身こそが苦難の只中にある東北においても必要とされていきます。
つまり、教会が本来的な教会ならば、教会は東北をはじめ、世界で最も苦難にある現場に、即必要とされるのです。

だから教会は出かけていきます。

また日本の教会も、端的に地域に住む他者の隣人となることに躍起になるときに、
教会のビジョンを獲得している事実があることを、二人で発見できたことは面白かったです。
つまりルワンダでも京都でもこの点では違いはなく、
出会い隣人とされたからには、どこであっても将来がイメージされ、ビジョンが起こされるわけです。

わたしたちも地域に出かけ、どんどん出会います。
他者の背負う十字架をキリスト共に私たちも背負います。
そして隣人になります。愛します。

神がわたしたちを愛してくださるから、
キリストがわたしたちに伴い、すべてを背負ってくださるから、
キリストがわたしたちの隣人となってくださり、聖霊が私たちと他者をつなげるから、

わたしたちは出かけます。

開かれた教会へ・・・第3回9条アジア宗教者会議に参加して

2011年11月22日 | 教会のこと
連盟憲法アクションニュースレターに載るものです。

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 開かれた教会へ・・・第3回9条アジア宗教者会議に参加して
日本バプテスト京都教会 大谷心基

 10月初旬に沖縄にて開催された第3回9条アジア宗教者会議に連盟を代表して参加することがゆるされ感謝に耐えない。この場をお借りし心よりお礼を申し上げる。そしてこの会議にて学んだことが連盟諸教会・伝道所に生かされればと願う。従って以下の拙文は会議の報告というより私が会議から学んだことからの考察となっていることをお許しいただきたい。

 今回の会議にはアジアのみならずアフリカや北米からの参加者もあり、より広く生の声に触れることができたことは有意義であった。そこでまず学んだことは、昨今の世界状況について「グローバリゼーション」という用語が用いられることは稀であり、この言葉の内実をそのまま表した「アメリカ『帝国』による世界侵略」と言われている事実である。その背景には各国、地域がそれぞれ米軍基地問題にて痛み苦しむ現実がある。無法状態の中で、強姦、強盗、殺人、墜落事故、騒音、環境破壊等が繰り返し起こる。
 日本の各米軍基地所在地でも起こる。とりわけ沖縄は世界最大の基地でありこれらが大きな規模で起こる。その中で私が「グローバリゼーション」を用いていたことは私の罪であることを教えられた。基地ゆえに起こる苦痛に寄り添わないゆえに私はその苦痛を薄める用語を用いており、用いるゆえに苦痛を自ら見えなくしていた。
 
 日本では日米安保条約が憲法以上に力を持つことは説明を要しない。だからこそこの会議が存在しなければならない。憲法9条に違反してでも安保条約を生かすのが私たちの国である。そしてこの条約によりこの国の私たちがアメリカ「帝国」と共に世界侵略を目指していると述べてももはや過言ではない。私たちは世界侵略に加担している。

 いや、私はしていない!と声が上がるかもしれない。もっともであると思う。まずほとんどの人は他国を侵略したいとは思っていない。しかし、自分が、家族が、会社が、教会が安定し、願わくは今以上に発展することは期待しているのではないか。
 ニコラス・メーレ氏は発題にてアメリカ「帝国」世界侵略が起こるひとつの要因として、平均的アメリカ人は国内の歴史と出来事には関心があるが、国外の歴史や人には無知で無関心であり、国内の発展のために、国外の命や人権を無視することができる、と述べた。
 これは平均的アメリカ人だけのことではない。「グローバリゼーション」なる用語を用いた私のことであり、私たちのことである。私たちは私自身および私の属する共同体内が痛まず危うくなく、さらに物心両面で満足することを望むものの、それゆえに他の共同体が搾取され痛み危険と隣り合わせであることを心の中心で覚えることが苦手である。

 この私たちの状態を解放するのは、主イエス・キリストが、私のゆえに、苦痛にある他者と共に、その他者の苦痛をすべて引き受けられつつ、十字架にかかっておられる、という出来事ではなかろうか。

 私たちは、十字架のキリストを信じ彼に従うゆえに、私と私の属する共同体の繁栄と安定ゆえに痛み苦しむ他者と他共同体のその苦痛を、キリストと共に背負う道が開かれてはいないだろうか。

