津城寛文の徒然草Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

川合信水「7つの徳の調和」

2011年07月29日 | 日記
 「(美)徳」と訳されるvirtueの語源的意味は、そのものの本来の機能、というほどの意味です。ナイフの「徳=機能」は物を切ることですし、鍋の「徳=機能」は物を煮炊きすることです。ナイフを書類押さえに使ったり、鍋をヘルメットに使ったりするのは、本来の機能からズレています。引き換え券である紙幣や、その派生商品をたくさん集めて礼拝しているのは、デパートの食堂の食券を溜め込んでいるようなものです。そのように、人間の本来の徳=機能は何かというのが、人間論になりました。
 公認の定義として、「ホモ・サピエンス」というのがあります。知識を持つことが特性である、という意味です。これを文字って、ホモ・ファーベル(ものを作ること)、ホモ・ルーデンス(遊ぶこと)、ホモ・ロークエンス(言葉をしゃべること)、などが提案され、それぞれ人間の本来の特徴的な機能(「徳」)とされました。

 ある武士道的キリスト者の三〇代のころの文章を、同じ三〇代のころに読んでいて、「私はこのごろ、七つの徳が自分の中で調和しているのを自覚した」という一節を見て、びっくりしたことがあります。「愛」「美」「善」「柔和」など、お互いに矛盾し合うような徳が、矛盾なく実現しているというのです。我が身の未熟さと引き比べて、呆然としました。
 これを書かれたのは、キリスト教と禅と儒教を調和させた川合信水という立派な宗教者で、基督心宗団という修養団体を指導しておられました。
 七つの徳の調和というのは、頭の悪い自信家が勘違いをしているのではありません。美に傾けば、善は害われがちであり、善に傾けば美は害われがちであることを十分知り尽くした上で、長年(あるいは一〇年という短期間)の修養によって、稀な調和に達し得たもので、聖者というべき境地だと思います。

 金太郎の昔話には、「気は優しくて力持ち」というのがあります。強くて優しいということです。これが稀な理想とされるのは、しばしば、優しい人は弱く、強い人は荒々しいからです。二昔以上も前の映画の名文句に、「人は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」というのがありました。やさしくて強いことが、人間の徳である、という民衆知でしょう。

 人間が身に付けるべき徳・技能は、一つ、二つというのではないにしても、七つほどの基本があり、その組み合わせで応用できるようです。ある賢者の「あなた方が地上にいるのは、それぞれの性格を作り上げるためである」という言葉が、思い合わされます。

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輪廻信仰の倫理、「後生(ごしょう)を恐れて生きる」

2011年07月28日 | 日記
昨日、エジプトを舞台にした、輪廻を主題にする本を読みました。文章や構成は、それほど面白くないのですが(したがって大ベストセラーにはなりません。ただし英語で書くと市場が日本語の100倍ですから、単純に100倍は売れることになり、日本ではベストセラーになる数字です)、読みふけりました。ジョナサン・コット(田中真知訳)『転生――古代エジプトから甦った女考古学者』(新潮社、2007[1987])です。
3000年前のファラオ・セティ一世と若い神殿巫女ベントレシャイトの禁断の逢瀬と、時空と顕幽を超えたファラオの霊と転生した巫女の恋物語で、エジプト考古学界では有名なエピソードのようです。転生した巫女は、イギリス名がドロシー・イーディ、エジプト人と結婚してブルブル・アブドゥルメギートとなり、のちにオンム・セティ(セティの母)と名乗り、BBCなどの取材番組が作られたほどの、名物女性だったようです。訳者あとがきによれば、オノ・ヨーコさんが「3000年の愛の強さを感じる魅惑的なラブストーリー」と賛辞を寄せているとのことです。

 公立図書館をぶらぶらしているうち、桐島洋子さんの『見えない海に漕ぎ出して――私の「神」さがし』(海竜社、1994)、佐藤愛子さんと江原啓之さんの対談、『あの世の話』(青春出版社、1998)なども、手にとって読みしました。桐島さんや佐藤さんのような、普通の意味で作家として名声ある方々が、「見えない世界」「死後」「輪廻」といったテーマに引き寄せられて、「最近(90年代)、この海の水位が上がり始めているのをひしひしと感じる」というようになったのは、オウム真理教事件の前後です。光と影の両面を考慮しても、無視されてきた「影」からの「衝動」が、抑えきれなくなっているのは確かだと思います。

