ずっと古本屋で探していた遠藤氏の「影法師」をネットで購入した。
この本は遠藤母子に深い関わりを持ったイエズス会のドイツ人ヘルツォーク神父と母親のことが書かれている。
ヘルツォーク神父は遠藤氏の母親が亡くなった三年後に上智の修道院長までしていたのだが日本人女性と結婚した人である。
遠藤氏はかなりショックを受け、それが「沈黙」の生まれる切欠にもなっていた。
「影法師」に興味を持ったのは私の友人も修道会を辞め、日本人女性と結婚し、今では三人の子供がいる。
だが、修道会を離れ後の彼の苦しみを私は痛いほど知っている。
もちろん、それは彼が言葉にしたものでない。
彼は教会であげるはずだった結婚式も招待状まで出した後に急遽教会に断られた。
その痛みは・・・。
なぜ最初教会から断らなかったのか、そうすれば、彼の苦しみは多少なりとも少なくなっただろうし、私自身も受けたその教会の態度への不信感も生まれなかっただろう。
彼は数年笑えなかった。
いや、笑ったりもしたのだろうが、それは心からの微笑みにはなっていなかった。
最終誓願まで行った修道士が修道会を辞めて結婚すると言うのは罪なのであろうか。
その罪に教会は罰を与えるのか。
それがイエスの教えであろうか。
苦悩するものを痛めつけるのは誰の教えなのだ。
数々の問いが私のうちに生まれたように、遠藤氏のうちには嵐のように荒れ狂う海のように生まれたに違いない。
私はそれを知りたかった。
一度は荒れ狂った嵐の海も必ず静かな凪ぎになる。
「影法師」は手紙の形で小説家の想いを語り続けられる。
そこには許すと言うことをテーマにしてあるが、全身全霊で許すとはまでいっていないような気がしてならない、それはもちろんそうだろう。
「私は許したい」と切に願う形で語られているように思えてならないのである。
その残りの許しは遠藤氏の数々の小説に描かれているのだろう。
「影法師」は遠藤氏の思いのすべては書き切れていないだろう、だが、それで良いし素晴らしい、また書くことによって彼は彼の思いを知り、彼は彼を生きていたのだろう。
イエスをうちに抱きながら、いや、イエスに抱かれながら。
結婚すると言うのは罪なのであろうか。
元SJのベルナルド・A。
最終誓願前に退会していたらね。
そのときにもう子供がいたんだぜ。
自分をだまし、信者をだまし、学生をだました。
彼のことで司祭が信じられなくなった人が
結構いるんだよ。
会に知られなかったら、まだsjのままだったんだろう。
人は自分の所業に裁かれる。
そう思うよ。
そして、騙した人も辛かったんでしょうね。
いまカルカッタに居ますから、マザーにお祈りします。