 日本バプテスト連盟諸教会・伝道所における現在の中心課題も、各個教会が教会内の関心のあまりに引きこもるかたちとなり、隣の諸教会との協力のみならず交流すらも失いつつあるというものである。またさらに言うならば、それぞれの教会においても、自分や家族の生活への関心のあまりに、教会の兄弟姉妹と具体的に共に生きる(寝食から経済援助までふくむ)ことが失われ、時にはお付き合いさえもできなくなることが起こりはしないだろうか。否、起こっているのである。

 しかし、私たちはキリストと共に他者の苦痛(十字架)を背負う道を歩み始めることがゆるされている。ここから私たち自身も、家族も、会社も、教会も、国も、他者の隣人となる出来事に与る。そして私自身、属する共同体自身の悔い改めが起こる。

 またムスリムのジュナイド・S・アフマド氏は発題にて、閉ざされた共同体が敵を想定すること、それが陰謀説となって世界を不幸した歴史が多数存在することを語られた。66年前までの戦争時における「ユダヤ人」、日本で語られた「鬼畜米兵」、今世紀に入っての戦争におけるビン・ラディンやサダム・フセイン、現在の日本で語られる「北朝鮮」など、大量殺戮、虐殺、破壊の背景に想定された敵が存在し、その敵こそが私たちの属する共同体を破滅させようとしている者であるという思考が存在することを私たちは忘れてはならず、繰り返してはならない。また日常生活においても自分の生活を脅かす敵を想定し、その敵のみを原因とするところから、キリスト者にとって最も大切な罪告白と悔い改めの機会を失う可能性が大きいことをも、私たちは心に留めておきたい。

 アフマド氏はさらに、共同体が互いに開かれるために、干渉をするのではなく、生活レベルで協力、連帯し、相互に依存していることまで認め合うことの必要性を説く。個々人間、教会間、宗教間、国家間に今求められていることであると強く共鳴した。
また聖霊の働きとはこの「開き」ではなかろうか。

聖霊に開かれ、つなげられ、他者の苦痛を共に背負う私たちキリスト者、教会は、沖縄の歴史が今も抱える苦痛を共に背負う。同時にアジア全体、地球全体の軍事基地隣接地域の苦痛を覚え、戦争と軍備のいらない世界創造に参与し続ける。

今回はアジア会議であったため、焦点は「帝国」による基地問題となったが、日本、それもヤマトの歴史を担う者としては、基地問題以前からの琉球、沖縄への侵略、迫害を自らの罪として学び、悔い改める必要がある。日本バプテスト連盟では、すでに女性連合がその働きに参与し、少年少女は「隣人と出会う旅」で参与している。そして各個教会でも、祈りつつ、主に従いつつ、丁寧に取り組んでまいりたいと願う。

来年度のことを考え始める季節

2011年11月17日 | 教会のこと
毎年この時期は(も)楽しい
12月第一主日の執事会(役員会)で次年度当教会計画案を議論するための
叩き台をつくる時期だから楽しい

12月で議論し、1月で整え、2月の定期総会で決定するという手順

前回の執事会では
委員会制度が機能しないことを分かち合い今後どうするか議論しました

まず委員会が機能しないのは物理的(時間的)に開催不可能であるから
という結論に達しました

当教会は昼食の交わりを教会形成の中心と捉えているので
みんなが昼食に参加できるよう
主の日は
礼拝→昼食→教会学校
という順序になっています

さらに教会学校が終わって午後2時から
執事会や炊き出し準備や全体懇談会や各会例会や小羊会があって
委員会をする暇がありません

委員会を平日にするという手もありますが
当教会は
火曜日、水曜日、木曜日に
それぞれ祈祷会を開催し
土曜日はみんなで礼拝準備と清掃とこれまた共なる昼食の時をもっているため
これ以上平日のプログラムを増やすこともできません

平日に教会に来れば祈祷会がある
というのも大切にしており
そこに会議はいれたくないという思いがあります

そして委員会が機能していなくても
委員会で担うべきことを全体懇談会でみんなで議論し決定し担っているという現状もあるため
次年度からは
委員会を減らし、みんなで寄ってたかって議論するという場をきちんとつくる
という方向でいくことになりそうです

本来全体懇談会は意見を聞く場であり、
その意見を元に執事会や委員会で決定していったわけですが

もはや今は全体懇談会が決定機関にもなっているので
たとえばその機能をあらわすために「全体会議」と名称を変更しつつ
みんなで寄ってたかって議論して決定して担うという方法で
教会運営、教会形成をしてみようかと考えています

