こんなものがあればいいな、というシリーズです。前に、ペダルを漕いで発電する製品があればいいな、と書きましたが、すでに「充電丸」という製品があるのに気付きました。私が「あればいいな」と思うくらいのものは、すでにあるのでしょうが、思い付いたことは書くことにします。
学生に投票に行くように勧めるとき、だいたいつぎのように言うことにしています。
さらに時間があれば、つぎのようなたとえ話しをします。
欧米、特にフランス知識人はきわめてポリティカルですが、現代日本の学者や作家にも、政治学者、経済学者以外に、政治に積極的に発言する方があり、いい傾向だと思います。知識人が中心になって政党があり、日本でもそのようなものがどこかにあったようですが、まだあるのでしょうか。個人的には、石原慎太郎さんや田中康夫さん、青島幸男さんや猪瀬直樹さんや升添要一さんは、うまくいったり大失敗したり、話題になったり、でも成果が市民に還元されなかったり、いろいろです。
ただ「素人」が大量に流れ込むことで、その一部でも残っていけば、今の地盤・看板・カバンで政治をやっている集団よりは、間違いなくレベルがあがっていくでしょう。明治100年とか、55年体制とか、戦後70年とか年を数えるよりも、学者作家知識人が政治の実践を引き受ける流れを作ることが、政治の刷新になると思います。
まず、政府、政党、マスコミ向けに、政策提言をしている高名な左右中道の学者(具体的には、NHK日曜討論、『世界』『諸君』、各種諮問機関委員)は、一定以上の地位を極めたら、後進のためにも、安定した職を辞して、余生を賭して、一命を賭して、国家と人類のために、自らが実践の責任を負っていただきたいと思います。学説には自身があるが、政治力はない、という弁明が聞こえてきそうですが、今求められているのが時代遅れの「セイジリョク」などでないことは言うまでもありません。生活がある、家族がある、という理由のほうが、まだ正直です。
ある著名な学者が、ある政党から立候補を求められ、「私は政治家になるほど堕落してはおりません」と断った、というエピソードがあります。これを聞いたある賢者は、「政治を大切にしないと、国民が不幸になる。能力がある人は、自分の美学を犠牲にしてでも、政治家となって、社会のために働くべきだ」と言いました。
日本賢人会議というのが、正式にか名目的にか、バーチャルにかあったような気がしますが、それを一歩進めて、日本賢人党という政党を作る時期が来ていると思います。現代日本で最も多いのは「支持政党なし」で、どの調査でも過半数と出ます。その受け皿として、「サラリーマン新党」「老人党」「雷親父の党」など話題になりましたが、広く深い思想があってのことではなく、立ち消えのようになっています。現役の政治家の方々は、どちらの側も、半分以上の国民からそっぽを向かれているのですから、さぞかし肩身が狭くておられるだろうと、他事ながらお気の毒に思います。
日本賢人党といったような、左右、上下の知識人が集まった政党では、政策はまとまらないではないか、という批判があります。当然のことです。すぐ与党になるはずはなく、その気もないのですから、数(十)年は、学者知識人のハコモノができて、そこで「侃侃諤諤」の議論をして、議会でも旧制議員と「喧喧囂囂」の討議をすることで、少しずつレベルアップすることで、十分以上の効果があるでしょう。そういう生涯教育(50の手習い60の、70の80の手習い)という意味でも、まずは日本賢人党という名前が立ち上がることを期待したいと思います。
学生に投票に行くように勧めるとき、だいたいつぎのように言うことにしています。
投票したいと思う候補者がいないことが多いと思いますが、その不満・抗議の意思表示をするためだけにも、敢えて投票に行って、わざわざ白票を出してください。投票所は近所ですから、交通費はかかりません。碌な候補者がいないと思ったら(こういう感想が多いですね)、だったらそれよりは優秀な自分が立候補して、地域と日本と世界を住みやすくしてください。
さらに時間があれば、つぎのようなたとえ話しをします。
政治の大きな役割は、国民所得の再配分です。家計でいえば、家族が稼いだ額をまとめて、どこに出費するか、優先順位を決めることです。家族が働き蜂のように働いて、家長がそれを家族や家のために、後先を考えて貯蓄したり、計算の上で決断をして借金したりするのが、まともな家庭です。それを思慮の足りない家長に任せては、家計が破綻します。家のスケールが大きくなれば、運営は難しくなります。国政の舵取りをするには、その一家の家長の数十(百、千、万)倍の能力が必要になるでしょう。ですから、少なくとも皆さんのような並以上の能力のある人の多くが、政治は嫌でも、地方政治にも国政に入っていただきたいと思います。
欧米、特にフランス知識人はきわめてポリティカルですが、現代日本の学者や作家にも、政治学者、経済学者以外に、政治に積極的に発言する方があり、いい傾向だと思います。知識人が中心になって政党があり、日本でもそのようなものがどこかにあったようですが、まだあるのでしょうか。個人的には、石原慎太郎さんや田中康夫さん、青島幸男さんや猪瀬直樹さんや升添要一さんは、うまくいったり大失敗したり、話題になったり、でも成果が市民に還元されなかったり、いろいろです。
ただ「素人」が大量に流れ込むことで、その一部でも残っていけば、今の地盤・看板・カバンで政治をやっている集団よりは、間違いなくレベルがあがっていくでしょう。明治100年とか、55年体制とか、戦後70年とか年を数えるよりも、学者作家知識人が政治の実践を引き受ける流れを作ることが、政治の刷新になると思います。
まず、政府、政党、マスコミ向けに、政策提言をしている高名な左右中道の学者(具体的には、NHK日曜討論、『世界』『諸君』、各種諮問機関委員)は、一定以上の地位を極めたら、後進のためにも、安定した職を辞して、余生を賭して、一命を賭して、国家と人類のために、自らが実践の責任を負っていただきたいと思います。学説には自身があるが、政治力はない、という弁明が聞こえてきそうですが、今求められているのが時代遅れの「セイジリョク」などでないことは言うまでもありません。生活がある、家族がある、という理由のほうが、まだ正直です。
ある著名な学者が、ある政党から立候補を求められ、「私は政治家になるほど堕落してはおりません」と断った、というエピソードがあります。これを聞いたある賢者は、「政治を大切にしないと、国民が不幸になる。能力がある人は、自分の美学を犠牲にしてでも、政治家となって、社会のために働くべきだ」と言いました。
日本賢人会議というのが、正式にか名目的にか、バーチャルにかあったような気がしますが、それを一歩進めて、日本賢人党という政党を作る時期が来ていると思います。現代日本で最も多いのは「支持政党なし」で、どの調査でも過半数と出ます。その受け皿として、「サラリーマン新党」「老人党」「雷親父の党」など話題になりましたが、広く深い思想があってのことではなく、立ち消えのようになっています。現役の政治家の方々は、どちらの側も、半分以上の国民からそっぽを向かれているのですから、さぞかし肩身が狭くておられるだろうと、他事ながらお気の毒に思います。
日本賢人党といったような、左右、上下の知識人が集まった政党では、政策はまとまらないではないか、という批判があります。当然のことです。すぐ与党になるはずはなく、その気もないのですから、数(十)年は、学者知識人のハコモノができて、そこで「侃侃諤諤」の議論をして、議会でも旧制議員と「喧喧囂囂」の討議をすることで、少しずつレベルアップすることで、十分以上の効果があるでしょう。そういう生涯教育(50の手習い60の、70の80の手習い)という意味でも、まずは日本賢人党という名前が立ち上がることを期待したいと思います。