津城寛文の徒然草Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

「宗教の実践と研究」(鎌田科研報告書所収)論文に関連して

2012年01月30日 | 日記
 1月27~29日、京都大学の鎌田東二教授を代表とする科研(科件A、「身心変容技法の比較宗教学」)の研究会その他が、京都大学その他で行われ、3日間参加してきました。細かい内容はホームページをご覧ください。
 初日が公開シンポジウム、2日めが研究会、3日めは法然院における「ありがとう念仏」の実習に参加させていただきました。どれもすばらしかったのですが、とくに3日め、早めに宿を出て百万遍の知恩寺の前を通りかかり、中に入ると、法然上人の御影像があり、20分ほど、参拝者がほかにいない時間を過ごさせていただきました。法然上人はハンサムな方で、いろいろなエピソードがあるとおり、端正なお像でした。3日目は、鹿ケ谷にある法然院で、町田宗鳳先生のご指導による「ありがとう」念仏を実習させいただきました。断片的なエピソードを見る限り、私は日本仏教では、法然上人と一遍上人に心引かれておりますので、今回ははじめておそば近くに寄らせていただいた気がしました。町田先生と鎌田先生のご対談では、応仁の乱の話なども出て、12世紀に思いを馳せました。
 帰りの新幹線で、弁当を食べから、しばしうとうとしていると、寒気、悪寒、吐き気、腹痛が強くなり、上げるわ下すわで何度もトイレに駆け込みました。おそらく、寒さその他の疲れに加えて、お参りや称名で積年の穢れ(の一部)が出たのと、都の戦乱の記憶の一端に触れたのではないか、などと想像しながら、やっとの思いで東京郊外に帰り着きました。

 鎌田先生の科研は、私なりに単純化すると、宗教の実践と理論をどう組み合わせるか、という研究だと思います(偏った勝手な見方で、叱られるかもしれません・・・)。実践と理論を組み合わせるのは、1つの宗教研究のあり方として基本であると、ずっと思っておりますので、理系と文系が参加したこの科研は、出席が苦にならない研究会です(出席が苦になる研究会も多いので・・・)。
 
 この報告書が年度末には出ることになっており、私は原稿をすでに出しました。「早いのが取り得」というギャグが昔ありましたように、私は原稿の締め切りを破ったことがなく(例外は勘違いして出しおくれた1回のみ)、「執筆者の鏡」と自賛しております。報告書は鎌田科研のホームページ上で見ることができますので、そちらをご参照ください。
 その原稿を、知人の新進気鋭の臨床心理学者に読んでいただいたいのですが、「宗教そのもの」という捉え方、「今ここ」の批判に関して、批判、疑義を呈されました。

 「宗教そのもの」という言葉については、「宗教」は組織宗教の連想が強く、抑圧的になるのではないか、また心理学も同じような問題を扱っているので、用語として狭すぎるのでは、といったご指摘でした。
 じっさい「宗教」に代えて、古くは「信仰」、最近では「スピリチュアリティ」などの価値語が工夫・提案されているわけですが、どのような言葉でも、同じ問題がいずれ出てくるように思いますので、私は個人的には、「所属」や「専門」の問題もあって、「宗教」という言葉でいいのではないかと思っております。他方、臨床心理学にも、宗教的な修行や治病儀礼と区別のつかない実践があり(というより、宗教をヒント、背景とする、宗教色を脱色したものがあり)、文脈の違い(濃淡)だけで、「宗教」がひきずる恐怖や抑圧のある文脈よりは、「心理学」のほうが無害かもしれないとも思われます。
 名称や看板は、一種の政治になるとはいえ、重要でもあります。用語の問題は、これかれも論じ続けられるでしょう。

 もう1つは、私が随所で悪口を言っている「今ここ」主義批判についてです。拙著『社会的宗教と他界的宗教のあいだ――見え隠れする死者』(世界思想社、2011)以来、私はウィルバー批判と絡めて、これを言い続けています。ウィルバーだけ責めるのはたしかに言いがかりですが、一番のビッグネームではあり、一味の代表者として、ターゲットにしました。
 瞬間を努力するという価値観はすばらしい一方、永遠の広大な世界が「今ここ」に縮減するため、とくに達人ならぬ一般人(私自身を含めて)の宗教性(スピリチュアリティ、信仰その他)の成長・成熟には、かえって抑制的になることがあるように思います。永遠を「今ここ」凝縮できるほどの達人は、例外的であろうと思います。簡単にいうと、「今ここ」主義は、十牛図の結論に居座る口実になりがちです。死後その他のプチ非日常を思うことで、私たちのような怠惰な(霊的な意味で。現世的な意味では、結構多くの人がモルモットのように休み無く車輪を回しています)者どもも、少しは広い世界に一歩を踏み出すことになるようです。すくなくとも、死後にはじまる遠く長い旅を考えることで、私自身の生き方は、そうでないときよりも、密度が高くなっております。周囲の凡人たちの生き方と考え合わせても、死後を思うことは、ベターな態度であろうというのが、現時点の私の個人的な結論です。








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諺は矛盾するか?

