「(美)徳」と訳されるvirtueの語源的意味は、そのものの本来の機能、というほどの意味です。ナイフの「徳=機能」は物を切ることですし、鍋の「徳=機能」は物を煮炊きすることです。ナイフを書類押さえに使ったり、鍋をヘルメットに使ったりするのは、本来の機能からズレています。引き換え券である紙幣や、その派生商品をたくさん集めて礼拝しているのは、デパートの食堂の食券を溜め込んでいるようなものです。そのように、人間の本来の徳=機能は何かというのが、人間論になりました。
公認の定義として、「ホモ・サピエンス」というのがあります。知識を持つことが特性である、という意味です。これを文字って、ホモ・ファーベル(ものを作ること)、ホモ・ルーデンス(遊ぶこと)、ホモ・ロークエンス(言葉をしゃべること)、などが提案され、それぞれ人間の本来の特徴的な機能(「徳」)とされました。
ある武士道的キリスト者の三〇代のころの文章を、同じ三〇代のころに読んでいて、「私はこのごろ、七つの徳が自分の中で調和しているのを自覚した」という一節を見て、びっくりしたことがあります。「愛」「美」「善」「柔和」など、お互いに矛盾し合うような徳が、矛盾なく実現しているというのです。我が身の未熟さと引き比べて、呆然としました。
これを書かれたのは、キリスト教と禅と儒教を調和させた川合信水という立派な宗教者で、基督心宗団という修養団体を指導しておられました。
七つの徳の調和というのは、頭の悪い自信家が勘違いをしているのではありません。美に傾けば、善は害われがちであり、善に傾けば美は害われがちであることを十分知り尽くした上で、長年(あるいは一〇年という短期間)の修養によって、稀な調和に達し得たもので、聖者というべき境地だと思います。
金太郎の昔話には、「気は優しくて力持ち」というのがあります。強くて優しいということです。これが稀な理想とされるのは、しばしば、優しい人は弱く、強い人は荒々しいからです。二昔以上も前の映画の名文句に、「人は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」というのがありました。やさしくて強いことが、人間の徳である、という民衆知でしょう。
人間が身に付けるべき徳・技能は、一つ、二つというのではないにしても、七つほどの基本があり、その組み合わせで応用できるようです。ある賢者の「あなた方が地上にいるのは、それぞれの性格を作り上げるためである」という言葉が、思い合わされます。
公認の定義として、「ホモ・サピエンス」というのがあります。知識を持つことが特性である、という意味です。これを文字って、ホモ・ファーベル(ものを作ること)、ホモ・ルーデンス(遊ぶこと)、ホモ・ロークエンス(言葉をしゃべること)、などが提案され、それぞれ人間の本来の特徴的な機能(「徳」)とされました。
ある武士道的キリスト者の三〇代のころの文章を、同じ三〇代のころに読んでいて、「私はこのごろ、七つの徳が自分の中で調和しているのを自覚した」という一節を見て、びっくりしたことがあります。「愛」「美」「善」「柔和」など、お互いに矛盾し合うような徳が、矛盾なく実現しているというのです。我が身の未熟さと引き比べて、呆然としました。
これを書かれたのは、キリスト教と禅と儒教を調和させた川合信水という立派な宗教者で、基督心宗団という修養団体を指導しておられました。
七つの徳の調和というのは、頭の悪い自信家が勘違いをしているのではありません。美に傾けば、善は害われがちであり、善に傾けば美は害われがちであることを十分知り尽くした上で、長年(あるいは一〇年という短期間)の修養によって、稀な調和に達し得たもので、聖者というべき境地だと思います。
金太郎の昔話には、「気は優しくて力持ち」というのがあります。強くて優しいということです。これが稀な理想とされるのは、しばしば、優しい人は弱く、強い人は荒々しいからです。二昔以上も前の映画の名文句に、「人は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」というのがありました。やさしくて強いことが、人間の徳である、という民衆知でしょう。
人間が身に付けるべき徳・技能は、一つ、二つというのではないにしても、七つほどの基本があり、その組み合わせで応用できるようです。ある賢者の「あなた方が地上にいるのは、それぞれの性格を作り上げるためである」という言葉が、思い合わされます。