礼拝に出席する大人が60人くらいですから
むしろ委員会で小分けにするよりも
みんなで毎月議論するほうが
ダイナミックでいいかなあとも思います

具体的には
伝道委員会、平和委員会、営繕委員会を廃止し
その機能を全体会議で担うことになるかと思います

そして全体会議が丁寧に開催できるように
全体会議委員会を新設し
そこで準備と議長を担うことを提案してみようかと思います
さらに全体会議委員がそれぞれ
日常伝道担当委員
イースター・ペンテコステ・クリスマス担当委員
バザー担当委員
平和・人権担当委員
営繕担当委員
を担うという感じがどうかなあと思っています


たぶん大人が100人になったら
委員会制度は勝手に機能するとも思いますので
そのときに復活したらいいかと思っています


また信仰の中身のこととしては
執事会で今年度議論してきた主の晩餐式のかたちについて
次年度は教会全体で分かち合っていくのはどうかなあと思っています
具体的には
みんなで京都教会の式文をつくる
というのがどうかと思っています
それを60周年記念事業にもしたいなあと思っています

礼典に関しては
執行者が誰かという問いが多けれども
執行者が誰かよりも
執行される礼典の信仰、神学理解が大事で
それが式文で表されるというところにこそ
時間を費やしたいと思うわけです

京都教会のみなさん
いかがでしょう?


とっちゃんがやりたいって言ったからみんなもやりたいのです。

2011年11月14日 | 「生きる」こと
昨日の主の日もしあわせでした。
礼拝では連盟定期総会の代議員の涙涙の証
午後は増改築の図面第一案を見ながらみんなでわいわい
そして
夕方からはバーベキュー

このバーベキュー企画
とってもうれしい出来事でした

前回のバーベキューはタサッキーが初給与で教会家族に感謝をあらわしたい!
ということで行われましたが
そのバーベキューに
小3のとっちゃんはご家族の都合で参加できませんでした
それがとても残念だったようで
ウチの妻に
「次のバーベキューはいつ?」って尋ねました
11月3日のバザーが終わるまでは教会が忙しかったので
妻は
「バザーが終わったらしようね!」ってこたえました
とっちゃんは「やったー!」と大喜び


バザー当日の朝
とっちゃんが言いました
「今日の夜、バーベキューやんな!たのしみい!」

妻の「バザーが終わったら」ということばは
とっちゃんには、
バザーが終わって余裕ができたらする、ということではなく
バザーが終わったその日の夜にする、と伝わったのでした

でもバザー当日の夜にはバーベキューを準備できる体力が誰にも残っていません
大人たちはとっちゃんに謝るしかありません


とっちゃんがバーベキューをとっても楽しみしてくれたから
昨夕はみんなでバーベキューをしたのでした

とっちゃんがやりたいって言ったから
てるきもひめもだいちもとっきーもにのこもこともそうともにこもさくもれんもそうもとももしょうも
みんなやりたくてたまらなくなったのでした

子どもたちはおなかがぽっこりふくれるほど食べたのでした

少年少女も
青年も
若いお父さんお母さんも
おじいちゃんおばあちゃんも

用事で礼拝をお休みした大人も
礼拝後に用事で一度教会を出た大人も
とっちゃんがやりたいって言ったから
夕方には庭でみんなでバーベキューをするために集まったのでした

これぞ!
わが京都教会なのでした!

しあわせでございます

聖霊と私たちと私

2011年11月06日 | 教会のこと
今週の週報巻頭メッセージです。

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「聖霊と私たちと私」

3日のバザーを主に感謝します。
当日は58名もの奉仕者が与えられました。重ねて感謝します。
同時に当日は手伝えなくとも、夏からの準備にかかわった仲間、祈り続けてくれた仲間に同じく感謝します。
来場者は多すぎて数的に把握してませんが、開店から閉店まですべてのコーナーが賑わい続けたことから、とても多くの地域の方が来られたことを知り、こちらも感謝するばかりです。
さらに売り上げ、利益ともに過去最高となりました。本日の執事会にて、利益の寄付先を決定させていただきます。

そしてバザー直後の反省会にて、今回は初めて、「ヒヤッ」がなかったことが分かりました。
怪我も事故も体調不良もありませんでした。
気分を害された来場者もおられないようでした。

これには正直驚いています。
また聖霊の働きであると信じています。
聖霊により行き届いていたのです。

ここ数年言っていませんが、
かつて私は「準備は6割、あとは聖霊に任せよう!」と教会で言っていました。
もし10割準備したら、人は弱いもので、逆に失敗を恐れミスできなくなり、またミスを他人の責任にするようになります。
合格点と言われる8割でも人は自信を持つもので、その自信が他者との連帯を妨げたりします。
でも及第点の6割というのは、自分だけでは行き届かず、必ず他者を必要とするものです。
また、自分で「あるべき姿」を完成させないので、どの展開にも逆に対応できます。