2012年01月21日 | 日記
 ながく語り伝えられてきて、多くの人生の助けとなってきた知恵の言葉があります。たとえば諺は、無数の人々が伝えてきた民衆の智恵です。「あるがままに」「なるようになる」など、流行歌の歌詞になるような言い回しがありますが、それらも、諺の応用です。諺や知恵は、時代や地域や文化によって色合いが違いますが、それでも、古今東西に通じる洞察が含まれています。

 ところで、諺を自分で使ったり、人から聞かされたりするとき、同じような状況に対する教えが、たがいに矛盾している(ように聞こえる)ことに気づきます。たとえば、「遠い親戚より近くの他人」という諺と、「血は水よりも濃い」という諺は、地縁と血縁のどちらの大事さを表現しているのか、迷わされることがあるかもしれません。しかし、それぞれのことわざは、特定の状況にうまく当てはまるようになっており、使い方よってどちらが正しいか、わかるものです。そしてそれがわかるのが、知恵の働きです。
 家族が病気になったとき、近所の人が救急車を呼んでくれたり、病院まで付き添ってくれたりしたときに、「遠い親戚より近くの他人」といわれます。また長く離れていた祖父母と孫が会ってすぐ打ち解けたとき、周囲の大人が「血は水よりも濃い」といいます。

 道徳や宗教の教えについても、同じことがいえます。とくに宗教の教えの中には、矛盾に満ちている(ように聞こえる)ものがあります。「先の者が後になり、後の者が先になる」ということばと、「多く持っている者はますます与えられ、少ししか持たないものはわずかなものも奪われる」ということばは、矛盾しているように聞こえます。しかしよく読むならば、それらはそれぞれの状況にうまく当てはまるように説かれたものです。人間の成熟の段階、嗜好、価値、気質が違うので、それぞれに適した知恵は、別者にならざるを得ません。
 わずかな数の知恵の言葉だけを指針とする生き方は、入り口はそれでよいとして、そこに留まるならば、あまり先には進みません。歩くためには、左右の足を交互に出す必要があります。振り子時計が動くためには、振り子は左右に振れ続ける必要があります。ちょうどそのように、知恵が進むためには、両極端の知恵を交互に出す必要があるようです。
 そのような一見矛盾する教えを並べてみて、一方的な処世訓に陥ることなく、先人たちの多面的な言い回しをみることで、知恵の高い人々が何を教えようとしていたのか、考えることができると思います。

