津城寛文・匡徹の徒然草Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

緩やかに良くなるような仕掛けを

2016年09月30日 | 日記
 数年前の初冬、友人とドイツに出張にいく機会があり、ちょうどそのころ、何かの理由で対ユーロ130円台まで、円安が急進していました。出張費は円建てですので、またセレブの友人好みのちょっと良いホテルに泊まったため、多少の足が出ました。

 円安を誘導した当局の責任者に、ややムッとしましたが、円安が直接の打撃になる企業は、ムッとどころではなかったでしょう。とくに、材料費の高騰で、下請けの中小企業のお金が回らなくなった、というニュースを見るたびに、企業破産、一家離散となった人もいたのではないか、と思いました。当局の人は、少なからぬ人の悲しみと恨みに、責任があります。

 円高であれ円安であれ、株高であれ株安であれ、インフレであれデフレであれ、デメリットを是正する措置をとるときは、急激に変わらないよう、責任者はとくに注意し、関係者に時間の余裕を与える必要があります。

 1990年のバブル崩壊のときも、急に貸し出しの総量を絞ったのが、まるで急ブレーキを踏んだようなもの、と批判されました。バブルがいいか悪いか、素人が言うべきことはありませんが、悪党のアジトを急襲するような場合はともかく、社会全体の動きを、急に変えようとするのは、ただ破壊するだけの、稚拙な革命家の暴力的な行動です。

 では穏便に穏便に、とやって、ずるずると旧弊を引きずっていくのが良いか、というと、これも利権としがらみがある保守政治がよくやる愚策で、弊害は溜まるいっぽうで、いつか大参事となって、終わりを迎えます。

 ソフトランディングかハードランディングか、という二者択一ではないところに、落としどころがあるのは、明らかですが、難しいのはその落とし方です。徳のある人が中心に立たねば、合意形成はできません。

 進取の気質をもち、被害を最小にする優しさをもち、変化を起こす力をもった指導者ならば、とりあえずの到達点を定めて、そこへ向けて、断固として、かつ緩やかに動いていく、すぐれた仕掛けを作るはずです。

 

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因果昧まさず

2016年09月21日 | 日記
 「ブラックボックス」を「見える化」する、という動きが、このところ、あちこちで目に付き始めたようです。ブラックボックスが闇であることは間違いありませんが、それに光を当てる働きの根元が、果たして光か闇か、必ずしも自明ではありません。

 悪事は闇を好む、と言われます。また、闇は光を当てると消える、という名言があります。何につけ、善悪の判断は難しいので、「不善」という曖昧な基準が、とりあえず判断するのに役立ちます。「諸の悪は作すことなかれ」よりは、「積不善の家に余殃あり」のほうが、実践上の名言です。

 明らかに悪いものも、善からぬものも、その不善の度合いに従って、いつか必ず、どのようにしてか、償いをする(させられる)ことになる、というのが、かつての神仏習合した日本の、良質な庶民の、良質な感覚でした。

 その「いつか」は、来年かもしれず、10年後かもしれず、1000年後、10000年後かもしれません。「どのようにして」は、自分が直接にか、家族か、子孫か、あるいは自分が生まれ変わってか、さまざまに考えられました。善悪は、「その実を見て知られる」という名言がありますね。

 いずれにせよ、自分と関係の深い愛する者が、いつかこの報いを受ける、としれば、おのずと、人の行動、思い、発言には、歯止めがかかるのではないでしょうか。

 「不落因果」「不昧因果」という、有名な禅語があります。この解説を、ある宗門のホームページでみると(どことは敢えて言いません)、私と解釈が違い、私見では、間違っているように思います。私の解釈は、つぎのとおりです。

 「因果に落ちず」というのは、究極の真理から言えば、仏性は因果を超越したものであり、その境地にある達人は、そのレベルでは因果に落ちない。「因果昧まさず」というのは、衆生は因果に落ちて夢のような輪廻を繰り返しており、その次元では因果は法則であり、衆生はもとより、達人といえど、衆生的なレベルをもっており、その法則に従わざるを得ない。達人でも、絶壁から飛び降りれば、(普通は)そのまま墜落するのである。

 さて、達人ですらそうであれば、まして凡人は因果の波に翻弄される(と夢見てうなされている)ものです。「因果に落ちず」というのは、達人になったような夢を見ている凡人の寝言にすぎません。菩薩やアラカンを含む達人は、因果に落ちない次元を知っていながら、なお因果の世界に落ちている人のことで、仏陀になってはじめて、因果の夢から覚めた人、覚者になります。その仏陀ですら、まだ肉体があるうちは因果の報いを受けるため(棘が指に刺さって痛むとか、傷んだ豚肉を食べて具合が悪くなる、など)、のちに有余涅槃という言葉が考えられたのです。

