四天王寺に関心を持ったきっかけは民族学者
谷川健一氏が月刊新潮2001年12月号に寄稿した「四天王寺の黒鳥」でした。のちに「四天王寺の鷹」と改題されて出版されました。
四天王寺建立の経緯(伝説)はご存知のように曽我馬子と物部守屋との崇仏・廃仏の争い時、曽我馬子側として参戦した厩戸皇子が四天王像を自ら刻し勝利を祈念したところ、物部守屋を討ち取り守屋軍が敗退したことから難波に四天王寺を建立したと伝えられています。
ところが「四天王寺の黒鳥」によると四天王寺の境内に蘇我馬子、厩戸皇子の宿敵である物部守屋を祀った祠があるという話が載っていました。
さらに守屋に仕えた者で四天王寺のとなった人たちの子孫が、つづいて四天王寺のいろいろな仕事に現在でもついているという話が載っています。
この話は南谷先生の授業のなかでも出てきました。確かに物部守屋に仕えた人たちの子孫と信じている人たちが現在も四天王寺で働いているとのこと。
(下写真:西大門(極楽門)側から視た五重塔と金堂。写真では視えませんが左側に講堂があります)
守屋祠。太子殿の敷地内にあります。普段普通に参拝出来る場所ではなさそうですが、まっ赤に塗られた建物の手入れがとてもゆきとどいているようでした。
確かに物部守屋に仕えた人たちの子孫の手によって延々と維持されているようです。
伝説で物部守屋の悪霊が黒鳥となって四天王寺を襲ったので、聖徳太子がはなった白鷹が休むための金堂に作られた止まり木。緑の"П"の形をした部分です。江戸時代にはすでに記録が残っているそうです。
亀井堂の霊水は 回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれていますが、明日香で最近発掘された"
亀型製造物"によく似ています。亀の口から水がでていますね。平安時代からあったようです。
太子殿の猫門に掲げられている左甚五郎作といわれる猫の彫り物。彩色がないのが妙に魅力的でした。
袈裟姿で四天王寺を案内、講義される南谷恵敬先生。
6月28日
NHK ETV特集 日本と朝鮮半島2000年 第3回 仏教伝来 で十七条の憲法について解説されるそうです。
四天王寺は創建以来、七度被災し、現在八度目の再建だそうです。法隆寺のように創建以来のものは少なそうですが、創建以来1400余年、難波の民衆によって信仰され支えられてきたお寺だと思いました。
30度近い蒸し暑い天気のなかの見学は結構大変でしたが勉強になりました。
一度は毎年4月22日に行われる
精霊会舞楽大法要を視たいと思います。
この舞楽は「四天王寺の黒鳥」によれば、帰化人秦氏によって伝えられたとされています。