津城寛文・匡徹の徒然草Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

「ゆとり」ある労働環境を

2014年04月27日 | 日記
 4月22日に、労働量を減らすことについて、看護師さんの例をあげました。その続きです。
 あるLCC(低価格航空会社)のパイロットの体調不良が、一般航空会社に比べて以上に多発し、担当のやりくりがつかず、かなりの便が運休になる予定、という記事が出ました。
 私も割引航空券の恩恵に浴しているので、運賃が安くなるのはありがたいのですが、乗務員の体調不良が統計的にかなり高いというのは、無理な仕事になっている、ということの指標です。24時間働かせているわけではないでしょうが、計算にあがってこない、微妙なゆとりが必要なのに、合理的な経営は、それを無駄として切り捨てて、結果として、計算外の負担が、生身の人間を蝕んでいるのでしょう。
 今日のウェブニュースでは、介護職の仕事のたいへんさと、報酬の低さで、離職が相次いでいる、という記事もあります。

 航空業界や介護業界、医療業界に限らず、他の業種でも、人件費を減らすために、給与を下げ、人員削減をして、結果としてしわ寄せがきた少数の人の仕事量が増えて、その人も限界を超えて退職したり、「過労死」したりする報道が、後を絶ちません。ある経営者が言った(とか言わない)という「24時間365日、死ぬまで働け」という言葉が有名になりましたが、誰が言ったにせよ(言わないにせよ)、このような考えを漂わせた人間が、随所にいます。

 労働者を雇っている側が、なるべく安いコストで、なるべく多くの利益を上げる、と考えるのは、自然な考え方ですが、これに歯止めがなくなると、労働者の生活はゼロにまで切り詰められ、安全もゼロ、さらにはマイナスとなります。最近のフェリー沈没事故はその典型的なもので、ローマ法王が、「倫理的に生まれ変わってほしい」と言われたとおり、人類全体、とくに経営者たちが、ここから教訓を深刻に学んでほしいものです。

 「モーレツ社員」という、高度経済成長期に流行った言葉があります。その生き残りのような人たちが経営者にいて、業績を上げているのですが、仕事のために命を削る(削らせる)、家庭を壊す(壊させる)というのは、戦争といった異常事態、非常事態にはやむを得ないことながら、常態化するのは、異常な社会です。「世界全体がそのようになってきているのですから、日本もそうなるのは正常だ」という理屈は、「どの大国も侵略戦争で植民地を作っているのだから、日本もそうするのは正常だ」という理屈と同様で、その場限りでは説得力がありますが、100年か200年、1000年も時代が過ぎて振り返ってみれば、近視眼の理屈であることは、自明になるでしょう。

 正常な社会は、一般人にとっては生活のために仕事があり、一部の特殊な仕事は、自ら買って出てやる人が、生活や命を削ってでもやるかもしれない、しかしそれを万人に強いてはならない、そのような仕事と生活のバランスが取れた社会でしょう。

 昔の「モーレツ社員」は、今は「ブラック社員」「ブラック上司)になって、正常なバランスを求める一般人を鞭打つ、いわば「奴隷頭」になっています。

 人間は家畜である、奴隷である、という説には、一理ありますが、二里はありません。奴隷にも、非道な扱いをしてはなりません。利害から言っても、奴隷をこきつかうよりは、ときどき休息させたほうが、効率が上がる、という雇い主の冷徹な知恵があります。「奴隷も一週間に一日は休ませよ」という安息日の規定は、そのほうが奴隷の仕事がよくできるから、という意味です。そのような制度を、多くの大学も「サバティカル」として取り入れているのですが、中には、奴隷に与えられるべきそのような安息ですら、「贅沢なもの」とする非道な職場もあるようで、嘆かわしいことだと思います。

 一般論として、能力や機能は、100パーセントを超えて使うと壊れ(やすくなり)ますが、100パーセント近くで使い続けると、劣化が激しくなります。また使わないと、退化したり、さび付いたりします。食事もそうですね。食べすぎは病気の原因で、まったく食べないと死んでしまいます。何事によらず、中くらいで動かすのが、安全で長続きします。無理をするのは、どさくさまぎれに手っ取り早く利益をあげようとする、いわば火事場泥棒のような卑しいメンタリティです。
 一定以上の経営者は、そのような卑しさを克服しなければなりません。偉大な経営者は、継続性を考慮するものです。一時期利益が出ても、その後、死屍累々ということでは、経営者としては失格です。「一将功なりて万骨枯る」という警告を思い出しすことはないでしょうか。猛省が望まれます。





 

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人命救助の優先順位

2014年04月23日 | 日記
 一週間前に韓国船が沈没して、船長以下の乗務員の対応、中古船の改造、コンテナの過積載、マスコミの報道など、問題が噴出しています。被害者が200人ほど、その多くが修学旅行の高校生という、対応が難しい事件で、朴政権に大きな逆風になるとも言われています。国内メディアも、「乗務員の職業倫理も、救助体制も、政府の対応も三流国」と自己批判一色のようです。

 船長が真っ先に逃げ出し、「一般乗客」と身分を偽って救助された、という報道から、反射的に思い出したのは(おそらく同じことを連想した人も多いはずですが)、だいぶ前の日航機の羽田沖着水事故です。
 着陸後に行うべき逆噴射の操作を、精神的な問題を抱えていた中間管理職の機長が、はるか手前で始めたため、副操縦士が「機長、やめてください!」と叫んだ音声が報道され、不謹慎ながら、一時期、流行語になったように記憶しています。着水して真っ先に逃げ出した機長は、上着やワッペンを外して、「一般乗客だ」といって救助されました。