 因果に落ちた状態と、因果に落ちない状態を、手に取るように区別できない人は、職業的な僧職にある人はもちろん、ものごとの道理のよくわかった知者も、「因果昧まさず」と考えておくのが無難です。

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労働は1日8時間まで

2016年09月14日 | 日記
今日のヤフーニュースで、都知事が「仕事は20時まで」と号令をかけ「残業ゼロへ」の方針が出された、という記事がありました。
 「残業ゼロ」はいいことですが、「20時まで」というのは、まさか始業時間が12時ということはないでしょうから、従来いかに朝から深夜まで、都庁でマッチポンプが常態化していたか、を示しています。

 同じ日の別の記事に、日本でマッチポンプの仕事がなくならないのは、「その人が生産性の高い仕事をしているかどうかを評価するシステムもなく、「頑張り」の度合いで評価が決まる」からだ、というものがあります。警察や消防が、目を光らせていて、事件や事故がないのがいいのですが、「仕事をしていない」となりかねません。したがって、マッチポンプをする愚かな幼い人間が、横行することになります。

 日本中の、また世界中の政治や経済、研究や教育、医療や介護の指導者たちが、「仕事(生活費を稼ぐために強制されている労働)は1日8時間まで」と号令をかける日が来るよう、そして残った16時間のうち、8時間は睡眠とその前後、8時間はプライベートのために、自由に使える日が来るよう、期待します。

 都知事にはぜひ、「仕事は1日8時間まで」と号令をかけ直していただきたいものです。もし「仕事は20時まで」と言うのでしたら、「11時から仕事を始める人も、休み時間を1時間とって、仕事は20時まで」と但し書きを付けていただきたいと思います。

 私は指導者の立場にない、貧しい日本の大学の、雑務に忙殺された平教員にすぎませんが、こうして発言のツールを持たされた庶民として、「労働は1日8時間まで」と言い続けたいと思います。

 「365日24時間死ぬまで働け」という法律がもしできたら、「悪法も法」で、口をつぐむかもしませんが、「悪法は法ではない」と言い続けるかもしれません。悪い実定法は、より高い法から見れば、やはり悪いのです(「宗教・スピリチュアリティの諸合法(則)性のからみ合い」『身心変容技法研究』第5号、26-28頁。file:///C:/Users/owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/H9X9YD3F/nennpou51.pdf)。


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意見広告:
「労働は1日8時間まで」(R・オーウェン)


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亡くなった人と語ること

2016年09月10日 | 日記
 <お迎え>について、前回、死期の近づいた人が、今は亡き慕わしい人と語ることは、深い安らぎをもたらす、という報告を紹介しました。その続編です。

 2011年3月11日の大震災・大津波以降、被災地で、亡くなった方の「幽霊」の話が語られ、通常は抑圧、黙殺されるそうした話題が、あまりに夥しいため、「怪談」として、表面に出てきています。「幽霊」「怪談」といった言葉に、違和感を示す意見も見られます。そうした言葉は、恐ろしい、忌避すべきニュアンスを持っていますが、そうした慕わしい人の出現を体験をした方々は、恐怖心を持つことは少なく、亡き人を案じる思い、場合によっては、亡き人と会えた懐かしさ、安堵の思いを語られることがあるからです。

 私は現地に調査には行っていませんし(調査研究が私のスタイルでないので)、ボランティアにも行っていません(老体が行っても労力にはならず、かえって足を引っ張りますので)が、これについての考えを、私なりの視点から「死者の幻影・再考」としてまとめた小論があります。
 そこでの要点は、死者の幻影(「幽霊」よりはこちらのほうがニュートラルです)を見るということに関連して、その周辺で、合法性を問われるような事態(当事者を脅すような霊感商法だけでなく、被災者の体験を圧殺する宗教者の紋切り型の対応、論文のネタ探しに踏み込む研究者のアカハラ、等々)が起こっている、ということでした。
 もちろん、死者の幻影を目撃することで、遺族が深く癒される、という共感的な観察も見られ、そういう報告には、私も深く共感しています。

 非日常だけでなく、日常的にも、今は亡き慕わしい人に語かけることは、深い安らぎをもたらします。

 日常と非日常の違いは、日常的には、生きている側から一方的に語りかけるだけであるのに対して、非日常では、亡き人の側からの語りかけがあったり、場合によっては語り合いがあることです。日常に生きる我々が、死者の出現を「幽霊」「怪談」ととらえるのは、非日常への違和感の自然な表れです。

 新井満さん監修で、『千の風になったあなたへ贈る手紙』が、まとめられました。ポスト「千の風になって」というべき現象が起こっているのは、多くの人が指摘する通りです。死の捉え方が、そこでは、ひと昔前の常識とは、大きく変わっています。生と死の距離が、億万劫ではなく、肌に触れる風のように、近くなっていて、しかもそれが、恐怖ではなく安心をもたらすものになりました。
 これは「死の否定」「死の無害化」などと言われることもあるようですが、アリエスの指摘を俟つまでもなく、生と死の距離は、時代や地域や状況によって、伸びたり縮んだりしています。死は忌むべき遠いものか、慕わしく近いものか、どちらが「現実」かは、自明ではありません。