教訓:矛盾する運動から進歩が生まれる

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親子のレッスン、夫婦のレッスン

2012年01月12日 | 日記
 旧約聖書の外典に「集会の書」というのがあります。知恵文学の一種で、「知恵の言葉を考えるのは、骨が折れる」という一節などを見ると、「こういうジャンルがあって、ラビたちは、われわれが四苦八苦して論文を書くように、知恵の言葉を考える仕事をしていたのだなあ」と、肉声を聞くような思いがします。「きれいな女を見るな。見てもお前のものにはならない」とか、「娘は父親の心配の種である。未婚のうちは悪い男に騙されはしないかと心配し、嫁してのちは子どもが無事に生まれるかどうか心配する」など、思わず失笑し、「おっしゃる通り」と言いたくなるほど、人情の機微を突いています。そのような知恵の中に、「知恵は宝」という教えと並んで、「賢い妻は宝」という教えが、随所に出てきます。
 この世で一番密接なものの一つは、家族関係でしょう。結婚しない人もいますから、夫婦のレッスンを学ぶ必要のない方もいますが、親がなくて生まれてくる人はいませんので、親子のレッスンは、すべての人が学ばねばなりません。
 「どう育てるかは親の責任、どう育つかは子の責任」という教えを聞いて、うまい表現だなあと思ったことがあります。同じように育てたつもりでも、一人一人育ち方が違う、ということは、子沢山の親ならば、よく知っているでしょう。
 いろいろな夫婦(自分のことを含め)を見ていて、「相性」というものがあるなあと、痛感します。ある宗教者が人間の生まれ変わりを話した中で、「前世の仇を取ろうとするとき、夫婦になるのが、一番効率がよいようだ。逃げるに逃げられない」と言っておられました。こういうのは、逆縁と言われます。順縁は、幸せな夫婦になります。では、逆縁は不幸で順縁は幸福かというと、必ずしも、また永遠にそうでないのは、「塞翁の馬」の教訓どおりです。同じ宗教者は、「あまり幸せすぎると、二人だけで親密な世界をつくって、外への働きがなくなることがあり、また修行にならないことがある」と続けていました。縁や相性は、比ゆ的にいえば、ただの貸し借りのようなもので、バランスシートが悪いほうが償いをするようになっているのでしょう。
 この世の幸福の不幸というものがあります。「宝のあるところに心もある」といわれるように、この世のものが宝と思っている人は、そこに心が留まっています。われわれは、小さいものを得ようとして、大きなものを失うことがよくあります。安物買いの銭失いというのは、この世の話ですが、広げれば、われわれ多くは、同じような損失ばかりしているのではないでしょうか。いくつかの宗教で「大欲」を持て、と教えているのは、われわれの欲が、腐ったカボチャくらいだと知っているからでしょう。
 ほとんどの国では、法的には一夫一婦制を採用しています。事実上、「甲斐性」(経済力、権力、体力、美貌、話芸・・・)のある男は、愛人がいたり、不倫があったりしますが、不法行為であることは間違いないので、合理的な人は、結婚という制度を採らなかったり、あるいは頻繁に結婚と離婚を繰り返して、適法に生きています。しかし寿命が長くなって、結婚制度が実態に合わなくなってきている、という指摘もあります。同じ人と五〇年も六〇年もいっしょにいる、というのは、よほど相性がよくないと、苦行になってきます。
 制度的に一夫多妻制を採用しているのは、イスラム圏の一部です。実際に実行しているのは、それだけの能力(資産その他)がある人に限られるようですが、これに対してある知恵者がつぎのように言っていました。「一人の女は一つの問題である。なぜわざわざたくさんの問題を抱え込もうとするのか?」と。もちろん、理由は「美貌に魅せられて」「情欲にかられて」に決まっています。結局は「高くつく」ということですが、それだけ高く付くことをわざわざする人は、資産と時間に余裕があるということ、高い授業料を払って「男女問題」のレッスンを受けているのでしょう。
 「子どもは預かりもの」「夫婦は他人」「兄弟は他人の始まり」といった知恵は、水臭いようですが、じっさいにそうだと納得できれば、過度の期待や信頼をすることなく、自分が相手にできることをする、という態度が取れるのではないでしょうか。そのような人間関係を教える、「親しき中にも礼儀あり」という諺が、私は好きです。


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神仏習合

2012年01月04日 | 日記
 「神仏」への信仰は、日本文化が千年以上も保ち、培い、洗練してきたものだと思います。明治の神仏分離、廃仏毀釈で、有形無形の価値ある多くのものが失われたようです。詳しい話はわかりませんが、大まかな印象では、神仏のご加護と導きを祈りつつ、称名念仏、観想瞑想を行うことは、宗教的実践として、バランスのとれた方法だと思います。
 戯画的な神道と仏教の側面を描いてよければ、神(仏)に任せきる怠惰な極端と、人間だけでどこかに達しようとする傲慢な極端があり、神仏習合はその弊害を相殺し、長所を相乗する(可能性が高まる)のではないでしょうか。
 「修験道はよくできたシステムではないか」とある先生が言われるのは、そのような意味で、私も共感できます。神仏のリアリティを身にまとって、荒れ狂ったり、鎮まったり、動いたり止まったりするのは、リアリティ(への感性)を強めるような気がします。
 神社でお参りするとき、祭儀の中の、神遊びと昇神の間、あるいは昇神のあとでも、静かに瞑想する時間があればいいのに、と思うことがあります。祭祀のあと、可能であれば、拝殿でしばらく瞑想することがありますが、多くの人はすぐ帰ってしまい、「せっかく神様に近付いたいい状況なのに、勿体ないなあ」と思うことがあります。逆に、道場などで瞑想する前には、未熟な人間を導いてくださる高次の神仏のリアリティを高めてから、謙虚、敬虔、素直な気持ちで、瞑想に入れば(入らせていただければ)いいのではないか、と思います。
 「自力」と「他力」という、便利なような、難しいような言葉がありますが、極論を離れれば、高度な他力に信頼して、できる範囲で自力を尽くす、つまり、「天命を信じて人事を尽くす」(普通は「人事を尽くして天命を待つ」ですが)ということが、私のような初歩的な宗教実践のコツではないか、と思っているところです。