 船長や機長は、海上や上空という非日常空間を移動する船の、乗客の安全に全責任を負うもので、万一のときは人命救助の義務があり、最後まで残る義務があります。報道のコメントでもあったように、史上に残るタイタニック号の船長は、船とともに沈みました。

 他方、アルバイトの女性乗務員が、高校生にライフベストを配り続け、「私は皆が脱出してから、最後に脱出する」といった言葉が、助かった高校生から伝えられて、大きな感動を呼んでいます。この話題から連想したのは、つぎのような話題です。

 ある僧侶がある学校を訪問して、校長室で話をしていると、額に入った若い女性の写真が目に留まりました。僧侶の「誰の写真ですか?」という問いに、校長は、「溺れようとした生徒を助けようとして、溺れ死んだ教師の写真です」と答えました。これを聞いた僧侶は、「よい死に方をされました」と言って、涙を流したそうです。
 「よい死に方」という表現には、違和感を持つ人もあるかもしれません。しかしある立場からは、すべての死が不幸なのではなく、永遠につながるよい死に方、当人にとっても、残った人にとっても、よい死に方がある、と考えられています。よい生き方、悪い生き方、賢明な生き方から、愚かな生き方があるように、よい死に方、悪い死に方、賢明な死に方、愚かな死に方があると、私も思います。

 何をしてでも生き残るのがよいかどうか、まっさきに逃げ出した船長がカメラに晒された姿をみると、わかりやすいでしょう。
 職業上の責任を放棄して、ただ生き残るために逃げ出して、事実が明らかになってくると、船長としての職業倫理を放棄し、200人ほどの死に責任がある人間として、厳しい倫理的、法的、社会的責任を問われ続けています。「死んだほうがましだ」という思いが、何度も兆しているのではないでしょうか。こういう結果が予測できれば(少し考えれば誰でも予測できます)、まず乗客を救助し、乗員を避難させ、自分が救助されるにしても、溺れかけたところを、最後に救われる人になったでしょう。それよりも見事なのは、タイタニックの船長のように、船内に乗客が一人でも残っているからには、最高責任者として、乗客とともに沈む、という行動だったでしょう。

 高尚なレベルでなくても、世間体からでも、助かったあとに世間からどう評価されるかと考えれば、どちらが自分にとってメリットがあるか、正常な「損得勘定」ができれば、自明でしょう。こういう一種の「計算」が、利己的ではなく、逡巡なく、自動的にできるのが、人生の達人なのだと思います。こういう達人は、地位や年齢、国籍や性別や職業にかかわらず、あちこちにおられます。それがたまたま事件の当事者となると、達人的な行為となって表現され、多くの人の感動を呼ぶことになります。アルバイト乗務員の若い女性も、こうした隠れた達人のお一人でした。

 亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

教訓:
情けは人のためならず
人は死して名を残す










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労働量を半分に

2014年04月22日 | 日記
 寝る前に、NHKラジオニュースを聴いていると、このところ看護師の離職がますます多くなって、医療現場で看護師不足になっていたが、福井大学付属病院では、二人一組で一人の患者を担当する体制にしてから、離職者がゼロになった、という話題がありました。
 これは簡単に言うと、残業や深夜勤務などで、構造的に過重な労働を課せられていた看護師の仕事量(肉体労働、頭脳労働、心理的労働)を、ほぼ半分にすることで、どうにか適切な労働量になった、ということです。あるいは逆に言うと、これまで二人分の仕事を一人の看護師が引き受けていた、ということです。これは私のような部外者が持つ印象にも近いものです。
 医療業界に限らず、社会全体が、適切な量を超えて、過重労働を求める方向にあります。「ブラック企業」のつぎに、「ブラック国家」という言葉が語られ、あまり流行りませんでしたが、多くの国で、適切に働き、適切な余暇を持ち、適切な休息を取るという、当たり前のライフスタイルが、何か贅沢のように思われています。
 多くの賢者が言うように、人類の生産力は、一部のものが不必要に独り占めしなければ、すべての人が十分に生活できるレベルにあります。邦訳『暴走する資本主義』の著者(クリントン政権で閣僚を務めたライシュ博士)が、どうすればいいかはわかっているが、問題は、多くの人、とくに影響力をもった人が、そうしようと思うかどうかだ、といっているとおりです。
 使い切れないほどの富を独り占めしている人々は、富を積んでいるのではなく、「罪(=積み)」を積んでいるのですが、そう思い知ることが早ければ早いほど、当人にとって、罪を償う期間が短縮されるでしょう。

 労働量を半分にするというのは、ワークシェアリングの考え方とも連続性があります。労働人口の半分に課されている仕事を、労働人口全体に分配すれば、仕事は半分になり、失業率も劇的に下がり、治安も良化するでしょう。






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「アトモスケープ」論の広告

2014年04月21日 | 日記
 前に、「アトモスケープ、atmoscape」について、記事を書きましたが、今月の『現代思想』誌に、関連した拙文を出して広告しました。最後のほうで、補論として言及しておりますので、図書館などでご覧ください。

参考:
「折口鎮魂説から
「アトモスケープ」論へ」
『現代思想 
総特集 折口信夫』
2014年5月臨時増刊号



 

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