私たちは所詮、どうにも行き届かない罪人です。
だから、6割をなんとか準備し、4割は真っ白でも、そこを聖霊に委ね、前へ進むことのできる存在です。

そして聖霊は働きます。
具体的に共に歩む他者と出会わせる仕方で働き、
行き届かない4割を聖霊によって結ばれた他者たちが埋めるという仕方で働きます。
そして同時にこちらも出会った他者の行き届かない4割を埋める役割を聖霊から頂きます。

今回のバザーを思い起こします。
準備段階でのマニュアルなどはほとんどありません。簡単なペーパーが数枚です。
マニュアルよりも、ただみんなが互いに目の前の事柄に気づき、それをこなし、
さらに隣の人の目の前の事柄を手伝っているうちに、
実にすべてに行き届いたのだと思います。

だからみなさんの身体は、紙面のマニュアルを記憶しているのではなく、
隣の人と不思議な聖霊の働きの中で、共に生かされ奉仕し、
心身の疲労からするとイライラに満たされても仕方ないところを、
不思議なさわやかさと喜びを得、
ゆえにその時空で起こった出来事をそのまま記憶されていると思います。

これがキリストの体なる交わりであり、キリストの臨在の物語であり、聖霊によるつながりの業です。

受肉が起こっているから10割を聖霊に委ねることは逆にカルトになります。
10割か0割かという思考法はあまり意味がないと思います。
このあたりをオール・オア・ナッシングで考える癖を人は持ちますが、逆に受肉がそれをゆるさないはずです。
体を伴う主と共に、私たちも自らの体全体で行うべき領域があります。
「おのおのの十字架を背負」うのです。
でも罪人たる私たちは、自信過剰にならない6割がせいぜい自らの責任で準備できる部分であり、
残りの4割は私たちのために聖霊が働くのではないか、と、経験から感じています。
(6割とか4割という数字は経験則に過ぎません)。

つまり、4割は聖霊の業である出会いに委ねるとき、だいたいうまくいくものですので、
今後ともそんな感じで共に生きるのはいかがでしょうか?。

主の業のために

2011年11月05日 | 教会のこと
もう終わってしまいますが、
バザーも終わっていますが、
今週の週報巻頭言です。

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「主の業のために」

いよいよバザーが、今週の木曜日(祝日)の11月3日に開催されます。
当教会にかかわる仲間みんなで準備を順調に進めることがゆるされ、感謝するばかりです。

バザーは本当に主の業です。
先週はこれまでになかった問い合わせを電話で二件いただきました。
それはいずれもバザー案内を見て連絡をくださったのですが、
どちらもバザーに関するものではなく、
礼拝に参加できるか?というものと、入会できるか?(お問い合わせ時の言葉使いのママ)というものでした。
お電話をくださった方がさらに主に導かれるよう心からお祈りして参りたいと思います。

当教会の中長期計画の柱である増改築のための設計図第一案が届きました。
集会室に掲示させていただきます。
また11月13日の全体懇談会でみんなで設計図を見ながら主より希望をいただきつつ意見交換をしたいと思います。

私が見る限りでは、
2002年より断続的にみんなでわいわいしつつ共有されてきた会堂のイメージの基本機能が、
既にこの案にて表現されていると思いました。
あとは実際に教会で生きる私たちだからこそわかる
使い勝手や交わりの雰囲気などを図面に反映させていくことになろうと思います。

私の感想としては、
各空間同士を関連付ける工夫、
つまり、
それぞれの空間でそれぞれのことが行われていても、
決してひとつの空間に閉じこもることがないような、
隣の空間の状況も肌で感じるような、
そういう工夫が教会共同体では必要だろうと思いました。
いかがでしょう?。

教会堂は主の業が豊かに働く具体空間のため、
実は主の業の具体的活動、つまり、主体的積極的参加による教会活動があってはじめて用いられるものとなります。
ですので、みんなで寄ってたかって行われている教会活動であふれる今、
増改築が祝されることが半ば決まっていると言っても過言ではありません。
そして一人ひとりが主と他者のために責任を担っている活動で用いやすいように、
なお意見を言うことが、さらに優れた会堂を生み出します。