*****
 前に筑波大学にキューバ人研究者が、1年間滞在しておりました。もともと他の先生が受け入れ教員だったのが、「武士道」を研究テーマにするということで、「日本文化」担当の私が、お世話することになりました。先祖はスペイン系、モスクワ大学で哲学を研究し、当時はメキシコの大学に所属しておられる、エリートでした。その方のアドレスに、「神仏」の言葉が入っていました。センスのいい人です。
 また中国人留学生(終了生)から年賀メールがあり、このブログを見ていてくれるとのこと、嬉しく思いました。
 こうした有形無形の有縁の方々に、感謝いたします。

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年頭のご挨拶

2012年01月03日 | 日記
 あけましておめでとうございます。今年も閑話・余話を載せますので、どうぞよろしくお願いします。<m(_ _)m>

 昨年の最後に、ブータンの話をして、「前世や来世のことも考える人たち」を応援すると書きました。その続きです。

 バブル三昧とバブル崩壊を経験して以降、この二〇年ほどの間、「昔の日本人はもっと幸せだったのではないか?」という声が、あちこちで聞かれました。
 その「昔」は、昭和三〇年代だったり(『三丁目の夕日』など)、大正時代、明治時代だったり(『坂の上の雲』など)、江戸時代だったりします。私なりに、「前世や来世のことも考える」という基準で考えると、それは江戸時代の、いつかどこかではなかったかと思います。
 「袖振り合うも多生(他生)の縁」という諺は、江戸時代には庶民の当たり前の知恵(決まり文句)になっていました。そこにいたるまでは、「一樹の陰に宿り一河の流れを汲むことも多生(他生)の縁」(白拍子、謡曲その他)といった深刻な人生観を、芸能や文芸を通して学習する、長い時間が必要だったようです。そして現代の日本社会では、この諺のリアリティは、ほとんど力を失っているようです。現在のわれわれが身近に接する制度宗教に共通する特徴として、そのような「現世」以外の「他界」「他生」のリアリティがなくなっていることがあります。
 しかし「他界」「他生」を考える「心の習慣」は消滅していないので、そうした話題やリアリティが暗黙のうちに求められて、それを提供する(と称する)活動の隠れた市場になっています。この「市場」を犯罪や不幸の温床にしないよう、むしろより心豊かで幸せな生き方の「土壌」とするために、幸福の国ブータンを実例として、「前世や来世のことも考える」文化が普及することは、望ましいことではないかと思います。
 「仕掛け」「文化装置」など、人為的で管理的な意図を忍ばせた表現ではなく、「前世や来世のことも考える」という「心の習慣」を抑圧しない工夫は、できないものでしょうか。一つの可能性は、今でも行なわれていることですが、ブータンやチベットやインド、欧米や日本の実例を紹介すること、そういう「心の習慣」を持って生きている人を支え合い、ゆるやかな「魂の絆」を広げることでしょう。この絆は現世だけのものではないので、コミュニケーションは「祈り」に似たものになるでしょう。「考える」リアリティはなくとも、すくなくとも「想像してみる」ことは可能です。「前世」「来世」という言葉をさらに一般化すれば、これは「他生を想像する」ことになります。
 これに対比されるのは、この世の価値だけを追求し、他界や他生の価値を考慮しない、ただの現世主義的な生き方です。タチが悪いのは、一部の宗教者までが、「「今ここ」で最善を尽くすのが宗教の目的であり、あるかないかわからない(お釈迦様が「無期」と言われたことの手前味噌)他界や他生を気にかけるのは現実逃避である」と言い募って、この現世主義(ただの「今ここ」主義)の援護射撃をしていることです。「今ここ」の「最善」が、この世の価値の最良の極(奉仕と慈善、一言では利他主義など)から、最悪の極(利己主義や独善主義)に取り込まれてしまうことは、きわめて起こりやすいことです。その弊害の実例は、ごろごろしています。他界や他生のリアリティがあれば、少なくともそのあり方を想像すれば、この世の最悪の価値に陥ることには、少しはブレーキがかかるのにと思います。

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 このブログの記事その他をまとめて、ぼちぼち一般向けの本を出したいと思っております。早ければ今年か、遅くても来年には、店頭に並ぶことを目指しております。もちろん、このブログでもご案内しますが、お見かけになったら、どうぞお立ち読みください。<m(_ _)m>









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