 最近の世相を見ると、「あの人に、輪廻信仰のリアリティがあれば、あのような愚かな行為はしないだろうに、あの人もいつかこの行為の報いを受けて、因果(カルマ)の法(ダルマ)の正確さ(天網恢恢疎にして漏らさず)を思い知ることになるだろう」と思われることが少なくありません。これは他人を責めるために言っているのではなく、私自身が、今リアルに思い知っていることです。為した行為の重みが大きすぎて、この人生では負いきれないと思われたとき、「後生(ごしょう)頼み」という古風な言葉が、リアリティを持ってきます。
光と影、玉石混交の様を見るにつけ、この世と他界に通じる生き方の指針は何だろうか、と考えさせられます。細かい教えはさまざまありますが、底辺から頂点まで通用する基準は、「人は播いたものを刈り取る」「善因善果、悪因悪果」という因果律になると思います。このシンプルな基準から、他のさまざまな教えが自ずと出てくるのではないでしょうか。

 なお、親友がブログで、近刊拙著を紹介してくれています。ご興味がありましたらご訪問ください。
→ スピリチュアリズム・ブログ(http://blog.goo.ne.jp/tslabo)


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幼児期のレッスン

2011年07月27日 | 日記
原発の問題に関して、ブログでも少し述べましたが、他の多くの人も同じようなことを考えておられるのだなと思い、良識あるサイレント・マジョリティが、いかに少数者の恫喝に押さえ込まれているか、緘口令、報道規制、情報遮断のようなことが、この国でも行われてきたか、よくわかります。お隣の大国でも、高速列車事故に対する政府の末端の驚くべき対応(事故車両を埋める、解体する、その他)に対する、人民の声が封殺できなくなったようです。

 この背後に、何かの勢力の陰謀、謀略を見る人もいます。いわく、独裁制や専制を倒して自由化し、「新世界秩序」に組み込み、全人類を管理する、というものです。大小の悪だくみが結託して、地球規模の悪だくみがあるかどうか、思考実験をしてみる価値はありますが、どのように考えても、人間の数千年、数万年の悪だくみは、結局は永遠の時の流れの中で、あとから振り返れば、子どもの火遊びや悪ガキの悪戯だったことがわかるでしょう。世界各地の戦争や投機や政治を見ると、失礼ながら、小学生の喧嘩、「子どもサミット」という印象がぬぐえません(拙著『社会的宗教と他界的宗教のあいだ』第8章、「現代日本から見る陰謀――人的シナリオと神的シナリオのあいだ」)。

 脱原発と原発継続の意見を比べて読むと、後者は「とにかく商売を継続しなければならないから、電力会社は電力を作るし、製造業その他は電力を使いたい」という、火事場○○のような論調で、一部、経営者としての責任も感じられるだけに、痛ましい思いすらします。ある生臭い僧侶が、「貧乏人が破産しても被害は小さいが、金持ちになればなるほど、破産すると、関連先を含め被害が大きい」と、世知に長けたことを言っていました。たしかに、大企業になれば小回りが利かず、現状を維持するには電力その他がこれまでどおり必要で、それがないなら、「海外に出る」と開き直りたくなる気持ちも、もっともではあります。しかし、このようないかにもさもしい意見を、立派な風采をした大企業の役員が語るのを拝見すると、経歴や風采が立派なだけに、痛ましく思います。

 政治家でも、河野太郎さんのような一貫した論者だけでなく、たとえば石破さんその他の「原発はほんとうにコストが低いのか。建設、稼動、廃炉、最終処分などをくるめれば、むしろ高いのではないか」という意見が公になったり、またある研究者が「経済的、また環境的なコストが高いから、関連していろいろ仕事ができて、業界として儲かるので、そのような仕組みを撰んだのではないか」と指摘しておられました。これらは、コストという面から、原発のあり方を批判したものです。