 『贈る手紙』には、美しいものが多い、というより、そこには、生と死が接する美しさが満ちています。死に触れることで、生は美しさを増す、という好例です。

 私は昔から涙腺が緩く、こういう本を読みながら、よく泣くことがあります。生きているのが辛いとき、美しい死に触れると、泣くことができて、少しは生きる力が戻ってきます。「涙は良薬」と言われるとおりです。眠りもそうです。辛くてたまらないときは、「寝るのが一番」と言われるとおり、また「眠りは短い死」と言われるとおり、眠りは救いになります。


参考:
新井満監修
『千の風になったあなたへ贈る手紙』
朝日文庫、2010

津城寛文「死者の幻影・再考
――非常事が増幅する合法性の問題」
『宗教と倫理』14号、2014年(online)

津城寛文『社会的宗教と他界的宗教のあいだ
――見え隠れする死者』
第3章、「死者の幻影――民間信仰と心霊研究のあいだ」
世界思想社、2011年



 

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死もまた、その美しさをもっている

2016年09月08日 | 日記
 「こころ元気塾」というシリーズのニュース・解説に、利根川昌さんによる、「亡くなる前の「お迎え現象」…故人と会い恐怖和らぐ」という記事があります(2016年2月4日)。さわりをご紹介しますが、元記事をお読みください。
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20160128-OYTET50033/2/

 「お迎え現象」は、「家族や知り合いが亡くなる前、誰もいないのに誰かと会話をしている様子を見せたり、「故人が会いに来た」と語ったりする場面に遭遇した経験」と説明されて、3人の専門家にインタヴューしています。そのうちの2人は、私も良く存じ上げている方で、1人は島根大教育学部准教授の諸岡了介さん(宗教社会学)、もう1人は湘南中央病院在宅診療部長の奥野滋子さん(ターミナルケア)です。

 諸岡さんたちの10年ほど前からの研究では、自宅で家族を看取った経験がある遺族たちの「お迎え」体験は、回答した約4割の人に「あった」という結果がでています。

 奥野さんは臨床経験から、「入院中の患者さんにもお迎え現象は起きていると思います。『話すと変だと思われる』という意識が働くのか、入院患者さんからそういう話を聞くことは、あまりありません」「はっきりした違いはわかりませんが、せん妄の場合は、恐怖におびえて苦痛を伴い、話す内容も混乱しています。一方、お迎えの場合は、患者さんの意識ははっきりしていてストーリーもきちんとしています」ということです。

 諸岡さんたちの研究では、直接に「亡くなる人の体験」を問題にするのではなく、「亡くなる人を見ている遺族たちの体験」となっているのが、宗教社会学的な捉え方の工夫です(業界の話ですので、意味のわからない人は、?と悩まずに、読み飛ばしてください)。

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 しばしば紹介するマックス・ミュラーの名言集に、「死」という項目があり、その中に、次のような一節があります(『人生の夕べに』24頁)。

人生はまことに美しいものです。しかし死もまた、その美しさをもっています。


 生と死にそれぞれの美しさがあることが、ここに見事に表現されています。

 死を思うことが、よりよく生きることにつながり、生を大事に生きることが、よりよく死ぬことにつながるというのは、古今東西の達人たちの異口同音の知恵です。現在、日本の学界で行われている多くの死生学は、死の美しさを考えることが、あまり得意ではないようです。他方また、生を厭い、死を願う一部のペシミズム精神は、生の美しさを捉え得ません。選びようのない「現実」に反した考え方は、生きたくないという考えも、死にたくないという考えも、どちらも、他方の美しさを恐れているところから、生れてくるように思われます。

 生と死が、互いとの対比で際立つことが納得されれば、片方のみに執着し、他方を忌避することは、全体としての美しさを害うことが痛感されるでしょう。生と死は、昼と夜のように繰り返すところに、それぞれの美しさが際立ちます。

 数頁あとにある、「愛する者の死は、私たちが人生で受ける最後のレッスンです」という一節は、愛する人を亡くしたばかりの人には、苛酷に聞こえるるかもしれません。しかし「遅かれ早かれ、私たちは死に呼ばれる」のですから、生と死が私たちの現実であることは、好むと好まざると、すべての人が受け入れることになります。

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参照:
奥野滋子
『<お迎え>されて人は逝く
――終末期医療と看取りのいま』
ポプラ新書、2015
マックス・ミュラー(津城寛文訳)
『人生の夕べに』
春秋社、2003
津城寛文
『社会的宗教と他界的宗教のあいだ
――見え隠れする死者』
世界思想社、2011


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