そしてもうひとつ大切なのが費用です。
現在話し合われているのは下記のようなプランです。
まず来年1月より開始予定の改築献金が、1,000万円になったら着工します。
2年で達成したいと思います。(1年で!という声も大きいです)。
そして連盟より3,000万円借り、それを完成後より15年かけて返します。
利子含め年間250万円の返済となります。
これをみんなで、主と、これから主と出会う方々(地域の方々)と、そして私たちの教会活動、宣教活動、伝道活動、さらに新しい命のため、
主と共に、祈りつつ担っていきたいと願います。


「経済」とは「オイコス」+「ノモス」なんだなあ

2011年11月02日 | 「生きる」こと
アメリカもやばいしEUもやばい
もちろん日本もやばい
たぶん中国もやばい
世界の経済は相当にやばい

グローバリゼーションという名の金の一極支配を
地球全体に金がまわると言い切って
(昨今はグローバリゼーションという言葉でごまかすことは減り
端的にアメリカ帝国支配といわれているとも思うが)
その一極のみやばくないようにしてみたものの
もはやそこもやばい

という状況で
今度はTPPということで・・・
名を変え云々としか思えないのは私のみ?

経済というのは顔を直接あわせることのできる仲間内でのみ成立する!

私はそう考えるのです。

それが国家内という経済のときは
具体的に顔を合わせられない者がいるにしても
ぎりぎり工夫でなんとかなったのかもしれません

でも地球全体というわけにはいかなかったわけです

ちょっと語源から原理的な話をします
「経済」つまり「エコノミー」は
もともとギリシア語で「オイコス」+「ノモス」です

「オイコス」とは共に具体的に寝食をする共同体のことであり、
「ノモス」とは法のことです

経済は、
顔を合わせ肌の温度が伝わる距離で共に生きる仲間たちの
その生活から了承しあっている有形無形の法のことなのです

さらにわたしは聖書から知るオイコス・ノモスから
神の国の共同体である具体的各個教会の
そこに与えられた神からの倫理、つまり福音と律法こそが
経済の本質的意味である
と本気で考えています

ここで大事なのは
アホみたいに繰り返し顔を合わせて互いの体温を感じ
互いの表情やしぐさや声から互いの様子や状況さえわかりあえるというような
そういう共同体、仲間においてのみ
経済は本来的に機能するということです

私たちは戦争の経験を経て
国家という枠組みではやばいので
それを超えた地球市民というものを目指したと思います
美しくまたただしい発想だと思います

でも
あまりに大きな枠組みを目指すことで
具体的に顔を合わせ体温を覚えあう関係については
もしかしたらそんなに意識されていなかったかもしれません

そして地球市民というビジョンが利用されてグローバリゼーションが現れたとも言えます



破綻したのです


ここからどうするか
それは経済が通用する共同体の形成を
みんなが本気でするということだと思います

でも不思議とここに本気になることができません

たとえば教会でも
教会共同体という経済域で生きてみようという発想は
なかなか浸透しません

(こういう私が教会で度々言っていても、私のいる教会でも理解は得られにくいほどでして)

クリスチャンといえども
生活に必要なお金などのあらゆる物事に関しては
教会以外別のところで確保しているケースがほとんどで
おそらく教会共同体から抜けても生活面でなんら困らないと思います
(精神面で困るケースはあっても)

たぶん地域社会でも同じだと思います
あらゆるサークルでももちろん

しかし
このような地球になったからには
どうにかしたほうがいいと思います

ひとつには
もう一度国家共同体を家族とし
とりあえずお金面を整えなおすという方法があると思います
でもこの場合は国家はやばいというあの恐れを
常にかかえつつすることになると思います
そしておそらくこのかたちしか実際には次の一手はないとも思います

しかし
そこで大事なのは
同時に国家のやばさもまた経済が機能するには大きすぎるゆえ!
と覚えつつ
あのオイコス・ノモスを具体的に形成することだと思います

国家で生きると共に
家庭で生きると共に
いやそれ以上に
教会共同体で、信仰共同体で生きるわけです

家庭で一月に食費が5万円かかったら
教会の仲間との食費に5千円かけるわけです

家族で住む家に5千万円かかったら
教会堂に5百万をかけるわけです

こういう知恵が十分の一という知恵だと思います

そしてそれ以上に
もっと端的に
顔を合わせ体温を感じた出会いの中で
出会った他者が隣人となり
その隣人のために時間や金がいくらかかろうとも
その隣人と共に生活するということまで言うのが

十一という律法を排除はもちろんせずとも
それ以上に愛なのだ!
という新約における倫理なのではないでしょうか

経済はこういう隣人愛のことだ!
と言って過言ではないはずです

というわけで
わたしはこの時代にも
実は希望いっぱいでウキウキすらしています

共に生きようや