筋金入りの脱原発論者、広瀬隆さんも正論だと思いますが、最近気付いたのは、「アーティスト」坂本龍一さんが、積極的にエコロジー、サステナビリティに関する意見を述べておられることです。経済活動が萎縮するという意見に対しては、経済力が何十番になってもいいではないか、その方が庶民の生活は時間的にゆとりができて、幸せではないか、と正論を述べておられます。私も前のブログで、稼いで奪われるよりは、そこそこ自給自足に近い社会でいいではないか、と「正論」を述べました。

経済的な理由以外に、一番大本に位置する議論の1つは、原子力の平和利用、原子力研究を継続することによる外交上、軍事上の抑止効果、というものでしょう。賛否はともかくとして、社会的思想としては、これが一番説得力があるものだと思います。
もう1つの理由として考えられるのは、人間はさまざまな発達段階にあるので、それぞれのレッスンが必要で、武器を作って戦争をしたい人、人を騙して甘い(下水の)汁を吸いたい人など、暇つぶしをしたい段階にある人は、気が済むまでやるしかありません。「正論」のような生活では、そういう人たちは「息が詰まる」でしょう。天国と地獄の話を聞いて、「退屈な天国よりは、刺激的な地獄のほうが面白い」と考えるのは、こういう人々です。刺激的な地獄のアトラクションが退屈になったら、もう少し繊細な、次の段階の刺激に反応するようになるでしょう。自分の人生を振り返ってみればわかるように、人間の成長には、それなりの時間がかかります。大人には、幼児の成長を待つ忍耐が必要です。

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綺麗事ではないぎりぎりの知恵

2011年07月19日 | 日記
 梅原猛さんがどこかで、藤原不比等の権謀術数を想像して、「こんな悪人になるよりは、騙される側になったほうがよい」と書いておられました。陰謀論の本を読んでいて、「日本人を騙すのは簡単だ」という黒幕のセリフに対して、「われわれは騙すより、騙されるほうを選ぶ」と応じる場面が出てきました。高校の先生が、「お金はあったほうがいいが、悪いことをしてお金をもうけるよりは、(自分のように)貧乏なほうがいい」と急に言われたことがあります。何かひどい目にあったのかもしれません。
 災害や戦争や破産その他で無一文になった人物のエピソードを、ときどき目にすることがあります。「偉いなあ」と思うのは、不運を恨まず、不幸を嘆かず、淡々として身を処したエピソードを読むときです。

「盗むよりは盗まれたほうがよい」「受けるよりは与える者になりたい」といった表現は、きれいごとのようであっても、よくよく考えると、ぎりぎりの状態でも心乱れないための、必須の知恵であると思います。「与える」のは損になる、という気がするかもしれませんが、少なくとも「与える」ことができる境遇にある、ということです。

まして、「背に腹は替えられない」からといって、悪事をしてまで急場をしのいでも、やがては倍の報いを受けなければならないのであれば、受けるべき苦痛は受けたほうが、結局は三方がよけいな損をしないで済む、ということです。
 ある聖者が、「あなたを殺そうとして探している人がいますよ」と言われて、こちらから相手を探し出し、「私はここにいますよ。早く目的を達しなさい」と言ったそうです。殺そうとしていた相手は、あまりのことに動転し、かえって帰依者になった、というオチがついています。このエピソードは、美化されていると思うかもしれませんし、一般人には無理な綺麗事と思うかも知れませんが、世界観によっては、つまり命は永遠で、受けるべきことはいつか必ず受ける、恨まれていれば必ずいつか恨みを晴らされる、と思っていれば、苦しいことはとくに、早く済ませておこうというのが、並以上の人間の選択というものです。「後楽園」という命名の故事どおり、楽しみは後でもかまいません。

恨まれていては幸せになれない。恨んでいても幸せになれない。恨んでいるのを止めるのは、自分ひとりの決断ですから、もし誰かを恨んでいるとしたら、恨みを捨てた段階で不幸の種が消滅します。恨まれていたら、相手があることで、相手の決断によることですから、自分の好きになるわけではありません。相手が幸せになるように、祈るしか道はありません。もし相手が幸せになれば、相手の恨みは消えるでしょう。したがって、相手の幸せを祈ることが、自分の幸せに直結するわけです。この理屈が分かれば、「敵のために祈れ」という達人の教えが、実情に即したリアルな指導であることがわかります。

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輪廻説(連続)からカルマ説(因果)を抜き取る危険

2011年07月17日 | 日記
 輪廻思想の弊害に関連して、最近読んだ本を材料に、考えたことを述べてみます。

三浦俊彦さんの『多宇宙と輪廻転生――人間原理のパラドクス』(青土社)という本を、たいへん面白く読みました。理論物理学と進化生物学の先端の問題を、論理学で問い詰めていったもので、素人の私にはじっくり読み直すべき箇所が多いのですが、少なくともよく理解できたのは、「多宇宙」説と「輪廻転生」説に関する部分です。この2つのトピックに絞って、前者には同意を、後者には同意と異議を申し述べたいと思います。

 多宇宙説について。このわれわれの宇宙は、プランク定数その他、数字や法則がアクロバットのように調和している(ファインチューニングされている)ように見える。もしこの宇宙が存在する唯一のものであれば、このような調和は確率論的には奇跡に見えるが、多宇宙説をとれば、無数の宇宙があり得て、それぞれの宇宙もまた、存在するためにファインチューニングされている(ちょうど、「私」がほかならぬ「私」であるように)。したがって、奇跡的なように感じられても、それぞれの「経験される宇宙がファインチューニングされている確立は1である」、つまり100パーセントの確立である、と。私もこのような説明をしたかったのですが、浅学菲才のため、ジェームズの「多元的宇宙論」くらいの知識しかなく、うまく説明できませんでした。勉強になりました。

 つぎに輪廻転生説について。これも多宇宙説と同様の(素人の理解する範囲では)説明がなされており、「このような面白いテーマは学界では主流になれないだろうなあ」と同情しながら、面白く読みました。その上で、異議があります。
多数の人生を説く輪廻思想からすれば、自殺は悪ではなく、苦痛や不遇などの状況によっては選択肢の1つである、苦痛や不満があったらリセットしてやりなおせばよい、とする意見です。これは、輪廻説からカルマ説を抜きにした、古今東西のソフィストたちに見られる思想です。細かい議論は省きますが、三浦さんが敢えて言及しなかった諸聖人賢者(逆説的・倒錯的でない)の異口同音のアドバイスによれば、苦痛や不遇は「初期条件」の悪さとしてリセットできるものではなく、諸条件の制約として、カルマとして課されているものであり、いつか解決すべきものです。苦痛と不遇に生きている人(自らを含む)は、「いつかどこかでだれかを苦しめた、その苦しみを思い知って、関係者の気が済むまで償いましょう」と考えるのが、よりよい来世につながる唯一の生き方ではないでしょうか。

 補足したいのは、ゾンビ説や霊体説とちがって、「「事実認識の変更」を何1つ含意しない、という指摘についてです。これは、まったくそのとおりの指摘です。「実在モデルの変更ではなく見方の変更だけ」という箇所を引用したほうが、わかりやすいでしょう、この見方は、人生の一回性に見直しを迫り、生命を無限に延長します。しかし実践的には多くの場合、人生や生命が多宇宙説へ接続せず、この「われわれの宇宙」「地上」に視野が固着する傾向があり、皮肉なことに、筋金入りの現世(=世俗)主義者を作り出すことがあります。「今ここ」(永遠の今ここ~この社会)という、宗教や神秘主義の、頂点と奈落で愛用される言葉が、この世界観の危うさを示しています。輪廻信仰がこの世の強欲を増強するならば、魂(霊、意識、生命その他どのような言葉でも)の進化にとって、むしろ有害になるでしょう。死後を想像する、来世を想像する、加えて、想像もできない他界を想像することは、現世に視野が狭窄しがちな視点を補正するための、いわば「アイトレーニング」になると思います。

 なお、輪廻信仰が「今ここ」主義へ陥りやすいことは、拙著『<霊>の探究――近代スピリチュアリズムと宗教学』(春秋社、2005)の4章と、近著『社会的宗教と他界的宗教のあいだ――見え隠れする死者』(世界思想社、2011)の序章を参照してください。


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